第四十二話~不運~
第四十二話~不運~
近江国内にある一向宗の寺である湖北十ヶ寺攻めを森可成に任せた義頼の元に、忍び衆からの報告が齎された。
その内容だが、沼田祐光が予測して義頼へ告げた通り、石山本願寺攻めを行っていた織田信長が陣を払い摂津国より撤退をする旨である。 彼から聞いていたとは言え、近江国の戦線が縮小されなかった事に内心で安堵していた。
それから一刻も経たないうちに、今度は別の場所からの使者が義頼の元を訪れる。 その使者は甲賀衆の篠山資家であり、彼は現在義頼の命で六角承禎付となっている。 即ち兄からの使いの者と言う事であるのだが、何故に六角承禎が使者を出したのか予測が付かなかった。
とは言え、あの兄が理由もなく使者を出すとは考えづらい。 しかも義頼が、北近江で朝倉勢と対峙している事は承知している筈である。 となれば何か想定外の事でもあったのかと訝しがりながらも、義頼は篠山資家と面会をしていた。
目通りが叶うと、彼は早速懐より六角承禎より託された書状を差し出している。 その書状を受け取った義頼は、読み進めて行く。 やがて彼の表情には、驚きの色が強く帯びて来るのであった。
「これは本当か!」
「はっ」
「延暦寺が……分かったご苦労だった」
「御意」
そう一言残すと、篠山資家が義頼の前から消える。 その直後、彼は小姓の水口正家に浅井長政を丁寧に案内する様に命じる。 他にも吉田重綱に命じて、沼田祐光などを呼び出していた。
やがて朝倉勢と対峙する主だった者達が集まると、義頼は篠山資家が齎した情報が書かれた書状を彼らに見せる。 その内容に、皆は一様驚きの表情を浮かべていた。
やがて、そのうちの一人が信じられないと言う表情のままに義頼へと問い掛けて来る。 その者とは、平井高明だった。 彼は六角家の重臣中の重臣とまで言われた六角六宿老の一人であった、平井定武の嫡子である。 しかし彼と彼の父親である平井定武は、織田信長の侵攻時に織田家へと降伏していたのだ。
とは言え、義頼がその判断を責めた事などない。 むしろ、織田信長が軍勢を率いて上洛した際に起きた六角家中の謀反騒ぎに加担していない辺り、流石の判断と言えた。
その様な経緯も理由であるが、元々平井家は近江衆の中でも上位と言える家である。 今回の摂津国出陣に際して義頼が集めた近江衆の中では、間違いなく筆頭扱いである。 その為、彼はこの北近江に向かった軍勢の中では義頼の副将という立場にあったのだ。
「うむ高明、嘘ではないだろう。 少なくとも兄上に、俺達を騙す理由が無い」
「それは……確かにそうですね。 しかし此度の朝倉、池田、三好、本願寺の一件に延暦寺までもが名を連ねている可能性があるとは。 ところで備前守(浅井長政)殿、何も知らなかったですかな」
平井高明に問われた浅井長政は、静かに首を振った。
これは勿論嘘ではなく、本当に知らないのである。 延暦寺が此度の騒動に関わっているなど、今は亡き父親からも全く聞き及んでいなかったのだ。 仮にもし知っていれば、浅井長政は間違いなく織田信長へ報告した筈である。 詫びを入れ、父親の首を差し出しただけでなく、己の命すらも差し出す覚悟を見せる事でかろうじて浅井家の存続を勝ち得たばかりなのだ。
その様な時期に織田信長へ隠し立てをするなど、本末転倒となりかねない事態を招く事となる。 それだけは、何としても避けたい浅井長政であったからだ。 そして彼の言い分は、問うた平井高明は無論の事、この場に居る他の者にも納得できる話である。 それはもし己が浅井長政の立場であれば、少なくとも情報を隠す様な事をしないのは想像に難くないからであった。
