第五話~小倉の乱~
第五話~小倉の乱~
義頼の謹慎が解けて暫く、季節も移ろいそろそろ農繁期に向けての準備に掛かろうかというある日、長光寺城へ報告が届けられた。
報告を齎したのは、荘内三家の一人である服部藤太夫である。 その内容は、決して無視できるものではない。 その為か義頼は、思わずと言った感じで籐大夫へ問い掛けたのであった。
「これは真か!! 藤太夫!」
「侍従様。 残念ですが、間違いございません」
「くっ!……このことを御屋形様と賢秀に知らせるのだ。 それと調査は続けろ! いいな!!」
「御意」
義頼の命を受けた服部藤太夫は、彼の前から辞した。
彼が部屋から出て行くと、義頼は今一度書状を見る。 しかし何度見ても、その内容が変わるわけでは無い。 義頼はじっと書状を見つめながら、一言漏らしたのであった。
「小倉分家当主の小倉実治が小倉宗家当主に対して挙兵だと? まったく……完全に騒動の影響が消えていないと言うのに実治は何を考えているのか! 馬鹿者が!」
最後には言葉尻を荒げた義頼が言った騒動とは、他でもない去年六角家内を震撼させた【観音寺騒動】である。 そしてとても残念なことにこの騒動は、いまだ六角家内に暗い影を落としていた。
最も、取り分けて何かがあるという訳ではない、 だがしかし、六角宗家と近江国人衆との間に微かな食い違いがあるように感じられてしまうのである。 義頼は、その正体が分からない何かをどうにかするべく動いていたが今のところ上手くいっているとは感じられなかった。
話が逸れた。
それは兎も角として義頼は、急いで筆頭家臣の蒲生定秀を呼び出す。 そして先ほど届いていた知らせを告げると、彼は思いのほか驚いていた。
それと言うのも、小倉家の現当主である小倉実隆は彼の息子だからである。 つまり、現蒲生家当主である蒲生賢秀の弟に当たるのだ。 だからこそ義頼は、蒲生定秀にも挙兵の一件を伝えたのだ。
さてそもそもの話であるが、なにゆえに小倉実治が兵を挙げたのか。 その発端は、小倉氏の内訌が大本の原因であった。
実は小倉家内において、宗家と分家が対立しいがみ合っている。 より正確に言えば、小倉宗家と小倉西家と言われる分家がいがみ合っていたのだ。
この頃の小倉家は、小倉宗家と小倉東家と小倉西家に分かれている。 小倉東家はそれほどでもないのだが、小倉西家は明確に小倉宗家からの独立を考えて行動していた節がある。 しかもこの問題に、水利権などが絡み合っていた。
水利権については取り敢えず置いておくとして、そのような独立の意思を見せる分家の行動を小倉宗家たる佐久良小倉家としては当然面白い訳が無い。 しかしそれでも両家は、今まで小競り合い程度を繰り返すにどうにか踏み止まっていた。
だが、いよいよと言うか小倉西家が最後の一線を越えてしまったのである。 小倉実治は兵を集め、ついには本格的に挙兵したのだ。 すると当然だが、小倉宗家の小倉実隆が黙っている筈も無く、こちらも兵を集めた……というのが、現在までに義頼が報告を受けている内容だった。
「そうですか、小倉実治が挙兵を」
「そうだ定秀。 無論調査は続行させているし、御屋形様や賢秀にも知らせた」
「ありがとうございます、殿」
今回の小倉一族の内訌による騒動の報告が観音寺城の六角宗家へ齎したのは、義頼からの報告が最初であった。
もっとも義頼からの報告が観音寺城へ届いてから半刻も経たないうちに知らせが届いているので、特に遅かったと言うほどでは無い。 偶々、義頼の方が早かったと言う程度の問題でしか無かった。
この動きを知った六角義治は、自らが国人の挙兵で当主の座を失ったばかりであった為か激怒する。 そこで彼はそれこそまくし立てる勢いで、現当主である弟の六角高定の元に赴いた。
弟の元へと現れた彼は、それこそ捲し立てるかの様な勢いで言葉を荒げながら詰め寄ったのである。 それは六角高定が、六角家宿老の面子と共に対応を協議して命を出した直後の事であった。
