第六十八話~栃ノ木峠攻略~
第六十八話~栃ノ木峠攻略~
それは、幾度か開かれた軍議の席で起きた事であった。 此処二、三回の軍議の度に半ば喧嘩腰となっていた義頼と浅井長政が、ついに衝突したのだ。
いよいよ策が始まったと事情を知る者達は思ったが、しかして思わぬ方向へと進んでしまう。 共に二十代の若さ故であろうか、口喧嘩では収まりきらず取っ組み合いの喧嘩を始めてしまったのである。 それでも武器を抜く愚かさまでは気に回ったのであろう、二人は腰の物を家臣に投げてから始めていた。
先制は義頼である、彼は踏み込み懐に入ると腹へ拳を叩きこむ。 思わず呻いた長政だったが、歯を噛みしめると横っ面を殴り飛ばした。 まさかの反撃に、思わずたたらを踏みながらも顔をさする。 痛いのは長政も同じであるのか、彼は腹を押さえて蹲っている。 そのお陰で、追撃などはなかった。
暫く睨み合っていた二人だが、痛みが治まったのか義頼が拳で殴り掛かる。 顔を狙ったであろう一撃だったが、長政は顔を倒す事で回避する。 だが避けきれなかったのか、顔を掠っていた。
しかし此処で長政は、伸ばされた腕を沿う様に進んで接近すると義頼の胸倉を掴む。 そのまま後ろに重心を掛けて倒れ込んだ為、義頼もつられてしまう。 最後には足を腹に付けると、長政は後方へ投げ飛ばす。 いわゆる、巴投げであった。
何とか受け身を取る体勢を崩れながらも取る事が出来た為、目立った怪我はない。 しかし止まりきらず、その体勢のまま床を滑っていた。
「やってくれたな、長政!」
「その方こそ! 義頼!!」
再度睨み合うが、先ほどの様に時を置かずに今度は長政が殴り掛かる。 直後、義頼も反応していた。 何と彼は、長政の拳に己の拳を合わせたのである。 但し、正面からではなくやや下方から打ち上げる様に拳を繰り出していた。
そして、両者のほぼ中央で二人の拳が打ち合う。 だが、お互いの拳の軌跡が次の現象を生んでいた。 義頼の拳がやや斜め下からであった為であろうか、長政の拳が上方へ逸らされたのである。 そこに生まれた隙に対して踏み込むと、正面から長政の体に手を回した。
次の瞬間、抱え上げると後方の床に投げつける。 長政はかなり大柄な男であったが、義頼は放り投げるかの様に投げ付けていた。 すると長政は数度転がり、壁にぶつかったところで漸く止まる。 軽く頭を振って意識をはっきりさせると、義頼を睨みつけていた。
「あー、馬鹿らしい。 やってられぬわ! 退くぞ、建綱」
「……へ? あ、殿! お、待ちください」
当初、口喧嘩で終わる予定であったにも拘らず始まってしまった取っ組み合いに唖然としてしまい、思わず六角家と浅井家の家臣の両方で止める機会を逸してしまっていたのだ。 その為、此処まで殴り合いが行われてしまったのである。 だかその殴り合いも、義頼が一方的に終わりを告げる。 彼は完全に固まっていた家臣達の中から代表する形で建綱へ声を掛けると、踵を返していた。
すると硬直から解けた建綱が、慌てた様に軍議の間から出て行く義頼を追い掛ける。 彼に続く形で、他の六角家家臣も硬直から解け追い掛け始める。 しかし、義頼が出て行く前に丹羽長秀が声を掛けていた。
「ま、まふぇ……ごほん。 待て! 左衛門佐(六角義頼)! そなたは援軍の大将、勝手は許されぬ」
「ならば五郎左(丹羽長秀)殿が代わりを務められるがいい!」
それだけ言うと、今度こそ義頼は出て行く。 そして主に従う様に、建綱ら六角家家臣も出て行く。 残ったのは浅井長政と浅井家家臣、それから義頼を除く織田家からの援軍諸将であった。
