第八十二話~巨星堕つ~
第八十二話~巨星堕つ~
織田信長と徳川家康が率いる連合勢は、武田信玄率いる武田勢と雌雄を決するべく浜松城より出陣した。 その半日ほど前に、武田信玄もまた亀井戸城を出陣している。 やがて両軍勢は、まるで示し合わせたかの様に進軍し、程なくして三方ヶ原で会合を果たした。
そこで信長は、驚くべき物を武田勢の本陣に見る。 正確に言えば、武田本陣に翻る諏訪明神の本陣旗である。 諏訪明神の本陣旗が存在するという事は、即ちそこに武田信玄が居るという事を表していたからだ。 それ故に信長が驚いた訳だが、彼は数度首を振ると気持ちを切り替えて思考した。
確かに報告では重篤とあったが、それが必ずしも信玄が動けないと言う事実に結び付く訳ではない。 ましてや今は、両軍勢で雌雄を決しようしている。 ならば、起き上がったとしてもおかしくはなかった。 それにどちらにせよ、今さら後には引けはしない。 ならば此処は相手を喰らい、勝利を手繰り寄せるべきだからだ。
その結論にたどり着いた信長は、不敵な笑みを浮かべる。 その直後、すぐに味方の布陣を開始する。 そんな織田・徳川の連合勢に呼応するかの様に、武田勢もまた布陣を開始した。
まず織田・徳川の連合軍だが、此方は左翼に織田家の軍勢が布陣し右翼に徳川家の軍勢が布陣する。 そして信長と家康が居る本陣の前には義頼率いる織田家からの援軍第二陣と、義頼の軍勢へ一時的に合流した大久保忠世と鳥居元忠の軍勢が布陣した。
なお忠世と元忠が義頼と合流した理由は、指揮を一元化した方が足並みを崩さないであろうという信長の判断による物であった。 その布陣は、丁度鳥が翼を広げているようにも見える。 信長は敵より兵数が多い利点を生かし、武田勢を押し包むつもりであった。
「弾正大弼(織田信長)殿。 武田勢を押し包む心算ですな」
「うむ。 その通りだ、徳川殿。 折角の数の利だ、利用せぬ手はなかろう」
「確かに」
その一方で信玄はと言うと、彼は本陣の周辺に将兵を配置している。 兵数の多い敵が、此方を包み込む様に攻撃して来る事は想像に難くなかった。 そこで信玄は周辺に彼らを配置し、織田・徳川の軍勢の相手をさせる。 その間に、先鋒を任せた馬場信春と山県昌景に敵陣を突破させ、敵の本陣への道を切り開かせるつもりであった。
その様な敵勢の動きをじっと見ていた義頼は、敵の先鋒に丸に桔梗の旗印を認める。 それは、山県昌景が用いている物であった。 井伊谷では奇襲によって打ち払ったが、此度は奇襲などなく正面からの戦となる。 武田の赤備えとも称される山県昌景率いる軍勢との真っ向勝負であり、その事に義頼は武者震いを覚えていた。
しかも、それだけではない。 山県昌景の軍勢の隣には、花菱の旗印を掲げる軍勢が居る。 花菱を用いている武田家の将は油川氏や長坂氏など居る為に調べさせると、何とそこの軍勢を率いているのは馬場信春である事が分かる。 不死身の鬼美濃と称される馬場信春と武田の赤備えを率いる山県昌景が務める先鋒、これはかなり手強いと感じさせた。
「鬼美濃こと馬場信春と、赤備えの山県昌景が率いる軍勢です。 この布陣は、中々に強力と言えるでしょう」
「山県に馬場か……兵数は此方が多いとはいえ油断は出来ぬという事だな」
「はい。 油断すれば、此方が喰われてしまいます。 そうなれば、後は味方本陣まで一直線です」
「分かっている」
義頼は三雲賢持へ返答すると、再び敵陣の先鋒を見詰める。 暫く眺める様に敵先鋒を見ていたが、やがて視線を自らが率いる将兵達に戻すと彼らに声を掛けた。
「よいか! 我らの後ろは本陣、決して抜かれる訳にはいかぬ。 例え相手が神や仏であったとしても、我らで押し留めよ!!」
『応っ!!!』
程なくして両軍勢の布陣も終わりを迎えたのだが、すぐに戦とはならなかった。
