第五十六話~摂津戦線動きあり~
第五十六話~摂津戦線動きあり~
観音寺城下に集合した佐久間信盛を大将とする近江国人衆の軍勢は、街道を使い伊勢国へと侵攻した。
その途中にある西別所城に到達すると、城を取り囲む。 この城の城主は伊勢国人の一人である後藤基成であり、彼は一向衆に協力していたのだ。 とは言え、近江国より進軍した軍勢だけでも数万はいる。 たかが一城だけでは、持ち堪えられる筈もない。 取り囲んで数日も経たないうちに、西別所城を駆逐していた。
鎧袖一触とばかりに西別所城を落とした軍勢は、そのまま進軍して近くにある白山城を取り囲んだ。 するとそんな彼らの元に、更なる援軍が現れる。 それは滝川一益と、織田信長の要請で軍を率いて来た北畠具教、それから関盛信と神戸具盛であった。
彼ら四人が本陣に現れると、大将として上座に居た佐久間信盛が移動する。 その並びは滝川一益を含めた織田家臣と、伊勢衆である北畠具教と関盛信と神戸具盛の三人が対面にて座る配置となっていた。
北畠具教は一瞥すると、何も言わずに座る。 すると続いて、残りの両名も黙って座る。 伊勢衆の三人が着座すると、そこで初めて北畠具教が口を開いた。
「ところで佐久間殿、白山城の攻めに関してなのだが如何様になされるのか?」
「うむ、北畠殿。 西別所城にて行った時と同じ様に、城を攻囲した上で攻め様かと考えている」
「……なるほど、無難な手であるな。 それにこれだけ味方が居れば、下手な小細工をする必要もないと言う事か」
「わしは、そう思っている。 北畠殿も同じ様な考えの様であるし、ご異存はありますまいな」
「ないな、佐久間殿。 して、攻めるのは何日後か?」
「明日にでも攻め様と考えている」
「承知した」
北畠具教が了承し立ち上がると、そこで軍議も終了となる。 その後は、めいめい自陣へと戻った。
そして義頼も、当然だが自陣に戻る。 すると程なくして、義頼の陣を尋ねて来た者達がいる。 それは伊勢衆の北畠具教と関盛信、そして神戸具盛の三人であった。
さて、何故にこの三人が義頼の元を訪れたのかというと、それぞれが持つ縁戚関係に拠る物であった。
まず関盛信と神戸具盛だが、彼らは義頼の筆頭家臣となる蒲生定秀の娘を娶っているので義理の親子関係となる。 それであるが故に二人は義頼の陣において、なかんづく蒲生定秀を訪ねたのだ。
そして残った北畠具教だが、彼の場合は六角家との関係となる。 実は北畠具教の正室は、六角定頼の娘なのである。 つまり、義頼と北畠具教は義理の兄弟となる関係なのだ。 その様な関係を持つからこそ、北畠具教は織田信長の要請に応えて出陣したのである。 そうでなければ、わざわざ出陣する気など毛頭なかったのだ。
こうして相見えた義頼と北畠具教だが、微妙に緊張しているかのように見える。 というか、事実若干の緊張感が二人の間に横たわっていた。
その理由だが、実はこの二人相見えるのは初めてなのである。 それというのも、義頼が六角定頼の最晩年に生まれた子供である事が影響していた。 何と言っても義頼の兄弟は、揃いも揃って義頼と年が離れている。 その為、義頼が生まれた頃に六角館に居る実の兄弟は、当時六角家当主であった六角承禎ぐらいなのだ。
当然だが、幾人か居た実姉に当たる者達はことごとく嫁入りしている。 中には死亡している者すら、居るぐらいである。 そんな状況であるからか義頼は、姉に当たる人物にはとんと縁がなかったのだ。
例外なのは、蒲生定頼の猶子であった如春尼である。 前述した様に姉など会った事のない義頼だったので、幼かった頃の彼にしてみれば姉と言えば如春尼しかいなかったのだ。 まして彼は、幼き頃に実母を失っている。 それだけに猶子とは言え最も身近な女性の家族であった如春尼に懐いたのであった。
