第五十五話~長島へ~
第五十五話~長島へ~
今回の上洛での諸事を終えた織田信長は、岐阜城に戻るべく京を発った。
逢坂関を越えて入った栗太郡を治める佐久間信盛が用意した休憩所にて、一行は半刻ほど休憩を行っている。 やがて佐久間信盛自らの見送りを受けながら出立した織田信長一行は、同日中に観音寺城下にある六角館に到着した。 そこで予定通り一泊した訳だが、その際に目賀田山に居城を持つ目賀田貞政を呼び出している。 程なくして現れた彼に対して、目賀田山の案内を命じた。
さて織田信長が、目賀田氏の城では無く目賀田山の案内を命じたのは当然だが理由はある。 その理由とは、新たな居城の建築する候補地として選んだのがこの目賀田山であったからだ。
そう。
何れは、この近江国内に新たな居城を築城するつもりだったのである。 その候補として選んだのが、観音寺城が建つ繖山の隣にある目賀田山であった。 目賀田山は琵琶湖に張り出した様な立地であり、水運を利用するにも適している。 そしてその立地から、守りと言う意味でも悪くはない場所であった。
明けて翌日、織田信長は案内を命じた目賀田貞政を供にして目賀田山を見聞していく。 一日で終わりであろうと思われていた見聞だったが、熱心に見回った為に思わぬ時間が掛かってしまう。 その為、一日どころか数日掛けて山中を見回ったのである。 その結果、織田信長は自らの考えに間違いが無い事を確信したのであった。
かなりの時間を割き漸く見聞を終えたその翌日、満足そうな表情を浮かべながら六角館を一行は出立している。 その後、織田家重臣の丹羽長秀の居城である佐和山城にて更に一泊してから、織田信長は美濃国に入った。
関ケ原を越えた一行は、氏家直元の居城である大垣城で一泊してから、岐阜城へと到着する。 無事に居城へと辿り着くと、岐阜城下にある自らの屋敷にて次の一手について思いを馳せる。 その一手となる対象は、伊勢国長島一向宗最大拠点である願証寺と摂津国にある一向宗の総本山といえる石山本願寺の二つであった。
それでなくても東濃に武田家が攻め寄せた事で、武田家が何時本格的に動くかが分からない情勢にある。 それであるが故に織田信長は、本音としてどちらとも早急に方を付けたいという心境であった。
「とは言え、どちらから攻めるべきかと言えば…………やはり距離から考えて長島となるか。 摂津は動けなくしておけば、ある程度は時間を稼げる。 そう直ぐには、問題と成るまい」
こうして先ずは長島の攻略を行う決断をした織田信長は、早速にと動いた。
不幸中の幸いと言うか、一向宗門徒に攻められた弟で小木江城主であった織田信興を救う為に自らの目で長島と言う地を見ていた事で、長島にある願証寺を早急に攻め落とすには難しいと判断している。 無理攻めをすれば、此方の損害が大きくなるとも考えていた。
例え農民兵が主力であったとしても必ずしも侮れないという事は、石山本願寺にて一向宗門徒との戦で経験済みである。 事実、完全なる奇襲とはいえ、砦を二つ落とされているのだから侮る事など出来ない。 その上、砦を攻められている際に救援にと向かった蜂屋頼隆らは、石山本願寺の坊官が率いる一向宗門徒達に阻まれ間に合わなかったのだ。
また、それだけでは無い。 近江国に置いて起きた一向一揆でも、新村城と小川城が奪われている。 つまり一向宗門徒は、仮にも将が居る城を落としているのである。 結果的に言えば早期に取り戻した形だが、だからと言ってそれが侮っていいと言う理由にはなり得なかった。
その為、信長は準備を念入りに行う事にしたのである。
一つは、長期戦に備えた兵糧の確保となる。 これは領内だけでなく、商人などを通して領外からも手広く集める事にした。 量が多いと言う事もあるが、最大の理由は値段の高騰を防ぐ為である。 下手に物資の値段を釣り上げてでもしてしまえば、兵糧の調達に四苦八苦となる。 そうなれば、自分で自分の首を絞めているに等しい。 その様な事態とならない為にも、多少の経費を掛けてでも遠近構わずに集めた方がましだと判断したのだ。