それはそれとして、今は延暦寺である。 早急に、対応をしなければならいのは自明の理であった。 事と次第によっては海津に居る丹羽長秀は無論の事、大原義定の居る江南に影響が出かねない。 いやそればかりか、弟の救援の為に長島へ向かおうとしている織田信長の軍勢すらもどうなるか分からなかった。
「それは、確かに。 となれば、如何なさいます?」
「丹羽殿に知らせるのは当然として、延暦寺に対しては高島七頭を当てようと思う。 どうであろう備前守殿」
「ふむ……それはいい。 拙者からも、高島越中守に書状を送ろう」
高島七頭は元々六角家家臣であったが、【瀬田・布施山の戦い】後の交渉で高島七頭の筆頭の高島家、その高島家の分家筋に当たる平井家(平井定武とは別の平井家)と田中家、そして山崎片家とは別系統となる山崎家は浅井家臣となっていた。
しかし先の越前侵攻時における浅井家離反に対する沙汰の一環として、織田家より高島郡を召し上げられてしまう。 その為、彼ら四家は織田家直臣となり近江衆に名を連ねていた。 そして義頼だが、今回の近江国への援軍の際に近江衆全てを差配する許可を織田信長から得ている。 それ故に彼は、今は待機させている高島七頭を動かす決断をしたのだ。
また前述した通り、高島家と平井家と田中家と山崎家は織田家直臣であるが以前は浅井家臣である。 それであるからこそ、浅井長政が高島七頭の筆頭家当主である高島越中守へ添え状を出すと言い出したのであった。
因みに高島七頭の残りの三家である朽木家と永田家と横山家であるが、彼らも近江衆に名を連ねている。 そして彼らもやはり、待機状態であったのだった。
「他にも雄琴城主の和田殿や、真野城主の真野殿を加えれば宜しいかと」
「秀純に元貞か……そうだな、それでいこう」
そんな義頼や浅井長政の言葉に続いて沼田祐光が補足をすると、義頼も同意した。
彼が名を挙げた雄琴城主の和田秀純や真野元貞もまた、それぞれの居城にある。 そして彼らの居城があるのは志賀郡であり、比叡山延暦寺の近くであった。
つまり兵を起こした延暦寺に対して足止めするにしても、また将兵の拠点とするにしても都合がいいのである。 更に両城で連携していれば、万が一延暦寺から兵が出てきたとしても対応できると言う利点もあった。
こうして対応を纏めると、義頼は海津に駐屯している丹羽長秀に齎された情報と対応を記した書状を送る。 同時に高島七頭の各家や、雄琴城主の和田秀純と真野城主の真野元貞にも書状を送り、「万が一に備えておく様に」との指示を出したのであった。
さてその頃、疋檀城に居る朝倉義景はと言うと、とても機嫌が悪かった。
その事を示すかの様に、彼は眉間にしわを寄せている。 そればかりか、胡座をかいている己の膝を指で何度も叩いている。 何ゆえにそこまでかの機嫌が悪いのかと言うと、その理由は朝倉家を取り巻く今の状況にあった。
本拠地の一乗谷から兵を押し出してきたはいいが、疋壇城から先に進めていない。 義頼と丹羽長秀、それと浅井長政の連合勢によって、完全に街道を封鎖されているからである。 このままでは、どう頑張っても進撃などままならないからだ。
勿論、自軍の犠牲を全く考えなければ突破する事も出来ないとは言わない。 しかし、それでは意味が無くなってしまう。 あくまでも義景の目標は、京の都に朝倉家の旗を立て織田家を駆逐する事だ。
「くそっ! このままでは動くに動けん。 近江の一向衆も、この様子では当てになるまい。 それに、刀根坂の景鏡からの書状もある。 さて、どうするか……」
更に朝倉家別動隊を率いて刃根坂で陣を張る朝倉景鏡から、今後の動きについて窺う書状も届いている。 しかし現状、朝倉義景に打つ手がないのだ。
