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第四話~預かり~


第四話~預かり~



 六角家と約定を交わした浅井長政あざいながまさは、浅井の兵を率いて駐屯していた肥田城から出立した。そんな彼の表情は、朗らかである。しかしそれも、無理からぬことであった。

 観音寺城を落とすのは叶わなかったが、愛知川以東の地を一兵も損なうことなく手に入れたのである。浅井長政の気分が高揚するのも、当然だった。


「直経、六角家さまさまだな」

「殿。油断は大敵にございます」

「ああ、分かっている。というか、あそこで見ている六角勢の中に蒲生定秀がもうさだひでがいるのだ。そう簡単に、気を抜くなどできん」


 蒲生定秀は長政の祖父に当たる浅井亮政あざいすけまさと義頼の父親に当たる六角定頼ろっかくさだよりとの戦で数多くの首を挙げるなど、戦においては大功を数多く上げている。恐らく、現役の六角家武将にあって一番浅井家に損害を与えている男であった。

 そんな男が、敵将として軍勢を率いている。とてもではないが、気を抜くなどできる筈もなかった。


「分かっておられるのであれば、何もいうことはありません。しからば、粛々と小谷城へ兵を引きましょう」

「そうだな」


 こうして彼ら浅井勢は、居城である小谷城へ凱旋するべく兵を率いて進軍を開始したのであった。

 その一方で義頼はというと、肥田城から小谷城へと向かう浅井勢をじっと見ていた。やがて彼らが宇曽川を渡るのを見届けると、蒲生定秀を呼び出している。そこで義頼は、彼に兵を預けて殿しんがりを任せた。

 浅井長政が今になって和議を反故にするとは流石に考えていなかったが、それでも六角家と浅井家が犬猿の仲である以上は警戒をしない訳にはいかない。そのことは、浅井家と幾度も戦を重ねた蒲生定秀も良く分かっている。だからこそ義頼は、彼に殿を任せることにしたのだ。


「承知致しました。万が一、何かがあったとしても、必ず拙者が抑えて見せます。ですから殿は、安心して兵をお引き下さい」

「頼んだぞ」

「御意」


 義頼は、もっとも信頼する蒲生定秀に殿を任せ、観音寺城に向けて兵を引いた。

 その観音寺城には、六角承禎ろっかくしょうていが日野城より移動してきている。彼は今回の一件が一応でも鎮静化したと連絡を受けると、即座に日野城を出て観音寺城へ移動していたのだ。

 なお現六角家当主の六角義弼ろっかくよしすけだが、彼はまだ日野城に残っている。彼としては直ぐにでも観音寺城へ戻りたかったのだが、父親の六角承禎が移動させなかったのだ。

 今、下手に観音寺城へ戻ってしまうと、またぞろ文句をいわれかねないという懸念が拭い切れなかったからである。六角承禎よりその旨を聞いた六角義弼は、大いに不満を表情に表している。しかし、彼は父親から諭されていた。


「いいからいうことを聞け! 今は非常に微妙なのだ。お主が今観音寺城に戻ると、漸く静まった家臣が再び騒ぎかねん。そうなってからでは、手遅れになる」

「…………」

「良いな! しかと申しつけたぞ!」


 その直後、六角承禎は僅かな兵と共に日野城を出ると観音寺城へと向かったという訳である。そんな日野城より出立する父親の後ろ姿を、六角義弼は悔しげな表情を浮かべながら見送っていたのであった。

 それはそれとして観音寺城に到着した義頼は、兵を馬淵建綱まぶちたてつなに預けると六角館へと向かう。その足で義頼は、館の一室にいる兄の六角承禎と面会した。

 というのも、前述したように現在六角家を抑えているからである。何せ此度こたびの一件は沈静化しただけであり、終わった訳ではないのである。少なくとも後藤家と六角家の間で正式に約定が交わされなければ、六角義弼が観音寺城へ戻るのは難しかった。

