第三十五話~騒乱の兆し~
第三十五話~騒乱の兆し~
浅井家及び浅井長政に対する沙汰を終えた織田信長は、間髪入れずに次の行動を起こした。
先ず彼が手を付けたのは、若狭国に対してである。 元来、此度の遠征は若狭国人の武藤友益追討を理由としていた。 ならば形の上だけでも、取り繕う必要がある。 そこで織田信長は正使に丹羽長秀、副使に明智光秀を任じると若狭国に派遣した。
丹羽長秀と明智光秀は若狭国に入ると、その足で武藤家の居城である石山城へと向かう。 そこで武藤友益と相対した二人は、武藤家が織田家へ降伏する様にと伝達する。 そしてこの取り交わしが成されれば、武藤家の領地と命は織田家が保証すると言う約定も添えられていた。
武藤友益……いや武藤家にしてみれば、この条件は慈雨にも等しいと言える。 そもそも彼が織田家に逆らったのは、主家の武田家が朝倉家の従属状態であった事に由来していた。
そして実際に逆らってはみたものの、もし浅井家の行動がなかったら主家の武田家を従属状態に追い込んでいる朝倉家すらも織田家は飲みこむ勢いだったのである。 つまり武藤友益自身も含めて、織田の力に圧倒された感があった。
そこにきての、織田家からでた恭順の勧告である。 正使の丹羽長秀から伝えられた織田信長の言葉は、今の武藤家にとって正に渡りに船である。 武藤友益は即座に了承して、恭順と言う名の降伏勧告を受け入れたのであった。
平伏しながら返事をするそんな武藤友益を前にして、丹羽長秀と明智光秀は満足そうに頷く。 しかし話は、そこで終わりではなかった。
「してその証ですが、人質を提出していただきたい」
「ふ、副使(明智光秀)殿。 人質にございますか?」
「そうだ。 如何なる理由があろうとも、貴公が信長公に反旗を翻したのは、覆し様のない事実。 ならば証を立てると言うのは、当然であろう」
明智光秀の言葉に、武藤友益は唸った。
言われてみれば、頷ける話ではある。 そして此処でもし人質を出さねば、朝倉家へと向けられた力が今度こそ自らに向けられるは必定であった。 もしそんな事となれば、武藤家などそれこそ鎧袖一触とばかりに滅ぼされかれない。 それだけは、武藤家当主として何としても避けねばならかった。
故に彼は、返事の猶予を一日だけでも伸ばして欲しいと丹羽長秀と明智光秀に願い出る。 二人としても、一日ぐらいならば問題はない。 正使の丹羽長秀が了承した事で、返答の猶予が一日だけ伸びたのであった。
こうして僅かでも返事に対する猶予を得た武藤友益は、織田家からの二人の使者を別室に通す。 その上で家臣に歓待させて時間を作ると、誰を人質とするか考えに耽った。
そうは言っても人質の候補など、多い物では無い。 武藤友益は腕を組み一刻ほどじっくりと考えた後で、誰を人質として出すのかを決めた。 その人選において該当した人物とは、母親である。 彼は断腸の思いで母親の元へ訪問すると、事情を話した上で協力を求めたのだ。
そして武藤友益の母親は、この戦国乱世に生きる者である。 そんな彼女が、息子の言葉が持つ意味が分からない程、愚かであろう筈が無い。 ましてやその息子が、感情を押し殺した様な顔で人質となる事を自分に頼んでいる。 息子から人質の件を伝えられた瞬間から少しの間だが驚いた表情を浮かべた彼女であるが、その後小さく笑みを挟むと息子を慈しむ母親の表情へと変化していた。
「友益。 分かりました、私が人質として織田家へ参りましょう」
「は、母上……感謝致します!」
「良いのです。 これも、戦国のならいなのですから」
明けて翌日、武藤友益は母親を伴って丹羽長秀と明智光秀に面会する。 そして使者の両名に、母親が人質となり岐阜城下へ向かう旨が伝えられた。 すると丹羽長秀と明智光秀の二人だが、何も言わずに受け入れている。 それは武藤家の出す事となる人質に関して、取り分けて指示がなかったからである。 特に指名などない限り、彼らとしては誰であろうと構いはしないのだ。
それに見たところ、武藤友益の母親は聡明とまではいかなくとも真面な人物と思えた。 織田信長からの指示もなく、かつ特段に変わった人物ではないと思われる以上は人質としては十分である。 丹羽長秀は「今後、武藤家は織田家に忠誠をつくす様に」と釘を刺した上で、武藤友益の母親を織田家に対する人質と了承する。 この人質取り交わしによって、武藤家は正式に織田家へ降伏したのであった。
その次の日、丹羽長秀と明智光秀は人質となった武藤友益の母親と共に京へと戻る。 その後、織田信長の元を訪れた二人は、無事に武藤友益との交渉が終了した事を報告する。 それは、武藤家降伏の証となる武藤友益の母親と共にであった。
使者として派遣した二人が、万端話を纏めてきた事に織田信長は労いの言葉を掛ける。 それから丹羽長秀と明智光秀、そして人質の母親を下がらせた。
こうして実質は何であれ、武藤友益を配下に収めた事で此度の遠征に対する大義名分を立てた織田信長は、更なる手を打つ。 それは、畿内の有力国人に対して人質の差し出しであった。
