第九十五話~【堺沖の海戦】決着と河内国の動静~
第九十五話~【堺沖の海戦】決着と河内国の動静~
話は少し戻り、九鬼嘉隆が焙烙玉の爆発で気絶した頃の事である。 念の為にと海岸沿いにて陣を構えていた義頼だったが、織田水軍の動きに眉を顰めていた。
それまではやや押されながらも、秩序だって動いていた織田水軍の動きに乱れが生じたからである。 その動きは明らかにおかしいと思え、緊急の事態が発生したと思い至った義頼は急いで弓衆に用意を整えさせた。
「……何かあったな……弓衆、構えっ!」
『はっ』
少し考えた後に出された義頼の指示に従い、六角家の弓衆が一斉に火矢を構える。 その弓は最大射程が得られる角度で構えられており、その直後には義頼の号令で火矢が放たれたのだった。
敵の前衛では無く中ほど辺りを狙って一斉に放たれた火矢は、綺麗な弧を次々と描きながら毛利の軍船に吸い込まれていく。 その一方で織田水軍には毛利水軍から押されているという事実と、義頼の的確な指示もあって殆ど向かう事がなかった。
軍勢と言う集団から放たれているにしては恐ろしいまでに正確な射撃に、村上水軍の棟梁であり毛利家今回の遠征軍の大将である村上吉充は、思わず舌打ちをしていた。
今はまだいい。 距離がある為に、火が消えてしまうからだ。 しかしこのまま織田水軍を押し込んでいけば、それは陸からの距離を縮める事となる。 そうなると、今度は炎が消えていない火矢を浴びせかけられてしまうのだ。 それも、一本や二本ではない。 今まさに、雨の様にと降らされている火矢を大量にだ。 そんな状態となれば、消火が追い付かなくなるのは明白である。 そしてそれこそが、義頼の狙いであった。
彼が炎が消えてしまう事にも拘わらず火矢を放っている理由、それは二つある。 一つは織田水軍に対する援護射撃、そして今一つは毛利水軍に対するものであった。 即ち、陸地に近づけば火の海に沈めるぞと言う警告である。 そんな義頼の意図を読めるが故に、村上吉充は舌打ちをしたのであった。
「仕方無い。 此処は一度射程外まで引いて様子を見る……全軍船を下がらせろ!」
「はっ」
村上吉充の指示が味方の者達へと飛び、その命を受けて毛利水軍は弓の射程外まで一度引いた。
焙烙玉で完全に主導権を取っていた戦いであったが、義頼の指示する射撃に折角の攻勢を挫かれた形である。 何せ焙烙玉より、遥かに射程で優勢を持つ弓からの攻撃である。 とてもではないが、勝ち目など有る筈がない。 村上水軍とて焙烙玉に紐を巻き付けて振り回すなどをして少しでも遠くへ飛ぶ様には改良しているが、それでも弓の射程に及ぶ筈もないのだ。
その一方で毛利水軍が一度引いてくれたお陰で何とか一息ついた織田水軍はと言うと、被った損害は相当な物である。 何せ凡そ半数近くの船が沈没、若しくは航行不可能な状態にある。 何より一方的に叩きのめされたという事実が味方の士気を相当に落としており、どう贔屓目に見ても戦力が半減どころの騒ぎでは無かった。
「如何なさいます? 大隅守(九鬼嘉隆)様」
「……決定に変更は無い。 被害が大きすぎる以上、撤収せざるを得まい」
「くっ! 無念にございます」
「致し方なかろう。 それから六角殿に伝令、水軍は撤収すると」
「御意」
水軍から撤退の知らせを聞いた義頼は、諦めにも似た表情を浮かべた。
味方の水軍が居るならばまだしも、義頼率いる陸上の軍勢だけでは毛利水軍を抑えるなどまず不可能だからである。 それは皮肉にも過去に義頼が、浅井長政との戦いで証明した事でもあるのだ。
「こちらも引くぞ建綱。 堺だけは守らねばならぬからな」
「御意」
仕方なしに義頼も、水軍の行動に合わせて兵を退く。 いや、退かざるを得なかった。
こうして織田水軍と義頼の軍勢が退いた事を確認した村上吉充は、勝利の勝ち鬨を上げる。 その海上より聞こえる勝ち鬨は、棘となって九鬼嘉隆に、そして安宅信康率いる淡路水軍と佐治信方率いる大野(佐治)水軍に突き刺さった。
事実上、水軍の勝敗が決した瞬間である。 この勝ち鬨を背に受けながらそれぞれの水軍を率いている三人は、心のうちで必ず雪辱を果たす誓いを立てたのであった。
この【堺沖の海戦】を制した毛利水軍は、和泉灘(大阪湾)の制海権を握ったのである。 だが織田家にとって幸いな事に、毛利水軍は堺の町に手を出す事はなかった。
