第三十七話~朝倉家と石山本願寺起つ~
第三十七話~朝倉家と石山本願寺起つ~
野田城と福島城のほど近くに、幕臣の細川藤賢が城主を務める中嶋城がある。 この人物だが、彼は元々【永禄の変】で討たれた足利義輝に仕えていた。 しかし、主たる足利義輝を討たれると三好家に降伏していたのだ。
その後、松永久秀の家臣となっていたのだが、その松永久秀が三好義継と共に織田信長に従属してしまう。 すると彼は松永家を離れ、新たに将軍となった足利義昭に仕える様になった。
そもそも将軍に仕えていた細川藤賢であるから、将軍家へ仕える事自体に何ら不思議はない。 また足利義昭としても、名門細川家の分家筋に当たる細川典厩家当主が己に仕える事はむしろ嬉しい事であった。
その為か、細川藤賢は足利義昭に仕官すると間もなく中嶋城を与えられたのである。 彼が城主となった中嶋城は阿波国と堺、それから京を結んだ際の中間地点とも呼べる場所に建つ城であり、野田城や福島城に入っている阿波三好勢を止めるには打って付けとも言える城であった。
それだけに中嶋城は防御力も高く、重要拠点であると分かっていても中々に攻めづらい城でもある。 その様な中嶋城に、軍勢が到着している。 その軍勢を率いているのは、織田信長から再三再四要請を受けて京から出陣した足利義昭であった。
その様な経緯から出陣したからか、彼の表情にはありありと不満の色が浮かんでいる。 と言うのも彼は、そもそもからして出陣する気など毛頭なかったからであった。
足利義昭は、阿波三好家が今一つ信用出来なくなった事もあり、京にて織田家と阿波三好家の戦を見届けるだけに留めるつもりだったのである。 しかし織田信長から執拗なまでに出陣を要請され、ついには抗しきれなくなり、側近を務める細川藤孝を京に残すと細川昭元を伴って不承不承ながらも出陣したのであった。
こうして足利義昭が中嶋城に入った事を確認すると、織田信長は三好義継に松永久秀と松永久通親子。 それから、義頼を本陣に呼び出している。 彼ら四名が揃うと、彼らへ一つの命を出した。
それは、海老江と言う土地の制圧である。 この海老江だが阿波三好勢が籠る野田城と福島城、そして足利義昭が入城した中嶋城。 この三城の丁度中間に位置する土地であり、摂津国内から阿波三好勢を追い落としたい織田家としては足掛かりとして確保して置きたい地点であった。
その様な重要拠点の陥落を、彼らは命じられたのである。 その後、織田信長の前を辞した義頼達は、時間が惜しいとばかりに話し合いを始めた。
前述した様に海老江は重要拠点であるが、それは阿波三好勢を率いる篠原長房や三好康長についても同じである。 敵勢を上手く出し抜かねば、成功はおぼつかないかもしれないのだ。
「さて、如何するか」
「ここを確保すべきであろう」
「……やはり、そうなりますか」
義頼の問い掛けに、久秀が扇子で近隣の地図を指し示しながら言った。
彼が扇子で指し示した場所、そこには牛頭天王社がある。 彼の地は、場所的に言っても陣を張るのに適していると考えられた。 その証拠に、松永久秀の言葉を聞いた三好義継と松永久通も頷いている。 全員の意見が揃っているのなら、これ以上は場所について話し合う必要は無かった。
陣を張る候補地が決まれば、あとはいかに効率よく成功へ導くかである。 するとその時、三好義継が織田信長から命じられた四人の中で最も経験豊富である松永久秀に策を尋ねた。 嘗ての主に問われた松永久秀は、少しの間思案をする様な素振りをする。 しかし唐突に顔を上げると、敢えて答えを出さずに義頼へ話を振った。
まさか此処で話が振られるとは思っていなかった義頼であったが、問われれば答える他はない。 彼は暫く地図を見ていたが、やがて顔を上げると己の考えを告げた。