 だからこそ六角承禎は、彼を日野城へ押し留めたのである。その代わりという訳ではないが、六角承禎彼が六角家当主代理を務めているのだ。


「兄上、ただいま戻りました」

「義頼、浅井家との和議についての仔細は聞いた。わしとしても文句はない、いやよくこの短時間で和議を結んだ。あっぱれである」

「はっ」


 六角承禎は、手放しで過剰なくらいに弟を褒め称える。これは浅井家が、この一件にもう係わってくることはないと六角家中に知らしめる為であった。


「それから高治の件だが 今用意をさせておる。数日以内には、文書の形で表すつもりだ。お主の提示した条件そのままでな」

「そうですか。お願い致します、兄上」

「うむ」


 その数日後、義頼が仲立ちするという形を取って後藤高治ごとうたかはるや彼と共に兵を挙げた平井定武ひらいさだたけらと、六角宗家の間で此度の騒動に対する文書が取りかわされた。その内容は六角承禎がいった通り、義頼が後藤高治達へ提示した条件そのままであったという。

 こうして後藤高治らとの間で文書を交わし目に見える形で騒動に幕引きをし、また浅井家の侵攻を和議の形で幕引きとした六角家は、早々に次の手を打つ。それは、後藤高治らとの約定でもある六角高定ろっかくたかさだの家督相続であった。

 六角当主代理を務める六角承禎と急遽彼の補佐を行う事となった義頼は、二人で語らい朝廷へ使者を派遣する。これは官位を取得する為の物であり、新たな六角家当主となる六角高定に箔を付ける為である。そして多額の献金と引き換えに、六角高定へ正五位上中務大輔の官位を賜ることに成功したのであった。

 その後、六角承禎と義頼はいまだ日野城にいた六角義弼を観音寺城へ戻すと、家督相続の儀を執り行う。此処ここに六角家の家督は、正式に譲渡されたのだ。

 そして弟へ家督を渡し先代となった六角義弼は、隠居を決断する。それに伴い彼は、名を六角義弼から六角義治ろっかくよしはるへと改めたのであった。


「高定。これで、わしの六角当主代理の役も終いだ。あとのことは任せるぞ」


 六角家当主代理として六角高定の家督相続に必要と思われる全ての手を打った六角承禎は、新たな六角当主となった息子へ引き継ぎともいえる言葉を伝える。すると六角高定は、神妙な面持ちをしながらもしっかりと頷いたのだった。


「はい、父上。至らぬかもしれませぬが、精一杯励ませていただきます」

「うむ。それから義頼、叔父として高定を頼むぞ」

「承知致しました、兄上」


 無事に六角家の家督相続を終えると、続いて後藤家の家督相続の儀を執り行う。これが六角高定にとり六角家当主となってから最初の仕事である事が、何とも皮肉が効いていた。

 それはそれとして、彼は義頼と共に後藤高治の相続の儀を行う段取りを整えていく。後藤高治の家督相続を六角家が主導することで、もはや六角家の後藤家の間にわだかまりはないと内外に喧伝する意味合いもあった。


「後藤喜三郎高治、そなたの家督相続を認める。また、従六位下壱岐守の官位を授ける」

「はっ」


 六角高定が後藤高治に与えた官位だが、六角家の新たな当主となる六角高定の官位を得るための朝廷工作を行った際に一緒に得た物である。元々壱岐守は、後藤高治の兄の官位であった。その官位を朝廷より改めて賜り、後藤高治へ与えたのである。有り体にいってしまえば、六角家からの詫びの意味合いを持っていた。

 この六角宗家と後藤家の家督相続、及び六角義治の隠居を契機として此度の騒動を原因として六角家より離反した者達は六角家に帰参し始める。しかし六角家より離反した者の中には、浅井家に与した者達もいる。その結果、六角家は領地と将の質、その両面で勢力が縮小したのであった。



