第六十四話~但馬の鎮定~
但馬侵攻、決着します。
第六十四話~但馬の鎮定~
山名宗詮が籠る部屋の前に陣取る磯部豊直が憎々しげな視線を向けるその先では、一人の男が声を張り上げながら遺体を掻き抱いている。 遺体を抱いている男は八木豊信であり、その彼が掻き抱いているのは嫡子の八木信慶であった。
父親より僅かに先行していたのだが、その事が原因となり討たれてしまったのだから皮肉な話である。 そんな息子の遺体を抱き上げていた八木豊信であったが、やがて彼の視界に刀を構えている男の姿が見えた。 憎しみが籠っている視線であったが、磯部豊直からしてみれば自業自得としか言い様がない。 故に彼は、逆に八木豊信を睨みつけていた。
「おのれ、豊直! よくもよくもよくもっ!!」
「うぬの様な下賤な者でも、息子が死ねば辛いか」
「黙れっ! 我が息子の仇、取らせてもらう。 者ども掛かれぃ!」
「ふん。 来い、豊信」
そう言って大見えを切った磯野豊直であったが、主たる山名宗詮の籠る後方の部屋を守るのは彼と他に一人の兵でしかない。 そう、僅か二人と八木豊信が引き連れて来た十数名の戦いである。 勝ち目が無いのは、磯部豊直も先刻承知であった。
それでも彼ともう一人の兵は、退く事などしない。 山の如く、部屋の入り口を守っているのだ。 しかも彼らは己の体が切り付けられる事すら、反撃の要素としていたのである。 幾ら敵が動き回ろうが、攻勢を掛けなければ突破は出来ない。 目的が山名宗詮の首である以上、どうしても部屋を守る二人を攻撃して排除しない訳には行かないのだ。
だがそれこそ、磯部豊直らに取っての好機である。 山名宗詮を守る二人は、敵からの攻撃を受けると同時に、その相手へ致命傷を与えていたのだ。 とは言え、損傷は重なってしまう為に長くはもたない。 八木豊信が連れてきた数名を道連れにした時点で、流石に磯部豊直もそしてもう一人の兵も息絶えたのであった。
かなりの被害を出しつつも漸く二人に止めを刺した八木豊信は、忌々しそうな視線を向けつつ磯部豊直と絶命してた伊秩重久の首を取る。 その後、二人が守っていた部屋に入ると、果たしてそこには死に装束に身を固めて割腹した山名宗詮の遺体が残されていた。
その遺体を見咎めると、流石に八木豊信も動きが止まる。 確かに山名宗詮の首を取る為に、謀反を起こしたのは事実である。 その為、嫡子の八木信慶が犠牲となっている。 それでも謀反を起こす前まで主君と仰いでいた山名宗詮の遺体を前にしては、思うところがあったのである。 そんな八木豊信の気持ちを証明するかの様に、彼は思わずと言った感じで手を合わせていた。
「……宗詮様。 貴方様の首、我が一族の為に役立たせていただきます」
山名宗詮が生きて聞いていれば、それだけで憤死しそうな言葉を呟きながら八木豊信は嘗ての主の首を討つ。 それからその首を綺麗に包むと、彼はその首と共に此隅山城の本丸にある館を出る。 その後、八木豊信は義頼に対して降伏する旨を記した書状を持たせた軍使を派遣したのであった。
さて此隅山城の大手門と搦手門を抜けた織田勢はと言えば、順調に城の占拠を進めていた。
出城としての役目もあったと思われる寺や、大小様々な曲輪を次々占拠しているのである。 その為、曲輪同士が分断されてしまい、山名勢の連携もままならない。 これでは反撃など焼け石に水でしかなく、僅かに時間を延ばすだけの行為となるだけである。 そんな現状が此隅山城の将兵に認識されると、彼らは我先にと降伏したのであった。
