第八十七話~石山城の降伏~
第八十七話~石山城の降伏~
主君たる織田信長へ伴資定を派遣して、兄である六角承禎から齎された畿内の情報を伝えた。
その後、義頼は情報の共有を行うべく同道している丹羽長秀や森可成と森長可の親子。 そして、佐々成政と不破光治を集めている。 そんな彼らに対し、畿内での情勢を余す事なく伝えていた。
彼らにとっても初耳の情報という事もあって、興味深そうに聞き入っている。 そしてその内容だが、必ずしも悪いと言う状況ではない。 だが、不安定な情勢である事に間違いはなく、解決の為にも一刻も早く畿内へ向かう必要があるのは共通の認識として理解されていた。
こうして情報の共有化が済むと、早速彼らは進軍を再開する。 尾張国を抜けて美濃国へと入り、やがて無事に岐阜近郊へと到着した義頼達は、そこで軍勢を駐屯させる。 それから少数の護衛と共に岐阜城へと向かい、速やかに岐阜城にて織田信重と面会した。
「その方達の事は、父上からの書状にて聞き及んでいる。 そして個人の望みを言えば、父に変わり出陣したい。 しかし俺は、未だ初陣もしておらぬ」
「若殿」
「それに……父上からも、釘を刺されて居るしな」
信重の言葉に、義頼達は一瞬だけ苦笑した。
「そこで義頼! 父上の命である京の奪還、必ず果たせ!!」
「はっ。 この六角左衛門佐義頼、必ずや殿と若殿の命を遂行して見せます」
「長秀達も頼むぞ」
『御意』
恙なく面会を済ませ、織田信重からも重ねての言葉を受けた義頼達は、直ぐに率いてきた軍勢を駐屯させている場所まで戻ると進軍を再開する。 その日、彼らは曽根城に向かう。 そこで義頼の口利きで、一泊した。
何ゆえに口利きができるのかと言うと、曽根城主の稲葉良通と義頼の間には縁がある。 その縁とは、茶であった。
実は稲葉良通だが、志野省巴の弟子であり、彼より目録を授けられいる。 そして、義頼の茶の師匠はその志野省巴である。 つまり二人は茶の湯の同門であり、兄弟弟子に当たる。 その様な関係から良通は、義頼の願いを受け入れたのであった。
曽根城に入った義頼達は、稲葉良通ら稲葉家の者達より簡略ながらも歓待を受ける。 そして義頼はと言うと、歓待の後にその稲葉良通の願いもあり曽根城の茶室にて茶を点てていた。
「なるほど。 亡き師が言っておられた通りですな」
実は志野省巴であるが、昨年に身罷っていた。
義頼も志野省巴に対してはなるたけ支援を行っており、そればかりか出来うる事なら六角家の茶道の師として招きたいと書状を幾度となく送っていたのである。 しかして彼がその招きに応じる事はなく、やがて隠居先で没したのであった。
その師が生前に稲葉良通に対して漏らしていた言葉となれば、気になる話題である。 義頼は思わずと言った感じで、問い掛けていた。
「え? 師匠が某の事をですか?」
「うむ。 師は、左衛門佐(六角義頼)殿を気に止めておられた。 若いが、才はあると。 お手前を見て、拙者も同じ感想を持った」
「そうですか……亡き師匠が……その師匠から目録を授けられた一鉄(稲葉良通)殿からその様に言われるとは嬉しい限りにございます」
その夜の事である、義頼の元に沼田祐光から書状が届いていた。
その内容は正直に言って歓迎できない物であり、彼は眉を寄せる。 それから義頼は、本多正信と三雲賢持へ沼田祐光からの書状を見せる。 二人は渡された書状に目を通し、その内容から義頼の表情が曇った理由を理解した。
そこには、山岡景友と仁木義政が足利義昭側に立ち兵を挙げていると記されているからであった。
山岡景友とは山岡景隆の弟であり、元は園城寺(三井寺)の僧である。 しかし足利義昭によって幕臣にとりたてられており、その際に彼は還俗して山岡景友と名乗っていたのだ。