その主な理由だが、時間である。 そもそも両軍の会合が午後であったという事もあって、どちらの陣営にも「決戦は明日!」という空気が流れている。 そんな空気を敏感に感じ取った信長と家康と信玄はと言うと、万が一の夜襲に対する警戒の手筈を整えた上で夜が明けるのを待っていた。
しかし心配した様な夜襲などなく、まして奇襲などない。 恙なく夜明けを迎えると、改めて織田・徳川の軍勢と武田の軍勢は対峙する。 戦場となる三方ヶ原は静まり返り、両軍勢からしわぶき一つ上がらなかった。
張り詰めたかの様な緊張感が戦場を満たして半刻ほど経ったであろうか、唐突に両陣営が動きを見せる。 それは何と、ほぼ同時に織田・徳川の本陣と武田の本陣から突撃の命が出たからだ。 その命に従い織田・徳川の連合勢と武田勢は、掛け声と共に突撃していく。 遂に両軍勢は、激突した。
まず信長だが、彼は織田・徳川の連合軍を動かして予定通り武田勢を押し込めるかの様に左翼と右翼が攻め掛かる。 そして相対する武田勢はと言うと、数の上での不利を士気で上回る事で補って見せている。 その為にほぼ互角……否、もしかすると武田勢の方が押していると言ってよかった。
その事実に信長は、不満を見せる。 その様ないらただしげな表情をしながらも、彼は更なる攻勢を命じた。 すると兵数に勝る織田・徳川の連合勢が敵を押し返し始めたので、武田勢とほぼ五分の様相を見せた。 だがこれは、信玄が想定した事態である。 こうして、目論見通りの展開となると次の命を出した。
その命に従い伝令が向かった先は、武田勢の先鋒を務めている山県昌景と馬場信春の元である。 百足衆の一人である小宮山友晴によって齎されたその命に従い山県昌景と馬場信春の二人は、満を持して真っ直ぐ進軍を開始した。
当然だがこの動きは、二人と対峙している義頼達にも見て取れる。 その途端、義頼は配を振りあげた。 すると、吉田重高と彼の息子である吉田重綱が率いる六角家弓衆が一斉に引き絞る。 暫くそのままで待機させたかと思うと、やがて配を振り下ろした。
その直後、弓衆から一斉に矢が放たれる。 そのせいで、流石に山県昌景と馬場信春の進撃速度が鈍ってしまう。 その様な敵勢の動きを見た義頼は、すぐに配を返す。 そこで現れたのは、杉谷善住坊と城戸弥左衛門らに率いられた六角家鉄砲衆であった。
戦場に現れた鉄砲衆は、膝を突くと即座に火縄銃を構える。 そして殆ど間を置かず、銃弾を放った。 それでなくても進撃速度が鈍ったところであり、その状態でこの銃撃である。 流石に昌景と信春の軍勢は動揺し怯んだが、二人は直ぐに兵を掌握すると先頭を切って進撃を再開した。
一時混乱したとはいえ、対して時間を掛けずに兵の掌握を戻した信春と昌景の指揮能力に思わず感嘆する。 同時に、二射目を行ったところでさしたる損傷は得られないと判断し、即座に辞めさせた。 そもそも当初の予定では、もう一度弓衆の射撃を行う筈であったのだ。
しかし思いの外崩れなかったので、二度目の弓による攻撃を諦めたのである。 義頼は馬廻り衆の瀧一氏を派遣し、吉田重高と彼の息子である吉田重綱に作戦の変更を指示したのだった。
さて敵からの弓と鉄砲による射撃で一時的な混乱と遅滞を余儀なくされた山県・馬場勢であったが、彼らは直ぐに旗下の将兵を掌握して見せる。 それからすぐに突撃を再開させると、程なくして不破光治と接敵した。
だが彼らにとっての目標は、織田・徳川の本陣となる。 決して、不破光治などではなかった。 そこで山県昌景は、光治の軍勢など構わぬとの叱咤を旗下の軍勢に出す。 その命を受けた昌景と信春率いる軍勢は己らの能力を如何なく発揮して、最小限の戦いのみを行いつつも光治の軍勢を貫いていく。 何より彼らの軍勢が持つ勢いは凄まじいの一言に尽き、鎧袖一触とまでは行かなくても光治の軍勢は抵抗の甲斐なく蹂躙され突破を許してしまっていた。