彼らが話し合った結果、今回の件はあくまで小倉一族の内輪揉めとする事。 対応は、小倉宗家の小倉実隆に一任するという物であった。
弟から対応についての話を聞いた六角義治は、飛び込んで来た時とはまるで別人の様に笑顔を浮かべながら頷いている。 そんな兄を見て六角高定は、一つ溜め息をついた。
例え弟とは言え、六角高定は六角家当主である。 その六角高定へ、有無を言わせぬ勢いで文句を付けられたのだ。 偶然か故意かは分からないが、家臣が居なかったから良かったようなものの、もし家臣や国人衆が居たら彼の当主としての立つ瀬が無かった。
しかし六角義治は、弟からまずまずの対応を聞かされて、部屋に飛び込んで来た時とは裏腹に意気揚々と自らの部屋へ戻っていく。 そんな兄を見送りながら六角家現当主は、今一度溜息をついたのであった。
そんな兄弟の想いは兎も角として、六角家当主から実治討伐のお墨付きをもらった小倉実隆はと言うと、早々に居城の佐久良城から出陣する。 長年続いている小倉氏の内訌を、今度こそ終わらせるという決意の元での出陣であった。 更に万全を期そうと実隆は、兄からの援軍も募っている。 蒲生賢秀もその要請に答え、蒲生家に味方する寺倉氏や速水氏を援軍として佐久良城へ送っていた。
このような経緯を経て小倉実隆が率いる小倉宗家と実治が率いる小倉西家は、雌雄を決するべく激突する。 この戦は蒲生家からの援助をうけた分だけ、実隆が優位に戦況を進めることが出来た。
実際、小倉西家の有力者である和南城主の小倉源兵衛が速水勘解由左衛門に討たれるなど、小倉西家の被害は大きかったのである。 このままでは形勢不利であり、もし負ければ屈辱的な条件を出されるのは必須である。 そこで小倉実治は、捨て身とも言うべき攻撃に出たのであった。
「目指すは、実隆の首ただ一つ。 全軍突撃!」
『おおー』
命を出した小倉実治は、後先など考えてはいなかった。
味方が被るであろう被害など完全に無視した乾坤一擲の総攻撃を命じたのである。 不意に敵からの総攻撃を喰らってしまった小倉実隆は、一時的にとは言え旗下の兵の統制が取れなくなってしまった。
また小倉実治も統制など考えずただ勢いで総攻撃を仕掛けた様な物であり、その為に戦場は混戦模様をていしてしまう。 するとその戦場で、小倉実隆は誰とも分からない相手に討ち取られてしまったのであった。
敵大将を討つと言う想定した以上の大殊勲を上げた小倉実治だったが、その代償はあまりにも大きい。 まず、自身が大怪我を負ってしまったのである。 しかも半ば混乱している戦場である為、碌に治療などできる筈もない。 何とか血止めは行えたが、それ以上の医療行為をする余裕はなかったのであった。
さらにこの突撃は、小倉西家に所属する少なくない兵の犠牲が引き換えとなっている。 そんな二つの理由もあってか、小倉実治の将兵もまた混乱をきたしてしまっている。 だがこれは、大将を討たれてしまった小倉宗家側としては千載一遇の好機であった。
小倉実治の兵が混乱より脱する前に小倉実隆の重臣が、何とか兵を纏めると佐久良城へ退却する。 そして大怪我を負い、かつ旗下の将兵が混乱した小倉実治もまた、山上城へ引く事を余儀なくされてしまった。
この戦は、判定としては正直微妙なところがある。 戦の結果だけを見れば、当主を討たれた上に居城へ向けて軍勢の撤退を余儀なくされた小倉宗家の負けと言っていいだろう。 しかし勝った筈の小倉実治が被った被害は、小倉宗家よりも上である。 実質、痛み分けと言っていい戦結果であった。
小倉家の内訌の戦の結果を記した報告を知った六角義治は、怒りを露わにした。
蒲生家より援軍を募ってまで兵を揃えた小倉実隆が、あろうことか兵数の少ない小倉西家当主の小倉実治に痛み分けとなったのである。 しかも小倉実隆自身は討ち取られているので、ある意味では負けたと言っていいだろう事も怒りに油を注いでいた。
こうして怒りに染まってしまった六角義治は、ここに来て独断で命を出す。 その相手は、蒲生定秀であった。