その様な経緯があるからか山岡景友は、他の山岡兄弟が元々織田家の家臣という事もあって足利義昭に付く事なく織田家へ付く決断をしている中にあって、ただ一人幕臣として幕府側にと付いたのである。 すると足利義昭は、山岡景友に兵を挙げる様にとの命を出す。 その命を受けて彼はやはり幕臣で義頼から見るといとこに当たる仁木義政と共に石山城(石山寺)に籠ると、そこで織田信長に対して反旗を翻したのであった。
「それだけでは無い。 堅田砦も落ちた」
「その様ですな。 観音寺城に猪飼殿と居初殿、並びに馬場殿が居られる様で」
堅田衆の三人だが、堅田砦が攻められる前に出来るだけ堅田衆を落ちさせている。 そしていよいよ攻められると言う直前になると堅田砦を脱出し、観音寺城へ落ちたのであった。
因みに三人が近隣にある明智光秀の居城である坂本城へではなく観音寺城へ落ちたのは、以前より付き合いがある事もあるが、何より明智光秀が主力を率いて遠江国へ出陣した事が理由であった。
それはそれとして、石山城に籠られた事と堅田砦が敵に奪取された事は非常に問題であった。
先ず堅田砦だが、此方は言うまでもなく堅田衆の本拠地である。 琵琶湖の水運を一手に握る堅田衆が機能不全に陥ると、流通などに多大な影響を及ぼす事は想像に難くない。 それ故、早急に取り戻す必要があった。
そして石山城だが、京への街道筋の近くにあり、この場所に籠城されると何かと不都合が多く出て来てしまう。 それより何より、諸々の事情を鑑みれば街道筋を確保しておく事に越したことはないのである。 その意味でも、この二つの拠点は織田家の物としておく必要があったのだ。
「観音寺城で義定達と合流後は早々に石山城と堅田砦を取り返し、京への往来と琵琶湖の水運を確保するぞ」
『御意』
「それと、俊好」
「はっ」
「その方は、殿への書状を届けてくれ」
義頼から書状を託された山中俊好は、その日のうちに曽根城を出ると浜松城に居る織田信長の元へと向かった。
彼を送り出した翌日、曽根城を出立する前に義頼は丹羽長秀達を集めると近江国で発生した新たな戦に関する情報を伝える。 彼らは驚きを露にしたが、同時に京への意気込みも新たにしていた。
その後、曽根城を出立して関ヶ原を越えた軍勢は丹羽長秀の居城である佐和山城へと入る。 そこで一泊してから、義頼達は観音寺城へと到着する。 そこで大原義定と沼田祐光、それから京極高吉とその嫡子に面会した。
その席で義頼は、代理を任せていた大原義定に労いの言葉を掛ける。 京極親子が同席している為、砕けた対応はしない。 あくまで、主君と家臣の関係を崩さない義頼と大原義定だった。
「さて義定。 今回はそなたも出陣するぞ、五郎次郎(仁木義政)殿の事もあるしな」
「御意」
義頼の言葉に、間髪入れずに答えた。
そんな彼に一つ頷いてから、視線を京極親子に向ける。 京極高吉と共に居る彼の嫡子は十才ぐらいであり、名を小法師と言った。
その京極親子に対して義頼は、身柄の安堵を伝える。 織田信長からも京極高吉一行の身柄確保の命を受けている事も併せて告げる事で、彼らにより一層の安心感を与えた。 その上で義頼は、京の状況についての仔細を尋ねる。 兄である六角承禎からの書状で、足利義昭の動きは大体把握はしている。 しかし、ほんの少し前まで京に実際に居た京極高吉からの話であれば、また違うかもしれないと考えたのだ。
その誰何を聞いた京極高吉は、一つ頷くと京を出るまでの事態を話し始める。 だが彼からの話と六角承禎からの情報に、大した齟齬はない。 むしろ、兄からの情報について確度が取れたと言えた。
話を終えると義頼は、京極高吉に対して共に出陣してもらう旨を伝える。 これは、既に足利義昭を見限り織田家に付いた細川藤孝などとの繋ぎを考えた処置である。 言われた京極高吉にしても、その点は同意できる物であるので同行には了承の意を表していた。