その次の手立てとして織田信長は、海賊衆へ命を出している。 具体的には知多半島の大野城を拠点とする佐治信方率いる佐治水軍と、事実上九鬼水軍を率いている九鬼嘉隆へ指示を出し水軍の準備を進めさせたのであった。
これは伊勢長島と言う地が、島と水路が入り組んだ複雑な地形であったからである。 拠点から拠点へと移動するのに、陸上だけでなく水上も通らねばならないのだ。 つまり、長島を押さえるには陸上だけでなく、水上を押さえなければならない。 そうしなければ戦に勝つのは難しいと、状況から判断したのだ。
また戦に勝つ為には、当然だが兵も兵糧も必要となる。 そんな兵や物資などを運搬する為にも、水上を押さえておかねばならないと判断したのだ。
そして今一つは、伊勢国大湊の会合衆に圧力を掛ける事である。 これは長島の一向衆門徒に協力をさせない事で、一向衆門徒の武具や兵糧調達を邪魔すると言う狙いがあった。
なお会合衆はこの圧力に当初は反発したが、織田信長は北畠家や伊勢国に領地を持つ滝川一益などからも圧力を掛け黙らせている。 同時に相場より高めに会合衆から兵糧等を買い上げる事で利益を与えて、彼らの不満が募らぬ様にしたのであった。
さて、織田信長から出陣に備える様にとの命を受けた義頼は、まず本多正信達幕僚を集めた。
その理由は言うまでもなく、伊勢国長島を攻めるにあたっての手立てについてである。 何と言っても義頼は、伊勢国長島と言う地について全くと言っていいぐらいに知らない。 特殊な土地であるぐらいは知っているが、それ以上の情報はなかった。
これでは、策を立てる以前の問題である。 そこで己の知恵袋らから、敵地の地の利についての情報を仕入れようとしたのだ。 すると、一人の男が手を上げる。 その一人とは、本多正信であった。
さて彼が伊勢国長島を知っている理由だが、それは簡単である。 嘗て、同地を訪れた事があるからだ。 それは、三河国で起きた【三河一向一揆】が終結した後の話である。 【三河一向一揆】終結後に家族を大久保忠世に託して三河国より離れた本多正信が最初に向かったのが、願証寺のある伊勢国長島の地であった。
他ではまず見受けられる事のない地形に際し、彼は手製の地図を作製したのである。 物珍しさもあったが、それよりも何れはどこかで必要になるかも知れないと考え、本多正信は丁寧に地図を作成していたのである。 その後、日の目を見る事はなかったこの伊勢国長島の地図が、今ここに漸くの日の目を見る事になったのであった。
最も、会議当初から持ち込んでいた訳ではない。 ろくに議題を告げずに彼らを集めたのだから、それも当然であった。 しかし義頼から話を振られた事で会議の目的を知った本多正信は、義頼へ伊勢国長島について知っている事を告げている。 その上で断りを入れてから中座すると、一度己の屋敷へと戻った。
そこでしまっていた伊勢国長島の地について詳細に記した手製の地図を持ちだすと、会議が行われている部屋へと帰って来る。 そして彼は、手にした地図を床に広げたのであった。
「皆々様、ご覧ください。 これは拙者が三河を出て、長島を通った際に記した物です。 多少は変わっているかも知れませぬが、大きなところでは変わっていない筈にございます」
本多正信が持って来た地図には、確かに伊勢国長島の地形が描かれている。 その地図を見た義頼は、水路なのか川なのか分からない筋が縦横に走る複雑さに思わず目を見張っていた。
多少なりとも話には聞いていたが、まさかここまでは入り組んだ地だと思わなかったのである。 正に、天然にできた迷路と言っていいだろう。 しかも地図の上から見ても、長島には似た様な島が幾つも存在している事が分かる。 例え目にしている地図が本多正信の手製である事を考慮したとしても、その複雑さは何とも頭の痛い事である。 義頼が思わず唸り声をあげてしまったとしても、仕方がない事であった。
「うむむむ…………これはまた何とも面倒な場所だな」
「拙者も、初めてみた時はそう思いました。 通常の兵では、攻略に多大な時間と必要以上に多くの兵糧が掛かります。 少なくとも足軽や武者だけで攻めただけでは、直ぐに落ちるという事は無いでしょう」