それに、下手に朝倉景鏡を動かしてしまうと義頼と浅井長政が北国街道を北上しかねない事を彼は懸念している。 それ以上に朝倉義景は、こうして疋檀城で足止めされている現状など想定していなかったのだ。
その現実が、たまらなくもどかしい。
すると彼は、朝倉景鏡から届いていた書状をいらだたしげに放り投げる。 それから何とはなしに横になった彼の目に、部屋に置いてある文箱が目に入った。 その文箱を目にした途端、義景はある事を思い出す。 彼は起き上がると文箱を開き、中に入っている書状を探り始めた。
やがて義景は、一つの書状を探し出す。 その書状には此度の件に参加する者達の名が書いてあり、義景や浅井久政の名が連ねてある。 それだけではない、その書状の中には比叡山延暦寺の名も連ねてあった。
己の記憶が間違いでなかった事を確認した朝倉義景は、喜びを表す。 これで、膠着状態に陥ってしまった現状を動かせるからであった。 その後、彼は自ら書状を認めると側近の鳥居景近を呼び出す。 そして彼を使者に任じると、延暦寺へ向かう様にと命じた。
朝倉義景より命を受けた鳥居景近は、その日のうちに疋壇城を出ると北へ向かう。 本来であれば南へ向かうところであるが、先ほど述べた通り街道は織田勢と浅井勢によって封鎖されているので通行は出来ない。 そこで彼は、一度敦賀に戻るとそこから若狭国に入る。 そして同国を抜けて山城国に入ると、そこから比叡山延暦寺へと向かったのであった。
その延暦寺だが、織田信長が明智光秀との会話で述べた通り織田家と対立する理由がある。 それは、嘗て延暦寺が畿内に有していた寺領にあった。
それと言うのも織田信長は、畿内を平定した際に延暦寺の寺領も横領していたのである。 当然の事ながら延暦寺は怒りを覚えたが、足利義昭を擁している上に日の出の勢いを持っていた織田家へ面と向かって文句を言うのも憚られた。
そこで延暦寺は朝廷を動かし、寺領を返還する旨を記した綸旨を賜ったのである。 しかし織田信長は、なんだかだと先延ばしにて未だ返還していなかったのだ。 その矢先に起きたのが、三好勢による畿内奪還を目的とした侵攻である。 そこに、一向宗率いる顕如が加わったのだ。
こうして、三好家と朝倉家と一向宗門徒を主軸とした織田家包囲網が完成したのである。 そこには、摂津池田家と大和国の筒井家も関わっていた。
「さて、皆の衆。 如何致そうか」
そう言って尋ねたのは、天台座主を務めるの覚恕法親王である。 彼は皇族であり、父親は後奈良天皇であった。 そんな貴種とも言える覚恕法親王だが、彼は先年より天台座主の地位にある。 その彼の元に、二つの書状が届けられたのである。 すると彼は、その書状の内容から一人で判断する事はせずに延暦寺の高僧達を集めたのだ。
因みに二つの書状だが、差出人はそれぞれ別である。 一つは、朝倉義景の命を受けた景近によって齎された物である。 ならばもう一つはと言うと、それは顕如からの書状であった。
彼が覚恕法親王へ書状を出した理由は、近江国内の一向宗に対する一手である。 顕如は近江国の一向衆の手助けを、延暦寺に願ったのだ。 だが正覚院豪盛などの延暦寺高僧達は、あまり乗り気では無さそうである。 そしてそれは、他の僧侶達も同じであった。
また、彼らばかりではない。 覚恕法親王としても、あまり乗り気ではなかった。 もし朝倉勢が疋壇城ではなく、既に高島郡か志賀郡にまで兵を進めていれば違った判断をしていたであろう。 しかし現実には、近江国内にすら侵攻ままならない状況である。 とてもではないが、兵を挙げようとは思えなかった。
この点において、覚恕法親王も正覚院豪盛らも同じ気持ちである。 そこで彼らは適当に返事をして、時間を稼ぐ手を打つ事に決めた。