彼らも今回の策については聞いていたので、此処二、三回の軍議で義頼と長政の間がだんだんと険悪になって行く様な感じとなる事は理解していた。 しかし、まさか殴り合いになるとまでは思っていなかったので思わず唖然としてしまったのである。 かろうじて長秀が声を掛け、策自体は完成していたのが救いであった。
兎にも角にも義頼は、自陣に戻ると早々に兵を纏めて敦賀より離れたのである。 向かう先は海津であり、ここで湊に停泊させている船に乗るのだ。
後は琵琶湖を進み、頃合いを見計らい行先を変える。 その為の手筈も、既に整えられているのだ。
「しかし、いてててて……」
義頼は馬に乗りながら、顔を押さえる。 すると、痛みがぶり返してくる。 そこは長政より殴られた場所であり、義頼の頬は少し腫れ上がっていた。
「全く……殴り合いまでやらなくても、宜しいではありませぬか」
「そう言うな、建綱。 それにあれぐらいやれば、朝倉の者も信じるだろうさ。 のう、孫六」
「はっ。 ほぼ間違いないと。 事実、あの場には朝倉家の手の者が居ました。 そしてそ奴は、殿と備前守様とのやり取りから一刻もしないうちに木の芽峠方面に消えました。 無論、態と見逃したのですが」
『えっ!?』
馬淵建綱からの苦言に対して義頼がそう切り返ししつつ孫六に同意を求めたのだが、その孫六から予想だにしていなかった事を聞かされた。 確かに長政とのいがみ合いは、朝倉家の油断を誘うものである。 その策に効果があったと思われる事態が起きた事は、非常に喜ばしい。 だがその結果を当たり前の様に聞かされては、流石に驚かざるを得なかった。
思わず孫六の顔を見つつ硬直してしまった義頼と建綱を背に乗せ、二人の愛馬が行軍の速度に合わせつつ歩みを進めている。 両者が愛馬とするぐらいなので、彼の馬たちも頭がよかったのは幸いであった。
そして彼らの後方では、何故か漫才じみたやり取りをしている義頼らを見て笑いを抑えつつも押さえきれない者達が肩を震わせている。 それは沼田三兄弟や三雲兄弟、それに山内一豊や寺村重友などであった。
「ま、まあ兵部少輔(馬淵建綱)殿。 これで殿が言われた通り、間違いなく朝倉勢は信じる事でしょう」
「それは孫六から意表を突く形で齎された報せでそう思えるが……であったとしても殴り合い「ああ。 あれは備前守殿と事前に打ち合わせたんだ」は……『はあっ!?』」
まさかの言葉が義頼の口から漏れ出た事に、建綱だけでなく取り繕う様に声を掛けた木村定重からも驚きの声が上がった。
彼は六角承禎がまだ六角義賢と名乗り六角家の当主を務めていた頃からの六角家臣であり、六角家が織田家に降伏した後は織田直臣となっている。 しかし義頼が伊賀国に領地を持つと、息子の木村重茲と共に織田直臣から義頼の家臣として再び六角家の旗の元に集う事を希望した男であった。
その定重と建綱が揃って驚きを露わにした訳だが、それも当然だろう。 あの取っ組み合いが実は事前に示し合わせた物だと聞かされたのだから。
「どうせ騙すのならば、より説得力があった方がいいと思ってな」
「……え、と……それはつまり、本気で対峙したと言われまするのか?」
「まさか、そこまでではない」
恐る恐ると言った感じで尋ねた建綱に、義頼は笑いながら否定の言葉を告げる。 そこに安心したのも束の間、続いて告げられた主からの言葉に建綱と定重はまるで石と化したかの様相を呈してしまったのだった。