こうして光治の軍勢を突破した昌景と信春は、そこで其々別の者達と対峙する。 馬場信春は、一時的に義頼の旗下となった大久保忠世と鳥居元忠が率いる兵達と相対すると攻撃を開始する。 そして昌景だが、彼はただひたすらにある旗を目指していた。 それは何かと言うと、義頼の旗印である隅立て四つ目である。 彼はこの機会に、井伊谷での雪辱を晴らすつもりでいたのだ。
その様な山県昌景に狙われているなど露知らず、義頼は旗下の兵を操り敵勢を押し止めている。 だが正にその時、彼の背筋に悪寒とも震えとも判別できない何かが走る。 その感覚を味わった瞬間、即座に義頼は弓を構えていた。
その変化を敏感に感じ取った馬廻り衆筆頭の藤堂高虎が、主に声を掛ける。 だが義頼は言葉を返す事はせず、ただひたすらに神経を集中していた。
「殿、如何されました?」
「何だ、この感じは…………そこかっ!」
その声と共に義頼は、自らの愛弓である雷上動を引き絞る。 そしてある方向へ射線を向けると、即座に矢を放っていた。 雷上動から放たれた矢は、敵味方が入り乱れる戦場を何する物ぞとばかりに目標へ目がけて突き進む。 やがて吸い込まれる様に目標へ、即ち山県昌景へと突き刺さった。
しかしてその矢は、故意か偶然かは分からないが昌景の兜に当たる。 義頼の一撃は彼の兜を吹き飛ばす事に成功したが、昌景の命を奪う事は出来なかった。
いきなり飛んできた一筋の矢によって己が兜を吹き飛ばされた事に昌景は驚く。 しかもその矢に、己を狙ったと言う明確な意思の様な物を感じれば尚更であった。
思わず昌景は戦場と言う場所すら忘れ暫く吹き飛ばされた己の兜を見詰めてしまう。 しかしながら、彼の口角は徐々にではあるが上がっていく。 そしてついには、笑い声が溢れ出していた。
「……くくく……ははははっ! この乱戦で、俺を狙うかっ! 相手にとって不足なしっ!!」
そう言うと昌景は、手にした槍を一つ振るう。 そして、己の兜に突き刺さった矢の軌跡を追うかの様に駆け始めたのだった。
山県昌景と馬場信春が率いる先鋒と織田勢とぶつかったという報は、すぐに信玄の元に届けられた。
陣形としては右翼と左翼が抑え押し止めているので、合格といっていい。 後は昌景と信春の二人が率いる軍勢が敵を切り開く、その筈であった。
しかし……幾ら待てど先鋒を任せた二人から敵を蹂躙したと言う報せは届かない。 やがて苛立ちが抑えきれなくなった信玄であったが、そこで感情に任せるような行動はとらない。 彼は静かにしかし苛立ちは隠す事なく、側近の武藤昌幸へ問い掛ける。 すると彼からの返事は変わらず、未だに抜けていないとの答えであった。
その返答に、更なる苛立ちが募っていく。 しかしそれとは反比例するかの様に、信玄の顔色は悪化の一途をたどっていた。
それで無くとも信玄は、自らを蝕む様に相変わらず続く傷の痛みに床を出て以来ずっと耐えているのである。 その事に加え、中々に進捗しない戦況に彼は苛立ちを募らせている。 そんな痛みと苛立ちは、全軍の指揮を執る緊張感と相まって彼の預かり知らぬところで信玄の心身を酷く蝕んでいた。
「兄上。 少し落ち着かれよ」
「落ち着いておるわっ、信廉!……昌世! 昌景と信春を止めているのは誰だ!!」
「報告によりますと隅立て四つ目。 旗印から考えまするに、六角義頼ではないかと」
曽根昌世が上げた名を聞いた信玄は、眉を顰め更に表情が険しくなった。
信玄は過去に一度、義頼によって一つの策を潰されている。 それは比叡山延暦寺の座主であった覚恕法親王を庇護と言う形で確保し、言わば自家薬籠中の物とすると言う物であった。 しかしながらその策は、本多正信の打った手によって結果として潰さている。 意図した物でなかったとは言え、潰された事に変わりはないのだ。
その上、騎馬突撃を敢行している。 十八番とまでは行かなくとも、坂東武士である武田家に対して行ったのだ。 しかも、西国武士となる六角家の者がである。 これは十分、屈辱的と言ってよかった。
「あ奴か!! 覚恕法親王の時といい、欠下城の時の突撃といい何かと邪魔……を…………ぐっ!!」
