第七十五話~井伊谷の一夜と浜松城~
第七十五話~井伊谷の一夜と浜松城~
井伊直種と近藤秀用が出した使者から井平城を押さえたとの旨が伝えられると、井伊谷城内に歓声が巻き起こった。
山県昌景が率いる武田勢に侵攻されてからこの方、あっという間に井伊谷城まで侵攻された井伊家に齎された勝利の知らせである。 例えそれが空き城を押さえただけであったとしても、勝利である事には変わりはない。 此度の戦における初めての勝利の報せである事を考えれば、井伊家の者達の反応も仕方がないと言えた。
そればかりではない、援軍もない状態であのまま山県勢に攻められ続けていれば井伊谷を捨てるしかない状況下にあったのである。 そうなれば浜松城まで落ちるしかなく、その様な事態となればこの先、何時になったら武田より取り戻せるか分かったものではなかった。
しかし、こうして井平城を取り返せれば話はまた別である。 何と言っても井平城は、井伊谷の北の守りともいえる城である。 此処を領有し続ける事ができれば、武田勢に再び井伊谷まで侵攻される事はないのだ。
するとこの報せの直後、井伊直虎は戦勝を祝して宴を開く旨を家中に発する。 先ほどの喜びに引き続いて出された祝宴の報せに、井伊家の者の喜びは鰻登りであった。 そして、この祝宴には義頼などの織田家の将達にも誘いが掛かる。 彼らがいなければ井平城の奪還どころか山県勢の撃退すら不可能であったのだから、当然と言えた。
義頼は間髪入れずに参加する旨を伝えたが、まだ戦の最中である。 彼を筆頭とする織田家の将達は、比較的抑え吟味に酒を嗜んでいた。
そんな義頼の元に、井伊直虎が酒を持って現れる。 彼女は傍らに腰を下ろすと、手にしていた銚子を掲げつつ義頼に話しかけていた。
「楽しんでおられまするか? 左衛門佐((六角義頼)殿」
「これは井伊殿。 ええ、楽しんでおりますとも」
「それは何よりにございます。 まずは一献」
「これは忝い」
井伊直虎の手ずから注がれた酒を、義頼は一気に飲み干した。
元々義頼は、うわばみかざるかと言うぐらい酒に強い男である。 元から抑え気味に飲んでいた事もあり、盃の一杯や二杯で顔色一つ変える筈もなかった。
その飲みっぷりを誉めつつ、直虎は更に酒を注いでいく。 しかし彼は、盃の中身がまるで水でもあるかの様に平然と飲み干してしまう。 義頼は一気に杯を開けると、今度は自分の番とばかりに直虎に杯を渡した。
義頼からの返杯を受けて、直虎も酒を飲み干す。 女性にしては、中々の飲みっぷりである。 最も直虎は男ものの着物を着ているので、傍目からは女性とは見えないのだが。
格好は兎も角として、義頼の返杯を飲み干した直虎は杯を返すと持ってきた銚子を手にしつつ立ち上がった。
「では、お楽しみくだされ」
「ええ」
すると直虎は、そのまま義頼以外の織田家の将のところへと向かう。 そこでも、義頼にしたのと同様に酒を注いでいる。そんな直虎を少し眺めていた義頼だったが、やがて視線を切ると自らの杯に酒を注ぎ呷るのだった。
その後、宴が終盤に差し掛かると直虎から「是非に」との歓待を受けた織田家の将達は井伊谷城の館に宿泊する事になる。 勿論、義頼も泊っていく事となった。
織田の将が侍女らに案内されてそれぞれ部屋に案内されているその頃、井伊谷城の別室にて複数の女性が準備している。 彼女らは、いわば夜伽の相手をする者たちであった。 そんな彼女達がいる部屋とは別の部屋で、一人の女性がもう一人の女性に手伝ってもらいながらも身嗜みを整えている。 少し年嵩の女性だが、中々の器量を持っていた。
「姫様。 本気にございますか?」
「ええ。 この様な事を冗談出来る程、私は経験などしておりません」
「当たり前です! 姫様は未通女にあらせられましょう!!」
髪を整えている侍女に言葉を返しながら、姫と呼ばれた女性の頬は赤く染まっている。 そんな初心な仕草は、年齢より彼女をより若く見せていた。
すると髪を整えていた侍女が休めると、彼女の脇に移動する。 不思議に思いつつ侍女を見ると、仕える主である女性を真剣な眼差しで見つめていた。
「姫様。 今ならばまだ間に合います、おやめください。 例え井伊家を救ってくださったからと言って、そこまですることはないではありませんか」
