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第七十三話~徳川への援軍~

遠江国での対武田戦、開始です。


第七十三話~徳川への援軍~


 

 疋壇城近くに差し掛かったところで本多正信ほんだまさのぶからの使いとして現れた多羅尾光俊たらおみつとしが持参した書状を読み終えた義頼は、馬淵建綱まぶちたてつなに軍勢を任せると単騎愛馬で駆けた。

 そもそも義頼が本気で馬を操ると、馬術の師匠で佐々木流馬術開祖である六角承禎ろっかくしょうていすらも凌駕しかねない。このような事情から一人海津へと到着した義頼は、湊に停泊させていた水軍の船に声を掛ける。この船には、六角水軍を率いている駒井重勝こまいしげかつが乗っていた。

 その彼に声を掛けると、義頼は小早船を用意する様に厳命する。彼が用意させた小早船とは、関船や安宅船に比べて機動性が高い船である。一刻も早く観音寺城に戻りたい義頼としては、打ってつけの船なのだ。

 事情は思い当たらなかった駒井重勝であったが、義頼の迫力から危急であろうと察しすぐさま小早船を用意させる。 その小早船に乗って琵琶湖を進むと、やがて到着した常楽寺湊から上陸して観音寺城の麓にある六角館へ向かった。すると館には本多正信が待っていたので、義頼は彼に情報の信頼性を尋ねる。彼は大きく頷いてから、言葉を紡ぎ出した。 


「殿っ! 武田の侵攻ですが、恐らく二方面、若しくは三方面から侵攻して来ると思われます。一つは信玄自ら率いる本隊、こちらは遠江へ向かうと思われます。そしてもう一隊は、東濃かと」

「東濃……秋山か!」

「はっ」


 飯田城主の秋山虎繁あきやまとらしげは、嘗て武田信玄たけだしんげんの命を受けて東濃へと侵攻している。 その経緯から、再度侵攻して来ることは十分に考えられた。その時、義頼は本多正信の言葉には二路しか提示されていない事に気付く。そこで改めて尋ねると、あくまで予測ですがと断ってから己の考えを続けた。


「もし三隊の場合は、残りの一隊はどこに向かうと思うのだ?」

「恐らくは三河かと」

「遠江と東濃、そして三河か……これは、急ぎ殿に知らせねばなるまい」

「御意」


 その後、着替えた義頼は急いで岐阜に向かった。

 常楽寺湊から再度船に乗り、今度は朝妻湊に上陸する。その後は、一緒に船へ乗せた愛馬に跨ると岐阜へひた走った。 やがて到着した岐阜城下の六角屋敷に馬を預けると、義頼は身嗜みを整えた。それから信長の館に向かい、目通りを願い出る。するとあっさり願いはかない、義頼は織田信長おだのぶながと面会を果たしたのだった。

 義頼が部屋に入ると、まるで彼の訪問を予測していたかのような言葉で織田信長が出迎える。 自身の行動が予測されたらしい事に、義頼は訝しげな顔をしていた。


「義頼。話とは武田の事であろう、違うか?」

「はっ。ご賢察、恐れ入ります」

「ふん、世辞など良い。兎に角、その方の話を聞こうか。越前の報告などは、あとで良い」

「御意」


 義頼は、武田の動きと本多正信の予測した武田勢の侵攻経路について報告と説明をした。

 すると織田信長は、いささか驚く。それと言うのも、本多正信と全く同じ予測をした者が織田家中にも居たからであった。その者とは、今孔明ともあだ名される竹中重治たけなかしげはるである。彼もまた、本多正信と同じく三路からの襲撃を予測したのだ。


「兎にも角にも、これで義継の裏付けは取れたな」

「え? どなたですか?」

三好義継みよしよしつぐだ。あ奴が知らせて来おった、武田が動くと」

「ほう。左京大夫(三好義継)殿がですか?」

「ああ。どうやら久秀と袂を分かつ気の様だな、義継は」


 織田信長の言葉に、義頼は驚いた。

 織田家に降伏して以降、三好義継は松永久秀まつながひさひでと行動を共にしていた。

 そもそも松永久秀は、三好義継の後見役である。ゆえに二人は行動を共にしていた訳だが、こたびの決定に松永久秀が関わっていない。つまり三好義継と松永久秀が、完全に別行動を取ったのだ。


