盲目の少女
前の短編がコメディで字数が多かったので、シリアスで字数一万字以内を目指して書きました。結局超えてしまいましたけどね。
描写濃くしたいのを我慢して削ったのに……。
「おや、これはまいったな」
旅の神父ヤラウは、ポツポツと降り出した空を見上げ、困ったように呟いた。
予定の村まではまだ距離があるというのに、このままではずぶ濡れになってしまう。どこかで雨宿りが出来る場所を見つけなければ。雨晒しのまま野宿は避けたい。
とはいえ、周りに雨を防げるような場所はない。ヤラウは溜息を吐き、仕方なくこの先にある村まで急ぐ事にした。
案の定、村に辿り着く前に雨は本降りになった。雨の冷たさに顔を顰めるヤラウだったが、途中、道の外れに小さな一軒家を見つけた。
こんな場所に家があるとは……。意外に思ったものの、このまま雨に打たれるよりはと、ヤラウは声をかけてみる事に決めた。
「ごめんください。どなたか居らっしゃいませんか?」
ヤラウが扉を叩き、出てきたのは若い男だった。
男は不審そうな眼をヤラウに向ける。とはいえ、それも無理は無いとヤラウは思った。こんな場所を訪ねる方が珍しいのだろう。ヤラウを怪しい者だと疑っても仕方ない。
「どちら様で?」
「夜分遅くに失礼します。旅の神父のヤラウという者です。この先の村を目指していたのですが、まだ距離があるというのに雨が降ってきてしまいまして。突然の事で恐縮なのですが、一晩だけ泊めてはいただけませんか?」
「神父様ですか」
男は小さく目を瞠る。この世界で神父を名乗り、悪事を働く者はまず居ない。それが露見した際、教会から厳罰が下されるからだ。神の教えを伝える立場にある教会は、どんなに小さい物であろうが、神の威光を使って悪事を働く物を絶対に許しはしない。たとえそれが、建前であったとしても。
途端に男の雰囲気が変わる。警戒が薄まり、歓迎の柔らかい物へ。だが、それでも男は申し訳なさそうな顔を見せた。
「神父様でしたら、喜んでお泊りさせたいのですが……」
「雨を凌げるのなら、納屋のような場所でも構いません。もちろん、お金は払います」
「どちらもとんでもない! そうではなくて、その――」
「どうしたの?」
家の中から、可愛らしい少女の声が聞こえてきた。
男は振り返り、窺いを立てるような声で言う。
「ああ、クレア。こちらの神父様が泊めてほしいそうだ。ほら、雨が降っているからね」
「まぁ、それは大変! 神父様、どうぞ泊まっていってください。こんな場所でよろしければ」
「おぉ、よろしいのですか。では、ありがたく――」
男を押しのけ、扉の隙間から顔を見せた少女に、ヤラウは一瞬息を飲んだ。
赤毛の髪に整った顔立ちの、細身で儚げな少女。これだけならば、年頃の男が放っておかない少女だと誰もが思うだろう。
――ただ、彼女の瞳は、両方とも閉じられたままだった。
♦ ♦
ヤラウは二人と自己紹介を交わし、家に招き入れられた。
盲目の少女の名はクレア。若い青年の名はヴァン。二人はこの家で一緒に暮らしているらしい。
「よろしいのですか? 一晩泊めてくれるだけでもありがたいというのに、このようなお食事まで」
「気にしないでください。久しぶりのお客さんですし、神父様なら当たり前です」
柔らかく笑う少女に、ヤラウは恐縮そうな表情を浮かべる。
野菜と肉をたっぷりと使ったスープ。白いパン。いずれも、このような辺境の村人が頻繁に口にできるような物ではない。
それが分かっているこそ、ヤラウは嬉しくもあり、また心苦しくもあった。神父だからといって、これだけの施しを受けてそれを当然と思うほど、ヤラウは傲慢な男ではなかった。
「さ、冷めないうちにどうぞ」
「はぁ、では」
ヤラウはスープを口に入れ、しっかりと味わう。予想通り肉と野菜の味が染み込んでいたが、更に塩でしっかりと味付けされている事にヤラウは驚いた。塩の手に入りにくい土地では考えられない事だ。
「どうですか?」
「はい。とても美味しいです」
「ふふっ、良かった。神父様のお口にも合って。ヴァンさんはお料理が上手なんですよ!」
クレアの発言に、おや? と内心で首を傾げつつ、ヤラウはヴァンに訊ねた。
「この料理はヴァンさんが作ったのですか?」
「ええ、料理は俺が作っています。クレアでは危ないですからね」
「ヴァンさんは過保護なんです。眼が見えなくても、私だって料理くらいできます」
