第八十三話~戦の終了~
第八十三話~戦の終了~
武田信玄が息を引き取ると、暫くの間だが武田本陣に重たい空気が横たわる。 しかし、何時までもそうしている訳にも行かない。 まだ、戦は終わっていないのだ。
涙を振り払い、弟の武田信廉は、兄の遺命を果たすべく動き始めた。
彼が先ず行ったのは、将の招聘である。 呼び出したのは武田勝頼と内藤昌秀の両名であった。 何ゆえに彼らなのかと言うと、丁度良かったからである。 この二人は戦における最後の決め手として信玄が投入しようとしていた将であったが為に、まだ前線には出ていなかったのだ。
その為、幸いにもすぐに呼び寄せる事ができる。 しかし、彼らを呼び出す前に武藤昌幸が武田信廉へ疑問を呈した。
「刑部少輔(武田信廉)様、一つ疑問がございます。 何ゆえに亡き御屋形様は、ご自分の死を隠そうとしたにも係わらず四郎(武田勝頼)様を御指名したのでしょうか」
「領国に戻るまでの間は、在命しているとした方が都合がいいからではないのか?」
「それならば、御屋形様が言われ掛けた三年という期間がおかしくなります。 幾ら何でも、三年も二俣城や亀井戸城へ留まれとは申されはしないかと……内匠助(曽根昌世)殿はどう思われる?」
「拙者も、喜兵衛(武藤昌幸)殿と同じ事を考えていた」
亡き信玄が、自らの両目とまで賞賛した二人が揃って同じ疑問を持っている。 その二人が同じ疑問を抱いていると言う事実に武田信廉も心を動かしかけたが、彼は少し考えたあとで数度首を振った。 確かに両名が言った通り、亡き兄の残した言葉には不可解な点がないでもない。 しかし仮に二人の懸念が当たっていたとしても、それを証明する方法がない。 所詮、武藤昌幸と曽根昌世の疑問は、現時点において懸念の域を超えていないのだ。
その事を武田信廉が指摘すると、両名は言葉に詰まる。 懸念と言われればそれまでであり、もしかしたら完全に杞憂であるかも知れないのだ。 しかも二人の考えが、杞憂であるのかそれとも真実であるかを証明できる者はただ一人しか居ない。 だがその事を証明できる人物、即ち信玄は既に身罷っているのだ。
「昌幸、昌世。 義信が切腹して果てた以上、勝頼は嫡子だ。 その勝頼が継ぐ事に、何の不思議があろう」
『…………』
「沈黙は肯定と取るぞ。 どうなのだ」
「……分かりました。 刑部少輔様に従います」
「うむ。 して、昌幸はどうだ? 勝頼の家督相続に承知するのか? それとも反対するのか? 即答えよ」
「四郎様の家督相続、承知致します」
曽根昌世と武藤昌幸から承諾の返事を得ると、信廉は改めて勝頼と昌秀を本陣へ招聘した。
本陣へと呼ばれた二人は意気揚々と現れたのだが、そこで両者は揃って訝しげに首を傾げる。 その理由は、彼らが到着した本陣にあった。
兵数が不利であるにも拘らず戦況がほぼ五分であるとの情報は聞き及んでいたので、本陣は喧騒の中にも明るさがあると両者は思っていたからである。 だが到着してみれば、本陣の空気はどんよりとしている。
そう、雰囲気がおかしいのだ。
それと、もう一つある。 それは、何時もであれば信玄と信廉が揃って座っている場所に何かが横たわっているのである。 その何かには、武田の家紋が入った陣幕が掛けられていた。 これは、考えなくてもおかしいと思える。 本来ならば信玄が居るであろう場所に何かが横たわっているだけでも十分なのに、その何かに武田家の家紋が入った陣幕をわざわざ掛けているのだからそれも当然だった。
「これは一体……昌幸、何があった!?」
間もなく勝頼は、偶々近くにいた昌幸に尋ねる。 すると、彼は表情を歪めた。 その事に勝頼は無論のこと、昌秀も相応な事があったのではと勘繰る。 すると二人へ答えるかの様に、信廉が口を開いた。
「良く聞け二人とも。 兄上が……身罷った」
『……はいっ?』
唐突と言えばあまりにも唐突に告げられた武田信玄死亡の報に、勝頼も昌秀も揃って素頓狂な声を上げる。 しかして誰も、その事を咎めはしなかった。 それはもし自分が何も知らず同じ様に告げられれば、似た様な反応を示すかも知れないという思いがある。 それだけ信玄死亡の報とは、武田家中に置いて衝撃的な事象なのだ。
やがて漸く言葉の意味を理解したのか、恐る恐ると言った感じで勝頼が信廉へ尋ねる。 すると信廉は、凡そ厳かと言っていい雰囲気のまま返答した。