「まさか左京大夫殿が弾正少弼(松永久秀)殿から離れるとは……」

「まぁその気持ち、分からんでもないな。だが切っ欠は義頼、その方だぞ」

「は? 某は、左京大夫殿に何もしておりませぬが」

「そうだろうな。正確には義頼ではなく、その方の家臣である釣竿斎と政勝だからな」


 ここで釣竿斎宗渭ちょうかんさいそういと彼の弟である三好政勝みよしまさかつの名が飛び出た事こと、義頼は混迷の度を深めた。確かに釣竿斎宗渭と三好政勝の兄弟は、嘗て三好家中で重きをなしていた男たちである。しかし、【本圀寺の変】で捕らえられ義頼の家臣となって以降は、殆ど三好家と連絡を取っていない。それであるにも拘らず、今更ながらに三好義継の行動に影響を与えたと聞かされても戸惑うだけでしかなかった。 


「え……っと。 それは、いかなる意味でしょうか」

「釣竿斎と政勝が、安宅信康あたぎのぶやすの恭順のおりに取り次ぎをしたであろう。その際に出た信康の言葉、それが原因だ」

「……あっ! 確か「久秀は信用出来ん!」でしたか」

「うむ、それよ。義継は苦虫を噛み潰したような顔で、言っておったわ」

 

 その時の事を思い出したのか、織田信長は笑い出す。 一しきり笑った後で笑みを止めると、一転して真面目な顔になった。その理由だが、誰を派遣するかいうことに他ならない。武田信玄が自ら軍勢を率いて出てきているのだから、織田信長が行けばいい。しかし、事はそう簡単にはいかなかった。

 ここで織田信長が本拠地である美濃国を空けると、ある人物が動くからである。誰であろうそれは、足利義昭あしかがよしあきに他ならなかった。

 こたびの武田勢の動きに関しても、義昭が絡んでいると織田信長も義頼も見ている。その状況で決戦を行うと確信出来なければ、織田信長自ら動くのは少々危険だった。となれば、誰が向かうのかということとなる。事実、織田信長の名代となるので、胡乱な者を向かわせる訳には行かなかった。

 そうなると、おのずから人選が絞られる。織田家重臣級は間違いないとして、しかも武田勢と相対する徳川家に対しても失礼に当たらない人物としなければならないからだ。この場合、柴田勝家しばたかついえが一番手っ取り早い。彼は「掛かれ柴田」などとあだ名される程に戦に強いし、織田家重臣でもあるからだ。

 しかし、東濃に武田の軍勢が来ると予想されている時点でその選択は出来ない。そうなると、他を考えなければならい。そこで次の候補として名が挙がったのは、佐久間信盛さくまのぶもりであった。

 彼は最近、戦に出ていないので動くこと自体に問題はない。しかも、信盛は織田家筆頭家臣であり、徳川家に対する援軍の大将としては不足などとはならない人物であった。


「しかし徳川には、武田を押さえていたという義理もある」

「ですが、現時点の情勢では公方(足利義昭)様を放っておくわけには参りますまい」

「やはり……致し方ないか」


 織田家と盟約関係にある徳川家の危急存亡の時に、盟約関係の当主である織田信長が軍を率いて救援に向かう。実現できれば、結果いかんに係わらずこれ以上の手はまずない。相手の家に対する義理立てにもなるし、恩義も感じることは必至であるからだ。

 しかし、京に居る足利義昭を放って置く訳にもいかないのもまた事実である。結局のところ、義頼の言う通り信盛を送るしかないと言うのが現状なのだ。そう内心で決断した織田信長は、佐久間信盛を呼び出した。

 そして直々に、徳川家に対する援軍の大将を命じる。 主から拝命した佐久間信盛は、直ぐに軍勢を集めるべく織田信長の前から辞したのであった。

 こうして佐久間信盛が軍勢を招集する為に消えると、織田信長は部屋の傍らに下がっていた義頼を再度呼び出す。そして、丹波国での首尾を褒めたのである。いきなりの事に一瞬うろたえたが、直ぐに思い至った義頼は言葉を返していた。