命を出した彼にしてみれば、息子の不始末は親が拭えと言うぐらいの腹積もりである。 しかしながら蒲生定秀は義頼の宿老であり、六角家当主でもない義治が命を出せる相手では無い。 しかも六角義治は、蒲生定秀の主に当たる義頼を無視して命を出したのである。 その上、六角家現当主の六角高定を通さずにだ。
こんな甥の態度に、当然義頼が面白い筈も無い。 蒲生定秀から六角義治の命が届いた事を知らされた義頼は、怒りを露わにした。 だが六角義治の行動を知った六角承禎が、すかさず非公式の使いを義頼に出して執り成しをする。 更に追っ付け届いた六角高定からの書状が、有効に働いた。
六角家当主より届いた書状は二つ。 一つは、蒲生家と共に小倉西家を討てという命令である。 これは六角義治が蒲生定秀へ勝手に出してしまった討伐の命を、正当化する為の物であった。
そして今一つは、純粋な詫び状である。 この詫び状には、六角承禎の花押も押されていた。
つまり、義頼に対して二重に詫びを入れた形となる。 それでも義頼の不機嫌な表情は変わらなかったが、一応筋が通ったとして家臣と与力衆へ伝えていた。
「御屋形様より、蒲生家と協力して実治を討伐する様にとの命が下った。 お前たちも色々思うところはあるだろうが、ここは素直に従って欲しい」
『……御意』
「それから軍配だが、定秀に預ける」
「殿!?」
唐突な義頼の言葉に、蒲生定秀が驚きの声を上げた。
もっともこれは、高定より小倉西家討伐の命が届いた事で義頼が独自に考えた物である。 当然だが、蒲生定秀が知る由もない。 だからこそ彼が、驚きの声を上げたのである。 そんな蒲生定秀へ、義頼は優しい笑みを浮かべると口を開いたのであった。
「養子に出したとはいえ、実隆は息子なのだろう? 仇をとってやれ。 皆もいいな」
『はっ!』
義頼の言葉に、与力衆筆頭の馬淵建綱を頭に一同が同意する。 仕える主や同僚達から好意を受けた蒲生定秀は、年甲斐も無くはらはらと涙したと言う。 ここに、義頼より軍配を預けられた蒲生定秀を臨時の大将とした小倉西家討伐の軍勢が組織されたのであった。
それから数日後の早朝、長光寺城には軍勢が勢揃いしていた。
なお、城を発つまでそう時間が掛からなかったのは、服部藤大夫より知らせを受けてから念の為にと兵は集めておいたからである。 そんな彼らを前にして義頼は、出陣の宣言をした。
「その方らも知っておるとは思うが、我らは小倉実治討伐に向かう。 彼奴等は既に反逆者であり、それを証明する御屋形様の命もある! その命に従い、我らは軍勢を押し出すのだ!!」
『おうっ!!』
「では、出陣する! 者ども続けぃ!!」
『はっ!』
出陣した義頼は、城の守りとして馬淵建綱を残している。 また建綱の与力として、宮城堅甫も長光寺城へ残した。 彼らに後方を任せて進撃した軍勢は、やがて日野城近在に到着する。 長光寺城より連れて来た兵を永原重虎に任せた義頼は、蒲生定秀と寺村重友と鶴千代を連れて蒲生賢秀に面会するべく日野城を訪れた。
義頼が大手門にて取り次ぎを求めると、門番は慌てて城内へ走っていく。 すると程なくして、日野城内より一人の男が先程の門番と共に戻って来る。 その男は義頼も蒲生定秀も、そして鶴千代も知っている男であった。
「これは侍従様。 お待ちしておりました」
「うむ。 数ヵ月ぶりだな、氏信」
そこに現れた男は、蒲生氏信である。 彼は義頼より少し年上であり、かつ義頼の小姓を務めている鶴千代の兄でもあった。
「父上がお待ちにございます」
「そうか。 案内頼む」
「はっ」
義頼と同行しているのが祖父と弟である事など気付いているが、彼らには声を掛けない。 この場には父親の代理として来たのである以上、公務である。 私的な立場で迎えたのではないので、二人に声を掛けるのをはばかったのだ。
そんな蒲生氏信の配慮だが、蒲生定秀には分かったがまだ幼い鶴千代には分からない。 まるで自分がいないかの様に振舞っている兄へ声を掛けようとしたが、祖父の蒲生定秀から向けられた鋭い目線に躊躇ってしまう。 結局、鶴千代が声を出す事は無い。 そのまま義頼一行は、日野城内に居る蒲生賢秀の元へ案内されたのであった。