「当然だろう。 冗談でこんな事……言えるか!」
『確かに』
「そなたらが信じられぬのも、致し方無かろう。 だが、これを見れば信じざるを得まい」
そう言うと信廉は、横たわる何かに掛けられている武田の家紋が入った陣幕を取り除く。 するとそこに現れたのは、信玄の遺体であった。 血でも吐いたのか、鎧の前はべっとりと赤黒く染まっている。 それも尋常ではない範囲であり、それだけにともすれば夢かと思いかねない目の前の事情に現実味を持たせていた。
「ち、父上!」
「御屋形様っ!!」
そこで漸く理解が追いついたのであろう、勝頼と昌秀は転げる様にして信玄の遺骸へと近づく。 そのまま勝頼は、横たわる父親へ、取りすがる様に抱きつく。 その傍らで昌秀は、両膝を突くとはらはらと涙を落した。
その事に信廉や昌幸、そして昌世などは何も言わない。 それから少しの間、二人の嗚咽が本陣内に流れた。 しかしながら、何時までもそのままという訳にはいかないのも事実。 頃合いを見計らうと信廉は、二人に声を掛けて信玄の遺命とも言える言葉を伝えた。
信玄の遺命とあっては、聞かぬ訳にもいかない。 二人は涙を堪えつつも居住まいを正し、粛々と信廉の言葉を待った。
「四郎(武田勝頼)は旗下の兵を率いて、昌景と信春を救援に向かえ。 やり方については、昌幸と昌世に相談せよ」
「はっ」
「昌秀は左翼と右翼の兵を引かせると同時に、兵の掌握だ」
「御意」
「その後は暫く戦場に留まり、様子を見た上で二俣城と亀井戸城へ引く。 ある程度両城に留まってから、兵を領国に引き上げる。 また兄上の死は、暫く隠す。 それと家督は勝頼、そなたが継ぐのだ」
「……承知しました。 叔父上」
まさかの家督相続に、勝頼は一瞬身震いをする。 それはある意味で、言葉の余韻に浸っていると言ってもよかった。
しかし今は、その様な場合では無い。 勝頼は頭を振ってその余韻を振り払うと、昌幸と昌世に近づいた。 それは勿論、最前線で織田勢と対峙しているであろう山県昌景と馬場信春を救援する為である。
その一方で昌秀はと言うと、早速にも兵の掌握を開始したのであった。
さて山県昌景と馬場信春を救援するべく武藤昌幸と曽根昌世へと近づいた勝頼は、二人に如何なる手立てで前線にある両名を救援するのかを尋ねる。 その問い掛けに対して、昌幸が先ず答えた。 その策とは、急襲である。 数は敵である織田・徳川の連合勢の方が多いとは言え、相対しているのはあの山県昌景と馬場信春である。 如何に「今李広」とまであだ名される義頼が食い止めていると言っても、そうそう余裕があるとは思えない。 そこを狙っての急襲であると、昌幸は説明した。
その言葉に、問い掛けた勝頼は納得する。 幾ら味方とは言え、あの二人を相手にしたいとは勝頼も思わない。 それぐらい、あの二人は手強いのだ。 寧ろ、今もって両名の織田本陣への突入を食い止めていると言う事実の方が驚愕に値する。 敵とは言え、その点だけは尊敬に値した。
「……なるほどな。 相分かった。 そこに生まれた隙をついて、昌景と信春は撤収に入るという事だな。 ではま「お待ち下さい。 拙者も参ります」い……何だと?」
「喜兵衛殿!」
まさか、武藤昌幸がその様な事を言うとは露ほども思っていなかった勝頼が眉を顰める。 そして曽根昌世もまた、思わずといった感じで昌幸の名を呼んでしまう。 しかして昌幸だが、静かに昌世の肩に手を置くと本陣の差配を頼んだ。
「そ、それは無論だ「では参りましょう、四郎様」が……」
「うむ、そうだな。 では叔父上、それから昌秀に昌世。 後は頼む」
武田本陣を残る三人に任せると、勝頼は昌幸を伴い自陣へと戻る。 そこで勝頼の軍勢に組み込まれていた真田信綱と真田昌輝が出迎えるが、弟である武藤昌幸が同行している事に彼の兄である二人は揃って首を傾げる。 間もなく信綱が問い掛けたが、途中で信玄の命ではないのかと気付く。 何せ昌幸は、欠下城下にて織田・徳川の連合勢と戦った際にも、行動を共にしたのである。 そこで今回もそれではないかと、見当したと言う訳である。 しかしながら勝頼は、ゆっくりと首を振り否定すると二人を手招きした。