 さてこの丹波国での話なのだが、時期で言えば義頼が越前国に進撃した浅井長政あざいながまさへの援軍を率いて出陣する前まで遡る。織田信長は、彼と明智光秀あけちみつひでの両名に丹波国人の調略を命じていたのだ。

 しかし、義頼は越前国に出陣しなければならない。そこで彼の半ば代理として明智光秀と共に丹波国に係わる事になったのが、甥の大原義定おおはらよしさだであった。すると彼は、主である義頼の許可を得た上で本多正信を丹波国へ派遣する。その彼が向かったのは、波多野家重臣の籾井綱重もみいつなしげの元であった。

 丹波国内の源氏に繋がる国人は大抵清和源氏の流れを汲んでいる。しかしその中にあって、籾井氏は前述した清和源氏の流れではなく近江源氏佐々木氏の流れを汲む一族なのである。そればかりではない。 何と籾井綱重は、現波多野家当主の波多野秀治はたのひではるの妹を妻としていた。

 つまり籾井綱重は波多野家の重臣であると同時に、波多野秀治の義理の弟に当たる人物となる。丹波国人たちの筆頭と目されている波多野家を説得するにおいて、十分と言える資格を持ち合わせた者だからだ。

 義頼からの書状と共に現れた本多正信に対し、籾井綱重は賓客として遇する。使者と言う事もあるが、何より近江源氏宗家に当たる六角家当主の腹心が、当主の書状と共に現れたのだからこの待遇も不自然ではなかった。


「……ふむ……なるほど。左衛門佐(六角義頼ろっかくよしより)殿は、織田につけと申されるか」

「はい。織田家の勢いは、火を見るより明らかです。ここは波多野家の為にも、織田家に付くべきかと」


 義頼からの書状を読み終えた後で尋ねてきた籾井綱重に対し、本多正信はそう一言答えてから言葉を切る。それは返答を待っているとも、促しているとも感じられた。

 しかし一方で籾井綱重は、瞑目してじっと考え込んでいる。何せ彼の考え一つで籾井家だけではなく、ひいては丹波国人の命運すら左右しかねないのだからその反応も分からなくもなかった。そして、本多正信も分かっているのであろう。彼は身動ぎ一つせず、ただひたすら静かに籾井綱重の返事を待っている。 静かであるにも拘らず重いと思える空気が部屋に漂っていたが、やがて考えが纏まったのか、綱重は閉じていた目を開けると自身の考えを正信へ告げた。


「……そして近江源氏宗家の六角家は、弾正大弼(織田信長)殿の同腹妹の婿か……良かろう本多殿、殿を説得致そう」

「おおっ! 真にございますか!! 籾井殿、感謝致します!」


 その後、籾井綱重は本多正信と共に八上城に居る波多野秀治を尋ねると彼を粘り強く説得する。本多正信と籾井綱重の言を黙して聞いていた波多野秀治は波多野家の事、また丹波国の事を考え最終的には二人の説得に応じたのだった。


「分かりました本多殿。波多野家は、織田に付きましょう」

「真にございますか!!」

「殿! 御英断にございます」 


 波多野秀治の判断に、本多正信と籾井綱重は喜色を表す。そしてこの波多野秀治の決断は、丹波国内のもう一の雄である赤井家を動かすこととなったのである。しかしてその説得は、思いの外簡単に進む。その事態に波多野秀治は無論の事、籾井綱重も本多正信も驚きを隠せなかった。

 だが、赤井家があっさりと織田家へ靡いたのは勿論訳がある。それは、昨年に起きた山名宗詮やまなそうせん山名祐豊やまなすけとよ)が領内に攻め込んだことであった。

 この時、ほぼ間をおかずに織田信長は援軍を寄越している。この援軍は、宗詮が裏切ったと感じた織田信長が怒りに任せて送った物であるが、それでも援軍は援軍である。しかも間髪入れなかったことで、赤井家当主の赤井忠家あかいただいえと彼の後見役であった赤井直正あかいなおまさはとても恩義を感じていたのである。その上、忠家の母親と直正の先妻は波多野秀治の養父に当たる波多野元秀の娘であり、そのような経緯もあって赤井家は波多野秀治の決定に従う意向を示したのだ。

