第三十九話~北近江の情勢~
第三十九話~北近江の情勢~
京に居た織田信治と言う援軍を加えた義頼と丹羽長秀は、六角水軍を率いる駒井秀勝と堅田衆棟梁の猪飼昇貞に使いを出して水軍を用意させるべく命を出した。
やはり湖北へ向かうには、陸路を行くより湖上を船で進む方が早い。 そこで義頼達は、大津の湊に用意させた六角水軍と堅田衆の船に乗り向かうつもりであった。 しかし彼らが、山城国と近江国の境である逢坂の関を越えた辺りで近江国内の情勢が齎されて来る。 報せてきたのは観音寺城に残していた蒲生定秀と、彼の護衛として共に現れた頓宮守孝ら甲賀衆によってであった。
その彼らから齎された情報によれば、近江国内の一向宗門徒が蜂起したとの事である。 その規模も中々に大きく、野洲郡にある金森御坊や観音寺城にほど近い新村城と小川城。 そして、湖北十ヶ寺とも呼ばれる一向宗寺院らであった。
「……石山本願寺の顕如が織田家に刃を向けた以上、一向宗門徒の蜂起は想定していた。 だが、これほどの規模か」
「はっ。 先ず金森御坊ですが、此処は川那辺秀政を筆頭に一向宗門徒どもが籠っております。 それから観音寺城近隣の新村城と小川城ですが、こちらも一向衆門徒らによって攻められ落ちました。 その為、山城守(進藤賢盛)殿と賢秀は観音寺より動けませぬ」
義頼の代理として観音寺城に残ったのは、蒲生定秀の他に彼の息子である蒲生賢秀と進藤賢盛である。 しかしながら新村城と小川城を一向宗門徒によって占拠されてしまった為、牽制の意味もあり動けないでいた。
また、一向宗寺院の系列となる湖北十ヶ寺も蜂起している。 この位置は、浅井家の領地と旧六角家の領地に相当する地域を分断する場所にあった。 その上、朝倉勢が今日明日にでも近江国内に侵攻して来る様な情勢にある。 このまま推移すれば、浅井家も近江衆も「前門の虎、後門の狼」の状態になりかねなかった。
「そうか。 新村城と小川城が落ちたか……して資則と祐忠はどうなった?」
「新村城主の志村資則とその息子の志村資良、それから小川城主の小川祐忠は何とか城を脱出して観音寺城に入っております」
「それは何よりだ。 となれば、両城を放っておくわけにもいくまい。 ここは、兵を分けるか」
「拙者は反対にございます」
義頼が漏らした一言に、丹羽長秀は賛同して頷いたが、二人に反対する者が居る。 それは、沼田祐光であった。 彼としては、兵を分けるという愚は避けたいのである。 新村城と小川城が落とされたと言う事自体は痛いが、かと言ってその一件が織田家にとり致命傷と言う訳ではないからだ。
しかも蒲生定秀の話によれば、一向宗門徒は金山御坊や新村城や小川城ら各拠点に籠っていると言う。 ならば彼らを牽制するに留め、義頼は浅井家の救援に向かい攻め寄せて来る朝倉家を迎え撃つべきであると考えたのだ。
確かに、後方に敵が居るという状況は好ましいとは言えない。 しかし一向宗門徒と朝倉家の軍勢とでは、齎される脅威は段違いである。 よって、先ずは一番脅威となる朝倉家の軍勢を破る。 そして返す刀で、近江国内の一向宗門徒を駆逐すればいいと想定したのだ。
しかし進言してきた沼田祐光の言葉に義頼は、暫く間、彼を見返していたのだがやがて視線を外すと目を瞑る。 何かを考えているかのような仕草であり、実際考えていた義頼であったがやがて目を開けると首を振った。
「祐光。 俺……いや俺と五郎左(丹羽長秀)殿は、この近江へ援軍として来た。 そうである以上、救援の手を差し伸べないという判断は出来ん」
「しかし、それでは兵の逐次投入となりかねません!」
「……すまぬな祐光」