顕如の方はまだ楽である、書状で適当にお茶を濁していればいいからである。 しかし、実際に使者を派遣してきた朝倉家には同じ手を使う事は難しかった。 だが、そこは説法などを行う僧侶である。 巧みな話術を持って、景近を煙に巻いていった。
もし使者が、鳥居景近以外の者であれば完全に煙に巻かれていたかもしれない。 しかし彼も、義景の側近として長年仕えてきた者である。 彼は寸でのところで延暦寺側の意図を見破ると、逆に喰らい付いたのだ。
それでも延暦寺側は、のらりくらりと鳥居景近の物言いをかわしていく。 だが皮肉な事に、このいわば時間稼ぎが延暦寺の仇となってしまった。 何と朝倉家から助力を促す書状と使者が来ている事を知った延暦寺僧兵の一部が、暴走したのである。 彼らは延暦寺を出ると、坂本の町を抑えてしまう。 そればかりか、森長可が城代を務めている宇佐山城へと打ち掛かったのだ。
その事実を知らされた天台座主の覚恕法親王や正覚院豪盛達は慌てたが、後の祭りでしかない。 彼らの思いとは裏腹に、織田家と延暦寺の対立が事実として生まれてしまったのだ。
この知らせを聞いた義頼は、直ぐに待機させていた高島七頭に書状を送り比叡山に向かわせる。 同時に丹羽長秀へも書状を出して、状況を伝えた。
また、同様の書状を和田秀純や真野元貞にも送り出陣を命じている。 すると真野元貞は、直ぐに真野城を出陣すると、雄琴城へと入ったのだ。
やがて真野元貞を追う様に、高島越中守を筆頭とする高島七頭が雄琴城に集結する。 こうなってしまっては、知らぬ存ぜぬなど不可能である。 此処に湖西でも、戦端が開かれたのであった。
なお延暦寺が動いたと言う知らせだが、義頼によって摂津国より陣を引き払って京に戻っていた織田信長の元へも届いている。 彼はその件に怒りを表したが、反する様に驚きの色は少ない。 その理由は、六角承禎にあった。
それは、織田信長と足利義昭が京に戻った日の事である。 首尾よく京へと戻った織田信長は、まず足利義昭を二条城に送っている。 その後、自身は本能寺に向かいそこで宿泊した。 しかしてその本能寺に、六角承禎が現れたのである。 しかも彼はその時、織田信長に対して手土産を持参していたのであった。
彼が持参した手土産とは、畿内における情報である。 現時点における池田家の内情ばかりか、これから織田信長が軍勢を率いて向かう近江国や伊勢長島を取り巻く状況が事細かに記されているのである。 京に戻ったばかりの織田信長にとって、これ以上の手土産などそうそうある物では無かった。
「お気に召しましたかな?」
「うむ。 とてもいい献上品だ」
「気に入られた様で何よりです。 では」
用が済んだとばかりに六角承禎は、織田信長の前から辞そうとする。 そんな六角承禎を、織田信長は呼び止めていた。
それは、褒美を与えようと考えたからである。 極最近の畿内における情報であり、その価値は値千金とも言える。 これだけの土産を齎された織田信長としては、このまま帰す事は沽券に係わる事態であった。
しかし六角承禎は、小さく笑みを浮かべるとゆっくりと首を振って褒美を固辞する。 それからゆっくりと口を開き、その理由を告げたのであった。
「弾正大弼(織田信長)殿、お気づかい無用にございます。 愚弟や愚息の代りに働いた、そう思し召し下されば幸いですな」
そう言ってから今度こそ六角承禎は、一礼してから織田信長の前から辞した。
彼が部屋を出て行くのを見送った織田信長は、小さく笑みを浮かべると六角承禎の持って来た報告書を改めて読み耽ったのである。 その結果、織田信長は翌日予定していた出陣を急遽取りやめる。 その理由は、六角承禎からの報告に此度の朝倉家と池田、三好家と本願寺の一件に寺領の件に起因して延暦寺が名を連ねている可能性があると書いてあったからだ。