「侍従様、お早いお着きで何よりです」
「そうか?……そうかも知れんな。 それよりも賢秀、出陣はいつなのだ?」
「今すぐにでも」
「分かった。 では、一刻後に出陣しよう」
距離はそう離れていないとはいえ、行軍して来たのは事実である。 時間を置いたのは、多少なりとも疲労を感じている者もいるだろうという、義頼なりの配慮であった。
それから一刻後、小倉実治討伐の軍勢は日野城を発つと、先ずは小倉宗家の城である左久良城に向かう。 途中で敵襲と言った様な問題も起きず、軍勢は無事に佐久良城へ到着した。
城に入った義頼は、父親が討たれた事で急遽家督を継ぐ事になったまだ幼い小倉実資の元を訪れる。 彼は数えでも十に満たない歳であるが、現時点で当主不在という事態を纏める為に小倉宗家の重臣達がいわば神輿として家督を継がせたのであった。
当然だが、そんな実資に軍事行動など起こせる筈もない。 そこで小倉宗家は、この内訌が終わるまでの一時的とはいえ小倉実治討伐の総大将となっている義頼の旗下に組み込まれる事となった。
そこで義頼は、軍議を開くと宣言する。 これには否など無く義頼の将や蒲生家の将、そして小倉宗家の将は佐久良城内の広間に集ったのであった。
軍議が開かれる広間の中央には小倉宗家当主の実資が座り、その脇には義頼が座っている。 その義頼だが、軍議の冒頭で兵の采配を蒲生定秀に任せると宣言した上で軍配を渡した。
軍勢が出陣前より聞かされていた義頼の将は無論の事、それを見た蒲生家や小倉宗家の者達も従っている。 彼らがこの宣言に従った理由は、やはり蒲生定秀が討たれた小倉実隆の実父であると言う事が大きかったのである。
さて義頼から軍配を渡された蒲生定秀だが、彼は義頼や実資が座るところより更に一段下の中央前に立つと広間に集う諸将を見回した。
「では皆の衆……小倉実治を討ち取る為、山上城を叩く」
山上城は小倉西家の居城である。 その城に、大怪我を負った実治は撤収していた。
だからこそ定秀は、山上城攻めを伝えたのである。 だがその策には、蒲生定秀の息子である蒲生賢秀が反論した。
「しかし父上、小倉西家の城は山上城の他にもございます。 その城などから援軍を出されると、厄介なのではないでしょうか」
「無論その可能性はある。 だが、それほどの余裕は無いだろう。 実隆との戦で、相当数の兵と一族の者を失ったと知らせが来ている。 相違ございませぬな、殿」
「ああ。 甲賀衆が調べ上げた。 流石にどれだけの被害が出たかまで調べる時間は無かったが、将も兵を戦前よりだいぶ減ったそうだ」
問い掛けられた義頼は、淀みなく蒲生定秀に答えた。
この辺りの情報は、引き続き甲賀衆を派遣した事で手に入れた物である。 情報を得ながらも引き続いて情報収集に努めている義頼に対して、蒲生定秀は嬉しそうな表情を浮かべながら見る。 その後で彼は、視線を息子に戻した。
「と言う訳だ賢秀。 だが先ほどお前が言った様に、可能性が全くない訳ではない。 そこで別に一隊編成して、その者達に対応を任せる」
「なるほど。 父上はその様にお考えでしたか……それで、誰を当てるのですか?」
「俺がやろう」
『殿!』
『侍従様!』
義頼の言葉に定秀を含めた義頼の家臣と与力衆。 それと蒲生家、小倉宗家の者達が同時に驚いた。
幾ら軍配を定秀に渡し軍勢の采配を預けたとは言え、この小倉西家討伐の総大将は義頼である事に変わりはない。 それであるにも拘らず、小倉西家の居城を攻める事から総大将自ら外れると言い出したのだから当然と言えば当然の反応であった。
そんな彼らの反応を見て、義頼は苦笑を浮かべる。 それから一つ咳払いをすると、まだ驚いている彼らに声を掛けた。
「皆も意外そうな顔をするな」
「いや、しかしですな。 殿がこの軍勢の総大将なのです。 幾ら拙者に軍配を預けたとしても、その立場に変わりはないのです」