 こうして波多野家と赤井家という、丹波国における二強の家が織田家に付いた事実は大きい。織田家に付くか迷っていた残りの丹波国人たちも、まるで掌を返したかの如く続々と織田家へ付く為に調略をしていた明智光秀の誘いに応じたのであった。


「とはいえ、まだ油断はできん。その意味でも、俺が残らざるを得ないだろう」

「…………」


 そんな織田信長の言葉に対して、義頼は沈黙を返答とした。

 いかに主君のげんとはいえ、流石に勧誘しそれに応じた国人達を未だ警戒している言葉に同意する訳にはいかなかったのである。そんな義頼の態度に織田信長は小さく微苦笑を浮かべたが、直後にはその表情も消えていた。

 そこにあるのは、主君としての顔である。義頼もその変化は敏感に感じ取ったのか、居住まいを正したのであった。

 

「さて義頼。その方はすぐ近江へ戻り、兵を率いて信盛の後を追え」

「御意」


 佐久間信盛が率いる第一陣といえる軍勢は、兵が集まり次第出陣をする。そして義頼が率いる言わば第二陣と言える軍勢は、率いる義頼の他に森可成もりよしなり森長可もりながよしの親子、そして佐々成政さっさなりまさ不破光治ふわみつはるという越前国に向かった者たちが所属することとなった。

 程なく観音寺城に戻った義頼は、本多正信と馬淵建綱が次の有事を警戒し敢えて解散をさせていなかった近江衆と甲賀衆と伊賀衆を率いて出陣する。その途中で森可成たちと合流してから、佐久間信盛を追うようにして遠江国へ向かって行った。

 この織田信長が大軍を遠江国に送ったという報告は、京の足利義昭にも届く。その報告を二条城の一室で聞いた彼は、狂喜した。出陣せずに岐阜に残った織田信長の存在は忌々しいが、織田家の兵の半数以上が徳川家康とくがわいえやすへの援軍に向かっている。この状態は足利義昭にとって、千載一遇の好機に見えた。

 何よりこの機を逃せば、次がいつとなるのか分からない。ならばこそ、ここは一気呵成に動くべきだと考えたのだ。しかし、松永久秀は首を振って反対する。半ば軍師か知恵袋と言える存在となっていた男の反応に、足利義昭は眉を寄せて不快を表す。すると松永久秀は、己の考えを伝えていた。


「公方様。まだ織田の主力と武田家の軍勢が、ぶつかった訳ではございません。もしこの状況下で公方様が旗を上げたならば、信長は兵を引かせるでしょう」

「ならばどうする」

「武田と織田・徳川の勝敗を見てからでも遅くはありません。両者の結果が出るまでは、静観する方が得かと思われます。どの道、織田と武田とぶつかれば、勝敗に関わらずどちらにも損耗は出ましょう」

「なるほど。力を落とせば、こちらの言葉に従うか」

「御意」


 松永久秀の言葉に、足利義昭も納得した。

 実のところ、これこそが足利将軍家が得意としたやり方である。足利将軍家を頂点とした幕府であったが、その成立過程の為に将軍家に権威はあっても権力と言うか実質の力があまりなかったのである。 その為、将軍の言に従わない有力家臣と言うのが少なくなかったのだ。

 そこで足利将軍家は、謀略を持って家臣の力を削いできた。ある有力家臣に加担し、さも大事にしていたと見せながら最後の最後で梯子を外す様な真似をしたことなど枚挙がない。 だがそれぐらい行わなければ、押さえきれなかったのが事実であったのだが。 

 何はともあれ松永久秀の真意読み取った足利義昭は、振りあげた拳をどこに落とすでもなく再び引っ込められたのである。


「ふふふ。高みの見物か……これは良い。せいぜい織田の軍勢があがくのを肴に、酒を飲むとするか。 のう久秀」

「はっ」


 実に晴れ晴れとした表情を浮かべながら、足利義昭は酒と肴を用意させるのであった。





 その頃、徳川家の救援に向かった佐久間信盛が率いている第一陣は、途中で邪魔などの横やりが入ることも無く、無事に徳川家康の居城である浜松城に到着していた。

 そして義頼率いる第二陣なのだが、徳川家の将である菅沼又左衛門が城主を務める刑部城の付近まで進軍して来ている。しかしそこで、彼の元に一つの情報が入って来たのである。それは武田家の重臣、山県昌景やまがたまさかげの動きであった。