それは兎も角、何時までも黙りこくっていても始まらない。 義頼は意を決すると、義理の兄に当たる北畠具教へ言葉を掛けたのであった。
「はてさて。 直接相まみえるのは、初めてでございますな。 北畠殿」
「まぁ、そうなるであろうな。 何と言っても拙者が江雲(六角定頼)殿の娘を娶ったのは、貴公が生まれる前だからのう」
「でしょうな。 某にとって、姉と言えば如春尼殿だけであった。 して北畠殿、某は直接会った事はございませんが、姉上はご壮健ですか?」
「うむ。 会いたがっておったぞ。 勿論わしもだが」
「それは、某もです。 しからば此処は、出会いを祝して杯を開けますか。 最も明日から城攻めですので、水となりますが」
「ふむ。 そうだな。 では義弟殿、明日の戦の勝利を願って」
そして二人は杯を軽く合わせると、中の水を飲み干すのであった。
明けて翌日、白山城攻めが開始される。 しかしながらこの戦だが、戦と呼べるような代物ではなかった。 近江衆だけならもしかしたらと言う可能性があったかも知れないが、同じ伊勢国の軍勢にまで攻められているのである。 白山城に籠る城兵達の士気は、急速に落ちていく。 その上、尼子衆の働きが凄まじかった。
彼らは、此処が力の見せ所とばかりに、果敢に攻め込んで行く。 尼子衆は、山中幸盛と熊谷新右衛門を先鋒に、僅か半日で白山城の応手門を落としてみせた。
これによりそれでなくても落ちていた城兵の士気は、最低にまで下落する。 そんな城内の雰囲気に、これでは最早戦えぬと判断した城主の中村将監は城を明け渡して降伏したのであった。
するとまるでこれを契機としたかの様に、近隣の国人達の使者が堰を切ったかのごとく白山城に現れる。 そして彼らは、義頼に織田信長への取り次ぎを懇願した。
元々この辺りの国人達は、六角家の被官であった。 しかし織田信長が伊勢国に侵攻した事で 彼らは織田家の旗下となったという経緯がある。 そこで国人達は昔の被官であったという伝手を頼り、現在の六角家当主でありかつ信長の妹婿である義頼を頼ったのだ。
彼ら伊勢国人衆に対応したのは、三雲賢持と蒲生定秀である。 三雲賢持は布施氏の反乱の際に大怪我を負うまでは、三雲家の嫡子であった。 怪我を理由に嫡子の座を弟の三雲成持に譲ったが、彼が嘗て六角家の最有力家臣の一家であった三雲一族の者には違いない。 ましてや今は、義頼の懐刀の一人である。 急ぎ現れた伊勢国人達が取次ぎをと頼むには、十分であった。
また蒲生定秀は、義頼の傅役であり筆頭家臣である。 更に、北伊勢を六角家の領地とした六角定頼の筆頭家臣でもあった。 先述の三雲賢持以上に、急遽訪問してきた伊勢国人達にとっては頼りがいのある人物であった。
そんな三雲賢持と蒲生定秀から伊勢国人達が大挙して現れている事を聞いた義頼は、対処について少し考える。 程なくして考えが纏まると、対応について答えたのであった。
「……まぁ、よかろう。 味方となるというのならば、敢えて事を荒立てる事はあるまい。 まずは佐久間殿に話をした上で、となるがな」
『はっ』
その後、義頼が佐久間信盛の陣を尋ねると、殆ど待たされずに通された。
これは彼のところにも、伊勢国人がやってきていた事に由来する。 その人数は義頼の元へ訪れた伊勢国人より遥かに少ないが、それでも直接佐久間信盛の元を訪れた伊勢国人もいたのだ。
その様な経緯から、義頼が訪問してきた理由も伊勢国人がらみだと察したのである。 だからこそ佐久間信盛は、早々に義頼を通したのであった。
「実は……佐久間殿にお話がありまして、まかり越しました」
「大凡の当たりは付く。 恐らく、伊勢国人達の事であろう」
「はい。 殿への取り次ぎを求めて、使者を遣わして来ております。 如何なさいますか?」
「ふむ、別に反対する理由は無い。 どうせ取次だけだからな。 そこで左衛門佐(六角義頼)殿。 彼らについては貴公に任せたいが、宜しいかな?」