「だがな定秀。 俺は、これが一番だと思っている。 蒲生も小倉も、実治を討つ戦には参加したいであろう。 となれば、残るのは俺しかいない」
それは間違いなく事実であろう。
蒲生家にとっては一族の仇であり、小倉宗家にとっては現当主を討った仇である。 その両家が小倉実治を討つと言う戦に参加しないなど、まずあり得ない話であった。
しかし、その話と総大将である義頼が小倉実治を討つ戦に参加しないというのは別の話である。 蒲生定秀は主を翻意させようと説得を試みたが、義頼は頑として聞き入れない。 宥めようが賺そうが暖簾に腕押し糠に釘状態に、結局は蒲生定秀の方が折れてしまった。
「……はぁ。 承知致しました。 殿には和南城攻めをお願いします」
「和南城か、まぁいいだろう。 実治は兵の大半を山上城に集結しているというから、城に籠る兵は少なかろう」
「それはその通りでしょうが、油断は禁物ですぞ! 殿」
「それも分かっている。 散々その方と兄上に教えられた事だからな」
その翌日、山上城の近くまで移動した蒲生定秀率いる軍勢は、城攻めを始める。 そして義頼もほぼ同時刻に、和南城攻めを開始したのであった。
さて義頼の攻める和南城だが、元々は和南氏という一族の居城であった。
しかし、この戦国という世の荒波に飲まれてしまった一族でもある。 戦に敗れたのかそれとも他の理由があったのかは判然としないが、いかなる理由があれ和南氏は近江国を出てしまっている。 その為、和南城は空き城となっていたのだが、隣接した近江国人である小倉西家が彼の城を接収していた。
以降和南城は、小倉西家の居城である山上城の南を守る城として一族の者を城主として来たのである。 だが現在の和南城には、城主が居ない。 和南城主であった小倉源兵衛が、討たれてしまったからだ。
蒲生定秀がこの和南城攻めを義頼に当てたのは、実質初陣である彼に対する配慮である。 公式な初陣は【観音寺騒動】だが、義頼はこの騒動で一切の戦を経験していない。 従ってこの和南城攻めが、兵を率いた初めての戦であった。
兵力差から先ず負けることはない上に、義頼の周りには有力国人の永原重虎や山岡景之が居る。 余程の下手を討たない限り負けるなどは考えられないからこそ、定秀は義頼へ和南城攻めを任せたのであった。
それは兎も角、和南城を取り囲むように布陣した義頼は、傍に控えさせている山岡景之に意見を求める。 彼は経験豊富であるがゆえに、義頼が和南城攻めに当たって傍に控えさせたのであった。
「景之。 先陣は重虎とした訳だが、問題はないか?」
「大丈夫です。 越前守(永原重虎)殿であれば、間違いなく期待に答えてくれるでしょう」
「……分かった。 では、城攻めを始めよう」
「はっ」
義頼は手を振りあげると、その姿勢で目を瞑りながらも一度止まる。 そして一呼吸明けた後で目を開くと、腕を振り下ろしたのであった。
「掛かれー!!」
『おおー!』
和南城攻めの先陣を任された重虎は、義頼の号令と共に正攻法で攻め寄せる。 敵城主がおらず、兵数は味方の方が遥かに多い以上は奇をてらう必要はないと判断したのである。
そしてこの判断に、間違いはなかった。
城に籠る兵は非常に少なく、小倉西家の本拠である山上城も攻められている事は和南城の兵も知っている。 さらに先の小倉宗家との戦で大きく将兵も減らしているので、味方の援軍もまず期待できない。 この状態では、和南城に籠っている兵の士気を保つことは難しかった。
永原重虎が攻め始めてから数刻も経たないうちに、和南城の大手門が打ち破られてしまう。 正にこの一撃が決め手となり、和南城に籠る将兵の士気に止めを刺されてしまった。
すると彼らはもはや抵抗は無理だと悟ったのか、義頼に使者を出して降伏した。
その一方で山上城に籠る小倉西家だが、当主の小倉実治が負った怪我が重く歩くのがやっとの状態である。 その為、山上城の将兵が十全に働くことは出来なかった。