「なるほど。 それで殿は、あの様に入念な準備を始めたと言う訳か」
義頼にも、織田信長が行っている長島攻めの準備についての報せは入っている。 だがその入念さに、彼は内心で不思議に思っていた節がある。 しかしてそれも、目の前に広げられた伊勢国長島の地を記した地図と共に告げられた本多正信の言葉を聞いて氷解した。
この地を制圧しようと思えば、陸上だけではほぼ無理である。 水上に詳しい者が必要となるのは、ほぼ間違いはない。 だからこそ織田信長が、佐治家や九鬼家の水軍を動かしているのは確実であった。
「この地図を見るに水軍、もしくは水上での戦に慣れた者が必要と思われます」
「そうだな祐光、俺もそう思う……ならば、今回の戦には六角水軍も動かそう。 それから駒井秀勝と息子の駒井重勝の親子を連れていくか」
「それが宜しいかと」
義頼も六角家の者である、嘗ては水軍を擁していた家の者である以上はそれなりの知識は持ち合わせていた。
とは言え、実際に六角水軍を率いていた駒井秀勝と駒井重勝の親子以上だと己惚れる気もない。 間違いなくこの二人の方が、知識と経験に置いて上を行くからだ。
そこで義頼は、彼らを連れて行くことで自身に対する水上戦における不足分を埋め様と考えたのである。 それは至極真っ当な意見であり、それ故に主の言葉を聞いた沼田祐光は反対せずに肯定したのだ。
そんな沼田祐光から出た言葉に頷くと、義頼は他の幕僚へと視線を向ける。 しかし彼らから、何も異論は出てこない。 すると義頼は、会議を終わらせると間髪入れずに兵を集める手筈を整え始めた。
まず伊賀国内での国人招集についてであるが、此方は甥の大原義定と織田信長の命で義頼の与力となった仁木義視に任せている。 そして義頼自身はと言うと、近江衆を招集するべく伊賀国から観音寺城に戻ったのであった。
やがて到着した六角館では、近江衆でもある駒井秀勝と駒井重勝の親子が揃っている。 すると義頼は素早く身嗜みを整えると、駒井親子と面会した。 彼らには、既に招集した用件については伝えてある。 その為か、挨拶を済ませると父親の駒井秀勝が早々に話し掛けて来た。
「ご要請通り、息子も連れて参りました。 しかし左衛門佐(六角義頼)様、本当に拙者達を長島へ連れて行かれると?」
「ああ。 その理由は、これだ」
義頼が見せたのは、先の会議でも使用した本多正信が記した地図の写しであった。
先述した様にそこには伊勢国長島特有の地形が記されており、その地図を見た駒井秀勝と駒井重勝はため息をつく。 それは記された地形の複雑さに対する物であり、そしてここに己達が呼ばれた理由が判明した為であった。
「……これが拙者と重勝を呼んだ理由ですか」
「ああ、そうだ。 水上戦の専門家であるその方達に聞きたい、どう攻める?」
暫く地図を見ていた二人だったが、やがて父親の駒井秀勝が視線を外す。 そして義頼に視線を向けたかと思うと、そこで一拍置く。 それから地図を見た上での意見を、伝えた。
そこで彼の言った意見とは、船による海上封鎖である。 水上を押さえる事で、敵に対する補給等の流れを阻止すると言う物であった。 しかもそれだけに留まらず、海上を封鎖した上で敵を城なり砦なりに閉じ込めると言うのである。 言わば、兵糧攻めにするべきだと言うのであった。
駒井秀勝が兵糧攻めを言い出した理由は、単純である。 力押しをしては、どれだけ被害が大きくなるか予測が付かないからだ。 ただ落とすだけならば、力押しでも恐らくは落ちる。 しかしそれならば、別段自分達に意見を求める必要があるとも思えなかったのだ。
それであるにも拘らず意見を求めたと言う事は、力押し以外の手立てを欲しているのだろうと見当をつけたのである。 その見当に従って、駒井秀勝は意見を述べたのであった。
果たしてそれは正解であったらしく、義頼は彼の意見を遮る事無く最後まで聞く。 全てを聞き終えると、義頼はその意見を採用すると駒井秀勝へ告げたのであった。
駒井親子と面会から暫く後、義頼は近江衆に対して招集を掛ける。 無論その理由は、織田信長による伊勢国長島攻めに参戦する為であった。