「……別に、礼だけでこの様な事をするのではありません」
「ならば、何故ですか!」
詰め寄りながらも更に強く言い募る侍女に、姫は落ち着くようにと手で促す。 そのお陰で少しは落ち着けたらしく、侍女が詰め寄ることはなくなる。 しかしその目からは、未だに力強い視線が注がれていた。
その途端、姫は視線を逸らす。 すると、侍女はすかさず姫の目を見た。 慌てて視線を逸らすが、更に追いかけてくる。 二度三度と同じことを繰り返したが、やがて諦めたのか視線を逸らすことをやめた。 それから暫く、静けさが部屋を支配する。 程なくして心を決めたのか、もじもじとしながらも小さく蚊の鳴くような声で話し始めた。
「あの、ね」
「はい」
「あの方の笑みを見た時、ここが締め付けられたのです」
頬を染めつつ、しかも嬉しそうにしながら己の胸を押さえつつ告げられた言葉に侍女は始め反応できなかった。
しかしながら、間もなく彼女の言葉と仕草の意味を理解する。 彼女とて、何年も女性として生きてきた。 当然、その過程において何度か似た様な経験をしている。 その経験から考えれば、答えは明白だった。
だが、それならば彼女の行動の意味は分かる。 ならばここは侍女として、否人生の先達として後押しするだけであった。 彼女は己が持つありとあらゆる手段を用いて、主たる姫を磨き上げる。 やがてそこには、侍女の女性としていままで生きてきた集大成の結実した存在が産まれたのであった。
「これで宜しい。 では、行ってまいられませ」
「ええ。 ありがとう」
姫はゆっくりと立ち上がると、静かに部屋から出ていく。 そんな主を静かに見送った侍女は、やがて小さく漏らすのであった。
「もしあのお方を泣かせようものならば、命はないものと思いませ。 左衛門佐様!」
そんな物騒な言葉が部屋で漏らされているなど露にも知らない彼女は、やがて一つの部屋にたどり着く。 そこで声を掛けてから、静かに部屋の中へと入っていった。 そこは、義頼が案内された部屋である。 すると当然だが、中には義頼が居た。 彼女は静かに近づくと、静かに腰を下ろした。
さて義頼だが、目の前に腰を下ろした女性が夜伽の相手だという事は承知している。 そもそも、直虎から話が出た時点で凡その当たりはつけていたのだ。 だからこそ部屋に招き入れたのだが、その女性が近くまで来ると義頼は違和感を覚えた。
最初に感じたのは、そのぎこちなさである。 女性の所作に、不自然さを感じるのだ。 それだけではない、所作もさることだが何よりその顔にどこか見覚えがあったのだ。
地元の近江国や六角家臣との宴でと言うならばまだしも、地元より遠く離れたこの井伊谷の地で知り合いと思える女性に会えるなど先ず考えられない。 しかも、ここは井伊谷城内である。 どう考えても、知り合いに会える可能性などないに等しいのだ。
しかし今、目の前にいる女性の顔には確かに見覚えがある。 思わず義頼は、じっと女性を見つめてしまった。 まさかまじまじと見られるとは思ってみなかった女性は、その視線を受けて意識せずに問い返してしまった。
「……何か?」
「……まさか井伊殿……か?」
女性の声を聞き、義頼は思わず目を見張る。 その声は、紛れもなく直虎の声だったからである。 義頼からの指摘に、直虎ははっとした顔をして自分が声を出していた事に気付いた。
実は直虎、ここに来るに当たり決して声は出さない様にしようと決めていたのである。 しかし義頼からじっと見られるとは思っていなかった事もあり、無意識に尋ね返してしまっていたのだ。
まさかこの様な事で正体が判明してしまうなど思ってもみなかっただけに、直虎は視線を下ろし黙してしまう。 そんな彼女の態度に、どう答えていいかと義頼も口を開きあぐねていた。 その為、部屋の中に何とも言えない空気が満ちる。 しかし、何時までそうしていても始まらない。 やがて意を決した義頼は、少し重苦しい様なその空気を破るかの様に口を開いていた。
「あ、その……井伊殿。 何故に、この様な事を?」
「それは………………他に貴公へのご恩に報いる術が無かったからです」