山上城を攻める蒲生定秀は、敵勢の動きから大凡の情勢を推察する。 ならばここが押し時だと判断し、後詰の兵も城攻めに投入した。 この攻勢には流石に耐えきれず、山上城は短い時間で大手門を破られてしまう。 大手門を破った蒲生定秀の兵は、怒涛の勢いで山上城内へ攻め込んで行った。
そんな将兵の活躍で、程なく当主の小倉実治も捕えられてしまう。 こうして山上城は、蒲生定秀の手に落ちたのであった。
「景之。 山上城が落ちたそうだ」
山上城落城の報が届いた義頼は、その事が記された書状に目を通してから景之に渡す。 渡された山岡景之は書状を一読すると、感心した様な表情を浮かべつつも口を開いた。
「……小倉西家の本拠地である山上城をこの短時間で落としますか。 流石は藤十郎(蒲生定秀)殿、と言ったところですな」
「そうだな。 それで、我らはどうする。 このままこの和南城に残るか、それとも合流するか」
「やはり、合流した方がいいかと思われます。 念の為に、この和南城に兵を駐留させた上でですが」
山岡景之の進言に義頼は、少し考えた後で永原重虎を呼び出す。 そして彼に幾許かの兵を預けて和南城に残すと、軍勢を合流させるべく蒲生定秀の居る山上城に向かった。
程なく山上城に到着した義頼は、蒲生定秀と再会する。 和南城を首尾よく陥落させたという報と義頼が無事であるという報は届いていた蒲生定秀であったが、やはり心配はあった。 だが目の前で義頼が現れたことで、彼は安心する。 しかしそんな蒲生定秀の口から出た第一声は、やはり義頼の無事を喜ぶものであった。
「殿! ご無事でしたか!!」
「ああ。 見ての通り、怪我ひとつないぞ定秀。 あと、報せた通り和南城は落としたぞ」
「それは重畳にございました」
実質の初陣をそつなくこなした義頼に対して蒲生定秀は、満足そうな笑みを浮かべた。 それから表情を引き締めると、彼は義頼の軍配を差し出した。
「では、軍配をお返し致します」
義頼は、一つ頷いてから軍配を受け取ったのであった。
その後、義頼は蒲生定秀と山岡景之を交えて相談に入る。 その内容は、小倉西家の扱いであった。 山上城と和南城は落としたが、他にも小倉西家の城はある。 そこには、小倉西家の者達もまだ残っているからだ。
「小倉実治を捕えた以上は、これ以上の戦は無い方が宜しいかと存じます」
「つまりは、降伏の使者を出せというのか定秀」
「はっ」
「ふむ……景之はどう思うか」
「御子息を討たれた藤十郎殿がそう言われるのであれば、拙者から異論はありません」
「…………分かった。 降伏を促す使者を出す、それでいいな」
『御意』
その翌日、義頼は小倉実治を捕えた事と降伏を促す書状を小倉西家の各城の城主宛てに出した。
降伏の期限は明々後日までとし、それまでに返事が無い場合は「如何なる理由があろうとも攻め滅ばす!」とまで書き添えた脅しとも取れる書状であった。
この義頼からの書状に、小倉西家の城主達はそれぞれの行動をとる。 ある者は期日までに山上城を訪れて降伏の意志を表し、またある者は家族郎党を引き連れて逐電したと言う。 そんな小倉西家の者達がそれぞれの対応を取っている最中に、一人の男が山上城を訪れる。 それは、小倉西家とは別の分家である小倉東家の者であった。
「侍従様、お初にお目に掛かります。 拙者小倉東家高野城主、小倉右京亮実房にございます」
小倉実房は、本人が申し出た通り高野城主である。 そして、小倉東家の現当主でもあった。
「俺が義頼だ。 そう言えば一連の戦で、一族の小倉良秀が亡くなったそうだな」
「はい。 実治に、攻め滅ぼされました」
「……という事は、実房が気になるのは小倉家の今後についてか? 流石に、俺の一存では決められないぞ」
確かに義頼はこの討伐軍の総大将ではある。 しかし今回の戦を主導したのが六角家である以上、現当主の六角高定の判断を仰がなければならないのだ。
小倉実房も、そのようなことは分かっている。 彼が義頼に聞きたかったのは、小倉実治の行く末であったのだ。