こうして取りあえずの方針を立てた義頼達であったが、観音寺城を出陣する前に浜松城の織田信長からの返信が届く。 すると義頼は、丹羽長秀達を集めた上でその書状を公開した。
「それで左衛門佐殿。 殿からの書状の中には、何が書かれているのだ?」
「五郎左(丹羽長秀)殿。 殿は、こう仰せです。 「俺が京へ戻るまでに、畿内の事に対して手を打っておけ」と」
「……それはつまり、公方様だけでは無く石山本願寺などにも対処しろと言う事か」
「恐らく、そうでしょう。 ただ、全て手を打てるかどうか」
「それは、京についてから考えればいいだろう。 物理的に無理と言う事もあるかも知れぬし、現地の状況によっては対処の必要が無い事があるやもしれぬからな」
「そうですな」
その翌日、義頼は本多正信に出陣の用意を急がせる様にと命を出す。 大原義定に加えて京より脱出した京極高吉、更には堅田衆を加えているので調整の必要があったからだ。 命を受けた本多正信は、直ぐに実行する。 既にその辺りを考慮していた彼であるので、素早くしかも粛々と実行していた。
しかしてその日の昼下がり、義頼の元にある報せが届く。 その知らせとは、何と浅井家からの援軍であった。 軍勢を率いてきているのは、宮部継潤と大谷吉房ともう一人、大谷吉房の嫡子である。 その事を聞き、義頼の顔には小さいながらも優しい笑みが浮かんだ。
と言うのも、大谷吉房の嫡子に関しては一寸した縁があったからである。 大谷家は六角家が織田家に敗れた際に、浅井家からの勧誘を受けて主を六角家から浅井家に変えている。 その際に大谷吉房は、家族全員を連れてわざわざ義頼に挨拶をしていたのだ。
「確か……桂松とか言っていたな」などと、当時の事を思い出す。 当時はまだ年端も行かない子供であったが、元服して父親と共にではあっても将として再び目の前に現れた事が嬉しかったのだ。
それから義頼は、浅井家の援軍が来た事を伝えに来た三雲賢持に通す様にと言う。 その言葉を受けて下がると、暫くしてから宮部継潤と大谷親子を連れて再び現れたのだった。
因みに宮部継潤と大谷吉房が最後に義頼を見たのは、数年前の今は亡き朝倉義景が起こした北近江侵攻が最後であった。
「久しいですな、善祥坊(宮部継潤)殿」
「真に」
「それから吉……いや伊賀守殿か……それと、桂松だったな。 ところで伊賀守殿、子息は元服したのだろう?」
「大谷紀之介と申します。 左衛門佐様、お見知りおきを」
「ああ……大きくなったな。 もう四年になるか、俺を覚えているか?」
「はい」
義頼と紀之介が最後に会ってから、四年振りの再開である。 だがそれほど時が経っている訳ではないし、何より将として何かと話題に上がる義頼であったので紀之介も覚えていたのだ。
その紀之介に対して、初陣なのかを尋ねる。 問われた彼が素直に頷くと、一つ義頼は助言をする。 その助言とは、何があっても生き残る事を考えろと言う物であった。 手柄ではなく生き残る事を最重要視しろと言う言葉に、紀之介は多少の不満を感じる。 そんな紀之介に軽く笑みを浮かべながら、義頼は彼の傍へと近づいた。
「言いか紀之介。 手柄など、生きていれば何時でも立てられる。 残念だが、戦はまだまだ続くだろうからな。 だが、死んでしまえばそこで終いだ。 手柄を立てる事など、出来なくなるぞ。 手柄を得る機会は、此度一度しかない訳ではない。 だから焦るな、よいな」
「は、はいっ」
紀之介の返事を聞いた義頼は、嬉しそうに一つ頷くと紀之介の傍から離れる。 その時、視界の隅で黙礼している大谷吉房の姿が見えた。 義頼は小さく頷きながら、上座へと戻る。 そこで着席してから今一度、浅井家からの援軍を率いる三人を見回してから声を掛けた。
