第五十二話~妊娠と婚儀~
第五十二話~妊娠と婚儀~
甲斐国府中、躑躅ヶ崎館。
そこは、甲斐武田家現当主の武田信玄が住む館である。 その躑躅ヶ崎館内にある広間で、武田信玄は戦の報告に館を訪れた秋山虎繁と話をしていた。
「申し訳ありません。 大した戦功も上げられずに」
秋山虎繁が平伏しつつ武田信玄へと告げた言葉をもし遠山一族の者が聞いたら、さぞ怒りに震えたであろう事は想像に難くなかった。
美濃遠山氏の総領格の家である岩山遠山氏の当主である遠山景任は、秋山虎繁との戦で重傷を負っている。 その上、一族の者である明智遠山氏の当主であった遠藤景行は討ち取られているのだ。
そればかりか、秋山虎繁の侵攻によって東濃における幾つもの砦が落城の憂き目にあっている。 それだけの戦功を挙げておきながら、この男は大した戦功が無いと言ってのけたのだ。
「虎繁。 そんな事は無いぞ。 そなたは十分、役目を果たしておる」
「その様な事はございません、御屋形様」
「いや。 虎繁は確かに役目は果たした、それは間違いないぞ」
「ですがおやか……」
更に言い募ろうとした秋山虎繁に対して武田信玄は、途中で片手を挙げる。 その仕草に口を噤んだ秋山虎繁に対して、武田信玄は再度口を開くと言い聞かせる様に言葉を吐いていた。
「いいか虎繁、そなたは役目を果たしたのだ」
「……はっ」
「とは言え、そなたの気持ちも分からないではない。 何れ雪辱を果たす機会を与えてやる、それまでその気持ちは取っておけ」
「御意」
納得した訳ではないが、何れは雪辱を果たせるならばと秋山虎繁は武田信玄に頭を一つ下げてから部屋より出ていく。 そんな家臣の後ろ姿を見ながら、彼は内心で確かに役目を果たしているのだと呟いていた。
実は武田信玄が秋山虎繁に負わせた役目とは、東濃への侵攻が全てでは無い。 むしろ、彼に伝えていなかった事の方が中心であった。
武田信玄が秋山虎繁を美濃国へ侵攻させてまで知りたかった事とは、織田家の反応だったのである。 摂津国への三好家の侵攻や朝倉家による近江国への侵攻、それに伴い起きた顕如率いる一向宗の蜂起などと言う風に織田領内で戦が続いたので、武田信玄は丁度いいとばかりに秋山虎繁に織田領内への侵攻を命じたのだ。
この反応次第で、今後の方針を立てる腹積もりだったのである。 すると思った以上に織田家の対応は手際が良く、侮れない事が判明したのだ。
「……何であれ、虎繁のお陰で織田は中々に油断出来ん事が分かった。 拙速に事を進めると足を掬われかねん、此処はじっくりと進めるとするべきだな……それに、念の為にと張った策を、潰した者もいるみたいだからのう」
武田信玄の言う策とは、天台座主だった覚恕法親王に対する物であった。
と言うのも彼は、此度の織田家に対する一連の攻勢に延暦寺の存在がある事を知ると、武田家の忍び衆である三ツ者に密書を持たせて法親王に届けさせていたのだ。
その理由だが、実は武田信玄にある。 それは、彼が延暦寺より権大僧正に任じられているからだ。 そこで繋ぎと言う意味も込めて書状を送ったのだが、その書状が覚恕法親王の元に届いて間もなくした頃に坂本の町が織田家によって抑えられたのである。 更には朝廷より奉書が出たと聞き進退窮まったかと感じた覚恕法親王が、渡りに船とばかりに武田信玄の庇護を得ようと考えた理由が正しくそれであった。
「……やはり、調べてみるか。 誰かある、盛清を呼べ」
「はっ」
命じられた小姓は、即座に部屋から出て行った。
すると、そう間を開けずに一人の男が武田信玄の前に現れる。 その者の名は出浦盛清と言い、武田家忍び衆である三ツ者を統べる者の一人であった。 そこで武田信玄は、平伏している盛清へ新たな命を出す。 それは、武田家が織田家へと入れている探りを更に強化する様にとの指示であった。
いきなり告げられた人員追加の命に、出浦盛清は訝しげな顔をする。 しかし、御屋形たる武田信玄直々の命である。 彼は了承すると、一つ頭を下げてから武田信玄の前より辞していた。
その後、出浦盛清は配下の三ッ者より追加の人員を抽出すると、彼らを前にして武田信玄から出された織田家への調査強化を命じる。 命を受けた追加の三ッ者達は、静かに仕事へと取り掛かるのであった。