「某への恩……にございますか?」
「はい。 貴公は知らぬと思いますが、この井伊谷はお恥ずかしながら奸臣に乗っ取られた事がありました。 後に家康公にお縋りし、何とか奸臣より取り返しましたが……」
そこで直虎は、言葉を切った。
だが、そこまで言えば凡その見当はつく。 徳川家康に従う代わりに、井伊家の領地であるこの井伊谷の奪還を願ったのだと。
「なるほど。 それについては分かりましたが、それとこの現状にどう関わりがあると言われるのか?」
「直接はありません。 しかしあの時と違い、今の我では貴公の力添えに対して何も返せませぬ」
「それ故に井伊殿は、某の元に来たと?」
義頼の言葉に、直虎は小さくもはっきりと頷く。 だがそこでは終わらず、彼女は小さくであったが言葉を続けていた。
「……無論、それだけではありません。 私は……嘗て一度も男に体を許した事はないのです。 そんな私があの方以外でと、そう思えたのです……例えそれが……今宵一夜だけであったとしても」
そんな彼女の言葉に、義頼は驚きの表情をした。
直虎の言うあの方と言うのが気になると言えば気になるが、その様な事を今この場で聞くのは野暮と言うものである。 未だに男と肌を合わせた事のない女性が、意を決して己の元に表れている事の方が重要である。 これに応えねば、男が廃るという物であった。
すると義頼は、驚きの表情を改める。 それから真面目な表情へ一変させると、顔を真っ赤にし俯きながらも言葉を紡いでいた直虎の顎に手をやるとゆっくりと顔を上げさせる。 そして、ひたと彼女の目を見詰めた。
「井伊殿。 そこまで貴公……いや貴女に買われたとあっては、男冥利に尽きるというものだ」
「……六角様……」
少しうるんだ眼をしつつも見上げている直虎を、確りとしかし優しく抱き寄せた義頼は優しく組み敷く。 それから優しく丁寧に、まるで蕾を開かせる様に直虎を扱う。 その庭では、寒牡丹の華が風に優しく揺れていたのであった…………
さて義頼と直虎が一夜の逢瀬を行っている頃、徳川家の居城である浜松城で家康がある書状を見ていた。
その書状とは、義頼が家康と佐久間信盛に宛てたものである。 そこに書かれているのは井伊谷城での攻防とその結果、そしてその直後に行われた井平城攻略と陥落であった。
また書状には山県昌景の行方についても記されていたが、大した内容ではない。 昌景が軍勢と共に柿本城に引いた、それぐらいしか書かれていないからだ。
その昌景の今後については、まだ調査中である。 その為、取り分け連絡する事がなかったのだ。
何であれこの山県勢を止めた井伊谷での戦と勝利は、武田信玄の出陣以来負け戦の連続であったと言っていい徳川家に喜びを齎す事となる。 しかしその勝利故に、徳川家内で焦りの様な物を生み出す起因にもなったのは皮肉な話であった。
その理由は、これまで徳川家が武田家から被った負け戦にある。 確かに、今までは兵力は違ったからある意味で仕方がなかったと言えるだろう。 しかし義頼が勝利を収めた事で、その言い訳は通用しなくなってしまった。 何せ徳川家単体での武田家との戦では勝ちを拾えていない現状であるにも関わらず、織田家の軍勢は武田勢に局所とはいえ勝利したのである。 このままでは同盟関係の織田家に侮られるのではないかとの思いが、静かに家康と徳川家将兵の心へと浸透したのであった。
「殿。 それは、如何なる事にございましょうか。 この後に及んで、打って出るとは」
義頼からの書状が到着したその夜、家康は家臣を集めると緊急の軍議を開いた。
そしてその席の冒頭、家康は「城から打って出る」と宣言したのである。 その言葉を聞いた石川数正が家康に尋ねたのが、先ほどの言葉であった。
数正は、家康が今川家の人質として駿府で暮らしていた頃から近侍していた男であり、懐刀と言える存在であった。
また、その能力も指折りであり、【桶狭間の戦い】以降、今川家より独立した家康の代理として今川家との折衝に当たっている。 不戦の約定は得られなかったが、代わりに人質として駿府にいた家康の正室と子女らを取り返していた。