「それは構いませぬ。 では、早速にでも勝幡へと報せましょう」
「うむ」
陸路に関しては既に池田恒興や木下秀吉、それから蜂屋頼隆らの手により香取砦が落とされているので問題なく通過は出来る。 そのお陰もあり、義頼の書状携えた使者は大した危険に遭遇する事なく勝幡城へ到達することが出来た。
すると使者は、用件を告げ取次ぎを求める。 義頼からの使者が到達していると聞いた織田信長は直ぐに使者を通させると、彼が携えていた書状を読み出した。 そこには、取次ぎを求めて来た伊勢国人の名が書かれている。 具体的に上げれば春日部氏や赤堀氏、他に大儀原氏などの名が連ねられていた。
書状を読み終えた織田信長は、少し考えると返書を右筆に認めさせる。 その内容を簡潔に述べれば、「人質を持って勝幡城へ来い!」と言う物であった。
その後、勝幡城から帰ってきた使者から返書を受け取った義頼は、敢えてそのまま伊勢国人達へと告げる。 返書の内容を聞いた伊勢国人達は、急ぎ所領へ戻ると人質を用意する。 そしてすぐさま、とんぼ返りで人質と共に義頼の元へと舞い戻ったのであった。
結局、織田信長の返書が届いてから数日後には、取次ぎを求めた全ての伊勢国人達と人質が揃う。 すると義頼は、そんな彼らと共に信長のいる勝幡城まで向かった。
やがて義頼を筆頭とした一行は、勝幡城へと到着する。 程なくして面会が叶った伊勢国人達であったが、いきなり度肝を抜かれる。 事実上の降伏を織田信長へと述べる前に、当の本人がその席で伊勢国人らに対して刀を抜き放つと突き付けたからだ。
そのままの態勢で、静かに時が過ぎて行く。 すると間もなく、期を見計らったかの様に織田信長が、静かにだが険しい声で伊勢国人達へ告げたのであった
「よく聞け。 そなた達だが、此度だけは許す。 だが次は無い、覚悟しろ!」
『ぎょ、御意!!』
こうして伊勢国人達を再度膝下に組み敷いた織田信長は、ついに勝幡城から本隊を率いて出陣した。
かねてから命じてあった通り、弟の織田信興を先鋒にした軍勢が侵攻していく。 織田家本隊が先ず向かったのは、一向宗門徒に奪取されていた小木江城であった。 本隊の軍勢が城を攻囲すると、程なく総攻撃が開始される。 特に先鋒を務める信興にとっては雪辱戦であり、彼はそれこそ火が出るほどの勢いで小木江城を攻め立てていく。 この猛攻に砦に毛が生えた程度の小木江城では、到底持ち堪えられる事など出来ない。 兵力差も相まって、彼の城は僅か二日で陥落した。
すると織田信長は自ら兵を率いて、近在の荷之上城を攻め立てる。 此方は兵力差から攻囲される前に開城すると、兵や一向宗門徒と共に願証寺へと撤退する。 こうして荷之上城を開城させた織田信長は、この城に本陣を置くのであった。
丁度その頃、落城させた白山城に居た義頼達も動きを見せた。
先ず香取砦に居た池田恒興達が動き、彼らは南下して大鳥居砦を囲む。 すると義頼達は、兵を二つに分けた。 一隊は佐久間信盛率いる部隊で、彼に同行した将は滝川一益と丹羽長秀である。 彼らはそのまま街道沿いに南下すると、桑名城を奪回するべく向かっていく。 またもう一方の隊は義頼が率いる部隊であり、此方には北畠具教以下の伊勢衆が組み込まれた。
これは義頼自身が、北畠具教の義弟であると言う事が大きい。 何と言っても他の者は、織田家生粋の将である。 一応は和睦している織田家と北畠家であるが、やはり含む物はある。 だが北畠具教の義弟となる義頼であれば、また別である。 少なくとも佐久間信盛らに比べれば、蟠りはないだろう。 しかも北畠具教が連れてきた二人の将の義父は蒲生定秀であり、その彼自身は義頼の傅役である。 その意味でも、佐久間信盛らよりは遥かにましと言う物であった。