「それだけクレアさんの事が心配なのでしょう。しかし、そうですか。この料理はヴァンさんが……。こんなに美味しい料理をありがとうございます。材料も貴重でしょうに、こんなに使ってもらって」
「ああ~、それは……」
ヤラウの言葉に、ヴァンは苦笑いを浮かべた。困っているというよりも、なんと言うべきかを悩んでいるような、微妙な表情だった。それに、ヤラウは不思議そうな顔を作る。
ヤラウの疑問に答えるように、クレアは言った。
「安心してください、神父様。特別な料理という訳ではないんですよ。いつも私達が食べている料理をお出ししているだけですから」
「……そうなのですか?」
ヤラウはまじまじと料理を見つめてしまう。とてもではないが、この家の外観を見る限り、そこまでの経済状況があるように思えなかった。
クレアは頷くと、ゆっくりと立ち上がり、自分の部屋へと向かった。心配するヤラウだったが、それは杞憂だと言うように、慣れた様子でクレアは歩く。
クレアは手に何かを持って戻ってくると、ヤラウにそれを手渡した。
「まだ途中ですけど」
「ほぉ、これは……」
それは、花を連想させる刺繍が入ったドレスだった。
手触りから、高級な布地が使われているのが分かる。これだけでも逸品だが、その刺繍が特に素晴らしい。その複雑さと美しさは、旅を続ける内に目を肥やしたヤラウでさえ感嘆とさせるものだった。
「まさか、これはクレアさんが?」
「はい」
「なんと……」
ヤラウは再びドレスを隅々まで観察する。これだけの物を盲目の少女が作り出したとは、とても信じられない。
「私が刺繍をして、村に来る行商人に、ヴァンさんに売りに行ってもらうんです。幸いにも、行商人さんが高く買ってくれて、今ではお得意様になってるんですよ」
「なるほど。どうりで……」
これだけの逸品なら、欲しがる人は大勢いるはずだ。売値も相当の物だろう。宣伝の仕方次第では、一流の職人以上の値で売りさばける。辺境の高い値段で売られる食料、調味料を、ふんだんに使うだけの金額が入る事も頷ける。
「私が趣味でやっていた事がこんなお金になるなんて、ビックリしました。ヴァンさんが動いてくれなかったら、こうして神父様に美味しいご飯を食べさせてあげる事も出来なかったです」
「俺は大した事はしていないよ。誰が見てもクレアの刺繍は素晴らしい物だったからね。俺は高く買い取ってくれる人を探しただけさ」
「ヴァンさんが居なかったら、私は一人でのたれ死んでいましたよ。こうして生きてるのも、ヴァンさんのおかげです」
「あの、もしかして、二人はご兄妹ではないのですか?」
クレアは吃驚したように眉を上げると、笑い声を漏らした。
「あははっ、違いますよ。私とヴァンさんは一緒に暮らしていますが、赤の他人です」
「そうなのですか。いや、お恥ずかしい。てっきり仲がよろしい兄妹だと思っていました」
「ヴァンさんは、神父様と同じような旅人だったんです。一年前から、この家に住んでいただいているんですよ」
「ほう、意外と最近なのですね。……それまでは、クレアさん一人でこの家に暮らしていたのですか?」
「いえ、両親と三人で暮らしていました」
「そうですか。そのご両親はどちらに?」
「もう居ません。一年前に亡くなりました」
「なんと……それは申し訳ない事を……」
頭を下げるヤラウに、クレアは軽く首を振った。
「いえ、もう過ぎた事ですから。気にしないでください。私の中でも整理がついています」
「そうですか……。明日、ご両親のお墓に案内して頂けませんか? お二人の為に、祈らせてください」
「ありがとうございます。両親も喜ぶと思います」
クレアは静かに微笑んだ。それはまるで、ヤラウを慰めるような笑みだった。
逆に自分が気遣われている事に、ヤラウは曖昧な笑みを浮かべる。申し訳なさそうにするほうがクレアを傷つけると思い、ヤラウはあえて質問を重ねた。
「ところで、ご両親は病でお亡くなりに?」
「いいえ」
首を振ると、クレアは素直に答えた。
「一年前、強盗に襲われて殺されました。私も危なくなった所を助けてくれたのが、ヴァンさんです。だから、ヴァンさんは私の命の恩人なんです」
♦ ♦
それから、楽しい会話が続いた。
ヤラウの旅の話を、クレアは嬉しそうに聞く。ヴァンも行った事のある地名を聞くと、話はさらに盛り上がった。家の周囲から離れた事のないクレアにとって、二人の話は何よりも楽しい物だった。