「本気ならば、お互いがあの場で得物を抜いている。 だから、本気などではないぞ。 ただ、殴り合いは殆ど本気であった」
『…………』
「ん? どうした二人とも」
返事がない事に違和感を感じて、義頼は二人に声を掛ける。 しかし、彼らには答える術がなかった。
いくら説得力を持たせるからだと言って、本気で殴り合っていたとは思ってもみなかったのである。 だからこそ義頼が未だに頬を痛がっているのであるし、恐らく朝倉家の忍びと思われる者が信じて木の芽峠へと向かったのであると考えられた。
しかしその為に、同じ織田家家臣ならばまだしも他家の大名当主とほぼ本気で殴り合ったと言う。 建綱と定重が直ぐに反応できなかった事も当然と言えば当然であった。
「…………はぁ、分かりました。 結果として、苦肉の策かはたまた暗渡陳倉の策かという感じにはなっていますのでこれ以上言いません。 ですが殿、これからは自重して下さい」
「分かった分かった。 建綱、善処はしよう。 ところで祐光、今日は海津で泊りだな」
「はい。 その翌日には船で一度湖上に出てから途中で方向を変え、栃ノ木峠を目指します」
「分かった」
あからさまに話を逸らした義頼へ疑念の視線を向けたが、そもそも話を終わらせようとしたのは自身である。 建綱はどこか諦めた様に、溜息を一つ吐いたのであった。
その後、無事に海津へと到着した義頼は、沼田祐光の助言に従って町の外に陣を張る。 町中に入らなかった理由は、民衆に余計な心配りをさせない為であった。
明けて翌日、海津湊に停泊させてあった船に乗り込んだ義頼は敢えてゆっくりと琵琶湖の湖上を進ませる。 そして有る程度進んだところで、突如転身の命を出す。 行先は、尾上城のすぐ近くにある尾上湊であった。 程なく尾上湊で上陸すると、旗差し物などと言った見て何処の軍勢かを判断出来る様な物は全て隠した上で幾つかに分かれて北上する。 浅井家の留守を預かる宮部継潤へ事前に連絡を取っていた義頼は、首尾よく木之本の近くを抜けると刀根坂方面への別れ道に差し掛かった。 そこで一度軍勢を止めた義頼は、甲賀衆の望月吉棟と伊賀衆の藤林保豊を呼び出していた。
「吉棟、保豊。 その方達にはそれぞれ甲賀衆と伊賀衆を率いて、栃ノ木峠に築かれている砦に向かえ。 無論、やる事は分かっているな」
「夜陰に乗じて砦の門を開け、同時に搦め手を封鎖。 その後は城の外にて待機し、敵が逃げぬ様に致します」
「よし、行けっ」
『御意』
忍び衆を率いる望月吉棟と藤林保豊を送りだした義頼は、暫く二人に付き従って砦に向かう甲賀衆と伊賀衆を見送る。 やがて彼らが小さくなると、六角家と近江衆の将達を揃えた。
「我らは砦に夜襲を掛ける。 だが、その前に一つ言っておく。 敵の首など要らぬ。 砦を落とす事こそ、最大の手柄と思え!!」
『はっ』
「では静かに進むぞ、出陣」
『御意!』
義頼の軍勢は出来るだけ音をたてない様に注意しながら、朝倉家が近江国から侵入する者達から防衛する為に建てた栃ノ木峠の砦に向けて行軍を開始したのであった。
さて栃ノ木峠付近に築かれた砦を守るのは、朝倉氏の庶流である向久家であった。
その彼の元には、木の芽峠城に居る朝倉景健からの書状が届いている。 書状に記された内容とは勿論、義頼と長政が喧嘩別れをした事である。 そればかりか、援軍にきたはずの義頼が旗下の兵を率いて戦線より離脱した事が記されていた。
また、その後に義頼が軍勢を率いて進んだ地についても書かれている。 彼の軍勢は、敦賀を経由して海津へ向かったと記されていた。