「あ、いえ。 勿論その事が無いとは言いませんが、今日お伺いに上がったのは別の事にございます。 ぶしつけながら侍従様、実治はどの様な処分を受けるのでしょう」
「……む? そうだな。 はっきりとは言えんが、右衛門督殿の怒りが大きい故に温情ある沙汰とはならないだろうと俺は判断している」
「そうですか……なればこの実房、凱旋される侍従様にお供する事をお許し願いたい」
そう言うと小倉実房は、平伏して懇願した。
そこまでするほど、小倉東家の一族である小倉良秀が攻め滅ぼされた事に小倉実房は怒りと怨みを小倉実治に抱いている。 そして義頼にしても、彼の言葉に否は無かった。
小倉実房の気持ちを完全に理解するとは言えないが、汲むぐらいは出来る。 それに小倉西家へどの様な沙汰が出ても、同じ小倉分家である小倉東家に影響が出ない筈が無いからだ。
その様な事情がある以上は、ここで小倉東家が六角高定に会っておいて悪い事は無い。 暫く考えてからそう結論を出した義頼は、小倉実房の申し出を受託する事に決めた。
「よかろう。 俺と一緒に観音寺城まで来て貰う、いいな」
「御意」
因みに義頼の名前で出した降伏を促す書状への対応は、期日までに全て判明している。 降伏を受諾した者達は取りあえずいいが、一族の者が逐電して空き城となった城を放置しておくわけにはいかない。 賊などが居座られては、困るからだ。
そこで義頼は、空き城へ兵を派遣して押さえておくなどの処置を施している。 その処置が終わると、義頼率いる小倉実治討伐の軍勢は観音寺城に凱旋した。
すると義頼は、蒲生親子と小倉実隆の息子である小倉実資と小倉東家の小倉実房、それと主だった者達を連れて六角高定に面会する。 彼らを後ろに従えた義頼は、全ての戦の報告を済ませた。
全ての報告が終わると、六角高定が直々に沙汰を出すのであった。
「さて小倉西家の土地についてだが、実房が小倉西家の土地に移動してこれを治めよ。 その為に空いた小倉東家の土地は、六角家に組み込む。 また、小倉宗家の土地及び二人の息子については、賢秀に預ける。 また義頼には、褒美として加増する。 それから、降伏した元小倉西家の者も任せる」
『御意』
戦の論功行賞と小倉家の土地についての措置を終えた六角高定は、次に捕えた小倉実治と顔を合わせる。 そして彼にもまた直々に、沙汰を告げたのであった。
六角高定が小倉実治に告げた沙汰だが、斬首である。 小競り合い程度であれば介入する気も無かったが、挙兵まで行っている相手に対して甘い沙汰などまず許されない。 それに、小倉実治の動きに気に食わない六角義治に対する配慮もあった。
こうして小倉実治は斬首され、ここに小倉氏の内訌は収束を見る。 しかしそれは、小倉宗家当主の討ち死にと小倉西家の消滅が引き換えである。 此処に小倉一族の勢力は、大いに減退したのであった。
この小倉氏の内訌終結後だが、六角領内は一応の平穏を得る。 だが先年に起きた騒動の影響は未だ六角領内にくすぶり続けており、嵐の前の静けさと言った様相であった。
しかし長光寺城に戻った義頼にとっては、それどころでは無い。 加増された領地を治める為、多忙を極める事になったのだ。 彼は今まで持っていた領地ですら、定秀の手助けを受けて漸く治めていたぐらいなのである。 この急な加増は、まだ経験の浅い義頼の手に余ったのだ。
だがしかし、何が幸いするか分からない。 ある意味窮地に陥った義頼を救ったのは、六角高定から任された元小倉西家の者達である。 何と彼らが、義頼の足りない分を埋めたのであった。
六角高定がこの事を見越していたのか、それともただの偶然なのか。 はたまた六角承禎の手筈なのか、そこは分かっていない。 だが分かっているのは、まだ若い義頼が今回の事態を得た人材で乗り切ったという事実だけだ。
兎にも角にも彼ら元小倉西家のお陰で、義頼は何とか無事に年末を迎える。 この事は新参者家臣と言える元小倉西家の者と、元来居た義頼の家臣達とのわだかまりを取る一助ともなったのであった。
ご一読いただき、ありがとうございます。