その招集に答え、続々と近江衆が集って来る。 それは、在りし日の六角家を思わせるかの様な眺めであった。 そんな観音寺城周辺に集まった近江衆を眺めていると、その中に対い鶴の旗印が見える。 それは蒲生家の旗であり、当然だが蒲生家当主の蒲生賢秀の姿が見える。 だが彼の隣には、一人の若武者の姿がある。 それはつい先日に織田信長の娘である冬姫と婚姻した蒲生頼秀の姿があった。
さて他の近江衆の者達と同様に蒲生家からの人質でもあった彼が、何ゆえにこの地へ戻って居るのかと言うと織田信長の命によるものである。 実は蒲生頼秀だが、冬姫との婚姻後に蒲生家へ冬姫を伴って戻っていたのだ。
これはある意味で、彼が特別だと公言していると言っても差し支えがない。 近江国最大勢力の家であった六角家ですら、人質として六角義治が岐阜に居る。 その事情を鑑みれば、今回の措置が如何に特別な物かが分かると言う物であった。
そんな事情を知ってか知らずか、蒲生頼秀が嬉しそうな雰囲気を醸し出しながら義頼へと近づいてくる。 そして喜色を浮かべたまま、兄とも慕っている師匠へ話し掛けたのであった。
「左衛門佐様と馬首を並べて出陣など、久し振りにございます」
「そうだな……約三年振りか。 公方様を伴っての上洛で、畿内を転戦して以来だろう」
「三年、もうそれほどになりますか」
光陰矢のごとしでは無いが、義頼自身戦に追われた日々であった。
織田家に降伏後、上洛の軍勢の一部として参加。 その後は、畿内における三好家討伐に奔走した。 翌年の一月には、【本圀寺の変】を切っ掛けとしたやはり三好家との戦い。 同年中には但馬国へ侵攻し、山名家を屈服させていた。
更に去年、朝倉討伐があったかと思えば浅井家の内訌によって頓挫してしまう。 その後は、三度目となる三好家との戦とそれに付随して起きた石山本願寺主導による一向一揆に朝倉家の侵攻と比叡山延暦寺の蜂起と討伐と戦に明け暮れたと言っていい三年であった。
そんな過去をしみじみと思い出している師弟の二人であったが、そこに声が掛かる。 声を掛けたのは誰であろう、今年から義頼の小姓となっていた水口盛里の嫡子に当たる新三郎であった。 その彼によれば、尼子勝久が面会を求めていると言う。 面会の予定などなかった筈だがと内心考えながらも義頼は、彼を通す様に告げた。
程なくすると、尼子勝久が新三郎の案内で部屋に入って来る。 彼は部屋に入ると、下手に腰を降ろしてから義頼へ一つ頭を下げた。
「何用かな、尼子殿」
「はっ。 最早ご存じかも知れませぬが、一つお知らせしたい事があります」
「知らせたい事?」
尼子勝久の言葉に、義頼は眉を顰めた。
この言い分から、尼子勝久と面会の予定がなかったと言う自分の記憶に間違いはない。 しかしてそれは、緊急に会う必要がある何かがあると言う事に他ならない。 それを警戒してか訝し気とも言える表情を浮かべている義頼に対し、訪問してきた尼子勝久は、一つ断りを入れてから自身の懐に手を入れる。 間もなく懐から出た手には、一通の書状が握られていた。
すると殊更に眉を寄せつつ書状を受け取った義頼は、中身を読み始める。 すると不審げな表情は消え、代わりに興味が勝ったかの様な表情となった。
だが、それもそうであろう。
何とそこに記されていたのは、一代の英傑とも謀神ともされる毛利元就の死であった。
織田信長と面会した立原久綱が尼子勝久の元へと戻り尼子衆の脱出を図った頃には、既に毛利元就は重篤の身となっている。 尼子勢が未だに山陰に居たにも拘らず山陰を担当していた吉川元春が毛利家の居城である吉田郡山城へと向かっていたのだからかなり危険であったと分かる。 そしてついに、毛利元就の寿命がいよいよ尽きたのだ。
とは言え、内容が内容である。 内心では嘘ではないだろうと思いつつも義頼は、思わずと言った感じで尼子勝久へ書状に記された内容の是非について問い掛けた。 すると彼から、はっきりと病没したとの返事が戻ってくる。 その言葉を聞いた義頼は、目を閉じながらも天井を仰ぎ見た。
「……そうか、あの御仁が亡くなったか」