義頼とて、あまりいい手だとは思ってはいない。
孫子にも「善く戦うものは、その勢は険にしてその節は短なり」とある様に、戦は短時間で一気呵成に攻めるのがいいとされているのだ。
しかし、義頼の軍勢の目的は救援である。 情勢が不利なところや危機のところがあれば、手を差し伸べないと言う訳にはいかないのだ。 だからこそ義頼は、内心で悪いとは思いつつも確り沼田祐光の目を見ながら謝罪の言葉を返したのである。 その目には、味方を見捨てないという決意に満ちており彼をして押し留めるだけの力を持っていた。
そんな義頼の様子に沼田祐光は、数度首を振る。 それから主へ視線を向けると、派遣する別動隊の大将は誰とするのかを尋ねる。 すると、自ら名乗り出る者がいる。 その者とは、義頼の甥である大原義定であった。
「義定、いいのか?」
「拙者も六角嫡流の血を引く者、殿の代理として力不足という事はございますまい」
「……そうだな。 義定、その方に江南の鎮定は任せた」
「御意」
それから義頼は、近江衆から青地茂綱と小倉実房を。 更に自らの家臣から、蒲生定秀と藤堂高則を同行させる事とした。
その日の夜、義頼と大原義定は二人だけで酒を酌み交わしていた。
明日になれば朝倉家と当たる事になる義頼は、浅井家の軍勢と合流する為に江北に向かう事となる。 それは、一揆を起こした一向宗鎮定の為に江南を進軍する事となる大原義定とは別れると言う意味である。 そこで、今夜の事はお互いを送別する意味あいがあった。
二人は取り立ててしゃべる事なく、黙って酒を酌み交わしている。 やがて暫くすると、やや唐突と言った感じで義頼が大原義定に礼を言った。
一瞬、何の理由で礼を言われたのか分からなかったが、やがて昼間の件かと当たりを付ける。 それから手にしていた杯をゆっくりと飲み干してから言葉を返した。
「あの場でも言ったが、俺も六角一門に連なる者だ。 別動隊の大将を務めるのは、自然だろう。 それに江南の国人に対しても、十分配慮しているとも言えるしな」
「まぁ、そうだな」
仮にも大原義定は、六角家先代当主である。 その点を考慮すれば、配慮不足などあろう筈もなかった。
「野洲郡が収まれば、成持が甲賀からも多少は兵を出すだろう。 それに義定は、景隆を加えるつもりだろう?」
「ああ。 だが義頼、良く分かったな」
「それは、俺でも同じ判断をするからだ」
「それもそうか」
すると二人は、一しきり笑った後でお互いの戦勝を祝って杯を軽くあわせる。 それから、一気に飲み干していた。
そしてその翌日、大津の手前で義頼率いる本隊と大原義定率いる別動隊に分かれる。 その後、彼は旗下となった軍勢を率いて山岡氏の居城である瀬田城へと向かって行った。
暫しの間、義頼は大原義定と彼の別動隊を見送っていたが、やがて大津の湊へ向けて進軍を再開する。 程なくして到着した大津の湊には駒井秀勝と彼の息子である駒井重勝が率いる水軍と、猪飼昇貞率いる堅田衆が居た。
しかし彼らとは別にもう一人、織田の将が待っていたのである。 その人物とは、宇佐山城主である森可成であった。
彼が宇佐山城より出陣してきた理由は、織田信治と同じく援軍である。 実は義頼、近江国へ向かう前に宇佐山城を預かっている森可成に対して書状を送っていたのだ。 味方とは言え直ぐ近くを軍勢が通るのであるし、何より彼は織田信長からの信頼も厚い将でもある。 それに万が一にでも浅井家が朝倉家の軍勢に敗れ突破された場合、京により近い志賀郡へ攻め寄せて来る可能性があったからだ。
つまり軍勢が近くを通る事に対する礼儀と、情報提供を兼ねた警告と言う意味で義頼は書状を出したのである。 一方でその様な朝倉家侵攻と言う知らせを受けた森可成はと言うと、城で守るより打って出る方が良いと判断していた。