既に和泉灘を抑えている以上、無理をする必要が無い。 何より毛利側に、やはり堺を戦場にしたくないという思いがあったからである。 だがこれは、織田家にとっても有り難い動きである。 毛利家が攻めてこない以上、堺の街が戦火に晒されると言う事態にはなり得ないからだ。
だからと言って、安穏と構えてはいられない。 和泉灘の制海権が敵の手にあるのだから、それを取り返さなければならない。 それは即ち、最低でももう一回は毛利水軍との戦いが待っているという事であった。
堺の町の外に張った本陣で頭をかきながら、義頼は如何にして戦うかの考えを巡らす。 そんな彼に、馬廻り衆である瀧一氏が近付いて来た。 その彼の手に、書状が一通握られている。 手紙を受け取りながら誰からの物かと尋ねると、織田信長からの書状であった。
差し出された書状を受け取った義頼は、急いで中身を確認する。 するとそこには、義頼に対する新たな指示が記されている。 その内容とは、飯盛山城の攻略とその後の大和国行きが記されていた。 まだ河内国内での戦が終わっていないにも拘らず、新たに出された指示に義頼は嘆息する。 その直後、義頼は視線を直ぐ近くに向ける。 するとそこには、男が一人現れていた。
慌てて瀧一氏が刀に手を掛けたが、その刀が抜かれる事はない。 他でもない義頼が、瀧一氏の動きを制したからだった。
さて義頼の近くに現れた男だが、彼は伊賀衆の一人で名を耳須具明と言う。 彼は河内国の動静を探るべく、事前に同地へ派遣されていた者であったのだ。
「殿。 実はよくない知らせが」
「良くない知らせ?」
「はい。 左衛門督(畠山昭高)様が、大怪我を負われました」
耳須具明の報せに、義頼は訝しげに眉を寄せた。
確か報告では、畠山昭高は三好義継と共に敵の三好康長や遊佐信教と睨み合いとなっていた筈だからである。 ましてや援軍として同地に居る宇津頼重だけでなく、更に明智光秀や木下秀吉も援軍として同地に向かっているのだ。 その状況を鑑みるに、今更になって畠山昭高が大怪我をしたとはにわかに信じ難い報告であった。
「具明。 何ゆえに、左衛門督殿が怪我を負われたのだ? と言うか、どうしてその様な顛末となったのだ?」
「実は……」
その話は、織田信長が高屋城へ明智光秀と木下秀吉を援軍に出すと決めた少し後まで遡る。 丹波衆の宇津頼重に続いて新たに織田家重臣の二人が援軍に現れるとの情報を手に入れた三好康長と遊佐信教の二人は、更なる援軍が現れる前に敵を破ろうと一計を案じたのだ。
具体的には、敵を誘引し懐深くまで攻めさせる。 その上で、一気に殲滅して勝敗を決しようと企てたのだ。 先ず二人は、三好義継と畠山昭高と宇津頼重に対して挑発を行う。 三好康長と遊佐信教は、三人を小馬鹿にでもしたかの様に兵をだらけさせたのである。 それも彼らに、鎧すら脱いだ状態で行わせたのだ。
無論これは演技であり、三好義継と宇津頼重はその行為が挑発であると見抜いて涼しい顔をしている。 しかしながら畠山昭高は、挑発と分かっていても我慢がならなかった。 それでなくても、三好康長と遊佐信教の奇襲で居城の高屋城を奪われている。 その上、畠山家の裏切り者である遊佐信教に馬鹿にされたのだ。 彼は完全に「怒髪、天を衝く」の状態になってしまっていた。
「おのれ! 裏切り者の分際で、我をなぶるかっ! 打って出る!!」
「お、お待ち下さい。 これは、敵の挑発にございます!」
昭高を止めたのは、畠山家家臣で交野城主の安見新七郎だった。
「黙れ! 新七郎!! 我慢ならぬっ! あの恥知らずの首、即刻叩き落としてくれる!!」
「あ、殿!」
それだけ言うと畠山昭高は、安見新七郎を振り切る。 そのまま彼は、手勢を引き連れて陣から打って出てしまう。 安見新七郎が後を追おうかそれとも味方に知らせようかと迷ったその時、同じく畠山家家臣の清水元好が現れた。
彼がこの場に現れたのは、畠山昭高を心配してである。 通常ならば兎も角、今は負け戦を経験した後である。 しかもその負け戦の決め手が、味方の裏切りにある。 もし挑発に乗せられてはと危惧して現れた訳だが、正に心配した通りとなっていたのだ。
思わず頭を抱えてしまいたくなるが、そんな事をしても始まらないし何より時間が惜しい。 清水元好は畠山家本陣を安見新七郎に任せると、急いで後を追って出陣した。