夜も更けてきた頃、ヴァンはクレアに提案した。
「クレア、神父様もお疲れだ。そろそろお開きにしよう」
「あっ、そうですね。ごめんなさい、神父様。私、楽しくてつい……」
「いえ、私の話しで良ければいくらでも」
「クレア。神父様の寝床は俺が用意しておくから、先に休んでいなさい」
「そんなっ、神父様を差し置いて先に休むなんてできませんっ!」
「女性を夜更かしさせる訳にはいきませんよ。私の事は気にせず、どうぞお眠りになってください」
「……分かりました。それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきますね。神父様、ヴァンさん、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
ヤラウの声を聞き、クレアは頭を下げ、自分の部屋に消えた。
それを見届け、ヤラウはしみじみとした声を出す。
「とても素直で良い子ですね。あなたが守ってあげたくなるのも分かります」
「といっても、俺じゃなくても出来る事ですがね。俺はクレアに養ってもらっている身ですから、ヒモと変わらないですよ……っと、すいません。神父様に向かってこんな言葉を使って」
「はっはっは、構いませんよ。旅をしている内に、そんなものは気にならなくなりました。……ところで、私に何か話したい事があったんじゃないですか?」
見事に内心を見抜かれ、ヴァンは苦笑した。
「やはり分かりますか?」
「職業柄というのもありますが、あれだけ分かりやすくクレアさんを寝室に帰そうとするのを見れば」
「そうですね」
ヴァンはテーブルに視線を落とすと、何かに怯えるように震えだした。手を組み、祈るように額に擦り付ける。
「神父様、私は許し難い罪を犯しました。どうか私の話を……懺悔を聞いてくれないでしょうか?」
「――分かりました。神に代わり、私が聞きましょう。あなたの罪を」
「ありがとうございます……!」
「では、正直に答えてください。あなたはどのような罪を犯したのですか?」
その問いに、ヴァンは硬直する。そして大きく息を吸い、引き攣る喉に力を入れ、なんとか声を絞り出した。
「私はクレアを騙しています。彼女の両親を殺したのは、他ならぬこの私なのです」
♦ ♦
ヴァンは元々傭兵だった。だが、お世辞にも才能があるとは言えなかった。努力を重ねても、剣の腕は精々が並み止まり。今まで生き残れた事が奇跡だった。
いつ死ぬかもしれないという恐怖。そして、人を殺して生計を立てるという事に嫌気が差したという事もあり、所属していた傭兵団を辞め旅に出た。
そんなヴァンであったが、唯一と言ってもいい特技があった。猟師の家の三男として生まれて身に付けた、気配を殺す術だ。傭兵時代になんとか生き残ってこれたのも、この技能があったからだと言える。
ヴァンはこの技能を活かし、路銀を稼いでいた。人が寝静まった時刻に家に侵入し、少しだけ金を頂いて、こっそりと抜け出す。つまり、コソ泥として盗みを働いていたのだ。
盗みを働く事に罪悪感が無い訳でもなかったが、人殺しに比べれば随分と軽い物だった。生活に困る程の盗みは働かないと決めた事も、彼の罪の意識を楽にさせた。
いつもどおり、夜も遅い時間だった。村からも外れ、周りに人気のない一軒家。狙うのも当然だった。そしてその日は運悪く、ヴァンはその家の夫婦に見つかった。
逃げようとしたヴァンだが、逆上して襲いかかってきた夫婦を、焦りと恐怖から反射的に斬り殺してしまう。自分のやった事に恐れを抱いたヴァンは、すぐにその場を離れることにした。だが、そんな時、ヴァンの足を止める声が聞こえた。
『お父さん……お母さん……?』
ランプを持ち、寝室から現れた少女の瞳は、二つとも閉じられていた。
♦ ♦
「クレアを見た瞬間、私は思いました。このまま私が逃げ出せば、この子はどうなってしまうのだろうと」
親戚が居れば、きっと不幸に襲われたこの少女を助けてくれる。そう思いはしたが、ヴァンは自分でそれを信じきる事が出来なかった。
こんな人気の離れた所にある家を都合よく尋ねる事があるだろうか? いくら親戚とはいえ、盲目というハンデを抱えた娘を養うだろうか? そもそも、そんな親戚が本当に居るのだろうか?