「その後は、敦賀から海津へか……相変わらずの仲の悪さの様だぞ備後守(魚住景固)殿」
久家は、朝倉義景の命で共に砦の守将となっている魚住景固に書状を見せる。 景固は手渡された書状を最後まで読むと、首を傾げていた。
六角家と浅井家の仲が悪いのは、先刻承知である。 事実、過去に朝倉家から浅井家に援軍を幾度か送っているのだから知らない筈がないのだ。 しかしそれでも、景固には信じられない。 六角家がまだ織田家に降伏していなかった頃ならばまだしも、織田家に降伏してからはとんとその様な話を聞いていないからだ。
織田家の従属大名と織田家家臣と言う立場を配慮して義頼が、一歩引いているとも考えられる。 だがその様な事情があるにせよ、以前とは違い最近殆ど両家が対立しているなどと言う噂を聞かなくなっている。 景固としては、それだけでも疑うに値すると思えてならなかったのだ。
そこで彼は、あくまで己の考えであると告げてから砦の守将である久家に罠ではないかと進言する。 その話を聞いた彼は、始めは訝しげな顔をする。 しかしその後、笑い声をあげていたのだ。
前述した様に、六角家と浅井家の仲の悪さは周知の事実である。 それであるにも拘らず、断定ではないとはいえ疑いの目を向けている景固が滑稽に見えてしまったのだ。
「おいおい、備後守殿。 浅井と六角の仲が悪いのは、その方も知っておろうが」
「それはそうなのですが。 こう……釈然と致しませぬ」
「ふっ。 心配し過ぎだ、備後守殿」
「だといいのですが……」
しかし景固の懸念は、やがて現実の物となった。
それは、景健からの書状が届いた数日後の夜の事である。 栃ノ木砦の近くに潜んでいた甲賀衆と伊賀衆が、ついに動いたのである。 彼らは夜陰に紛れて砦への侵入に成功すると、素早く二手に分かれた。
藤林保豊率いる伊賀衆が大手門へと向かい、望月吉棟率い甲賀衆が搦め手門の方へと向かう。 彼ら伊賀衆も甲賀衆も、途中で数人の朝倉兵を闇討ちしながらも目的の場所へ到着した。
そこで彼らは、それぞれが向かった門番を静かに討ち取る。 すると吉棟は、搦め手門に小細工をしてから砦の外側に出ると辺りに潜んだ。 そして大手門に向かった保豊は言うと、静かに大手門を開けさせる。 それから火を着けた松明を動かし、義頼へ合図を送った。
すると保豊が送った合図を、伊賀衆の一人である中林忠昭が読み取り義頼へと告げる。 彼は頷き返すと、配を振り上げそして下した。
すると尼子衆の一人、神西元通が先鋒として砦に突入する。 後を追う様に残りの尼子衆が、そして義頼家臣の釣竿斎宗渭と弟の三好政勝が続いて突入した。
その一方でこの騒ぎを知った久家と景固は、はじめ何が起きたのか把握できなかった。
しかし小さいながらも聞こえて来る剣戟の音に、ただならぬ事態である事は察する。 そこで久家は急ぎ情報を集めようとしたが、その前に報せが飛び込んできた。 それによれば暗さにより不審な者らの確認はできないが、攻撃をしてくるのは間違いない。 ならばそれは、敵として考えてよかった。
しかもその仮想敵は、既に砦内に侵入している。 その時点でほぼ勝ち目はないと判断した久家は、急いで撤退を指示する。 その後彼は、敵が侵入してきているらしい大手門は諦めて搦め手門へと向かう。 しかし彼らが、搦め手門より逃げ出す事は叶わなかった。
その理由は、甲賀衆の施した搦め手門に対する小細工である。 吉棟は、搦め手門に対して簡単には開かなくする様な仕掛けをしたのだ。 その為、全く持って開かない搦め手門の現状を目の当たりにした久家の顔には焦りの色が滲む。 そしてその焦りは、兵達への破壊指示となった。