そのやり方だが、人質の交換である。 当時、徳川家に鵜殿氏長と鵜殿氏次と言う今川家家臣が捕らえられていた。 彼らの祖父は鵜殿長持と言い、正室は今川氏真の叔母に当たる人物であった。
つまり氏長と氏次の兄弟は、今川家一門衆に当たる人物である。 その兄弟の身柄を交換条件として、数正は駿府より家康の家族を救い出したのであった。
その数正より問いかけられた家康だったが、即座に言葉を返していた。
「そのままの意味だ。 今ならば味方の予期せぬ敗北に、武田も少なからず動揺しておろう。 今まで勝ち戦が続いていたのだから、尚更にな」
「そうでしょうか……拙者にはそうは思えませぬが」
「その通りにございます、殿。 ここは予定を変えず、浜松城にて迎え撃つべきかと存じます」
家康の言葉に数正が疑問を呈すると、鳥居忠広が数正に同調した。
忠広は家康の祖父に当たる松平清康より仕えている鳥居忠吉の四男に当たる人物で、兄の鳥居元忠同様に武勇に優れている。 その忠広も反対した事で軍議の空気は家康の思惑とはかけ離れると思われたが、その空気に待ったを掛ける人物がいた。
「与七郎(石川数正)殿と四郎左衛門(鳥居忠広)殿は、臆病風に吹かれた様にございますな」
『何だとっ!』
数正と忠広は声の主を睨みつけたが、声の主である成瀬正義は意にも介さない。 そればかりか、挑発するかのように言葉を続けたのだ。
「そうであろう。 だからこそ、篭城して武田と戦わない様に殿を仕向けているのであろう。 いや、この場合は腰ぬけといった方がよいか」
「藤蔵(成瀬正義)! もう一度言ってみよ!!」
「おうっ! 何度でも言ってやる!! この腰ぬけがっ!」
「おのれ!!」
数正以上に激昂した忠広に対し、正義が売り言葉に買い言葉とばかりに言葉を繰り返す。 その言葉に、忠広は刀に手を掛けた。 すると正義も、刀に手を掛ける。 まさに一触即発であり、切欠があれば修羅場となりかねない雰囲気である。 しかしそんな二人に対し、叱責の声が飛ぶ。 それは誰であろう、家康からの叱責であった。
「止めぬかっ! 馬鹿どもがっ!! その方らに喧嘩をさせる為に、集めたのでは無い!」
主君からの叱責を受けて二人は、取りあえず渋々といった感じで座り込む。 不満がありありと見えるのはその態度でわかる。 何せ二人とも、お互いを見ようとはしていないのだ。
そんな二人の態度に、家康は小さく息を漏らす。 だがすぐに気持ちを切り替えると、自身の意見に反対した石川和正と鳥居忠広を見つつも口を開いていた。
「数正、忠広。 その方らが何と言おうと、出陣する。 俺の決定に不満があるのなら、城に残れ」
「籐蔵殿にここまで言われてまで、反対は致しませぬ。 但し、先鋒は拙者達に任せていただきます」
「しかり」
腰ぬけ呼ばわりされたとあっては、黙っていられない。 数正と忠広も、出陣に否は無かった。
その上で、先鋒を数正と忠広が願い出る。 家康としても、意図した訳ではないとはいえ腰ぬけ呼ばわりされてしまった数正と忠広に対して申しない気持ちもある。 それ故に家康は、二人に先鋒を許していた。
その翌日、家康は朝食の終えた後で信盛の元を訪れると彼に出陣する旨を伝える。 その話を聞き、信盛は怪訝そうな表情を浮かべていた。
それはそうだろう、ついぞ昨日まではこの浜松城で武田勢を迎撃する事に決まっていたからである。 それが明けてみれば、出陣するという。 朝令暮改ではないが、いきなりの変更となる。 信盛の反応も、至極当然であった。
「出陣? 浜松城で迎え撃つのではなかったかな?」
「佐久間殿。 織田家援軍の働きにより、武田の勢いに釘が刺されました。 この情勢には、武田勢も驚いておりましょう。 なれば、臨機応変に動くべきと存じます」
「ふむ……臨機応変のう」
「また織田家の援軍が合わさった事で、兵数は此方が上なのは確実。 なればこそ、敵の動揺につけ込むのが得策かと存じます」
兵数が上であり、かつ敵が動揺している。 家康の挙げたこの二つの言葉が、信盛の心を動かした。
武田の兵は、強兵として名を馳せている。 そんな名高い武田兵に対し、例え徳川家と合同とはいえ自ら率いる兵が打ち破る可能性が多分にあると家康は言う。 これに成功すれば、信盛の織田家での地位はより確実の物となる。 ならばここは賭け時だと、信盛は判断した。