 後に【観音寺騒動】と呼ばれることとなる一連の騒動が終わると、義頼は観音寺城から居城の長光寺城へと戻った。すると彼は、そのまま自らの部屋に籠ってしまう。義頼の筆頭家臣である蒲生定秀がもうさだひでと筆頭与力の馬淵建綱の心配をよそに、彼は此度の一件について考えていた。

 どうにか一部の六角家領地を引き換えとして浅井長政を引かせたことで騒動を決着させたとはいえ、彼の行動は下手をすれば非難を受けかねない物である。もっとも騒動が上手く終焉したことで、家中から何も声は上がっていないのだが。


「…………独断専行、我田引水。他に思い付かなかったとはいえ、そう取られても仕方がなかった。幸いにもそんな声は聞こえてこないが、けじめは着けておいた方がいいだろうな……よしっ!」


 義頼は両頬を平手で叩くと、蒲生定秀と馬淵建綱を呼び出す。彼が部屋に籠ったことでやきもきとしていた蒲生定秀は、即座に義頼の部屋を訪れた。


「殿! 如何されましたかっ!!」


 勢い尋ねて来る蒲生定秀に、義頼は思わず二の句が継げなくなる。たかが数日、それも部屋に籠って考えを纏めていただけでしかない。それであるにも関わらず、この心配である。幾ら蒲生定秀が義頼のもり役だったとはいえ、自分が主として貫禄が足りないのだろうかと内心で少し落ち込んでいた。そんな義頼の様子に気付いた馬淵建綱が、少し眉を寄せた後で義頼へと尋ねたのであった。


「……侍従(六角義頼ろっかくよしより)様、大丈夫ですか?」

「何でも無い! 気にするな!!」

「はぁ。 そういわれるのであれば、そう致しますが……ところで、我らを呼んだ理由をお聞かせくださいますか?」


 蒲生定秀に比べれば遥かに冷静な馬淵建綱が、用向きを尋ねた。義頼としても別に二人から心配して貰う為に、呼びつけたのではない。自身の今後の行動について、両名へ伝える為に呼び出したのだ。


「っと。そうだ定秀、それと建綱……わしは此度の騒動における責任を取って謹慎する」

「何ですと!?」


 義頼の口から出た言葉を聞いて、馬淵建綱が驚きの声を上げる。彼のそんな態度と声に少し落ち着いたのか、先程までとは違って幾分冷静となった蒲生定秀がやや間を空けた後で静かに義頼へと尋ねていた。


「……殿。謹慎するに至った理由を聞いてもよろしいでしょうか」

「そ、そうです。侍従様、理由、そう理由を聞かせていただきたい!」


 馬淵建綱の目から見ても、此度の騒動に対して行った義頼の行動に責任があるとは思えない。むしろ、若い身でありながらよくやったと褒めてもいいぐらいである。だからこそ、謹慎などといい出した義頼の真意が分からなかった。


「そうだな……一言でいえばけじめだろうな。今回の騒動に対して、俺は当主の交代をほぼ独断で決めてしまったといっていい。結果として兄上や義治殿の承諾も得たことで六角宗家の総意となった訳だが、それは殆ど事後承諾と言っていいだろう。だからこそ、けじめはつけた方がいいと思うのだ」

「何を言われます! 侍従様の働きがあったからこそ、此度の一件は短時間で収束したのです。その侍従様にけじめなど、必要あるとは思えませぬ」


 馬淵建綱の言葉に、義頼は笑みを浮かべる。自らが決めたこととはいえ、やはり庇ってくれる者がいるのは素直に嬉しいのだ。


「建綱。そなたのその言葉、とても嬉しい。だが、独断専行といわれても仕方ないのもまた事実である。その為のけじめだと、俺は考えたのだ」

「ですが侍従様……

「もうやめよ。兵部少輔(馬淵建綱)殿」」


 義頼の考えに反論して翻意させようと食い下がる馬淵建綱に対して、蒲生定秀は手を上げて彼がそれ以上に言葉を続けるのを止めさせた。

 義頼の傅役であった蒲生定秀が取った行動に、馬淵建綱は驚く。彼ならば、自分に賛同こそすれ止めるとは思ってもみなかったからである。そんな馬淵建綱を尻目に蒲生定秀は、義頼へ視線を向けると確認するかのような口調で尋ねた。