「兄上!」
『御屋形様っ!!』
怒りに任せて声を荒げたその時、突然、信玄は蹲った。
彼のその額には油汗が滝の様に流れており、そして苦しげな表情を浮かべている。 そんな信玄のただならない様子に弟の武田信廉と武藤昌幸と曽根昌世が駆け寄った正にその時、信玄は大きく咳き込んだ。
すると彼の口から、鮮紅色をした物が噴き出す。 はじめ三人はそれが何か分からなかったが、すぐにそれが何か理解する。 信玄の口から噴出したのは、大量の血であった。
そのあまりの量に、三名は揃って呆気に取られてしまう。 しかしその中でいち早く昌幸が気付き、すぐに侍医を呼ぶようにと指示を出した。
と言うのもこの出陣が重傷を押してであった為、信玄の侍医でもある板坂法院と御宿友綱の二人がこの戦に同行していたのだ。
始め信玄は亀井戸城で待つ様にと言ったのだが、二人はそれならば出陣は許さないと強硬に主張している。 仕方無く信玄の方が折れ、彼らの同行を許したのであった。 結果としてその事が功を奏した訳だが、緊急事態に変わりはない。 少なくともこのまま戦を続けるなど、もっての外であった。
治療を受けながらも信玄は相変わらず激しく咳き込み、その咳に混じって血痰すらも吐いている。 その信玄を心配そうに横目で見ながら、昌幸は昌世と如何にして被害が少なく兵を引けるかの思案をし始めた。
右翼と左翼はいい、ほぼ五分であるし勢いだけなら押しているかも知れないからである。 しかし問題なのは、義頼と対峙している昌景と信春となる。 下手に撤収させると、それを契機として一気に戦況がひっくりかえりかねないからだ。
如何にして上手く、しかも味方に被害が被らない様に撤退する手立てはないかと模索していると、二人の侍医を押しのけた信玄が信廉を呼ぶ。 慌てて小走りに歩み寄る信廉の姿と返事の声に、頭を捻らせていた昌幸と昌世が思考の海から戻って来る。 その後、三人は、信玄の周りに膝を落とした。
『御屋形様、確りなさってください』
「良く聞け……ゴホッ、ゴホッ! 信廉は、わしの代理……をせよ。 兵については前同様……昌秀に任せよ」
「はっ」
「そして、暫くは二俣城と亀井戸城に留ま……り、しかる後に領ごゴホッ」
「兄上っ!」
「ハァ、ハァ。 しかる後に、領国へと……撤退せよ」
「しょ、承知致しました」
それから信玄は、昌幸と昌世へ視線を向ける。 その視線を受けて、二人は更に信玄へ近づいた。 するとその時、こみ上げてきた血を吐き掛けてしまう。 だが信玄は、何とかその血を飲み込んでいた。 そんな主の様子に慌てた様に声を掛けた二人であったが、信玄は手で制する。 それから彼は、呼吸を落ち着ける為に何度か息を吸いそしてゆっくりと吐く。 少し楽になると信玄は、ゆっくりと続きを告げた。
「勝頼を……え、援軍の大将として、昌景と……信春を救援させよ。 右翼と左翼はふ……普通に引かせればよい」
「承知致しました。 その後は、暫し滞陣してから隙を見て城へ引けば宜しいですな」
「うむ……それから信廉……わしの事は、暫くゴホッ! 秘匿せよ。 期間は三年ぐら……いやそなたらに任せる。 ただ、時の情勢には……注意せよ」
『はっ』
「そして後継は、勝よ……り……ガハッ!」
息子の武田勝頼に対して何かを言いかけたが、そこで信玄は大量に喀血する。 最早その顔色は血の気が引き、蒼を通り越して白といっても過言では無かった。 ただならぬ気配に信廉が、昌幸が、それから昌世が声を掛ける。 するとそんな三人に対して信玄は、綺麗な笑みを浮かべた。
それからゆっくりと手を伸ばすと、まるで天を掴むかの様にその拳を握りしめていた。
「……京に武田菱が翻るところ……この眼で見たかったのう……」
それが周辺国から、甲斐の虎と怖れられた信玄最期の言葉であった。
怪我と病……義頼も、巨星が堕ちた遠因の一つなのだろう。 多分。
ご一読いただき、ありがとうございました。