そして残された安見新七郎はと言うと、先ず陣の守りを固めさせる。 その一方で自ら三好義継の元を訪れると、事情を説明した。 話を聞いた直後、三好義継は一瞬呆れてしまう。 しかし、畠山昭高の気持ちも分からない訳ではない。 何より、打って出た味方を見捨てる訳にはいかないと言う事情もあった。
此処で下手に味方を見捨ててしまうと、士気の低下を招きかねないからである。 更なる援軍が、しかも織田家重臣の明智光秀と木下秀吉が現れるというのに、そんな味方の状態を二人に見せるのはあまりいいとは言えなかった。
「分かった。 拙者も追おう。 宇津殿には拙者から知らせるか?」
「いえ。 これから拙者が参ります、ではっ!」
安見新七郎は頭を一つ下げると、三好義継の前から辞する。 そんな彼を少しの間見送った三好義継は、急いで兵を集めると出撃した。 それから間もなく話を聞いた宇津頼重も出陣し、その暫く後に安見新七郎も、一族の安見勝之に任せると出陣したのであった。
「……と言った次第です。 結局、左衛門督様は進撃の途中で敵勢に囲まれかなりの大怪我を負わされました。 しかし清水殿が際どいところで間にあい、落命までは至っておりません。 ただ、予断を許さない状態ではありますが」
「それはつまり、相当な怪我と言う事か……それでは折角の援軍が到着しても、あまりいい雰囲気では無いであろうな」
「いえ、そうでもありません。 右近大夫(宇津頼重)様が、遊佐信教を討っています」
畠山昭高の独断専行の出陣だったが、たった一つだけ幸運が三好義継と宇津頼重に齎されている。 それは耳須具明からの報告にあった通り、遊佐信教を討ち果たした事だ。
元々畠山昭高が出陣した切っ掛けは、三好康長と遊佐信教の挑発にある。 そこに畠山昭高が出陣した為、二人は先ず彼を討とうとしたのだ。 特に遊佐信教としては、此処で何としても畠山昭高を討っておきたい。 その為、自ら前線まで出て指揮を取ったのだ。
だがこの事が、結果として遊佐信教への不幸となって降り掛かったと言う訳である。 思惑通り畠山昭高へ大怪我を負わせたまではいいが、そこに生まれた僅かな隙を後から出陣した宇津頼重に突かれてしまったのである。 かくして遊佐信教は、宇津頼重によって戦場の露となってしまったのであった。
「宇津殿が信教を討ったと」
「はい。 その為か、三好康長は不利を悟って高屋城へ撤収しております。 それから間もなくして戦場へと到着した明智様と木下様が、左京大夫(三好義継)様や右近大夫様と共に高屋城を包囲致しました」
「なるほど。 報告ご苦労」
「はっ」
報告を終えた耳須具明を下げさせた義頼は、同時に瀧一氏も下げさせると一人で暫く考える。 堺沖での戦の結果と併せて、河内国内での戦結果を織田信長へ報告するべきかどうかをである。 やがて報告した方がいいと判断すると、義頼は堺沖での戦の経緯と河内国で起こった戦の結果について書状を認めた。 ただ水軍と河内国での戦に関してだが、自らが兵を率いていた訳では無いので飽くまで外から見た感じとなってしまうのは否めなかったのであるが。
間もなく義頼は、鵜飼孫六を呼び出して書き上げた書状を託す。 主より書状を託された鵜飼孫六は、一路京へと向かった。
その日のうちに二条城へと到着した鵜飼孫六は、織田信長との面会を果たし義頼の書状を差し出す。 その書状に記された内容に眉を顰めたが、堺を守れた事だけは嬉しい知らせではありそれ以上機嫌を損なう事はなかった。
「嘉隆め。 だらしが無い……と言うのもいささか酷か。 焙烙玉のう。 何か対策を立てねばならぬが、それは追々考えるとするか。 それともう一つの書状は……河内での戦の事か」
もう一通の書状を見た織田信長は、小さく微苦笑を浮かべた。
河内国での戦については、報告は既に聞いている。 援軍として河内国に向かった明智光秀が、彼が到着前に同地で起こった戦に付いて信長へと知らせたからであった。
しかもその報せに付随する形で、明智光秀の書状にはある重要な事が書かれている。 それは、高屋城で籠城の構えを見せていた三好康長から出された降伏の打診についてであった。
高屋城を織田勢に取り囲まれた三好康長は、降伏するか否かについて悩んでいた。
正直なところ、遊佐信教が討たれたのがかなり痛い。 彼が討たれた事で遊佐家の兵が四散してしまい、その分だけ兵数が減っているからだ。
中には三好康長の軍勢に合流した者も居るので、まだある程度の兵数を保っている。 だが、所詮はある程度でしか無いのが実情である。 明智光秀と木下秀吉、三好義継に宇津頼重が率いる軍勢には到底及ばないのだ。