「殿。既にお決めになっているのですな」

「ああ、定秀。今更、考えを変えるつもりはない」

「そうですか……分かりました。拙者は、殿のお考えに同意致します」

「すまん」


 義頼は、同意した蒲生定秀に頭を下げて礼をいう。そんな二人の遣り取りを見ていた馬淵建綱は、やがて静かに首を振った。


「ふぅ。どうやら侍従様におかれましては、何を言ってもお気持ちを変えるつもりはないようですな……分かりました、拙者ももう反対は致しませぬ」

「建綱、感謝する」  


 そんな馬淵建綱の言葉に、義頼は頭を下げた。

 その後、義頼は馬淵建綱以外の与力衆と自らの家臣に対して、二人に告げた旨を伝える。彼らからしてみれば、正に寝耳に水であったといっていいだろう。その為か思わずといった感じで、永原重虎ながはらしげとあがにじり寄る。しかし彼の行動は、義頼の筆頭家臣である蒲生定秀と筆頭与力である馬淵建綱によって遮られたのであった。


『止めよ』

「藤十郎(蒲生定秀)殿! 兵部少輔殿!! 止めよとは如何いかなる仕儀か!」


 永原重虎の言葉は、他の与力衆の言葉であるといっていい。その証拠に、山岡景之やまおかかげゆき高畑源十郎たかはたげんじゅうろうなどは頻りに頷いていた。


「それは殿が、既にお決めになったからだ」

「藤十郎殿の申す通り! いいか、そもそも侍従様が謹慎すると言われた理由はだな……」


 ここで馬淵建綱は、彼が義頼から説明された言葉そのままを彼ら与力衆へと伝える。始めは厳しい表情を浮かべながら聞いていた彼らであったが、義頼が謹慎する決断に至った理由を聞くとその表情も軟化していた。

 正直にいえば、与力衆もそして文句こそなかったが義頼の家臣たちも納得したとはいいづらい。しかし、理由その物には否定できるものではないとの理解を示していた。


「……確かに、そのようにいわれる可能性がないとは言い切れませぬか…………」

「そうだ。だからこそ、先に行動を起こしておくのだ」

「分かりました。納得したとは到底いえませんが、もう反対は致しませぬ」


 ついには永原重虎も、他の与力衆や家臣も不承不承折れたのであった。



『何だと!』

「それは真か!」


 だが義頼の家臣と与力衆徒は別に、彼の行動に驚きの声を上げた者達がいる。それは、観音寺城の六角承禎と六角高定と六角義治であった。

報告を聞き先ず驚きを表した彼らであったが、すぐに事情の説明を求めて義頼を観音寺城へ召喚しようとする。しかしその前に、蒲生賢秀がもうかたひでが観音寺城を訪問した。始めは面会をあとにしようとした三人であったが、よくよく聞けば蒲生定秀の意向を受けた訪問であるらしい。その理由を聞いた六角承禎と六角高定と六角義治は、急遽蒲生賢秀を呼び出すことにした。

 一方、観音寺城へ訪れた理由を告げた蒲生賢秀だが、彼は控えの間でじっと呼ばれるのを待っていた。だが彼の予想よりも早く、呼び出される。そこで三人と相対した彼であったが、蒲生賢秀は臆する事無くただ淡々と義頼が謹慎にまで至った経緯を告げる。ことここに至り、話を聞いた六角承禎と六角高定と六角義治の三人は、漸く理解したのであった。


「なるほど、そういうことか。 賢秀、ご苦労だった」

「はっ」

「…………父上、如何致しましょうか」


 蒲生賢秀が義頼の謹慎する理由を告げたあとの部屋では、静かな時が流れている。 その後に六角高定の口から出た問い掛けに六角承禎は少し考え込んだが、やがて決断すると答えた。