急ぎ兵を整えた森可成は、半分を宇佐山城の守りに当て残りの兵二千程を率いて出陣する。 そして大津の町近くに軍勢を駐屯させて、浅井家の援軍に来る義頼を待っていたのであった。
「三左衛門(森可成)殿。 宇佐山城ですが、宜しいのですか?」
「うむ。 各務元正達と共に、兵を二千ほど残した。 あの者達なら、何とかするであろう。 それに朝倉家は、我が息子の敵でもある。 これも、良き機会と言う物だ」
「そう言えば、そうでしたな……分かり申した。 貴公の力、当てに致しましょう!」
「大船に乗った気持ちでいるといいぞ」
こうして織田信治と森可成と言う援軍を得た義頼と丹羽長秀の軍勢は、六角水軍と堅田衆の船に乗り琵琶湖を北上する。 しかし彼らは、その過程で義頼と丹羽長秀率いる二手に分かれた。
先ず義頼だが、彼は森可成と共に塩津に向かい、そこで上陸して浅井長政の救援に向かう。 そして一方の丹羽長秀だが、織田信治と共に海津から上陸して朝倉勢が琵琶湖西岸を進撃出来ぬ様に陣を張るのであった。
木之本田上山。
此処は、小谷城を出た浅井長政が新たな城を建てる為に選んだ場所であった。
木之本は北国街道と塩津街道が交わるところであり、八草峠を越えれば美濃国揖斐郡にも行ける交通の要所である。 そして田上山は、その木之本を見下ろす様に存在する。 それ故に浅井長政は、この地に新たな居城を建てる事にしたのだ。
とは言え、建築を始めてまだ半年も経っていない為、城はまだ完成していない。 しかし外周部に関してはほぼ出来上がっており、簡素だが防御拠点としてのみ使用する分には十分可能と判断できる造りとなっていた。
最も、戦以外の事を考えたらとても長い期間の使用は無理な環境である。 だが今欲しいのは防御拠点としてであり、生活拠点として欲している訳ではないので問題にはなっていなかった。
そんな田上山城にある城主の部屋において、浅井長政は忍びから知らせを受けている。 ただ、目の前の忍びは浅井家の者ではない。 義頼子飼いの甲賀衆、鵜飼孫六である。 彼は六角家と浅井家の連絡役として、田上山城を訪問したのであった。
その鵜飼孫六から浅井長政は、援軍となる義頼の軍勢の動向を報告されている。 その報せによれば、義頼率いる軍勢はすでに近江国へと入っているとの事であった。
その軍勢も中々の規模であり、更には織田家一門の織田信治も援軍に加わっている。 万を超える軍勢を出している筈の朝倉勢を抑える事を考えれば、援軍は一人でも多いほど浅井家としてもありがたかった。
「うむ。 これで、朝倉勢に十分対抗出来るというものだ」
「ですな。 ところで備前守(浅井長政)殿、朝倉勢ですが敦賀ですか?」
「いや、既に疋壇城へ敵本隊は入っているであろう。 恐らく明日にでも、田上山近くに朝倉勢が展開するとみている」
「となりますると、間に合うかどうかというところですか」
「だが陸路であったら、到底間に合わ無かった」
「正しく、そうですな」
浅井長政の言葉に、鵜飼孫六は頷いた。
陸路であれば、もう数日は掛かったと思われる。 いや、下手をすればそれ以上日数が掛かるのは、明白であった。 何と言っても、石山本願寺系列の寺院である湖北十ヶ寺が蜂起している。 更には、金森御坊と言った他の一向宗拠点でも気勢を上げているのだ。
しかし幸いな事に、湖西にて一向一揆などの騒動は起きていないので合流だけを考えたらそれほど行軍に支障は出ない。 だがそれでも、時間が掛かる事に変わりはないのだ。 その点、琵琶湖上ならば堅田衆と六角水軍。 そして規模は大分小さくなったが、浅井水軍が抑えているので問題は出ない。 しかも大量に素早く運送できると言う意味においても、水上移動による行軍はありがたかった。