「浅井家からの援軍、頼りに致しますぞ」
『お任せあれ』
此処に予定外とも言える浅井家からの援軍を加えた義頼は、用意が整うと観音寺城を出陣する。 彼が率いる軍勢が次に向かったのは、山岡家の居城である瀬田城である。 やがて城に到着した軍勢は、城の大手門にて城主である山岡景隆の出迎えを受けていた。
彼に対して出迎えを労うのもそこそこに、軍議を行う旨を告げる。 義頼は当然の様に、山岡景隆にも参加する様にと伝える。 彼にも否はなく了承すると、直ぐに軍議へと入ったのであった。
「さて石山城だが、力攻めをすれば落とせるだろう。 しかし、出来れば兵を失いたくはない」
「なれば説得するのが、一番の近道であろうな」
「ええ五郎左殿、某もそう思います。 それで説得の使者だ『拙者が参りましょう』が……良いのか義定、景隆」
『はっ』
そこで声を上げたのは、瀬田城主であり山岡家の当主である山岡景隆と義頼の甥である大原義定だった。
山岡景隆は言わずものがな、山岡家の当主であるし何より山岡景友の兄である。 そして大原義定も、先代の六角当主である。 相手の事を考えれば、使者として不足などまず無かった。
本来であれば、大原義定や山岡景隆よりも六角現当主の義頼が仁木義政と山岡景友を説得に行くのが一番良い。 しかし軍勢の大将を敵地に送るなど、よほどの状態であってもまず出来る筈もなかった。
「そうか……俺が行こうかと思っていたが、義定と景隆であれば問題はないか。 よし! そなたら、済まぬが頼むぞ」
「吉報をお待ち下さい」
ところ変わり石山城だが、山岡景友と仁木義政が書状を前に唸っている。 その書状とは、大原義定と山岡景隆の連名で出された書状であった。
揃いも揃って、頭の痛い相手である。 散々先述した通り、山岡景隆は山岡景友の兄である。 そして大原義定に至っては、六角家先代当主にして義政の従甥に当たるのだ。 その様な二人が、軍使として石山城に来ると言うのである。 無碍にするなど、到底できない相談であった。
仕方なく仁木義政と山岡景友は、了承の返書をこれまた連名で送り返す。 それから数刻後、大原義定と山岡景隆は石山城へ入城した。
こうして大原義定と面会した仁木義政だが、彼が最後に顔を合わせたのは義頼とお犬の方との婚儀の時となる。 細川藤孝と共に仁木義政も観音寺城に現れ、祝いを述べたのだった。 その一方で、山岡景隆と山岡景友も顔を合わせているが気まずさは大原義定と仁木義政以上である。 二人は兄弟であるし、何より兄の顔を曇らせているのが自分だと分かっているだけに尚更であった。 しかしながら、それも今更である。 今は敵と味方であり、兄弟という事に煩わされる訳にはいかない。 山岡景友は一度目を瞑り気持ちを切り替えた上で、軍使である両名に用向きを尋ねた。
すると大原義定は、義頼から渡された降伏を促す書状を差し出す。 黙って受け取った二人は書状を開き、内容を確認した。 そこに書かれていたのは、言うまでもなく降伏の条件である。 そしてそれは、決して悪い条件では無かった。 何せ兵を挙げて織田家に反旗を翻した事を、あろうことか不問にすると書かれていたからである。 事実上の無罪判定であり、正直に言えば意外であった。
だが、確かにこれならば降伏してもいいかもしれないと思わせる内容である。 まさか此処まで早く一部とはいえ織田家の軍勢が戻ってくるとは思っていなかった彼らからしてみれば、降って湧いたかの様な好機とも言えた。 では降伏をと言えるかと言えば、いささかに難しい。 それは自身達と言うより、ある懸念があるからだった。
その懸念とは、織田信長の存在である。 幾ら義頼が不問にすると言っても、織田信長が「否」と言い出せばそれでご破算となる。 降伏したら殺されましたでは、死んでも死にきれない。 それならば、まだ抵抗を続けた方がましと言う物だからだ。