「ええいっ! さっさと開けろ。 必要ならば、壊しても構わん!」
「はっ」
砦の主から許可が出た以上、遠慮などする必要もない。 朝倉の兵達は、使えるありとあらゆる道具を使って搦め手門を壊していった。
細工とは言っても、簡易的な物でしかない細工しか施されていない。 そんな事もあり、搦め手門は程なくして壊されてしまう。 すると久家は、撤退の声をあげながら我先にと門から外に出ていった。
その行動に景固は一瞬呆気に取られたが「撤退の声をあげながら出て行っただけましか」と思い直す。 それから彼は、その場に留まり事実上の殿を務めながらも近くに居る朝倉兵を順繰りに逃がしていった。
「そこの者、名のある将とお見受け致す」
搦め手門近辺に留まり、逃げて来る味方の兵を砦の外へと誘導していた景固に誰何の声が掛かる。 しかも声の主は、三好政勝である。 その隣には兄の釣竿斎もおり、二人は相応の兵を率いていた。
もう逃がしている暇などない事を図らずも理解してしまった景固の表情は、悔しさに染まる。 しかし次の瞬間、景固を驚かす事態が起きる。 何と朝倉兵の一部が、まるで景固を守るかの様に釣竿斎宗渭と三好政勝兄弟との間に立ち塞がったからだった。
「魚住様! お逃げ下さい」
「な、何を言う! お前たちこそ早く逃げよ! 此処は拙者が抑えておく故」
「いえ、魚住様。 それは、聞けませぬ。 向様は逃げられましたが、魚住様は残り我らを逃がす様に心掛けてくれました。 そんな魚住様を放って逃げたら、越前者の名折れでございます!」
「お、お前達……」
景固は敵を前にしながら、思わず感動に打ち震えてしまう。 敵のそんな様子を見て釣竿斎宗渭と政勝の兄弟は、揃って苦笑を浮かべた。
それから間もなく、釣竿斎宗渭は戦場に似つかわしくない穏やかな声で景固に降伏の提案を行う。 それは受け入れれば、我が名に置いて他の者達を助命すると言う物であった。 その提案に景固は喜色を表し、政勝は非難の視線を向けながらも勝手に決めていいのかと詰め寄る。 すると更に深めた苦笑と共に、釣竿斎宗渭は口を開いた。
「あのな、政勝。 お主が言いたい事は理解できるが、今の情景を見て彼らを討てと?」
「うっ!」
釣竿斎宗渭の言葉に対し、政勝は言葉に詰まった。
彼個人としは、兄と同じで彼らを助けたいとそう思っている。 だが勝手に降伏を促してもいいのか、その一点が気になっているのだ。
その様に葛藤している弟に対し、釣竿斎宗渭が更に言葉を続けた。
「殿の命じた事はあくまで砦を落とす事、その事が叶うのであればむやみやたらに命を奪う事はなかろう。 そうではないか?」
「……おお! 確かに」
いみじくも釣竿斎宗渭が言った様に、出陣前に義頼は全軍に対して砦を落とす事が最大の手柄と言っていただけである。 決して、敵を殲滅しろとは一言すらも漏らしていないのだ。
その義頼の言葉を思い出した政勝の表情に納得したのを見た釣竿斎宗渭は、景固に改めて視線を向けると返答を迫る。 すると景固は、兵の安全と引き換えに降伏を了承すると伝えた。
景固が降伏すると、この事は保豊の命で朝倉兵に変装した伊賀衆の手によって抵抗を続けている朝倉の兵達にも伝播する。 程なくして、残りの朝倉兵も神西元通や釣竿斎宗渭と三好政勝に降伏するのであった。
さて話を移し砦より逃げ出した久家だが、これで安心とはならなかった。