義頼の考えとは、中嶋城の利用である。 そうなると足利義昭に危険が及ぶ可能性が無いとは言わないが、あくまでも中嶋城と言う存在を利用するだけである。 足利義昭にまで害が及ぶ可能性は、あまり高いとは言えない筈であった。
その様な義頼の言葉を聞き、三好義継と松永久通は首を傾げる。 しかし、ほぼ同じ考えを持っていた様子の松永久秀は、不敵とも取れる笑みを浮かべる。 その上で彼は、義頼へ具体的に方策について尋ねた。
すると義頼は、地図を使って具体的な行動についての説明を行う。 その説明を聞いて漸く三好義継と松永久通も合点がいくと、両名もまた義頼の考えに同意したのであった。
明けて翌日、織田信長から海老江攻略を命じられた四人だが、先ずは中嶋城に向けて進軍を開始している。 しかし城へ到着するであろう少し前で唐突に進路を変えたかと思うと、一気に海老江の地へと向かった。 そして彼らは当初の予定通り、海老江にある牛頭天王社に到着すると同地を接収する。 その直後、沼田祐光が陣頭指揮を取って陣を構築したのであった。
この義頼達の動きについてだが、当然だが篠原長房や三好康長の元へと報告される。 その報せにより義頼達の意図を察した二人は、思わず天を仰いでいた。 それは、完全に出し抜かれた形となったからである。 将軍である足利義昭が入っている中嶋城を囮にするとは、まさか彼らも想定していなかったのだ。
また、海老江の牛頭天王社が抑えられて陣が構築されてしまった事も二人が天を仰いだ一因となっている。 その陣は急遽拵えられた物にしては、中々に堅固でありかつ完成度も高い。 多数の兵力を持って攻めれば落とせるかも知れないが、手痛い反撃を喰らう可能性が多分にあった。
だからこそ、厄介とも言える。 放置しておいていいと言い切れる陣ではないが、さりとて被害を無視して攻めてもそれに見合うだけの成果があるのかと言われれば首を傾げてしまう。 何より、そこまでこの地に力を傾注する必要があるのか判断が付かないのだ。
まさにこの陣は、喉に刺さった骨の様な陣である。 ましてやその陣に、松永久秀が居る。 正に忌々しいという表情を、隠す事無く三好康長と篠原長房は浮かべていた。
「……とは言え、過ぎた事を言っても仕方あるまい。 城の守りを固め、海老江の織田勢に備えるとしよう」
「そう……だな」
二人は気持ちを切り替えると、如何に織田を破るかについて思案を巡らすのであった。
こうして篠原長房と三好康長が如何にして織田勢に対処するかについて改めて思案を巡らせている頃、織田信長はと言うと本陣の移動を決めていた。
行先は、義頼達が陣を張った海老江へである。 一たび決断すれば、織田信長の動きは速い。 早々に陣を纏めると、急ぎ海老江に向かったのであった。
やがて牛頭天王社に到着した織田信長は、その地に敷かれている陣を見て機嫌がよくなる。 その理由は、短時間の構築に反して陣の出来栄えがいいからである。 義頼から六角家家臣の沼田祐光が指揮して構築した陣であるとの報告を受けた織田信長は、彼を召し出す。 程なくして沼田祐光が現れると、直々に褒めの言葉を与えていた。
なお、織田家の動きだが本隊が動いただけではない。 織田信長が本陣を海老江に移動させた頃を前後して、楼の岸と川口の地に築かせていた砦が完成したのである。 こうして全体の陣立てが完了すると、織田信長は間髪入れずに野田城と福島城を陥落させるべく攻撃に移る事を決めたのであった。
彼はまず戦勝祈願と称して、牛頭天王社に陣馬と陣刀を奉納する。 その後、織田信長は足利義昭への援軍と称してこの地に到着していた和泉衆や根来衆などを旗下に加えると、三好勢に銃撃戦を仕掛けていた。