「して貴公はどうする、左衛門佐(六角義頼)殿のところに戻る……のは無理か」
「はい。 殿は今頃、琵琶湖の湖上です。 それに拙者は、連絡役も兼ねておりますので」
「なるほどな」
明けて翌日の早朝、朝倉義景より浅井攻めの命を受けた朝倉景鏡が率いる別動隊が、田上山城の北側に現れる。 彼らはその場で、陣を張った。
最も、大将の朝倉景鏡には凡そやる気という物があまり感じられない。 それと言うのも、彼は内心で今回の出兵には反対だったからである。 もし浅井家が未だ味方としているならば、彼とて此度の出兵に大して積極的とは言わなくても支持はした筈であった。
だが現実には、浅井家は味方では無い。 そんな理由もあり朝倉景鏡は当初、留守居役として越前国に残る腹積もりであった。 しかし、朝倉家当主の朝倉義景や他の朝倉一門からの説得もあり、彼は不承不承であったが出陣に同意している。 すると朝倉景鏡は、別動隊の大将としてこの地に居る破目になったのであった。
さて内心の思いは兎も角として、彼は田上山城を見ている。 そんな朝倉景鏡の目から見ても、堅城と言う感じであった。
実際、その通りであるがそれもその筈である。 浅井長政は田上山に城を建てるに当たって、浅井家嘗ての居城であった小谷城を参考にして縄張りしている。 後の世に、その縄張りから五大山城にも数えられる小谷城を雛型として田上山城は建築されていたのだ。 当然ながら、その堅牢さは伊達では無い。 未だ完成していないとはいえ、侮れる筈もなかった。
そんな堅城たる田上山城を眺める朝倉景鏡へ、将の一人が城について尋ねる。 問うたのは、富田長繁である。 すると朝倉景鏡は、大袈裟なくらい首を振ると溜息をついた。
「迂闊に攻められる様な城ではないな。 だからと言って、何もせんという訳にもいかん。 今日は休んで、明日にでも一当てするとしよう」
「はぁ」
直ぐに攻めない事にやや不満げな態度を示す富田長繁だが、その様な事は気にせず朝倉景鏡は田上山城を見るのであった。
その一方で浅井家への援軍を率いている義頼はと言うと、夕刻頃に塩津に到着している。 彼は素早く、上陸を開始する。 更にほぼ同じ頃、丹羽長秀と織田信治もまた海津に上陸を開始していた。
さて塩津へ話を戻して上陸した義頼であるが、彼は明日を持って行動を開始するつもりである。 同時に義頼は、甲賀衆の岩室貞俊を浅井家に送って連絡をつけていた。
そして海津へ上陸した丹羽長秀はと言うと、彼は織田信治と共に東内城へ入っている。 この城だが、海津を治めている海津政元の城であった。
明けて翌日、その早朝に義頼と森可成の軍勢は塩津街道を木之本に向けて出立する。 彼らは街道先へ物見を派遣しつつ、出来るだけ静かに進んでいく。 そのお陰で幸いな事に朝倉景鏡ら朝倉勢に気付かれる様子も無く、無事に街道を抜ける事が出来た。
しかし、彼らの幸運もそこまでである。 流石にここまで近づけば、義頼と森可成の存在は朝倉景鏡達に知られてしまう。 その報せを受けた彼は、物見の部隊を派遣した。
同時に様子見を兼ねて、彼は城攻めを中止する。 そして、田上山近くから兵を引く判断をすると、殿には富田長繁と毛屋猪介を当てていた。
その様な眼下の朝倉勢の動きなど、山城の田上山城に居る浅井長政から当然だが分かってしまう。 そこで好機と判断すると、磯野員昌を先鋒に逆落としに朝倉勢へ攻撃を仕掛けた。 武勲の誉れ高い磯野員昌率いる兵であり、その強さは推して知るべしである。 しかしながら朝倉勢の殿を務める富田長繁と毛屋猪介もまた、奮戦している。 彼等は、相応の被害を出しながらも役目を果たしたのであった。