そんな彼らが向かったのは、白山城落城後に降伏した森氏が城主を務める中江城である。 途中で一向宗門徒などの妨害もなく無事に到着すると、そこを拠点とする。 そこに本陣を置くと、直ぐに出陣する。 彼らは北畠水軍の力を借りて、中江城の近隣にある屋長島城を取り囲んだ。
「北畠殿、助かりました」
「何、気になさるな。 それに此方としても、連れてきた以上は使わなければ宝の持ち腐れと言う物だ。 それはそうと左衛門佐殿、直ぐに攻めるのか?」
「いえ。 間もなく、佐治水軍と九鬼水軍を筆頭とした織田の船による海上の封鎖が完了します。 何より殿からじっくり攻めるとの通達も出ていますので、拙速には動きません」
「ふむ。 海上を封鎖し、陸上にある城も取り囲むか落とすかの何れ……と言う事は、長島一帯を兵糧攻めにするつもりか」
「恐らくはそうかと」
義頼が頷くと、北畠具教は呆れた顔をした。
何と言っても、規模が違うのだ。 一つ一つの城に対して兵糧攻めを行うと言うのは、聞いた事はある。 しかし、織田信長は城どころか一向宗の影響が特に強い長島一帯全てに対して同時に兵糧攻めを仕掛けているのだ。
彼とて父親と北畠晴具と共に、伊勢北畠家の全盛期を築いた男である。 それであるが故に、織田信長の行った兵糧攻めの規模の大きさに驚いたのだ。
「何ともはや……とてつもなく大きな兵糧攻めだ、途方もない事を考えかつ実行するな信長と言う男は」
そう言った北畠具教は、肩を竦めて驚きとも呆れるとも取れる様な仕草をしていた。
それから数日後、義頼の言った通り佐治水軍と九鬼水軍を主力とした織田家の船が現れる。 大船団と言っていい数であり、織田信長はその船を用いて海上を封鎖すると蟻の這い出る隙間もない警戒網を作り上げていた。
同時にそれらの船は、一向宗門徒勢の各城砦や陣を海上から攻撃する存在でもある。 事実彼らは海上に展開すると、敢えて上陸はせずに弓と鉄砲を使った矢玉による攻撃を行い始める。 だが、城砦や陣が直接攻められている訳ではないので、直ぐに落ちるという事もなかった。
しかし、攻撃に晒されても効率な反撃が出来ない。 何と言っても織田勢は、海上に展開している船に居るのである。 城砦や陣に籠っている一向宗門徒や未だに反抗を続けている北伊勢国人達は、殆ど手出しが出来ない。 まばらに矢による反撃などもあるがそれだけでしかなく、現状を見ればほぼ一方的に水上からの攻撃を受けるだけであった。
こんな状況に城砦に籠っている者達は兎も角、平場に陣を敷いて籠っている者達が耐えられる筈もない。 彼らは陣を捨てると、最寄りの城砦に撤退した。 そんな本願寺勢の状況を見て、織田信長は内心ほくそ笑む。 怪我人が増え死者がそれ程では無いという状況は、実は意図したところであったからだ。
その在り様は、正に真綿で首を絞めるがごとくである。 思惑通りにいっている現状に、彼は満足していた。
この様に少しずつにじり寄る様に攻め寄せて来る織田勢に、下間頼成や下間頼旦。 それに願証寺住職の証意は、内心歯噛みをしていた。
現状、どれだけ控えめに言っても戦の流れを常に相手に握られているからである。 しかもこの様な手を打っていると言う事は、織田勢が事前の準備に相当に念を入れている事の証左である。 だが海上を押さえられている現状では、手の施しようがなかった。
そこで彼らは、現状を変えるべく手を一つ打つ。 それは、雑賀衆の力を借りる事であった。 彼ら雑賀衆は、鉄砲傭兵と言う側面が強調されるが、同時に自ら交易を行う者達でもあった。 その為、交易の手段として船衆を抱えているのである。 名にし負う瀬戸内の村上水軍ほどの力はないが、それでも独自の水軍衆を有する存在なのだ。
要は鉄砲衆としての力だけでなく、水軍の力を借り様と下間頼成と下間頼旦は考えたのである。 現状では他に有効な手立ても思いつかない証意も、雑賀衆の力を借りる事に反対はしなかった。