その攻勢は凄まじいものがあり、彼は日夜問わず、そして連日間断なく銃撃を敵である三好勢に浴びせ続ける。 それにより発生する轟音もまた凄まじく、三好勢の士気は瞬く間に下がっていった。 そんな敵の様子を見た織田信長は、陥落は間もないと呟く。 そんな主の言葉を偶々聞いた義頼は、相槌を打っていた。
ところで、何故に義頼が織田家本陣に居るのかというと、織田信長の命によるものである。 彼は海老江に到着すると、海老江を落とした四人に命じて本陣を守らせたのである。 その様な命を受けて、彼ら四人は織田家本陣を守護していたのであった。
さて、野田城と福島城に籠る三好勢であるが彼らは進退窮まっていた。
先ず、海老江に織田信長が本陣を移動させた事を許してしまったのが最初の見誤りである。 そしてその直後に、戦場全体に渡るかの様な陣立ての変更を行われてしまった事が更に痛かった。
これにより三好勢は、蟻の這い出る隙間もなく織田勢に囲まれてしまったのである。 この包囲網は固く、それこそ鳥の様に空を飛ぶぐらいしか逃げられそうには見えなかった。
また、それだけではない。 前述した様に、味方からも裏切りが出ている。 一応は三好家重臣である岩成友通と香西長信が、離反して織田家へと走ったのだ。
味方の重臣級の二人が離反し、そして敵勢には将軍である足利義昭が居る。 更には昼夜問わず、間断なく銃撃されている。 これではどうやっても、味方の士気を上げるなど出来よう筈もなかった。
「どうであろう、山城守(三好康長)殿。 ここは和議を結び、再起を図ろうではないか」
「ふむ……その言葉に否はないが、信長が受けるか?」
「分からん。 だがやらんよりは、やった方がましだろう」
その後、篠原長房は軍使に持たせる書状を認める。 そして三好康長との連名で、織田家に軍使を派遣した。
側近の祝重正より軍使が来たと報告されると、暫く考えた後で連れて来る様にと命じる。 程なくして織田信長の前に連れて来られた三好の軍使は、平伏すると書状を差し出した。
黙って受け取ると、ゆっくりと一読する。 やがて最後まで読み終えたかと思うと、軍使の目の前で書状を二つに破り捨てた。 いきなりな事に、三好家の軍使は声を上げつつ立ち上がる。 しかし織田信長は、軍使を冷たく見据えてから母衣衆へ捕らえる様にと言い放った。
主の命を受けたとは言え黒母衣衆筆頭の佐々成政と赤母衣衆筆頭の前田利家は一瞬躊躇ったが、すぐに気を取り直すと母衣衆と共に急ぎ捕らえる。 思わず抵抗した軍使であったが、ここは敵陣である。 抵抗をむなしく取り押さえられ、そのまま連行されて行った。
翌日の早朝になると、織田信長は捕らえた軍使の首を討つと神前に捧げると宣言する。 するとその首はその日のうちに、戦勝の前祝いとして神前へと捧げられたのであった。
儀式を終えると、織田信長はいよいよ本格的な城攻めを開始する。 今までよりも攻勢を強めたかの様に攻め寄せて来る織田勢に、三好康長と篠原長房は和議の交渉が失敗に終わった事に思い至った。
和議が不調に終わった以上、次の手を打つ必要がある。 そこで二人は、それぞれ別々の宛先へ書状を認めた。
先ず篠原長房が認めた書状だが、届けられたのは石山本願寺である。 三好家と石山本願寺が、近衛前久の仲介で盟約を結んでいたことは前述した。 その盟約に従い、織田家への攻勢を依頼したのである。 三好家の使者から書状を受け取った顕如は、下間頼廉達坊官を集めると彼らに三好家からの要請が届いた旨を告げた。