「……仕方あるまい。高定、義頼の処罰を行う。それに、これで少しは気持ちが晴れるだろう。どうだ、義治」


 六角承禎に問われた六角義治は、不愉快そうに眉を顰めながらも父親に返答した。 


「俺はそこまで狭量ではありませんぞ、父上」

「ははは。すまんな。さて義頼の処分だが……」


 そこでおもむろに言葉を切った六角承禎は、蒲生賢秀の顔をじっと見た。

 彼から視線を向けられた蒲生賢秀だったが、その理由に全く見当がつかない。怪訝な表情を浮かべながらも、視線の理由を六角承禎へ尋ねた。  


「承禎様、何か?」 

「うむ。その方に一役買って貰おうと思ったのでな」

「拙者に一役……にございますか?」


 やはり理由が分からず、蒲生賢秀は眉を寄せる。そんな彼に対して六角承禎は、厳かといっていい雰囲気をかもしながら口を開いたのであった。


「うむ。義頼の身柄を、蒲生家に預ける」

「はぁ!?」

「その方の父が義頼の宿老を勤めている。その縁で、預けるのだ」


 鳩が豆鉄砲でも食らったかような顔をした蒲生賢秀だったが、やがて理解すると了承の意味を込めて平伏した。


「承知致しました。この蒲生左衛門大夫賢秀、侍従様をお預かりいたします」


 此処に蒲生家預かりとなった義頼の身柄だが、蒲生定秀たっての頼みで彼の別邸に置かれることとなる。すると蒲生賢秀は父の気持ちを汲んで、まるで賓客ひんきゃくをもてなすかの様に義頼を手厚く迎え入れていた。そればかりか、義頼の小姓として三男の鶴千代つるちよを仕えさせたのである。これは、人質という側面も持っていた。

 というのも蒲生家は現在、六角家に対して人質を出していない。そこで蒲生賢秀と蒲生定秀は、人質を要求していない六角家の面目は潰さずに人質に近い効果が得られる様、義頼に鶴千代を仕えさせたのだ。


「いいか鶴千代。そなたは小姓として、侍従様の御傍にお仕えするのだ」

「はいっ!」


 元気良く返事をする鶴千代。

 数えで僅か八歳でしかない鶴千代では、政治など分かる筈もない。ただ義頼は、若くして彼の弓の師匠である兄の六角承禎と同様に、日置流免許皆伝を持っている。その腕前に関しては、日置流宗家の吉田重高よしだしげたかですら認めていた。そんな義頼の傍に仕えられる事が、純粋に嬉しかったのである。


「嬉しそうで何よりだが、理由を聞いていいか?」

「侍従様は、出雲守(吉田重高よしだしげたか)様もおみとめになった……なられた腕前です。そのような方に仕えられるかと思うと……」


 年齢もさほど離れておらず、武芸の腕前は一廉ひとかど以上である。また、此度の騒動では主導して解決に導いている。そんな義頼に、ある意味憧れの様な気持ちを鶴千代は抱いていたのだ。

 そんな鶴千代の気持ちを理解した蒲生賢秀は、息子が不満に思っていないことに安堵する。すると彼は立ち上がり、鶴千代の肩に手を置いた。


「ならば、精一杯仕えてみよ。よいな鶴千代」

「御意!」


 やがて蒲生賢秀は、鶴千代を伴い義頼の元を訪れる。すると義頼は、鶴千代を見るとにっこりと微笑んだ。その笑顔に、鶴千代は安心する。憧れたとはいえ六角宗家の人間でもある義頼に仕えるという事実に、やはり緊張していたのだ。


「左兵衛大夫(蒲生賢秀)。そなたの子息、確かに預かる」

「はっ」


 このような経緯を経て小姓となった鶴千代を伴い義頼は、蒲生定秀の別邸で弓の鍛錬をしていた。しかし不意に止めると、脇に控える鶴千代を見る。不思議に思いながらも鶴千代は、義頼を見返した。