話し合いが雑賀衆に力を借りると言う事で決すると、直ぐに繋ぎを取るべく密使を派遣する。 果たして彼らが派遣した密使だが、結果として役目を果たす事は叶わない。 それは、彼らの行動を妨害する存在があったからだ。
「そうか、捕えたか。 殿(織田信長)の読み通り、と言う事か」
「はい、殿(六角義頼)。 それだけ、一向衆も必至なのでしょう」
下間頼旦たちは海と陸路、両方を使って救援を求める使者を出していた。
だが、その悉くは捕えられている。 その理由は、織田信長の命によって長島の地に敷かれた甲賀衆と伊賀衆による警戒網であった。 伊勢国長島包囲後に追い詰められた一向衆が救援の使者を出すであろうと読んでいた事もあり、その使者を捕える為の手を打っていたのだ。
それは勿論、海と陸両方にである。 先ず海上に居る船に対してだが、夜間に暗がりを突破されるのを防ぐ為に船同士を漁網で繋いでいる。 これで一向宗の使者に突破されるのを阻害する為であるが、同時に万が一にも夜襲等で敵に襲われた場合でも直ぐに船同士の繋がりを断ち切れる様にする為であった。 船同士を繋いでいては、機敏には動けないからである。 そして陸上では、家臣の中で最大の忍び衆を持つ義頼を中心として忍びを総動員していた。
「して賢持、捕えた者は如何した?」
「無論、処断致しました」
「ならばいい。 引き続いて、警戒をするのだ」
「はっ」
三雲賢持は、一つ頭を下げると義頼の前から辞する。 そんな賢持を見送った義頼は、視線と言葉を長島城と願証寺がある方角に投げかけていた。
「今更、雑賀などに介入などさせぬわ一向衆よ」
織田勢が長島を包囲して既に一月が経つ、その間に織田信長は徐々に包囲網を狭めていた。
義頼が攻囲していた屋長島城は既に降伏しており、池田恒興達が攻めていた大鳥居砦も陥落している。 彼らは桑名城を奪還していた佐久間信盛達とも合流すると、長島城近くにある二つの城砦へと攻め掛かっていた。 池田恒興の部隊は大島城を、佐久間信盛の部隊は小田御崎砦を陥落させている。 その後はそれぞれ落とした砦に駐屯し、そこから長島城へ圧力を掛けていた。
その一方で織田信長自身も、本隊を率いて着実に一向衆の城砦を落としている。 具体的には一ノ江砦、加路戸砦、松ノ木砦といった砦群を陥落させ、自身も殿名にまで移動しそこに本陣を構えていた。
すると程なく、織田信長の元に軍使が現れる。 それは、篠橋城に籠城している一向宗門徒からであった。 彼らは城を明け渡す代わりに、長島城までの後退を打診してきたのである。 その書状を軍使と対応した菅野長頼から聞いた織田信長は、少し考えてから許可を命じた。
その返答に菅野長頼は意外そうな顔をしたが、主からの命は命である。 一つ頭を下げると、彼は軍使へ織田信長からの返答を伝えるために部屋から出て行った。
こうして篠橋城に居た一向宗門徒らは、長島城に退却する。 これにより事実上、一向宗門徒は長島城と願証寺の二拠点に追い込まれた形となる。 そしてそれは、織田信長が意図したものであった。
「集まれば集まるほど、兵糧は減るだろう。 せいぜい、飢え苦しむが良い」
菅屋長頼を送り出した信長はそう独語を漏らした後、にやりと不敵な笑みを浮かべる。 するとその時、織田信長に声を掛ける者がいる。 それは、彼の側近を務めている堀秀政であった。
その彼によると、義頼が訪ねてきているとの事である。 だが織田信長は、その報せに眉を顰める。 今になって義頼が訪ねてくる理由に、思いが至らなかったからだ。
長島における包囲網は、ほぼ完璧と言っていい。 当初の目論見通り長島城と願証寺に一向宗門徒らを追い込んでいるし、少なくとも今は味方である北畠具教を筆頭とした伊勢国人衆との関係が拗れている訳でもない。 だからこそ、義頼が態々訪問してくる理由が分からなかった。
しかしそれも、聞けば分かる事である。 義頼を通す様に命じると、程なくして堀秀政に案内された義頼が表れた。