「はい」
「尼子殿。 ご一報、感謝致しますぞ」
「はっ」
尼子勝久が部屋から下がると、義頼は障子を開けて外を見る。 するといつの間にか、雨が降り始めていた。
「ふむ、毛利元就。 あの一代の英傑も、寄る年波には勝てなかったという訳か。 しかし残念だ、尼子衆には悪いが一度会ってみたい御仁ではあったのだがな」
本当に残念そうな表情を浮かべながら、義頼は一言呟いていた。
それから数日もしないうちに、伊賀国に居る本多正信からも毛利元就が亡くなったとの知らせが届く。 すると義頼はその日のうちに書状を認め、織田信長へ毛利元就が死亡した事を報告した。
丁度その頃、招集を掛けた近江衆が観音寺城に勢揃いする。 また、それに前後する様な形で観音寺城に佐久間信盛と丹羽長秀がそれぞれの居城から軍勢を率いて到着したのであった。
何ゆえに二人が観音寺城に来たのか、それは織田信長の命による物である。 と言うのも、義頼と佐久間信盛と丹羽長秀の三人は一緒に進軍する様にとの命が、三人に届いていた為であった。
因みに彼ら三人の中で、名目上の大将は佐久間信盛が務める事となっている。 彼は織田家重臣筆頭と言う立場にあるので、その措置は当然と言えた。
こうして近江国に集合する面子の準備が揃ってから暫くした頃には、織田家全体においても全ての用意が整う。 すると織田信長は、東濃にて甲斐武田に備えている柴田勝家と河尻秀隆。 それから、石山本願寺の動きに備えている塙直政と明智光秀を除く織田の将を全てを動かした。
正に、織田家の総力を挙げたと言える出陣であった。
当然だが織田信長の出陣とそれに伴う出陣の命は、観音寺城へも届く。 すると義頼は進藤賢盛と永田景弘に後を任せると、佐久間信盛と丹羽長秀、そして近江衆と共に城から出立したのであった。
彼らの軍勢は街道を進み、まず甲賀郡に入る。 すると出迎えた望月吉棟以下、甲賀衆を軍に加えた。 その後、伊賀国で主要な六角家臣と更には伊賀衆を更に加えると、伊賀国の抑えに義定を残す。 そして義頼と佐久間信盛と丹羽長秀は、伊勢国に進軍を開始したのであった。
岐阜城を出陣した織田信長がまず向かったのは、弟の織田信興が居る勝幡城であった。
嘗ては織田家の居城であった勝幡城であったが、この頃には廃城に等しい存在となっている。 しかし皮肉にも織田信興が小木江城から退去し勝幡城へ入った事で、再び活気を取り戻していた。
仮にも織田一門が入っている城である、荒れ放題と言う現状のままにしておく訳には行かない。 それでなくても小木江城を放棄した事で、勝幡城は一向宗との戦における最前線の城と言っていい状況となっている。 そんな城を織田信長が、放棄したままにしている筈もなかった。
援助もあり、早々に往年の状態を勝幡城は取り戻す。 こうして急速に城としての機能を回復させた勝幡城が、そこにはあった。
「久しいな、信興」
「はい兄上、真に」
思いの外元気そうな弟に、織田信長は小さく笑みを浮かべる。 だが直ぐに表情を引き締めると、厳かに命を出す。 それは、先鋒の役目であった。
如何なる理由や事情があろうとも、結果として織田信興は小木江城を失っている。 織田信長自身は全く気にしていないのだが、信賞必罰はやはり行わない訳には行かない。 そこで小木江城を失った事に対するある種の懲罰的な意味も込めて、織田信長は織田信興へ先鋒を命じたのだ。
その一方で織田信興としては、渡りに船と言える。 一向宗蜂起に伴い小木江城を失った事は、棘の様に彼に刺さっていた。 何と言っても、彼自身は一向宗門徒と一戦も交えていないのである。 それであるにも拘らず、形としては一向宗門徒に敗れたのと何ら変わりがない状態なのだ。
その様な身の上で、雪辱を果たす為に進撃をとは幾ら織田信長の弟であったとしても言い出せなかったのである。 しかし織田家当主である織田信長自身が出陣し、かつ命が出たのであれば話は別である。 織田信興は名誉を挽回するべく、静かに意気込みを燃やすのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