なぜならば現在、誰とも分からない者達からの襲撃を受けているからである。 久家が砦より何とか脱出し、一息ついたのもつかの間の出来事であった。
幾らすぐ逃げ出したと言っても、彼について来た兵はいる。 そんな少数の兵達に周りを警戒させて小休止をしていた久家だったが、その数少ない兵の一人が突如倒れたのだ。 それでなくても敏感になっていた久家らは、すぐに己の傍らに置いてあった刀を抜いて、当たりを警戒し始める。 しかしながら光源となり得るのは小さな焚火一つであり、周囲全てを照らす事は出来ない。 その様な状況の中、一人また一人と兵が倒れていった。
すると久家の周りを守っていた兵達は、我先にと逃げ始める。 慌てて声を掛けて押し留め様としたが、恐怖にかられている兵が言う事を聞く筈もない。 兵達は全て逃げ、この場には久家一人となっていた。
「ば、馬鹿者っ! 主を置いて逃げるなど……こら待てっ、待てと言うに」
一人残された久家だったが、まるで弾かれたかの様に走り始める。 すると、久家の前方に人影が見える。 思わず味方かと安心したが、突如後方に気配を感じた気がしたので思わず振り返ろうとしたがそれは叶わなかった。 そこに居たのは、朝倉の兵ではない。 甲賀衆を率いる、望月吉棟その人だったからだ。
急所に拳が叩き込まれた久家は、後ろを見る事無く意識が暗転する。 何が起こったのか分からず彼は、地面に倒れ込んだのであった。
「望月様」
「しかと処理はしたか?」
「はい。 砦より逃げ出した者、全て処理しました」
「ならば良い。 では、この者を連れて殿の元に戻るぞ」
『御意』
配下の甲賀衆に気絶させた久家を抱えさせると、吉棟は砦の方に戻る。 吉棟が戻る頃には砦の制圧も終わっており、義頼は砦内の建物に入っていた。 そこに、甲賀衆と気絶している久家を伴った吉棟が現れる。 義頼が首尾を聞くと、気絶中の久家を義頼の前に転がした。
「砦の守将、捕えましてございます。 また、木の芽峠方面に逃げおおせた者もおりませぬ」
「そうか。 大儀であった」
「御意」
その様な扱いを受ければ、流石に久家も目を覚ます。 しかし気絶した前の情景と明らかに違う為、何処にいるのか理解できない。 それでも辺りを確認しようと視線を巡らした久家の視界に、何人かの人物が写り込む。 特に一人には見覚えがあり、その者との扱いの違いから憤慨し声を張り上げた。
「何故わしが縛られ、備後守殿は縛られておらぬのか!」
そう、部屋の上座に居る義頼の前には景固も居たのだ。
しかも久家がいみじくも言った通り、景固は拘束されていない。 但し武装は解かれており、義頼自身は藤堂高虎などと言った馬廻り衆に守られていると言う状況であった。
すると、蔑んだ様な視線を向けつつ義頼は久家に答えていた。
「備後守殿は、殿として最後まで砦に残り兵を逃がしていた。 その方の様に、早々に逃げ出した者とは違う扱いとなるのは当然であろう」
「ぐぬぬぬ! 庶流とはいえ仮にも朝倉一門に名を連ねるこの向久家にこの仕打ち、どこの下郎か!!」
「あっ! 駿河守(向久家)殿!!」
「何だ、備後守殿!! そもそもなぜそのほ……!」
その言葉を聞き、既に義頼の名を聞いていた景固が慌てて止めようとしたが遅かった。
止められた事に対し景固へ反論しようとした久家だったが、上座に居た義頼がゆっくりと立ち上がったので何とは無しに視線をそちらへ向ける。 その瞬間、義頼の放つ雰囲気に思わず声を止めてしまっていた。