「何であろう」と眉を顰めながらも真田信綱と真田昌輝が近づくと、勝頼はさらに声を潜める。 そのただならぬ雰囲気に、思わず兄弟は顔を見合わせる。 それからお互いに頷き合うと、勝頼の方を向いた。 そんな二人の様子に頷くと、勝頼は信玄が亡くなったと言う事実を伝える。 しかも伝える前に、他言無用と声を立てるなとまで注意してまでであった。
思わず声を上げそうになった二人だったが、寸前にお互いの口を抑える事で何とかやり過ごす。 それから暫く兄弟は、そのままの体勢を維持した。 やがてどうにか気を沈めた二人は、お互いの口を塞いでいた手を離した。
「よし。 続けるぞ。 そこで、撤収をする事になった。 我らは前線に赴き、昌景と信春の軍勢を救出する。 これは、父上の遺命でもある」
「御屋形様の遺命……にございますか? しかしそれは」
「言いたい事は分かる。 だが今は、事情を説明している暇が無い」
『分かりました』
信綱と昌輝は納得した訳ではなかったが、それでも頷いた。
「よし! では行くぞ」
『御意』
その頃、義頼達と山県昌景と馬場信春の軍勢は、激しくやりあっていた。
先ず信春であるが、徳川の将である大久保忠世と鳥居元忠の両名を相手にしていた。 二対一と言う不利な状況であるにも拘らず、彼は互角の勝負をしていたのである。 そして昌景だが、彼は義頼と一進一退の攻防を続けていた。
昌景が手にした槍を振り降ろすと、義頼は寸でのところで避ける。 そのまま彼は、僅かだが隙のできた昌景の側面に打根を叩き込む。 しかし昌景は、打ちおろした槍の勢いを殺す事なく回転するかの様に操ると打根を弾き飛ばそうとした。
勢い良く回転をしている槍の勢いに打根が巻き込まれるのを防ぐべく義頼は、ぎりぎりのところで打根の動きを止める。 同時に馬を操り、少し距離を取ると懐より取り出した打矢を数本投げつける。 しかし昌景は、真一文字に槍を振るって義頼の打矢を纏めて叩き落とした。
「中々やる」
「そちらこそ!」
言葉と同時に馬を踏み込ませた義頼は、一気に昌景の懐へ潜り込もうとする。 そんな彼の手には、何時の間に取り出したのか新たな打矢が数本握られていた。
至近距離で昌景に打矢を放つつもりであったが、直前で義頼の意図に気付いた昌景は素早く距離を取る。 その動きに舌打ちしながらも義頼は、昌景の後を追う様にして打矢を投げ付ける。 しかし距離が開いた事もあり、際どかったが昌景はその打矢を避けてみせた。
だが義頼はその可能性を想定していたので、衝撃を受ける事はあまりない。 改めて確りと打根を握りしめると、再び昌景と対峙した。
暫く睨み合った二人であったが、ほぼ同時に攻撃を仕掛けようとする。 だが正にその時、義頼から見て右手から騒ぎが起きた。 しかもその騒ぎは、近づいてくるように感じる。 流石に義頼も昌景も、相手を警戒しつつそちらに視線を向ける。 果たしてそこにいたのは、勝頼自らが先頭に立って突撃している武田勢であった。
『なっ!』
あまりにも想定外の事態に、相対していた義頼と昌景は驚愕の表情を浮かべた。
だがそんな事などお構いなしに勝頼は、真田信綱と真田昌輝と武藤昌幸、更には救援に成功した馬場信春を引き連れて義頼と昌景の元へと向かって来る。 このままでは巻き込まれると判断した義頼と昌景は、馬を操ると互いに大きく距離を取った。
こうして両名が距離を取ると、見計らったかの様に勝頼が声を上げる。 それは、昌景に対する呼びかけであった。
「昌景! 引けっ!! 父上の命ぞっ!!!」
「……は? ははっ!」
勝頼が上げた言葉の意味はよく分からなかったが、それも信玄の命とあれば従うのも吝かでは無い。 そこで昌景は、目の前を通り過ぎる勝頼の後を追い馬を駆けさせる。 同時に味方に対しても、撤収の命を出していた。
そんな昌景に続く様に、勝頼に追随していた信春も再度撤収の命を出す。 己らを率いていた大将二人の撤収命令に、事情が分からない武田の兵達も慌てて撤収に入っていった。
いきなりの急展開に、義頼は思わず呆気に取られてしまっていた。 そこに、馬淵建綱が息せき切って現れる。 そして目に写った主の無事な姿に安堵すると、確認するかの様に声を掛けた。
「殿! ご無事ですか!!」
「あ、ああ建綱か。 俺に怪我はない、怪我はないのだが……何が起きた?」
「全く持って分かりません。 敵の増援かと思いきや、我らと武田勢を分断するかの様に走り抜けて行っただけにございますれば……」
義頼に問い掛けられた建綱は、歯切れ悪く答えた。