「鶴千代、弓を覚えたいか?」

「は?」


 義頼から唐突に投げ掛けられた提案に、鶴千代は思わず首を傾げる。その態度を見て彼は、言葉が足りていなかったことに気が付いた。


「ああ、すまん。余りにも唐突だったな。要は、弟子にならないかといっているのだ」

「よ、よろしいのですか!?」

「勿論だ。誘っているのだからな」

「お願いします!」


 何故なにゆえに鶴千代が嬉しそうなのか。その理由は、前述した通り義頼の腕にあった。

 日置流当代の吉田重高をして彼の腕前は認めているのだが、しかし義頼は彼の弟子ではない。それであるにも関わらず認めてしまう程、義頼の腕前は評価されているのだ。それこそ、一流派を担っても文句が出ないほどに。

 そんな義頼に、手ずから教わる好機である。それでなくても憧れに近い感情を義頼に抱いている鶴千代に、申し出を受けない理由が存在しなかった。

 間を開けることなく義頼からの申し出を鶴千代が受けると、義頼は改めて見る。そんな義頼の視線を受けていづらそうにしている鶴千代にじっとしていろと命じ、まるで観察するかの様な視線を鶴千代に向け続ける。やがて得心したのか、義頼は館の奥へ向かった。

 彼が訪れたそこは物置となっており、様々な物が雑多に置いてある。物置に入った義頼はそこにおいてある長持ながもちなどを幾つか探った後で、漸く目的の物を見付けた。それは、普通の弓より小さい弓である。その弓を持って鶴千代の待つ庭に戻ると、義頼は弓の調整を始める。幸いして壊れているところなどなく、弦を張れば問題なく使えた。

 それでも弓の張りや各節などの具合を、慎重に確認していく。そんな義頼の行動を、興味深げに鶴千代は見詰めていた。


「侍従様。それは、何をなされておられるのでしょうか?」

「ん? お前にやろうと思ったのだ」


 この弓は、義頼がまだ鶴千代と同年代だった頃に使っていた弓である。彼の師である六角承禎が子供でも扱えるようにと態々作らせたものなので、それゆえに大きさは、鶴千代が扱うには十分な物であった。


「ありがとうございます! 一生大事に致します!!」


 やがて調整も終わり、義頼から渡された弓を鶴千代は大事そうに胸へかき抱く。そんな鶴千代に優しげな眼を向けながら、義頼は鶴千代に弓を扱わせた。

 使用する上で問題はないのは分かっているが、実際に扱う者に合わせる必要がある。それに義頼が最後に扱ってから暫く時間がたっていることが、どれだけ影響するか分からないからだった。

 義頼から指示を受けた鶴千代は、多少悪戦苦闘しつつも弓を引いてみせる。その様子や実際に引いた鶴千代から意見を聞き、微妙な調整を行うと改めて弓を与えたのであった。

 この日より鶴千代は、義頼の小姓と言う立場だけでなく彼の一番弟子という立場も得ることとなる。義頼は最初の弟子となった鶴千代に厳しく、時には優しく弓を教えていく。 すると武の才があったのか、鶴千代は僅かな期間で腕を上げたのである。 

 この事には教えた義頼も驚きつつも、嬉しそうな雰囲気を醸し出す。そんな師匠の雰囲気に喜んだのか、鶴千代は更に鍛錬を積むようなった。そんな鶴千代の背中を、義頼は懐かしそうに見つめる。果たしてそれは、今の鶴千代の姿が義頼の小さかった頃と瓜二つであったからだ。


「鶴千代。もっと厳しくいくぞ!」

「よろしくお願いします!!」


 こうして主に鶴千代との師弟関係を深めつつ過ごしていた義頼は、そのまま年を越した。すると正月中には、蒲生賢秀の父である蒲生定秀を筆頭に義頼の家臣達が総出で年賀の挨拶にくる。これは六角高定も許していたこともあり、義頼は問題なく彼らからの挨拶を受けた。