これにより城を攻めた織田勢が占拠していないのは、本丸だけとなる。 そして彼らの本丸への突入は、最早時間の問題であった。 そんな中、軍使が現れる。 言うまでもなく、派遣したのは八木豊信であった。 彼は前述した通り磯部豊直や伊秩重久、そして主君であった山名宗詮の首を討つと義頼へ降伏を申し出たのである。 派遣された軍使の持っていた書状には、大雑把にこれまでの経緯が書かれていた。
但し、内容は八木豊信がでっち上げた物でしかない。 毛利家との繋がりなど彼に取って都合の悪い事は、全て山名宗詮と磯部豊直と伊秩重久に押しつけたのだ。 そうすることで自身の保身を図った訳だが、既に事情を把握している義頼からすれば噴飯ものでしかない。 予想通りの内容であり、思わず口に出してしまったぐらいであった。
「予想通り……と言う事か」
「は? 左衛門佐(六角義頼)様、何かおっしゃられましたか?」
「いや、何でも無い。 それよりも、降伏を認めると返書を出す。 持って行け」
「はっ」
その後、義頼は此隅山城攻めに参加した諸将に八木豊信が降伏した事を通達してから城攻めを一端中止させる。 その上で、主だった将を集めると彼が来るのを待った。
やがて、義頼のいる本陣に堂々と八木豊信が現れる。 彼は織田家の将と、山名堯煕を筆頭とした但馬国人の中でも有力な者達が一堂に揃う中、面会を果たしたのだ。 その本陣の情景を見て八木豊信は一瞬ひるんだが、それでも表面上だけは取り繕うと平伏する。 そして山名宗詮と磯部豊直と伊秩重久、都合三名の首を差し出しながら丹波国侵攻についても進言した。
その中で八木豊信は、自らが不利になる個所については降伏した際に義頼へ提出した書状と同様に死した三人へ悪びれる様子もなく押し付けている。 そんな彼の態度に、山名堯煕を筆頭とした但馬国人達は必死に怒りを抑えつつ睨みつけていた。
だが但馬国人の様子など我関せずとばかりに、八木豊信は自分に……否八木一族に都合が言い様に言葉を紡いでいく。 やがてすべてを語り終えると、会心の笑みを浮かべながら口を閉ざしたのであった。
「……なるほどな。 つまり、但馬守(八木豊信)殿は、宗詮殿が主導したとそう言われるか」
八木豊信による八木一族に対して実に都合が良い様に改竄された進言と言う名の言い訳が終わるのを黙って聞いていた義頼は、そう彼の言葉を締め括る。 すると八木豊信は、「我が意を得たり」とばかりに頷いていた。
それから、改めて山名宗詮らに本来は己が起こした事態を擦り付けたのである。 その厚顔無恥な対応に、義頼の堪忍袋の緒はついに切れた。 彼はゆっくりと立ち上がると、平伏している八木豊信へ冷たい怒りを込めた視線を向ける。 流石に周りの気配と言うか雰囲気を感じ取ったのか、彼は恐る恐ると言った感じで顔を上げた。
その途端、八木豊信は冷たい怒りの籠った義頼の視線を真面に受けてしまう。 正に冷たいと評せる視線に、自身が固まるのが分かった。
「八木豊信!! 三文芝居も大概にせいっ! 見苦しいわっ!!」
「なっ! 三文芝居とは如何なる意味か!」
義頼の怒りを受けて固まっていた八木豊信であったが、流石にその言葉は聞き捨てならない。 彼は半ば反射的に、言葉を返していた。
しかして義頼の放つ雰囲気が変わる訳でもなく、やはり視線も変わらない。 その様子に、八木豊信も漸く違和感を覚え始めた。 すると義頼は、沼田祐光に視線を向けると彼から書状を受け取る。 その書状を、八木豊信は訝しげに見やる。 それは、その書状にどこか見覚えがあったからだ。
すると義頼は、八木豊信へまるで見せ付けるかの様に手にしていた書状を見せたのである。 そこで漸く、彼は何ゆえにその書状に見覚えがあったのかを理解した。