織田信長から矢銭の請求だけではなく、石山からの立ち退きまで要求された彼らである。 阿波三好家との諍いに方が付けば、己達か浅井久政の所為で攻めそこなった朝倉家が標的ほぼ間違いはないと確信している。 そして距離を考えれば、朝倉家の前に石山本願寺が攻められる可能性が多分にあるのだ。
この様な事情もあって、顕如は三好家と盟約を結んだのである。 その三好家からの要請を告げた顕如は、坊官の下間頼照へ一つ頷いてから立ちあがる。 そして集った坊官達をゆっくり見まわすと、力強く宣言した。
「今日より四日後の早朝、早鐘と共に我らは立つ。 頼廉、頼照! 各地の宗徒に伝えよ。 「信長を討つ!!」とな」
『はっ!』
そしてもう一通、三好康長が認めた書状だが、翌々日には朝倉家の館がある一乗谷へと届いている。 届いた書状を読み終えた朝倉義景は、顔を上げると了承の旨を使者に伝えた。
了承の返書を得た使者は、直ぐに彼の前から辞する。 三好家からの使者が消えると、彼は朝倉家臣を集めた。
「よいか! 今こそ織田へ借りを返す時! 明日後には出陣し、手薄な近江に侵攻する。 浅井長政率いる浅井家の軍勢を蹴散らし、湖西を攻略する! 目指すは京ぞ!!」
『おおーーっ!!』
家臣達の力強い返事に彼、朝倉義景は満足そうに頷くのであった。
甲賀衆の多羅尾光俊から朝倉勢動くの報せを受けた義頼は、この場にて共に聞いている甥の大原義定と顔を見合わせた。
実は朝倉家の出兵について、ある程度は予想はされていたのである。 その理由は、朝倉家の状態にあった。 彼の家は、領内から織田勢が全て消えてからも兵の動員体制を崩そうとしなかったのである。 攻め手側であった織田家が、これで朝倉家に警戒を緩めるなどという事は到底無理な話であった。
そこで義頼は、未だに兵を維持している朝倉家の動向を探り織田信長へと報告をしている。 その報を聞いていたが故に万が一を考えて、今回の阿波三好家との戦に浅井家から兵を出させなかったのだ。
さて件の朝倉勢の規模であるが、兵数は二万程である。 その数を聞き、大原義定は思わずと言った感じで多羅尾光俊へ確認している。 問われた彼も、はっきり「間違いありません」と返答していた。
また報告はそれだけではない、進軍先も報告されている。 その行先はと言うと、義頼たちの故郷である近江国であった。 そんな多羅尾光俊の報せを聞き、この場を沈黙が支配する。 やがてそんな沈黙を破って、義頼は立ち上がる。 それから織田信長へ報告する旨を伝えたが、その直後に多羅尾光俊から止められた。
「実は近江の事で、今一つお知らせがあります」
「追加の知らせだと? 言ってみろ」
「その……近江一向宗門徒の様子なのですが、おかしいのです。 彼らは殺気立ち、まるで戦の前であるかの様です」
光俊の言葉を聞いて、義頼は衝撃を受けた。
確かに近江国に、幾ばくか兵を残してはある。 だがそれは、あくまで治安を乱させない為での物でしかない。 普段より、少なくなっているのは事実なのだ。
その様な状況下で、一向宗門徒に動かれ一揆でも起こされれば問題が出てしまうのは間違いない。 如何に進藤賢盛や蒲生賢秀らを残してあると言っても、手放しで放っておける状況ではなくなってしまうのだ。
それに下手に近江国内で暴れられると、その影響は朝倉勢にまで及びかねない。 そうならない為にも、早急に手を打つ必要があった。
「光俊、話は分かった。 一つずつ、片付けていくぞ」
『はっ』
そう言うと義頼は、大原義定へ兵権を預けると多羅尾光俊を伴って織田信長の居る本陣へ赴く。 やがて到着した本陣で義頼は、至急の面会を堀秀政に頼んだ。