そして先に退いた朝倉景鏡だが、彼は木之本から刃根坂まで軍勢を後退させている。 そんな彼の元へ、物見からの報告が入ってきた。 そこには、軍を率いて木之本に現れた軍勢を率いる者の名が書かれてある。 六角義頼と森可成、二人の名が判明すると朝倉景鏡は一つ溜め息をついていた。
方や「攻め三左」の別名を持ち、もう一人も戦上手として名を馳せているからである。 そして、浅井長政も将として中々の評価を得ている。 相手として手強いというのは、此度の出兵に賛同できなかった者としてはあまり嬉しいとは言えなかった。
丁度その時、朝倉景鏡の元に将の一人である前波吉継が現れる。 彼は朝倉景鏡に、殿を任じた富田長繁と毛屋猪助が無事に戻って来た事を告げた。 すると朝倉景鏡は、前波吉継へ両名にすぐ来るように伝える様に言う。 了承した彼は、程なくすると富田長繁と毛屋猪介を連れて戻って来た。
やや疲れたような顔をして現れた両名へ、朝倉景鏡はまず労う。 その上で物見が持ち帰った情報を、富田長繁と毛屋猪介、それと前波吉継に告げていた。
その両者の名を聞き、揃って三人は難しい顔をした。 前述した通り、森可成は織田家有数の猛将である。 そして義頼もまた戦上手であり、更には劣勢でありながらも織田家の軍勢に突貫を掛けて本陣まで辿り着いただけの実績を持っているのだ。
しかも、織田信長と刃を交え生き残っている。 とてもではないが、両名とも侮れる存在では無かった。
「……まぁ、それを今考えても仕方無かろう。 問題はこれからどう動くか、だ。 俺としては御屋形(朝倉義景)様の判断を仰ぐつもりだが、異論はあるか?」
『いえ。 特にはありません』
朝倉景鏡の言葉に、前波吉継が富田長繁が毛屋猪助が同意する。 そしてこの場に居る誰からも反対の意が出なかったことを確認した朝倉景鏡は、早速朝倉義景宛の書状を出すのであった。
その頃、別動隊を指揮する大原義定はと言うと、勝部神社に陣を張っていた。
彼は義頼と別れた後、瀬田城に向かい城主の山岡景隆と合流している。 そこで山岡家を旗下へ新に加えると、一向衆門徒が籠る金森御坊へ向けて進軍したのであった。
勝部神社に腰を据えると大原義定は、近隣の浮気城を居城としている浮気氏や西美濃三人衆の一人、稲葉良通(稲葉一徹)の息子で守山城代である稲葉貞通を招聘した。
彼らは大原義定の招聘に答え、兵を率いて勝部神社に集合する。 そんな織田勢の動きに、金森御坊を任された川那辺秀政はと言うと危機感を覚えていた。
此処は例え無理をしてでも行動に移るべきだと思案した彼は、三宅城(蓮生寺)に籠る一向宗門徒と力を合わせて勝部神社に兵を進める決意をする。 しかしこの動きは甲賀衆の働きによって、大原義定達に知られてしまう。 すると報せを受けた大原義定に対して、蒲生定秀が策を進言した。
彼の策、それは何とこの本陣を囮にしようと言う物である。 敢えて、一向宗門徒に本陣を攻めさせるのだ。 無論、何も手を打たない訳ではない。 本陣はもぬけの殻として置き、そこを攻めさせる。 そうして一向宗門徒の意識がからの本陣へと集中した瞬間、事前に伏せて置いた兵で一気に打ち破ると言う物であった。
「……面白い。 いいだろう、定秀。 そなたの策、採用するぞ」
「はっ」
こうして大原義定は、蒲生秀定が建てた策を実行するべく、兵を動かしていくのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