その上、将軍の足利義昭も敗れ放逐されたとの情報も未確認ながら入ってきている。 もしその通りであるならば、これ以上戦を続ける大義名分などない。 そうなれば、此処は降伏した方が分がいいと言えた。
しかしその決定に対し、否を唱える人物がいる。 それは、寄りにもよって自分の嫡子である三好康俊である。 彼は本来、阿波国内にある岩倉城主であるのだが、此度の蜂起の為に岩倉城から塩田政幸や横田村詮ら重臣達と共に移動して来ていたのだ。
もし残っていれば阿波三好家に対する人質扱いとなるので、彼とてそう易々と降伏など選ばなかった筈である。 しかしながら、幸いと言っていいか分からないがこうして高屋城に居る。 嫡子が直ぐ近くに居ると言うこの状況が、皮肉にも早々に織田家に対する降伏を決めた一因なのであった。
「我慢せよ。 死しては、意味が無くなるぞ」
「それは!……悔しゅうございます……父上」
「わしとて気持ちは同じよ。 だが、先の為にも此処は生き残る事を優先する。 良いな」
「し、承知致しました」
何とか息子を従わせた三好康長は、三好義継宛ての書状を認めた。
今でこそ敵味方だが、彼とて一時は三好家の長老格として三好義継の補佐をした事もある。 それに何より、色々と紆余曲折はあったが、三好家の当主は今でも彼なのである。 同じ三好一族として、三好義継を頼るのは自然の流れであった。
何はともあれ、三好康長から降伏を打診された三好義継は、すぐに明智光秀と木下秀吉、宇津頼重へ相談する。 相談された三人はどうするか考えあぐねた結果、取りあえず織田信長へ報告したという訳である。 言わば主に、下駄を預けた格好であった。
「……さてどうする。 このまま討ってもいいが、あ奴は三好の長老格だったな。 ならば、四国攻略の際に使うのもいいか……よし降伏を許そう。 それと戦の後は、秀吉を泉南へ派遣して鎮定させるとするか」
こうして三好康長の降伏を織田信長が許可したその日の夕刻、義頼からの報告が届いたという訳であったのだ。
その義頼からの書状で、織田信長は堺での戦は終わったと判断する。 彼は念の為、丹羽長秀を堺の町近くに残しておく。 その上で義頼を飯盛山城へ、そして大和国へと向かわせる事にしたのだった。
さて織田信長からの許可を得た明智光秀達であるが、彼らはすぐに高屋城へ軍使を派遣している。 すると三好康長は即座に応じ、高屋城を明け渡して降伏する。 此処に、河内国の戦が完全に終了した。
その後、明智光秀と三好義継は高屋城へ残り、河内国南部の鎮定に奔走する。 そして木下秀吉は、織田信長からの指示通りに泉南に侵攻すると三好康長の居城であった岸和田城を取り囲んだ。
彼の城には、寺田正家と弟の寺田宗清が入り守っていたのだが、三好康長の降伏を知って彼らは木下秀吉に降伏する。 これにより岸和田城が落ち、そして三好康長が降伏したのを知った泉南の国人達は、次々と木下秀吉に降伏していった。
その一方で飯盛山城へ向かった義頼は、城を包囲した上で降伏勧告を行っている。 既に遊佐信教が討たれた事を知っていた守将は、降伏勧告に応じて城を明け渡した上で降伏を受け入れた。
すると義頼は、飯盛山城に永原重虎を残して守らせるとそのまま織田信長からの指示通り大和国へと向かう。 そこで、事前に援軍として派遣していた大原義定と三雲賢持と合流を果たす。 それから筒井順慶率いる大和衆と共に、松永久秀の先導で多聞山城へと入った。
「順慶殿。 松永家は織田家に降伏した。 貴公は業腹かも知れぬが、ここは織田家の顔を立てて受け入れてもらいたい」
「……分かっております。 筒井家も織田家に付いた身、弾正大弼(織田信長)殿の決定には従いましょう」
「感謝致す」
何とか筒井家の賛同を得た義頼は、矢継ぎ早に将兵を派遣して大和国内及び大和国人の抑えに入る。 六角家家臣は無論の事、他にも筒井順慶と松永久秀を動かしていた。
「さて弾正(松永久秀)殿。 お手並み、拝見致します」
「お任せあれ、左衛門佐殿」
松永久秀としても、ここは積極的に動くところであると理解している。 その考え通り彼は精力的に動き、大和国内の鎮定に協力する。 これは、少しでも織田信長の心象を良くしようと考えての行動であった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