さてその頃、義頼はと言うと新たに与えられた伊賀国にて領地経営を行っていた。
だが、伊賀国で張り付けとなっているかと言うとそうでもない。 城代を務める観音寺城へも、戻ったりしていた。 彼の城には甥の大原義定が代理を務めている為、ある程度の仕事については彼がこなしてくれている。 しかし代理は代理でしかなく、大原義定では処理できない問題も中にはあるのだ。
その為、どうしても移動せざるを得ない。 そこで義頼は伊賀国阿拝郡や甲賀郡、更には観音寺城へと移動を繰り返していた。 そうして彼にしか処理できない様々な案件に対応しつつも、新たに旗下へと入った伊賀国人や南近江国人の取り纏めを行って行く。 それは忙しくもあるが、しかしながら戦の無い日々であった。
やがて季節も移ろい桜の蕾も綻び、桜の花が咲き始めるそんな頃、偶々観音寺城へ戻っていた義頼の元に報せが届く。 それは、蒲生頼秀からの書状であった。
何であろうと思いつつそこに記されている文章を見た義頼は、喜色を表す。 傍らで夫の表情を見たお犬の方は、やんわりと理由を問いただした。 すると義頼は、手にしていた書状をお犬の方へと渡す。 そこには、凡そ半月後に行われる頼秀と冬姫の婚儀への招待状であった。
「まぁ。 これはこれは……良い事が続きますね」
「真にそう……は? いい事が続くとはどう言う事だ?」
そう言いつつ義頼は、お犬の方の言葉に眉を顰めていた。
蒲生頼秀と冬姫の婚儀だが、確かに慶事である。 しかしながらつい最近に他の慶事があったなど、義頼はとんと耳にしていなかった。 だからこそ、疑問を呈したのである。 だが当のお犬の方はと言うと、夫の考えを知ってか知らずか笑みを浮かべながら頷いていた。
そんなお犬の方の反応に、義頼はますます訝しがる。 すると彼女は、義頼に近づき彼の手を取るとそっと自らのお腹に手を添えたのである。 己の妻にその様な仕草をされれば、自ずとお犬の方が話そうとしている事に予想がつく。 義頼は少し声を震わせながら、問い掛けたのであった。
「ま……まさか、お犬……もしかして、そなたは……」
「はい。 此処に、あなたと私のやや子が居ます」
「ま、真か!……ここに俺とお犬の子がいると……」
そう言うと義頼は、恐る恐るといった感じでお犬の方のお腹をさする。 そんな夫の様子に、お犬の方は微笑みを浮かべてしまった。
「あなた、そんなこわごわといった感じでさすらなくても大丈夫ですよ」
「そ、そうは言ってもだな、俺とお前の子が、そこに居るのだろう?……と、そうだ! 早速、兄上や皆にも知らせねばなるまいて!」
そう言った途端、まるで脱兎のごとく出て行こうとする義頼に、お犬の方はやはり笑みを浮かべたまま諭す様に落ち着く様にと忠告した。
何と言っても、まだ妊娠が判明したばかりなのである。 慌てるには、早すぎるのだ。 寧ろ慌てた事で、夫が怪我を負ってしまうのではないかという方がよっぽど心配であった。
お犬の方からやんわりと注意を受け、義頼も自身の様子に気が付く。 すると彼は、何とか自らを落ち着けようと大きく息を吸いそして吐くを幾度か繰り返す。 そのお陰もあってか、義頼の高ぶっていた気持ちは少し落ち着きを取り戻していた。
「あなた。もう、大丈夫ですか?」
「ああ、何とかな……だがこれで、お犬は頼秀と冬姫様の婚儀には参加できぬな」
「何ゆえですか?」
「おいおい。 何ゆえも何もお前、妊娠したのだろう? まさかその体で、婚儀に参加する気か?」
「ええ。 それに今ならば、そこまで心配しなくても大丈夫です」
「そ、そうなのか?」
「はい。 ですから、私も岐阜に参ります」
「そ、そうか……」
所詮、男に子を宿した女の事など分かる筈もないのだ。
結局、半ば押し切られる形でお犬の方の同行に同意してしまう。 その後、義頼は家中の者に対してお犬の方が懐妊した事を告げる。 すると義頼の家臣達にとって待望といっていい報せに、大原義定以下の家中の者達は大いに喜びを浮かべた。
何と言っても、初めての義頼の子供である。 六角家臣として、喜ばないなどあり得なかった。
また、祝いはそれだけでは留まらない。 お犬の懐妊を知った元六角家臣の者達からも、祝いの言葉を記した書状などが幾通も届く。 それらの書状を、義頼は嬉しそうに読み耽っていた。