同時に、顔色が見る見るうちに悪くなる。 それは、そうだろう。 突き付けられた書状は、この場所にある筈がないものだからである。 己の城にて厳重に保管している物であったのだから、その反応も当然であった。
「なっ! なぜそれがここに!!」
「見覚えがあろうな、豊信。 これはな、うぬの居城を落とした際に探させた物よ。 また書状については、うぬの弟から裏付けも取ってある」
「くっ!」
「分かるか。 うぬが毛利と誼を通じている事、また今回の但馬侵攻においてうぬが果たした役目。 ここに居る者達全員が知っている。 それでもまだうぬは、ほらを吹き続けるか!」
事ここに至り八木豊信は、山名宗詮に責任を押し付けるという策が敗れた事を理解した。
そして、何ゆえに山名堯煕を筆頭とした但馬の者達から睨みつけられているのか、その意味も悟ったのである。 詰まるところ、八木豊信の行動は全てが遅きに失していたのだ。
それは即ち、山名宗詮を討つ行為そのものが無駄であった事を指し示している。 これではまるで道化であり、笑いしか込み上げて来ない。 やがて八木豊信の口からは、本人が意識していないにも拘らず笑いがこぼれたのであった。
「……くくくくっ。 全ては遅かったと、そう言う事か」
「そう言う事だ、八木豊信。 そこでうぬへの褒美だが、八木一族は全員磔とする。 せいぜい、その身でうぬが起こした罪を知るがいい。 連れて行け!」
「はっ」
ひた隠しにした筈の証拠すら提示され完全に逃げ道を塞がれた八木豊信は、抵抗する事無く兵に引っ立てられていった。
後日、八木一族はほぼ全て磔にされる。 豊信の弟である八木信貞を皮切りに、いとこや妻などが殺されて行った。 その様な一族、そして身内の姿を最後まで見せ付けられた後で八木豊信は磔とされる。 それから数日、八木一族の遺体は豊信の息子である八木信慶の首と共に晒されたのであった。
だがただ一人、例外的に生き残った者がいる。 それは、八木豊信の娘だ。 彼女は垣屋光友に嫁入りしていたので、既に他家の者であると言える。 また山名堯煕と共に義頼へ味方した垣屋光友の嘆願により、彼女は助命されたのであった。
こうして八木一族に対する処罰を終えた義頼は、引き続いて次の問題に取り掛かる。 それは、山名家に対する処置であった。 しかしながら丹波国侵攻を推進した山名宗詮は既に死んでおり、現山名家当主である山名堯煕は織田家へ帰順している。 これが八木氏の様な一国人ならばまだしも、事は但馬国のこれからに係わる事である。 その為、勝手な判断や裁定などを行う訳にもいかなかった。
そこで義頼は、織田信長へ書状を認めている。 どの道、但馬国内の戦の詳細について報告をしなければならない。 それならばと義頼は、戦の詳細を記した書状を認めて藤堂高虎の兄である藤堂高則に持たせると岐阜に派遣したのだ。
幸いな事に但馬国から美濃国までの道中では何事も起きず、やがて藤堂高則は無事に岐阜城下へと到着する。 それから織田信長の館へと向かうと、そこで謁見した。
使者の藤堂高則から書状を受け取った信長は、一度彼を下がらせる。 そして一人、義頼の記した但馬国での戦闘詳報に目を通したのであった。
「……ふむ。 筒井の実力が、相応にある事は分かった。 それだけでも、価値はあったな。 それに、八木に関しては問題は無い。 実際、俺でも同様の処置はしただろう。 問題は、但馬の仕置きか……」
少なくとも、守護職からは外さなくてはならない。 それでなければ、山名家に対する懲罰とはならないからだ。 そこで織田信長の出した仕置とは、以下の通りである。