こうして家康と信盛は同調し出兵を決めたが、その決定に反対した人物がいる。 誰であろうそれは、滝川一益であった。
彼にしてみれば、たかが一回や二回の負け戦があったぐらいで、あの武田家が動揺するとは思えなかったからである。 確かに武田勢より、織田・徳川の連合軍である味方の方が兵数は多い。 だが逆に言えば、それだけでしかない。 古来より大軍に策なしと言われるが、今浜松城にいる味方と敵の武田勢との間に隔絶した兵数差がある訳でもないのだ。
ならば下手に打って出るよりは、城に籠るのが最上である。 どの道、そう遠くないうちに義頼率いる援軍の第二陣が浜松城に現れる。 彼らを待って反撃しても、何ら問題はないのだ。
「いいでしょう、徳川殿」
「おお。 ではすぐにでも出陣の用意を」
「お待ちあれ」
「何かな? 滝川殿」
「拙者は反対にございます。 佐久間殿、徳川殿。 あの武田が、そう簡単に動揺するとは思えませぬ。 兵数が上なのは拙者も認めますが、その事実とて勝利への確実な道になるとは考えられまん」
「そうか……彦右衛門(滝川一益)殿の考えは分かった。 出陣したくないというのなら、彦右衛門殿には後詰をお任せしようか。 貴公は、浜松城に残れば宜しい」
信盛のその言葉に一益は、最早打って出る気となっている事を悟る。 翻意させる事は不可能だと分かった一益は、せめても義頼の軍勢が到着してからの出陣を促した。
しかしながら、それでは遅いと信盛は思って……いや確信している。 故に一刻一刻が勝負であり、彼としては今すぐにでも出陣したい気分なのだ。
そしてそれは、家康も同じである。 その上、家康には別の理由も存在していた。 織田家からの援軍を得ている筈なのに、一向に出陣して戦おうとしない。 敵が攻めてきているにも拘らず動こうとしない家などと、国人達に思われる訳にはいかないのだ。
「滝川殿、それでは遅い。 動揺している筈の今だから奇襲になる、時が経てば立ち直ってしまう!」
「徳川殿の言う通りだ。 今この瞬間瞬間こそが値千金である、悪戯に時を掛ける訳にはいかぬわ!」
「しかし……」
「黙れ! 徳川殿、すぐに出陣の用意を致そうぞ」
「おうっ」
信盛は一喝して一益を黙らせると、家康と共に意気揚々と部屋を出る。 そんな彼らを、彼は黙って見送るしかない。 二人が完全に消えると、悔しさからか震える拳を振り上げると床に叩きつけていた。
彼にしてみれば、自明の理なのである。 援軍の織田家と徳川家の軍勢、これが全て揃えばそう簡単には負けない。 しかし今の中途半端な兵数の軍勢では、勝てる見込みは薄かった。
であるからこそ一益は、「せめて義頼の軍勢と合流してから」と進言したのである。 だが、その進言も無視された格好であった。 しかし、このまま座して見ている訳にもいかない。 もし一方的に負けでもしたら、それこそ敵勢の勢いが増すだけなのだ。
そこで一益は、急いで手を打つ。 滝川家家老を務める木全忠澄を呼び出す。 程なくして忠澄が一益の前に現れると、彼に書状を渡す。 それは、井伊谷にいる義頼に対する書状であった。
「忠澄。 この書状を、井伊家救援に向かった六角殿に届けてくれ」
「構いませぬが、理由を聞いてもよろしいですか?」
「佐久間殿と徳川殿が出陣する」
「真ですか!?」
「ああ。 だからすぐに届ける必要がある」
「承知致しました」
一益は、元々甲賀出身である。 しかし一族の争いに巻き込まれ、甲賀を出る破目となった。 追放前は、甲賀衆として六角家に仕えていた事もある。 その意味でも、六角家の現当主である義頼とは接触しやすいのだ。
それより何より、義頼が率いる軍勢は優に万を超える。 一益の予測では恐らく負けるであろう佐久間信盛と徳川家康を救う為にも、どうしても必要な軍勢であった。
「頼みます、左衛門佐殿。 恐らく貴殿の軍勢が、鍵となりましょう」
夜陰に乗じて浜松城より出ていく軍勢を見つつ独白した一益は、同時に使者として井伊谷に居る義頼の元へ向かう者の無事を祈っていたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