同時に義頼は、人質として岐阜に居る六角義治、並びに京に居る兄の六角承禎へお犬の方が妊娠した事を記した書状を出す。 すると程なくして京の兄や岐阜の甥からも、お犬の方懐妊に対する祝いの書状が届いたのであった。
こうしてお犬の方の妊娠が告げられてから十日程経った頃、義頼はお犬の方を伴って観音寺城の六角館より出立する。 義頼とお犬の方の一行は街道をゆっくりと進み、凡そ通常の倍近い時間を掛けて漸く岐阜城下へと到着した。
そのまま彼ら一行は、六角家が岐阜城下に宛がわれている屋敷へと顔を出す。 するとその屋敷では、六角義治以下の者達が雁首揃えて待っていたのであった。
「義頼、よく来たな」
「ああ」
「それとお犬の方様の懐妊、誠に目出度い。 心より、祝福するぞ」
「おう。 ありがとう、義治」
「だが……早いからかもしれないが、目立たない物なのだな」
「これが普通なのか、そうでないのかさっぱりわからん。 正信の妻は気にしなくても大丈夫、とは言っているがな」
義頼は初めての子であるし、六角義治には子がいない。 なのでどちらも、我が子が生まれたと言う経験をした事がないのである。 幸い、本多正信の妻は既に子を産んでいるのでこの夫婦は己の時の経験を義頼へ話している。 だが実感がないので、言葉以上の物は分からなかったのであった。
しかしてそれは六角義治も同じらしく、感心しているだけでしかない。 やはり経験が無い事には、対処の仕様がなかったのだ。
「ほう……そう言うものなのか?」
「そう言うものらしいぞ」
ある意味間抜けと取れる会話を繰り広げた両名であったが、翌日になると織田信長を屋敷に訪ねている。 やがて主君との面会が叶うと、そこで岐阜に到着した挨拶とお犬の方が懐妊した事を告げていた。
「ほう。 頼秀と言う義理の息子が増える上に、妹が子を成した報せが届くか……犬」
「はい、兄上」
「体をいとえよ。 それとだな、母上にもお知らせしておけ」
「分かっております、兄上。 この後、参ろうと考えておりました」
「ならば良い」
その後、主の前を辞した義頼とお犬の方は、織田信長やお犬の方の生母に当たる土田御前の元へと向かう。 そこで土田御前にお犬の方の懐妊の事を告げると、彼女はいたく喜びを露わにした。
するとそんな母親の仕草に、お犬の方は少し恥じらう仕草を見せる。 そんなお犬の方の様子に、土田御前は愛おしげに嫁いだ娘を見つめていた。
だが直ぐに視線を、お犬の方から夫である義頼へと向ける。 そしてひどく真面目な表情をしながら、改めて娘の事を良しなにと言い募る。 義頼は己の胸を叩きながら、改めて義理の母親である土田御前へ「お任せ下さい」と言葉を返していた。
その後、暫く歓談してから義頼とお犬の方は土田御前の前から辞する。 二人揃って屋敷を出ると、六角家の屋敷へと戻る。 そして義頼とお犬の方は、明後日から始まる蒲生頼秀と冬姫の婚儀の為の準備を始めるのであった。
義頼が岐阜へと到着してから二日後、いよいよ蒲生頼秀と冬姫の婚儀が行われた。
ご他聞に漏れず都合三日間掛けて行われる婚儀だが、初日と二日目に関しては義頼達が係わる事など無い。 彼らが係わる事になるのは、花嫁のお披露目となる三日目だけであった。
やがてその三日目の当日、いよいよ冬姫のお披露目が行われる。 数えで十六才の蒲生頼秀と、同じく数えで十一才の冬姫の婚儀である。 傍から見れば、微笑ましいと言う雰囲気がしっくりとくる二人であった。
そんな初々しい夫婦へ、織田信長をはじめ婚儀に参加した者達が言葉を掛けている。 その中には、勿論義頼の姿もあった。 彼は、己の番になると蒲生頼秀へ祝いの言葉を掛ける。 それから、ゆっくりと酒を注いだ。 すると蒲生頼秀は、注がれた酒を一気に飲み干す。 その飲みっぷりは、中々のものであった。
「うむ。 いい飲みっぷりだぞ頼秀」
「いえ。 拙者などはまだまだです」
「そうか、では」
更にもう一杯、義頼は酒を注ぐ。 すると今度は、味わう様に飲んでいた。
その時、義頼はある事を思い出す。 それは、婚儀に関する祝いの品についてであった。 そこで義頼は、明日には届けると明言する。 その言葉に頷きながら、蒲生頼秀と冬姫は礼を言うのであった。