此処で延暦寺が下手に動くと、色々と五月蠅いのが現状である。 そうなる前に、手を打っておく必要がある。 近江国侵攻を虎視眈々と狙っている朝倉勢が疋壇城に居る以上、それは尚更であった。
その手として考えたのが、明智光秀である。 織田信長は小姓に命じて彼を呼び出すと、京に残る様命じた。 驚いたのは、明智光秀である。 彼は織田信長に従い長島に行くつもりであったが為に、いきなり京の居留守を命じられれば当然であった。
その明智光秀に、織田信長は六角承禎の持って来た情報を見せる。 その内容と詳細に、驚きの表情を浮かべた。
「こ、これは! 本当にございますか」
「さあな。 だが、あ奴らが俺に逆らう理由はある。 それだけでも、警戒には値するだろうが」
「寺領ですか……分かりました。 ご命令通り、拙者は京に残りましょう」
「うむ」
それから程なくして、織田信長の元に義頼から延暦寺の一件が届いたのである。 そんな理由があった為、織田信長は怒りこそすれ驚く事が殆どなかったのだ。
何であれ、長島に向かう為には後顧の憂いを断つ必要がある。 予想より早い延暦寺の蜂起に行動が前倒しとなった訳だが、所詮は後先の問題でしかない。 明智光秀に一任する筈だった事が、己で対処する羽目になっただけであった。
そこで織田信長は、明智光秀に明後日出陣する様に下知をする。 だがその日の夕方、義頼から織田信長宛に第二の書状が届けられた。 そこには、対延暦寺として高島七頭と和田秀純と真野元貞を動かした旨を記してある。 己が動く前に兵を動かして対処したと言う義頼の書状を読んで、織田信長は薄く笑みを浮かべていた。
その後、この義頼の動きに便乗する形で明智光秀を動かそうと考えた織田信長は、彼を呼び出して義頼からの書状を見せる。 その書状に目を通した後、明智光秀は感心した様に一言漏らしたのであった。
「左衛門佐(六角義頼)殿も、良くそんな手を」
「まぁ、よいであろうが。 さて光秀だが、そこもとはまず宇佐山城に向かい救援しろ。 その後、延暦寺の僧兵共を雄琴城に入っている者達と連動して抑えよ。 最悪、俺が長島に到着するまでは絶対に延暦寺を押さえ切るのだ」
「御意」
その後、明智光秀は兵を率いて京を出陣する。 彼が向かった先は、当初の予定通り宇佐山城であった。 ある程度まで宇佐山城へ近づくと光秀は、手の物を放ち連絡をつける。 その連絡とは、明智光秀が宇佐山城へ押し寄せている僧兵へ夜討ちを掛けると言う物であった。
その連絡は、森可成より留守居役を命じられて城の守りについていた各務元正(鏡元正)の元へと届く。 すると、その書状を見ていた森家家臣の武藤兼友も頷いていた。
「となれば、機を見てこちらも呼応すればよいと言う事だな」
「うむ。 せっかくの夜討ちだ。 便乗しない手はない」
「だが、同志討ちにならぬか?」
そこで、やはり森家家臣の肥田忠政が懸念を示した。
だが、今回に限って言えば同士討ちの可能性は低いと言える。 何と言っても、敵の殆どが僧兵姿である。 幾ら夜目でも、僧兵姿と鎧姿を見間違える事など先ずはなかった。
しかし、物事に絶対ははない。 ましてや戦場であれば、予想できない事態が起きたとしても、何ら不思議はない。 そこで三人は話し合った末に、明智光秀の夜討ちに呼応して打って出る者全てに目印を付けておくことに決める。 また、万が一にも明智光秀の兵と同士討ちが起きない様にと、彼に対して目印について連絡を付けたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