久家に声を止めさせた義頼の雰囲気、それは氷すらをも凌駕する様な冷たさを孕んでいる。 それだけではない、彼から向けられている視線は、その雰囲気すらも上回っていたのだ。
先程までとはあまりにも違う雰囲気に飲まれた久家は、言葉を発する事無く黙って見上げている。 いや、口は動いているが言葉になっていない。 そんな久家を黙って見降ろしていた義頼は、視線と雰囲気を緩める事なく口を開いた。
「仮にも近江源氏嫡流の某に、言うにこと欠いて下郎とはな」
「……なっ! そ、それでは貴公は六角殿か!」
「如何にも。 近江六角家当主、六角左衛門佐義頼だ。 さて向殿、但馬朝倉氏の分家越前朝倉氏。 しかもその庶流如きが、何様のつもりか! 身の程を弁えよっ!!」
自分が馬鹿にされる事で、自分に仕えている家臣や領民が馬鹿にされる。 それが義頼には、許せなかった。
その気持ちが彼の放つ雰囲気と視線、そして怒声に滲み出たのである。 そんな義頼の怒りをまともに浴びた久家は、それ以上言葉を紡ぐ事は出来なかった。
「して……駿河守殿であったな。 まだ、何か言う事はあるか?」
義頼から冷たい目で見据えられた久家は、慌てて首を何度も振った。
すると義頼は、ゆっくりと床几に腰を降ろす。 同時に義頼から放たれていた雰囲気も薄れ、張りつめていた空気も多少は緩んだ。
その事に安心した久家だったが、その途端向けられた視線に再び硬直する。 彼の視線からまだ冷たさは消えておらず、その事が未だに怒りを覚えている事に気付かされたからだった。
「なかなかに許せぬ事を言ってくれたが、我らを知らなかったのもまた事実」
「し、しょの通り」
「故に此度は聞かなかった事に致そう」
「そ、そうでありますか」
「だが次は無い、そう思え」
砦を夜襲するに当たって、一切旗差し物などは出していない。 だからこそ久家や景固は、襲撃して来た軍勢の正体が分からなかったのである。 その事を鑑み、此度だけは許す事にしたのだ。
しかしながら、釘を刺しておく事も忘れない。 その冷たい刃を連想させる様な義頼の言葉に、久家は黙って何度も頷く。 すると義頼の態度は一転し、まるで何事もなかったの様に言葉を続けた。
「備後守殿と駿河守殿だが、先ずは捕えさせていただく。 それ以降の事は、備前守(浅井長政)殿と相談の上となろう」
「そうですか……」
「安心なされよ、備後守殿。 決して粗雑には扱わぬ。 またその方に免じて、どこぞの失礼者もそれなりに扱おう」
景固に向けていた視線とは一転して、やはり冷たい目をしながら久家を見る義頼。 その視線を感じたのか、久家は一瞬だけ身じろいでいた。
その後、義頼は釣竿斎宗渭と三好政勝に景固と久家を預ける。 命を受けた二人が預けられた二人と共にこの場から消えると、家臣達の緊張が解けたのか空気が軽くなっていた。
しかし義頼はその様な事など意にも介さず、孫六を呼ぶ。 だが先ほどまでが先ほどまでだっただけに、鵜飼孫六の雰囲気はやや硬い。 そんな様子に苦笑を浮かべた義頼であったが、何もなかったかの様に孫六へ書状を差し出していた。
それは、長政宛の書状である。 そこには栃ノ木砦を落とした事や、何時頃に木の芽峠城を襲うかが認めてある。 その様な書状を孫六は内心安堵しつつ受け取ると、即座にこの場から消えて長政の元に向かった。
そして彼を送り出した義頼は、それから視線を家臣や近江衆へと向けると休む様に言う。 その命に従い彼らが消えると、義頼もまた明日からの為に体を休ませるのであった。
どちらかと言えば温厚な義頼ですが、怒りました。
ご一読いただき、ありがとうございました。