その後、義頼は頃合いを見て移動して場所を開ける。 何せ、他にも蒲生頼秀を祝いの言葉を述べようとしている者は居るので、幾ら新郎が弟子であるとは言え何時までも話をしている訳には行かなかった。
それを証明するかの様にこの蒲生頼秀と冬姫の婚儀には、摂津国から急ぎ戻って来た木下秀吉や義頼と何かと縁がある森可成と言った織田家臣はもとより、丹羽長秀や明智光秀などと言った織田家重鎮も参加していた。
「木下殿、お久しぶりです」
「おお、六角殿か。 久し振りに、岐阜に戻って来たわ」
「半年を越えるぐらいでしたか。 そうそう、明後日にでも某に摂津国の様子をお聞かせ下さい」
流石に婚儀という祝いの席で、殺伐とした戦の話など出来ないししない。 そんな義頼の配慮に木下秀吉は、小さく笑みを浮かべると了承した。 やがて夜も更けて来ると、新婚の頼秀と冬姫は会場から消える。 そんな二人を参加者達は、昔を懐かしむ様に見ていた。
なお、義頼は例外である。 まだ若いし、何よりまだ結婚して二年となって居ないのだから当然だった。
因みに義頼の用意した祝いの品だが、半分は角倉了以を通じて買い求めたものである。 そして残りの半分は、伊賀国で作らせた焼き物と漆器であった。
翌日、義頼はそれら祝いの品を自ら持参して蒲生頼秀を訪ねる。 まさか義頼自ら来るとは到底思っていなかった彼は、驚きを隠せなかった。
「まさか左衛門佐様が自らお越しとは、思いませんでした」
「昨日言っただろう、届けるとな。 俺は、誰かに届けさせるなどとは言わなかった筈だぞ」
「そ、そうでしたか?」
「ああ。 まぁ、それは兎も角だ」
そう前置きしてから義頼は、祝いの品を蒲生頼秀へ差し出す。 そんな祝いの品の数々を、恭しく受け取っていた。 その後、二人は暫く語らっていたが、蒲生頼秀の頼みで祝い代りに義頼が茶を点てる事となる。 すると冬姫も参加して、夫婦で茶を楽しんでいたのであった。
その日は蒲生頼秀の屋敷に夕刻までいた義頼だったが、流石に新婚の家に泊まるなどはしない。 日が暮れる前に彼は、屋敷を辞去した。
明けて翌日、義頼は供の者を連れて木下秀吉の屋敷に向かう。 彼の屋敷に到着した義頼は、客間に通される。 暫く待っていると、木下秀吉が部屋に入って来た。
「やぁ、すまぬ。 何かと忙しくて。 お待たせして申し訳ない」
「いえいえ。 そんなに待っておりませぬ故、お気になされません様に」
「そうですか。 して六角殿、摂津での話であったな」
「はい。 是非ともお話を聞きたくて、厚かましくもお願い致しました。 それとこれは大したものではりませんが、土産代りとお考えください」
そう言うと義頼は、蒲生頼秀にも土産とした伊賀国で作成した漆器を差し出す。 最も、蒲生頼秀に渡した物より数は少なく派手さも余りない物だった。
まさか手土産などがあると思っていなかった木下秀吉だが、嬉しい事に変わりはない。 彼は少し表情を緩めながら、義頼の土産を受け取っていた。 その後、木下秀吉は一つ咳払いをすると摂津国での戦の事を話し始める。 彼は、時には大袈裟に時には淡々と話をする。 そんな木下秀吉の話を、義頼はじっと聞いていたのだった。
「……という状態でしてな、摂津における三好康長や篠原長房らの力は中々侮れぬ。 また摂津だけでなく、和泉にも力がかなり伸びておる。 河内は左京大夫(三好義継)殿が戻られた故、その様な事になどなっておらぬが」
幸いと言っていいかは分からないが、義頼が忍びを使って集めた情報と大きなところでは変わらなかった。 その事には内心安堵したが、和泉国への康長ら三好家の蚕食が思いの外進んでいる事には眉を顰めたのであった。
「ふむ。 やはり、経験した方の話は違う。 それに木下殿は、実にお話が上手いですな。 思わず引き込まれそうでした」
「お、そうかの」
「ええ、真に……っと、思いの外時が過ぎてしまいましたな。 名残惜しいですが、これにてお暇いたします」
「うむ。 また来て下され、六角殿」
木下秀吉は共に門まで行くと、わざわざ見送る。 義頼も一つ頭を下げてから、供の者と共に岐阜城下の屋敷に戻って行くのであった。
地味に営業紛いな事を義頼がしてますが、気にしないでください(笑)
ご一読いただき、ありがとうございました。