一つは守護職の解任であり、これにより山名堯煕は但馬守護とは名乗れなくなる。 次に但馬国内で三郡ほどの領有を認める代わりに、人質を差し出す事。 最後に、かねてからの約定通りに毛利家侵攻時の従軍の三つであった。
しかし、これにも一つ問題がある。 それは、山名堯煕にはまだ子が居ない事だ。 そこで織田信長が目を付けたのは、山名元豊である。 彼は但馬山名家の分家筋に当たる因幡山名家当主であり、そして正室は何と山名宗詮の娘なのだ。
つまり山名堯煕の義兄弟にあたるので、人質としては十分である。 とは言え山名元豊も一家の当主であるので、あからさまな人質ではなく織田家直臣と言う形をとる事にした。
以上の事を決めた織田信長は、再び藤堂高則を呼び出すと、詳細を記した書状を持たせて但馬国へと送り返す。 やがて此隅山城に到着した藤堂高則から織田信長の決定を伝えられた義頼は、山名堯煕と彼の義兄弟であり同時に従兄弟でもある山名元豊を呼び出して信長の決定を伝える。 すると山名堯煕は、殊の外喜びを露にした。
それは彼の中で、最悪山名家の取り潰しも覚悟していたからである。 しかし蓋を開けてみれば、三郡の領有と山名家の存続なのだ。 守護職は解任されたが、今となっては殆ど有名無実と化している肩書でしかない。 山名家の存続という大事の前には、大した価値のある物などではなかった。
その一方で割を喰った形となったのが、山名元豊である。 だが現状では、仕方が無いと言えた。 宗家の当主である山名堯煕には子はいないし、そして山名元豊自身も因幡守護を名乗っているが実際には国を追われている。 あからさまに言ってしまうと、彼は居候の身分なのである。 その様な自分が世話になっている宗家に対して役に立てるのであるならばと、山名元豊は受け入れたのであった。
「宮内少輔(山名元豊)殿。 異存はないな」
「……はい。 不肖の身なれど、山名家の為にもお仕え致します」
最後に義頼から確認するかのごとく問われた山名元豊は、先ほどまでとは一転して申し訳なさそうな表情をしている義兄弟にして従兄弟の顔を見ながら承諾した。
これにより、織田信長の示した但馬国での仕置きは終了となる。 その後、義頼は此隅山城に残り、山名堯煕と共に但馬国内の鎮定に向かう事となった。
また副将であった明智光秀はと言うと、彼は織田信長の命により先に岐阜へと戻る事となる。 そんな彼には、山名元豊と彼の家臣が同行していた。
なお山名元豊であるが、今回を期に名を改める事を決める。 彼がこの一件以降名乗った名は、山名豊国であった。
さて、話を此隅山城へと戻す。
岐阜へと戻る明智光秀と山名豊国らを見送った義頼と山名堯煕は、直ぐに動き始める。 彼らは連合という形で、但馬国各地域に赴き鎮定に奔走した……かと思われたのだが、予想外にもその様な事態とはならなかったのである。 その理由は、皮肉にも山名宗詮が行った丹波国侵攻が原因であった。
基本的に但馬国人は、四つの勢力に分かれている。 一つは毛利家を頼りとする、若しくは八木豊信の様に実際に通じている毛利派である。 次に、織田家を頼りとする織田派であった。 それから、先に記した織田派や毛利派に比べればやや少数だがそのどちらでもない中立派である。 そして最後に、最も数が少ない日和見派であった。
その四派のうち毛利派の筆頭であった八木豊信が山名宗詮の丹波国侵攻に協力していた事から、毛利派の者達の大半は丹波国侵攻に参軍している。 そして日和見をしていた国人達もまた、八木豊信達の説得と丹波国に侵攻する事で得られるであろう戦利品や土地に目が眩みやはり参軍を決めていた。