敵勢がいきなり現れたかと思ったら、此方を攻撃するでもなくただただ駆け抜けただけである。 それで理解しろと言う方が、無理な話であった。
「それもそうか……だが、気になる事を言っていたな。 父親の命だとか何と……誰だ!」
「拙者にございます」
「何だ孫六か……脅かすな」
「申し訳ありません、殿。 それと今敵勢の先頭に立っていた男ですが、武田勝頼にございます」
『なっ! 何だと!!』
義頼と建綱が、揃って驚きの声を上げた。
当然と言えば、当然である。 武田家の嫡子が前線に、それも先頭切って現れたのだから。
だが、だからこそ分からない。 何ゆえに、勝頼が前線にまで現れたのかがだ。 例えば決着をつける為とかならばまだ分かる、しかし今回は騎馬を率いてただ最前線をかき乱し、そして味方を吸収すると退いたのである。 何がしたかったのか、皆目見当がつかないのだ。
「……はっ! ならば殿! すぐに追撃を行い「やめておけ」ま……何故にございますか?」
「これからでは、到底追いつけない。 それに、万が一にも俺達が離れた後にあ奴らが帰って来て本陣を襲われたら目も当てられん」
「それは、そうですが……」
「今は、取りあえず殿の指示を仰ぐ。 建綱は丹羽殿達の元へ行き、俺がそう言っていたと伝えてくれ」
「はっ」
建綱の返事を聞くと義頼は、鵜飼孫六へ視線を向けると指示を出した。 その指示とは、武田に対する調査である。 此度の勝頼が取った行動は、あまりにも不可解である。 しからば、その不可解な事を起こさなければならない事態が武田家中に起きたと考える方が納得できる。 その調査を始める為の指示であった。
義頼より命を受けた孫六は、甲賀衆である望月吉棟と伊賀衆である藤林保豊の元へと向かう。 そして両名に、義頼からの指示を伝えたのであった。
また建綱と孫六へ指示を出した義頼だが、織田信長の元へ向かう前に永原重虎を呼び出す。 そして彼に兵権を預けると、数名の馬廻り衆と共に信長の元へと向かった。
やがて義頼と本陣で面会した信長であったが、機嫌があまり良ろしくはない。 それは、先までの戦に対するものであった。 何せ兵数が勝っていたにも拘らず、ほぼ五分という状況しか作れなかったからである。 その事実が、あまり面白くない。 そんな信長に対し義頼は、気後れする事なく先ほどの件をありのまま報告した。
「……勝頼が出張ってきただと?」
「はい。 どうやら、その様にございます。 ただ、何ゆえに出張って来たのか。 また出張ってきたにも拘らず、ただ撤収の命を出しただけという事が良く分かりません」
「ふむ……確かにそうだな。 何かあったのは間違いが無いのだろうが……義頼」
「はっ。 既に、調べさせております」
「うむ」
敵が引いた上に夕暮れも近いという事もあり、信長は兵を一度収める事にする。 そして自陣に戻ると、武田勢の動きに対して警戒を密にしたのであった。
その夜の事である、義頼は自らの陣で一人杯を傾けていた。
但し、杯の中身は水である。 本来であれば酒としたいのだが、今は戦場であり許しも得ずに酒を飲む訳にはいかない。 その為、義頼は水を用意していたのだ。
そして、そんな水の杯を手に座る義頼の対面には、誰も居ない。 それであるにも拘らず、そこには水の入った杯が幾つも置かれていた。
「すまぬな。 俺の指揮が拙いばかりにみすみすそなた達を……」
先の戦で山県昌景と馬場信春の軍勢を真っ向から受け止めた義頼の軍勢は、被った被害において織田陣営の中で一番多くなっている。 近江衆の青地道徹や、義頼の家臣となっていた矢島越中守などが戦場の露と消えていた。
そんな涅槃に旅だった彼らに対して、これは義頼なりの葬送の儀式と言っていい。 その時、義頼は気配を感じて視線を向ける。 そこには、男が一人立っていた。
「忠三郎(蒲生頼秀)、何か用か」
「……拙者も御同席して宜しいですか?」
「酒は無いぞ」
「承知しております」
「そうか……好きにしろ」
返事を聞いた蒲生頼秀は、義頼の右脇に腰を下ろす。 そして持参した杯を出すと、義頼が手ずから水を注ぐ。 なみなみと水が注がれた杯を掲げると、一気に呷る。 引き続いて義頼もまた、水を呷るのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