もし、このままここに放っておかれたら、数日もしないうちにこの少女は息絶えるだろう。一瞬で、ヴァンはそう思い至った。
ヴァンは本来、悪人と呼ばれるような人間ではなかった。罪悪感による制止と、恐怖からくる逃亡による葛藤に襲われ、逃げ出す事ができなくなっていた。
「気付けば、私は嘘を吐いていたんです。たまたま私が通りかかった所で、争う声が聞こえた事。強盗が二人を殺した事。クレアまで襲おうとしていたが、私が撃退した事。よくもまぁスラスラと嘘を並べ立てるものだと、後で自分に呆れました。本当は、私が殺したというのに」
自嘲するような笑みを浮かべ、ヴァンはまた震えだした。
「全てを聞いたクレアは、顔を強張らせながら言いました。“大丈夫ですか? あなたは怪我していませんか?”と。両親を失ったと言うのに、あの子はまず私の事を気遣ったのです」
それが何よりも辛かったと、ヴァンは呟いた。
「それから私は、罪滅ぼしのつもりでクレアの世話を買ってでました。少しでもクレアの役に立とうと、必死で頑張りました。幸いにもクレアの刺繍のおかげで、すぐに収入には困らなくなりました。余裕のある生活で、二人で今まで穏やかに暮らしてきました。ですが、クレアの笑顔を……感謝の言葉を聞く度に、私は苦しくなるのです」
ヴァンは涙を流したまま、顔を上げてヤラウを見た。
「あの子は……両親が死んだあの日から、一度も悲しい表情を見せた事はありません。本当は悲しい筈なのに、私を気遣って、それを隠しているんです。それを思う度に、私は自分の罪深さに苛まれるのです。あの子の本当の笑顔を、私が奪ってしまったのではないかと……そう思うと、苦しくて仕方がないのです」
ヴァンは頭を抱え、嗚咽を漏らす。
「神父様……私はっ、どうすればいいのでしょうか? 私は……許される時が来るのでしょうか?」
ヤラウは痛ましげな表情を浮かべ、眼を閉じた。そして、ゆっくりと目を開き、ヴァンに柔らかい声を掛ける。
「ヴァンさん。あなたのお話はよく分かりました。その上で言います。まず、あなたが感じている、クレアさんが今も悲しんでいるという事、これはあなたの勘違いです。あなたはそれを疑う必要はありません」
「しかしっ……!」
「両親を失い、悲しかったのは事実でしょう。ですが私が見る限り、クレアさんは心から笑っているように見えます。そして、それはあなたが居るからです。あなたがクレアさんの側に居て、寂しさを紛らわせた。だからこそ、クレアさんは今、心から笑えているのです。あなたはクレアさんの力になっているのですよ」
「私は……クレアの力になっているのですか?」
「ええ、間違いなく」
ヤラウはゆっくりと頷く。
「確かにあなたは許されない事をしました。しかし、あなたは自分のやった事を深く後悔しておいでです。神は慈悲深い。必ずあなたのその姿を見守っているでしょう。あなたがその心を持ち続ける限り、きっとお許しになられます。ですが、それには償いをしなければなりません」
「私は……どうしたらよいのでしょうか?」
「これからも、クレアさんが望む限り側で支え続ける事。そして、クレアさんに真実を決して話さず、嘘を貫き通す事です」
ヴァンは大きく目を見開いた。それは、ヴァンに苦しみ続けろと言ってるようなものだ。
「私は……クレアに真実を伝えてはならないのですか?」
「今のクレアさんが笑えているのは、あなたを信頼しているからです。もし真実を知れば、クレアさんの心を深く傷つけることになるでしょう。ですから、本当に罪の意識を抱えているのならば、嘘を貫き通してください。一生隠すという覚悟を持ってください。それこそがあなたの償いです」
「……ははっ。嘘を吐く事に苦しむ私に、嘘を吐き続けろとは。神父様は厳しい事をおっしゃる……」
「あなたが本当に罪だと感じているのならば、耐えられる筈です。クレアさんの事を思うのならば、誓えますね?」
ヴァンは涙を流しながら、寂しげな笑みを浮かべ、頷いた。
「分かりました、誓います。クレアの為に、私は一生嘘を吐き続けます。そして、その事実を胸に抱え続けます」
「よろしい」
ヤラウは頷き、そっとヴァンの手を掴んだ。