「義頼、何用だ」
「これを」
そう言うと義頼は、懐から書状を差し出た。
彼の差し出した書状は二つあり、受け取ると書状を読み始める。 するとそこには、正直にいてあまりにも意外な事が書かれていたのだ。
一つはこの伊勢国長島の話ではなく、全く別の場所で起きた事である。 何と摂津国で争いが起こり、和田惟政が戦死したと言う。 しかもそれを行ったのが、三好家の篠原長房と味方である筈の松永久秀だと言うのだ。
だがここで、何ゆえに松永久秀の存在が出て来るのかが分からない。 織田信長は別段、彼に何かを命じている訳ではないからだ。 訝し気にしながらも取り敢えずは保留し、もう一つの書状を読む。 そこには、先程の書状以上の内容が書かれていた。
先の書状にも記載されていた松永久秀率いる松永家に、武田家の者が出入りしている節が見受けられると言うのだから洒落にならない。 この知らせは、京に在住する六角承禎より義頼へと齎された物であった。
確実な裏が取れている話ではないのだが、松永家に畿内の者とは思えない人物の出入りが在るらしいとの事である。 そしてこの情報が齎されると義頼は勿論だが、沼田祐光や三雲賢持といった義頼の幕僚達も松永久秀と武田信玄が繋がっているのではと疑ったのだ。
だからこそこうして、義頼自らが報告に上がったのである。
この二つの報告を受けた織田信長だが、彼は二通の書状を読み終えた後は身動き一つせず虚空を見つめつつも考えを纏める。 やがて結論が出たのか、視線を義頼に向けるとおもむろに彼へ問い掛けた。
「義頼、その方は大和国の事どう思っておる。 忌憚なく述べてみよ」
「あくまで某個人の考えですが、松永殿と武田は繋がっているのではないかと」
「ふん。 だろうな、俺もそう思うわ。 またぞろ、謀反の虫でも蠢いたのであろう……それは追々考えるとして、義頼」
「はっ」
「その方は兵を率いて、摂津に向かえ。 和戦の何れでもいい、さっさとけりを着けて来い。 本来なら既に摂津に居る光秀辺りを向かわせたいが、高屋城に康長が居る以上は易々と動かせんからな」
始めから意図した訳ではないが、今は塙直政が石山本願寺に籠る一向宗と対峙している。 そして先程の話に出た明智光秀だが、彼は三好康長と相対している。 つまり、明智光秀を動かして摂津国の戦線がこれ以上に混沌とするのを嫌ったのだ。
そしてその考えは、義頼にも納得できるものである。 下手に動かして微妙な均衡が崩れると、そこから先がどうなるか分からないからだ。
「なるほど……それは、確かに」
「うむ。 なお派遣するに当たって、可成と長可。 それと、成政を与力として付けてやる」
与力として森可成が付けられたのは、以前から割と多い事からによるものであった。 そして義頼としても彼であれば気心が知れており、兵を動かしやすい。 これは、森可成も同じであった。
また佐々成政が与力として付けられた理由だが、此方は彼の出身一族に理由がある。 何と佐々家は、六角家と言うか佐々木氏の傍流に当たるのだ。 その家系の為かそれとも【野洲河原の戦いで】一騎打ちをしたせいか、佐々成政は己より一回りは若い義頼を一人の将として認めている。 それ故に織田信長は、今回義頼の与力として付ける事にしたのであった。
なお森可成と共に派遣される森長可だが、彼は森家の嫡子である。 元々森家には森可隆と言う嫡子がいたのだが、彼は去年の朝倉攻めの際に起きた金ヶ崎城攻めの際、命を落としていた。
それにより二男であった長可に嫡子の座が移動したのである。 因みに彼は、この長島の戦が初陣であった。
「承知致しました。 では早々に、摂津へと向かいます」
「うむ」
義頼は了承すると、織田信長の前から辞去する。 そして軍勢を整るべく、自らの陣へと戻って行くのであった。
あれ? 変な動きが……
ご一読いただき、ありがとうございました。