しかし、その心配もいらぬものとなる。 義頼は織田信長から、一切を任せるとのお墨付きを得た上でこの地に現れているからだ。 自ら与えたお墨付きを、後になって覆すなど流石に出来る物ではない。 無論、やって出来ない事もない。 だが、引き換えに失うであろう物を考えれば割に合わない。 それ故に大原義定も、自信満々に「あり得ぬ」と言い切っていた。
それならばと、仁木義政と山岡景友は考え始める。 それでなくてもこの二人は、兵を挙げておきながら未だに迷っていた節がある。 その理由は色々あるが、その中でも此度の信長の対応の速さには脱帽に近かった。 織田信長を含め、かなりの兵が東に進軍している。 だからこそ、足利義昭も兵を挙げる決断をしたのだ。
しかしながら挙兵の事実を知ると、すぐに兵を派遣する果断さ。 武田家と相対しているとはいえ、足利義昭の挙兵が果たして成功するのかという思いが心を占め始めていたのだ。 その上、その武田勢の動きもよく見えない。 三方ヶ原で一戦した以降、織田家の軍勢と再戦したなど全く聞こえても来ないのだ。 はじめは情報が遮断されているのかと両名も思っていたのだが、こうして義頼達が現実に畿内へと舞い戻って来ている以上その可能性も薄かった。
その時、まるで二人の心を見透かしたかの様に、山岡景隆が今一度降伏を勧めてくる。 考えに浸っていたからか思わず「兄上」と言い掛けた山岡景友であったが、咳ばらいをすると「美作守殿」と官位で言い直している。 そんな弟に対して小さく笑みを浮かべると、山岡景隆は言葉を続けた。
「それにな、景友。 何より兄として、そなたを討ちたくはない。 父上を草葉の陰で、涙させたくないのだ」
「……」
兄である山岡景隆の言葉に、山岡景友の心は大きく揺れ動いて行く。 そして時折り、義政を見るなどしている。 そんな山岡景友の様子を見ていた大原義定は、再度仁木義政へ降伏を勧めた。
彼としても、できれば仁木義政を討ちたくはないのである。 例え今は仁木氏を名乗ろうとも、彼が六角一門である事に相違はない。 義頼から見ればいとこであり、自身とは従甥の関係となる。 そんな彼を、亡くしたくはない。 だからこそ大原義定も、真摯に仁木義政を説得していた。
だが彼にしても山岡景友にしても、未だに迷いを見せている。 ならばとばかりに大原義定は、二人の説得に義頼自らが赴くつもりでいた事を告げる。 これには、両名とも驚きを表した。
如何に敵陣にいとこが居るとは言っても、敵である事は間違いない。 その敵陣に、先遣部隊とは言え大将自らが説得に向かうと言うのだから、彼らの反応も当然であった。
最も大原義定は、苦笑と共に反対はするとも告げている。 それには、仁木義政も山岡景友も同意してしまう。 しかも彼らだけでなく、山岡景隆もまた大原義定の隣で頻りに頷いていた。
暫く、会談の場に表現しづらい空気が流れる。 やがて一つ咳ばらいをすると、大原義定は重ねて二人に降伏を勧める。 その言葉を聞き、仁木義政と山岡景友は暫し視線を合わせる。 やがてどちらからともなく頷き合うと、二人は義定に対して平伏する。 突然の行動に、大原義定は訝し気に眉を寄せた。
「お二方?」
『中務大輔殿。 我らの身柄、左衛門佐殿にお預け致す』
「おお! それでは降伏勧告を受け入れて下さるか」
『はっ』
此処に石山城は開城し、山岡景友と仁木義政は義頼に降伏した。
すると義頼は、石山城に籠っていた兵を吸収する。 こうして兵数を増やした義頼は、石山城での顛末を信長へと報告しつつ堅田砦を奪回する為に堅田へと針路を向けるのであった。
浅井家からの援軍のやり取りに手を加えてみました。
ご一読いただき、ありがとうございました。