 また、蒲生賢秀に従い蒲生家の者達も挨拶に現れている。この件を聞いた六角高定は苦笑を浮かべたが、特に問題にすることはしなかった。

 いや問題とするどころか、六角高定は父親の六角承禎にある相談したのである。


「父上。義頼の謹慎ですが、そろそろ解こうと思いますが如何でしょう」


 六角高定は正月を契機として、義頼の謹慎を解こうと考えていたのだ。

 年も変わったことであり、改めて六角家の再出発を思案したのである。それに今回の一件で、特に湖南の国人たちが義頼に心酔とまではいかなくても信を置いている感が強い。そんな国人たちの気持を無視していないと示す上でも、義頼の謹慎を解くのはちょうど良かったのだ。


「ふむ……そうだな。わしとしては反対などせん。それに今の六角家当主はそなただ、好きにやってみるがいい」

「分かりました。では父上、義頼の謹慎を解きます」


 松の内が終わると、六角高定からの使者が蒲生家を訪れた。

 使者を務めたのは、進藤賢盛しんどうかたもりである。彼より話を聞いた蒲生賢秀は、進藤賢盛と共に蒲生定秀の別邸に義頼を尋ねる。六角家当代の使者である進藤賢盛を迎え入れた義頼は、使者を上座に自身は下座に控えた。


「御屋形様の命である。六角侍従義頼、その方の謹慎を解き長光寺城主に復帰せよ」

「謹んで御命に拝し奉ります」


 その後、義頼は蒲生定秀の別邸を退出する準備を始める。すると、蒲生賢秀の妻子や蒲生家臣が手伝いに現れた。彼らの行動に感謝しつつも、義頼は準備を行っていく。元々持って来た物がそれほどないということもあり、数日のうちに別邸を出る準備を整えていた。


「賢秀。色々世話になった」

「御不満もあったかと思いますが」

「そんな事はない。十分であったぞ」

「はっ」


 それから義頼は、蒲生賢秀の妻の前に立つ。すると彼は、彼女に対して頭を下げた。

 蒲生賢秀の正室だが、実は後藤賢豊の娘なのである。六角義治の行った後藤賢豊と後藤高治兄の誅殺に対する最後の詫びでもあった。


「済まなかった。六角宗家の者として、それ以外の言葉もない」

「いえ。侍従様。後藤家も存続し、家督も引き継がれておりますので……」


 無論、彼女とて悲しみがない訳ではない。何といっても、父親と兄弟を討たれているのだからだ。しかしそれでも、家は残っている。そしてそれは、義頼の動きによる物なのだ。六角義治に対して怨みが無いとはいわないが、義頼に向けるべきでないことは彼女も分かっていた。


「そうか……それでも、申し訳なかった」

「もうよろしいです。これまでと致しましょう、侍従様。それより、息子のことをよろしくお願い致します」

「無論だ。弟と思い、一廉の武将に育ててみせる。それに、そなたの義父も家臣にいるのだからな」

「うふふふ。そうですわね。義父上が、甘い訳はありませんね」

「そういうことだ」


 それから蒲生賢秀の息子である蒲生氏信がもううじのぶ蒲生氏春がもううじはるらと言葉を交わした義頼は、鶴千代と共に別邸を後にする。程なくして到着した居城の長光寺城にて義頼は、家臣や与力衆の出迎えを受けたのであった。


「殿。謹慎が解かれ、拙者は嬉しく思います」

「ああ。定秀や建綱を始め、皆には心配を掛けてしまったな。だが、こうして戻ってくることもできた。これからもよろしく頼むぞ」

『御意!』


 異口同音に声を揃える彼らを前にして、義頼は薄らと微笑みを浮かべたのであった。


ご一読いただき、ありがとうございます。

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