「神の名のもとに、私、ヤラウが宣言します。あなたは許されました。ですから、もう自分を責めることはおよしなさい。クレアさんと共に、安らかな毎日を。よろしいですね?」
「はい……はい。ありがとうございます。神父様」
何度も頷くヴァンに、ヤラウはそっと微笑んだ。
♦ ♦
「神父様、本当ですか?」
翌朝。朝食の後、ヤラウから出された提案に、クレアは嬉しそうな声を上げた。
「えぇ。半日で村に着くのなら、昼までに出れば今日中に辿りつきますからね。その間だけでよろしければ、私の旅の話くらい、いくらでもして差し上げますよ」
「わぁ、ありがとうございます! 神父様」
「いえいえ、美味しい食事と宿のお礼です」
「それじゃあヴァンさん、お茶の用意をしてもらってもいいですか。まだ残ってましたよね!」
「ああ、そうだな。――っと、すまない、水を切らしたみたいだ。少し汲んでくるよ」
そう言うと、ヴァンは水桶を手に持ち家を出た。
ヴァンが消えた扉を見つめながら、ヤラウは呟く。
「……ヴァンさんは良い方ですね」
「はい、とっても優しい人なんですよ、ヴァンさんは!」
クレアは満面の笑みを浮かべる。そんなクレアに、ヤラウは微笑ましい物を感じた。
「目の見えない私を、ヴァンさんはちっとも嫌がらずに世話をしてくれます。ヴァンさんが居てくれるから、私も笑えるようになりました。ヴァンさんが居なければ、私は今頃死んでいたかもしれません。ヴァンさんには本当に感謝しているんです――――だから、私の両親を殺した事なんか気にしないでもいいのに……」
ヤラウは大きく目を瞠った。信じられない物でも見たかのような目で、クレアを見る。
その気配を感じたのか、クレアは困ったように笑った。
「クレアさん……あなたまさか……」
「ごめんなさい。私、目が見えない分、耳は良いんです。二人の会話、聞いちゃいました」
ヤラウは自分の間抜けさを呪った。何故、注意を払わなかったのかと、昨日の自分を殴りたい気持ちに駆られる。
だが、ヤラウが謝罪を口にする前に、クレアは手を横に振った。
「あ、でも勘違いしないでくださいね。私、ヴァンさんが両親を殺した事は、最初から知っていたんです。あの日も、ヴァンさんと両親が争う音はハッキリと聞こえてましたから」
「……なんですって?」
ヤラウは信じられない思いだった。それなら何故、この少女は感謝しているなどと言えるのか。
「……それではどうして、気付いていないフリをしてヴァンさんを気遣うような事を? いや、そもそも、貴方はヴァンさんを恨んでいないのですか? ヴァンさんは両親の仇では?」
クレアは静かに微笑むと、ゆっくりと自分の胸元のボタンに手を掛けた。
何を……と、ヤラウが驚いている間に、クレアは上着を脱ぎ終える。裸身が空気に晒され、ヤラウの顔が強張った。
クレアの白い肌の至る所に残った、大小濃淡、様々な色、種類のその痕を見て、ヤラウは全てを察した。
「なるほど、そういう事ですか……」
ヤラウの納得したような呟きに、クレアは満足そうに頷いて、服を着始める。
少し考えてみれば、思いつく事ではあった。
子供でも貴重な労働力となる辺境の土地で、目の不自由な、労働力になり得ない子供が生まれたとしたら、その扱いはどういったものになるか……。
クレアは不運にも、そのように扱われたのだろう。
「私にとって両親は、恐怖の対象でしかありませんでした。理由はどうあれ、ヴァンさんはあの日、私を救ってくれたんです。ヴァンさんは間違いなく、私の恩人で、ヒーローなんです。だから、私は何も知らないふりをしてきました。そうすればあの人はずっと側に居てくれると思って……あの人の善意に付け込んだんです」
クレアは悲しげに眉を下げ、続けた。
「だけど、それがどれだけヴァンさんを苦しめていたのか、昨日の神父様との会話で知りました。他ならぬこの私が、大好きなあの人を深く傷つけていたのだと。ヴァンさんが罪を償うというのなら、私も償わなければなりません」
クレアは祈るように手を組み、ヤラウに尋ねた。
「神父様、私は下劣な人間です。私を助けてくれた恩人で、愛する人を、知らずに苦しめていました。こんな私でも、神様は許してくださるでしょうか?」
不安げな声を出すクレアに、ヤラウは悲しむ前におかしさを感じ、声を出さずに笑った。なんと似た者同士な二人だろうか。