こうして意気揚々と進軍した彼らであったが、丹波衆の赤井直正が率いる丹波国人衆に手酷く蹴散らされてしまう。 何とか立て直しを図った山名宗詮らであったが、そんな矢先に降って湧いたかの様に織田家から丹波国への援軍である。 しかも織田勢は、そのまま但馬国侵攻軍へと変化したのだ。
慌てて城に戻った山名宗詮は、急いで兵を集め始める。 対象としたのは丹波国侵攻に参加しなかった但馬国人であり、彼らを招集する事で何とか兵力差を埋めようとしたのである。 しかし彼の思惑とは裏腹に、殆どの但馬国人は参集に応じなかった。
当然と言えば当然であろう。
但馬国に残った者達は、山名宗詮の丹波国侵攻に賛同しなかった者達である。 しかも、その丹波国侵攻によって結果として織田家から攻められたのである。 彼らにとって、自業自得としか思えなかった。
つまり但馬国内に残っている者達は、総じてまでとは言わないが大半は織田派か中立派となる。 その様な彼らが、今更織田家と改めて織田家に付いた山名堯煕率いる山名家の意向に逆らう判断などする筈もない。 その様な状態の但馬国内であるからか、義頼達から毒気が抜けるぐらい呆気なく短時間で鎮定されてしまった。
「な、なんであろう。 これは」
「……今は亡き父上に感謝するべきなのでしょうか、左衛門佐(六角義頼)殿」
何とも言えない表情を浮かべたまま山名堯煕に問われた義頼であったが、彼としても答えるべき言葉が見つからないのである。 詰まるところ、両名共に微妙な表情をするしか無かったのだ。
何であれ但馬国内の鎮定には成功した義頼は、早々に撤収の準備を始める。 その理由は、雪にあった。 雪が降り始めてしまうと、但馬国から動けなくなってしまうのである。 それ故、これ以上この地に残る訳にはいかないのだ。
数日後、漸く撤収の準備を終えた義頼は、此隅山城下に集まる。 そこで山名堯煕などと言った、但馬国の者達からの見送りを受けたのであった。
義頼と山名堯煕は、何れの再会を誓い合うと踵を返す。 そして観音寺城を、そして岐阜城を目指して撤収したのだ。
先ず到着した観音寺城にて、軍勢を解散させる。 そして筒井家の者達は、当主代理である島清興に率いられて大和国へ戻っていく。 その後、義頼は織田信長に挨拶する為に残った筒井順慶を伴って岐阜城下に向かった。 やがて無事に到着すると、先ずは六角館へと向かう。 そこで一行は身嗜みを整えてから、織田信長の館へと向かう。 既に訪問については報告がされており、彼らはそれ程は待たされる事も無く謁見に臨めた。
待つこと暫し、謁見の間に織田信長の到着が告げられる。 直ぐに二人が平伏して間もなく、彼が入って来る。 平伏している義頼と筒井順慶を一瞥してから、織田信長は上座に座ると二人へ声を掛けたのであった。
「義頼、順慶。 但馬国での戦、大儀であった」
『はっ』
「面を上げろ」
織田信長の言葉に従い、二人は揃って頭を上げる。 それから義頼は、一呼吸だけ間を置いてから口を開いた。
「殿。 但馬国への侵攻に置ける詳細につきましては、報告済みでありますのでそちらをご確認ください」
「うむ。 分かっておる。 それから、順慶」
「はっ」
「筒井家の力、これからも当てにする。 良いな」
「ぎょ、御意」
まさか言葉を貰えるとは思っていなかっただけに、筒井順慶の声が思わず上ずってしまう。 それでも言葉を返したのを聞くと、織田信長は立ち上がり部屋から出て行った。
こうして、一連の戦における最終報告も兼ねた面会が終わる。 すると義頼と筒井順慶は、それぞれの領地に戻って行くのであった。
但馬の侵攻は終了です。
ご一読いただき、ありがとうございました。