仲介を受けた堀秀政から義頼が急ぎ面会を望んでいると聞いた織田信長は、訝しげに眉を寄せる。 織田家が優位に戦を進めている状況で、至急の要件と言う理由がよく分からなかったからだ。 とは言え、急ぎの要件と言うのも気になるのは事実。 織田信長は堀秀政へ、義頼を連れて来る様に命じた。
織田信長との面会が叶うと、彼は通り一遍の挨拶を行う。 その上で義頼は、多羅尾光俊に今一度の報告を命じた。 二度目という事もあり、要点を纏めた報告である。 その様な多羅尾光俊の報告を聞いた織田信長は、ため息と共に言葉を漏らしていた。
「……三好に朝倉、そして一向衆……か」
「御意。 但し、近江の一向衆に関しましては、確定という訳ではありませんが……」
その後、織田信長は暫く瞑目すると暫く自らの考えに浸る。 やがて考えが纏まると、義頼に近江国へ援軍として向かう様に命じた。 織田信長は、浅井家の他にも近江国に将兵は残してある。 坂本城主の森可成が、正にそれであった。
しかし朝倉勢二万に、総数がはっきりとはわからない近江一向宗門徒である。 浅井長政や森可成が率いる兵で足りるのかと言われると、いささか心もとない。 そこで義頼率いる近江衆を、先ずは援軍としたのだ。
「それから、追加として長秀も向かわせる」
「すると、丹羽殿が大将ですか?」
「何を言っておる、その方だ。 近江ならば、その方の庭に等しかろう。 いいな! 何としても、近江を護れ」
「御意」
義頼が退出すると、織田信長は丹羽長秀を呼び出している。 そして彼に、義頼と共に近江に向かうよう指示したのであった。
その一方で自陣へと戻った義頼は、大原義定に命じて兵を纏めさせる。 それと同時に、多羅尾光俊にも命を出す。 その命とは、京に在住する兄の六角承禎の元に行けと言う物である。 そこで、彼に付けている甲賀衆の手を借りるつもりであった。
「承知しました。 して、承禎様から借りた者は如何なさいます?」
「賢盛や賢秀達に派遣して、警戒を密にしろと伝えろ。 それから森殿と成持、それと浅井家にも伝えるのだ」
成持こと三雲成持は、嘗ては六角家の六宿老と言われた三雲定持の二男である。 しかし、本来の嫡男であった三雲賢持が、戦が原因で体がいささか不自由となってしまう。 その為、兄の代わりに三雲家の嫡子となっていた。
その三雲家だが、六角家が織田家に降伏すると彼の家も降伏している。 その後、三雲家は織田信長の直臣となっていた。 しかし、義頼が甲賀郡の領主となると、三雲家は織田の直臣を離れて義頼の家臣となっている。 しかしこれは、三雲氏だけに限った話ではない。 甲賀衆と呼ばれる甲賀郡の国人達は、義頼が甲賀郡を得るとこぞって義頼の被官となっていたのだ。
話を戻して多羅尾光俊であるが、彼は指示を受けると直ぐに行動を開始している。 それから暫くすると、今度は大原義定がやって来る。 兵の用意が整った事を甥から聞かされた義頼は、彼を伴って兵のところへ向かった。
そこで彼らに、急いで海老江より出発する事と近江国へ戻る旨を伝える。 すると、近江衆の一人である青地茂綱が義頼へ尋ねた。 義頼は、朝倉家が兵をあげた事と、彼らの進軍先が近江国である事を伝える。 その言葉を聞いた将兵らにざわめき広がるが、馬淵建綱が一喝するとざわめきは静まった。
「あと、それだけではない。 どうも近江国内の一向衆の動きが、怪しいらしい。 そういった事情で、我らは近江へと戻る。 よいなっ!!」
『御意!』
それから程なくして、織田信長からの命を受けて兵馬を整えた丹羽長秀が義頼を訪ねて来る。 そこで両名は密かに海老江を出陣すると、一路近江国に向かうのであった。
朝倉家と本願寺が動き、近江国にも騒動が飛び火しました。
その影響で、義頼と丹羽長秀が摂津国から近江国に移動です。
ご一読いただき、ありがとうございました。