だが、すぐに己の本分を思い出す。ヤラウとクレア、二人の心を考え、どう落ち着かせるべきか……さして悩む事なく、ヤラウは答えを出した。
「クレアさん、あなたは確かに罪を犯しました。自分の欲望の為に嘘を吐き、それが結果としてヴァンさんを苦しめていた。この事実は変わりません」
「はい。その通りです」
「だが、あなたはそれを悔やんでいなさる。神は慈悲深い。あなたのその姿をしっかりと見守ってくださることでしょう。しかし、償いはしなければなりません」
「はい、神父様。私はどのようにして償えばよいのでしょうか?」
「ヴァンさんに真実を告げ、正面から向き合う事。これがあなたの償いです」
クレアの肩が、小さく震えた。
「それは……とても怖いです」
「そうですね。しかし、それは同時に、ヴァンさんの苦しみを和らげる唯一の方法でもあります。もしかしたら、全てを知ったヴァンさんはあなたの元から離れてしまうかもしれません。ですが、もしあなたが本当にヴァンさんに償いたいと思うのならば……自分よりも、ヴァンさんの事を救いたいと思うのなら、できる筈です」
「……ヴァンさんは、私を許してくれるでしょうか?」
「分かりません。ですが、少なくとも神はあなたを許してくださるでしょう。そして、ヴァンさんがどういう人であるかは、私よりもあなたの方が詳しい筈です」
クレアは眉を上げて小さく驚くと、ふっと、安心したような笑みを浮かべた。
「はい……はい。神父様、私は必ず償いをする事を神に誓います。真実を、ヴァンさんに話し、向き合います」
「よろしい。クレアさん、貴女は許されました。貴女がヴァンさんに許される事を、私も祈っております」
ヤラウの言葉に、クレアはふふっと肩を震わした。
「はい、ありがとうございます。ですけど、今では許されなくてもいいと思っています」
「ほう……それは一体何故ですか?」
「私が真実を伝えれば、少なくともヴァンさんは、神父様から与えられた厳しい償いから解放されます。ヴァンさんが苦しまないで済むなら、私はそれだけで満足です」
それはヴァンを思うが故の、自分を顧みない発言であったが、ヤラウは違和感を抱いた。
まるで、遠回しにこちらを責めているような……。
「……あ、あの、クレアさん?」
「なんでしょうか?」
「もしかして……怒っていらっしゃいますか?」
クレアは静かに微笑んだ。
「いいえ、怒ってませんよ。でも、ヴァンさんを許すかどうかを決めるのは、神様や神父様ではなく、私だと思います」
背に冷たい物を感じ、ヤラウは表情を引き攣らせた。
♦ ♦
「神父様、どうかお元気で!」
「ええ、お二人もお元気で。またいつか会いましょう」
陽が真上に上がる頃。ヤラウの姿が小さくなるまで、二人は家の前で見届けていた。そして、ふとクレアが口を開く。
「ヴァンさん、私、ヴァンさんに話さなくちゃいけない事があるんです」
「丁度良かった。俺も君に伝えたい事があるんだ」
ヴァンはクレアの肩に手を乗せる。それに驚き、顔を上げるクレアから目を逸らさず、ヴァンは言う。
「クレア。俺はここに居ていいのかと悩んでいた。でも、決めたよ。俺はここで君と一緒に暮らそうと思う――――君を支える夫が現れるその日まで」
「…………」
「クレア?」
「なんですかそれ……期待させてからガッカリさせるなんて……今のは私、流石に怒っちゃいました」
「お、おい。どうしたんだクレア。そっちはベッド――」
「やっぱり行動で示さないと伝わらないんですね。いいですよ。伝えるつもりでしたし、しっかり見せてあげます。こんな体を見せるのは恥ずかしいけど、私も覚悟を決めました」
「ちょっ、ク、クレア!? どうして服を……ちょっ、止め――!」
♦ ♦
「女性は逞しい……そして怖い……」
今頃ヴァンはどうなっているのだろう。去り際に目線で合図したのだが、果たして気付いただろうか。
……いや、もう何も言うまい。あとは二人の問題だ。お互い思い合っているだろうし、きっと上手くいくだろう。
頭を振るい、ヤラウは脳に纏わりつく不安を振り払う。そして空を見上げ、その景色に微笑んだ。
「うむ、良い天気だ」
空は青々と澄み切っていた。
まるで、二人を祝福するかのように。