 何と彼が率いる武田家の別動隊が、井伊家の本拠地である井伊谷に攻め込んでいるという物である。山県昌景は井伊家の城である柿本城と井平城を電光石火の勢いで落とし、井伊家の居城である井伊谷城を包囲せんとしていたのだ。

 その様な報告を聞いた義頼は、少し考えた後で本多正信に尋ねた。いつもは留守居役として残る事が多いのだが、今回は同行させている。何と言っても正信は三河国出身であり、義頼率いる第二陣の中でも現地に詳しい男だからだ。

 また同じ理由で、元三河国出身の岸教明きしのりあきも同道している。本多正信と共に三河一向一揆で一向衆に味方した岸教明は、戦後に本多正信と同様に徳川家を出奔したのである。その後、彼は妻と幼い息子を連れて各地を放浪し、やがて近江国で居を構えた際に昔の誼で正信を介して六角家に仕官したのであった。

 因みに本多正信の代わりとして領地に残っているのは、沼田祐光ぬまたすけみつである。彼とそして留守居役の大原義定にも京極高吉きょうごくたかよしに伝えた事は話してあるので、京で万が一の事態が発生した暁にはすぐに織田信長へ知らせる手筈となっていた。


「ふぅむ……正信、井伊谷城は持ちこたえられると思うか?」

「山県と言えば名うての将、恐らくは無理かと」

「そうか。ときに正信、山県の思惑は何だと思う?」

「武田本隊への合流かと」


 正信の言葉を聞いた義頼は、少し考える。それから顔を上げると、情報を齎した甲賀衆の黒川久内くろかわひさないに山県勢の兵数を尋ねた。


「はっきりした数は分かりませんが、凡そ数千余ぐらいかと」

「ならば上手く奇襲を掛けられれば、補殺出来る可能性もあるな……正信、右衛門尉(佐久間信盛)殿と徳川殿に使いを出せ! 我らは山県勢とあたるとな」

「御意」

「それと、井伊谷の女城主殿にもだぞ。敵と間違えられては叶わぬのでな」

「承知しました」


 義頼は使いの者を浜松城の徳川家康と佐久間信盛、そして井伊谷城主の井伊直虎いいなおとらに出すと刑部城を出陣した。

 因みにこの井伊直虎だが、女地頭とも言われた女性にょしょうの身でありながらも井伊家の家督を継いでいる人物である。先代であり婚約者でもあった井伊直親いいなおちかが亡くなった際、家督を継ぐべき嫡子の虎松とらまつが僅か二歳と幼かった為にいわば繋ぎ役として家督を継いだのである。何といっても井伊直虎自身が井伊宗家の者だったので、その動きに対して家中から反対があまり出ることはなかった。

 しかしながら、その後に井伊直親の妻が再婚してしまう。その為に虎松が井伊家の家督を相続する権利を失ってしまい、彼女は今もって井伊家の当主を務めていたのだ。

 そのような井伊家の事情は取り敢えず置くとして、義頼からの書状が届いた浜松城では、佐久間信盛と徳川家康が揃って届けられた文を読んでいた。だが二人の顔は、対照的である。佐久間信盛は眉を顰め難しい顔をしていたが、その一方で徳川家康は喜色が浮かんだ顔をしていたからだ。


「左衛門佐め、勝手な真似を」

「ですが佐久間殿、我らとしては助かります」


 織田家から多数の援軍を得てかなりの余裕が生まれた徳川家であるが、それであっても井伊谷に兵を派兵することは出来ずにいた。二俣城攻めの為に陣取る武田勢が邪魔で、救援に向かうには難しかったからである。そんな徳川家にとって、義頼の行動はあり難い以外の何物でもなかった。


「……むぅ……では、徳川家からの正式な要請、という事で宜しいか?」

「はい」

「そうか。 徳川殿が認めるというのならば、拙者から述べるべきことはありませぬ」

「では拙者から六角殿に、一筆認めましょう」

「そうですな。徳川家よりの依頼であるならば、徳川殿からの書状があった方が良ろしいでしょう」

「では早速にも」


 こうして義頼の元に、徳川家康からの書状が届くこととなる。これにより義頼の行動は、徳川家からの依頼としての裏付けがなされたのであった。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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