これは畿内の国人に対する牽制と言う意味合いもあるが、それよりも畿内の安定を図るという目的の方が大きい。 畿内は織田家の支配地であり、領内の安定は織田信長にとっては当然の行為である。 故に彼は、己の要請に反対するなど許すつもりもない。 要望に応えて人質を差し出さなければ、その者を滅ぼすつもりであった。
織田信長の示した強気な態度のせいか、人質の差し出し自体は早々に終わりを迎える。 順調に思惑通りの結果となった事で、一しきり満足そうにしていた。 しかしそれも僅かな間でしかなく、彼は矢継ぎ早に手を打っていた。
それは、石山本願寺に対してである。 織田信長は、顕如に石山本願寺からの退去と明け渡しを伝達したのである。 有り体に言えば、その地を接収するから移動しろと言う要求を突き付けたのだ。
しかし、その伝達には期限が明記されていた訳ではない。 織田信長としては、何れは立退けというつもりであった様である。 その証左に、石山本願寺へ要求を出した後は返事を待つ事無く京から岐阜へ舞い戻ったのだった。
果たして織田信長と織田の軍勢が京から居なくなると、人質の差し出し命令と本願寺退去の要求を原因とした乱れが畿内に生じる。 それは、まず摂津国で起きた。
織田信長が畿内から去った事と、人質差し出しの一件で畿内の国人達に不協和音が立ち始めたのである。 すると、これを絶好の好機と捕えた三好家が動いたのだ。 今や三好家の長老格である三好康長は、阿波三好家を支える篠原長房と共謀してある人物に接触する。 その人物とは、摂津国池田氏の同族衆である荒木村重であった。
それと言うのも、彼が何時かは摂津国を我が物にとの野望を抱いていたからである。 そんな彼の思惑は、織田家を畿内から追い払い出来れば駆逐したい三好家と一致したのだ。
そこで荒木村重は、織田家に好意的な態度を示す池田勝正の追い落とし工作を始める。 彼が利用したのは、摂津池田家嫡流の池田知正であった。
と言うのも、摂津池田家の現当主となっている池田勝正だが、本来であれば彼ではなく池田知正が家督を継ぐのが正統なのである。 しかし池田知正が幼い頃に、彼の父親である池田長正が亡くなってしまう。 当時、池田知正は、十歳にも満たない年齢でしかない。 そこで、池田一族の中でも文武に秀でていた池田勝正が家督を継承したのだ。
そして今や成人している池田知正だが、池田家の家督は引き続いて池田勝正の手にある。 しかし現当主が遺漏なく当主の役目を遂行している以上、家中のいざこざを表立たせるのは池田知正としてもいささか躊躇われた。
だが此処にきて、織田信長から人質提出の通達である。 しかも池田勝正は、その要請に粛々と答える気であった。 何か手落ちがあればまだしも、摂津池田家は真摯に対応してきている筈なのである。 それであるにも拘らず、人質を提出しろとの命に池田知正は不満を抱いていたのである。 その状況をついた荒木村重が、池田知正を焚き付けたのであった。
「くそっ! 信長め、池田を侮りおって。 何が人質だ、池田家は降伏して以来、尽力して来たというのに!?」
「全く、左衛門尉(池田知正)様の仰る通りにございます」
「村重もそう思うか」
「はい。 このまま民部大輔(池田勝正)様に任せていては、池田家は衰退しかねません。 ここは正当な嫡流である左衛門尉様が、池田の家督を相続するべきかと存じます」
「そうか……そうだな! よし、村重。 勝正を放逐し、俺が池田の家督を継ぐぞ!」
「はっ」
そう宣言した池田知正に対して荒木村重は平伏したが、彼の顔は笑みに歪み彩られていた。
こうして彼をその気にさせた荒木村重は、その夜に自室で一人酒を飲んでいる。 思いの外上手くいった事に、満足していたからだ。 だが、そこで終わりではない。 荒木村重は、酒を飲みつつ今後の動きに思いを馳せ始める。 まず行う事は池田勝正の失脚と、池田家中及び摂津国内の取り纏めである。 その後、彼らの力を背景に池田知正を当主の座から強制的にでも引かせて、その後、自分が摂津守護に就任する。 これが、脳裏に荒木村重が描いた道筋であった。
とは言えこの動きは池田家内において政変を起こすという事であり、実行する為にはある程度の兵がどうしても必要となる。 力無き者に付いてくる酔狂など、先ずいないからだ。 そうなれば幾ら密かに動こうとも、情報が漏れやすくなってしまう。 ましてや忍びなどの情報収集に長けた者達を手駒に持つ者が近隣に居れば、それは尚更であった。
「摂津の様子がおかしいだと?」
「はい」
「如何なる理由でだ、長俊」
「承禎様。 摂津池田氏の嫡流に左衛門尉殿がおられるのは、ご存じであるかと思います」
「ああ、それは知っている。 本来であれば左衛門尉殿が家督を継ぐところであったが、若年であった為に一族で名を馳せていた民部大輔殿が当主となったのであったな」
「御意。 その左衛門尉殿なのですが、自身に同調する一門衆と共に兵を集めている様子なのです」
「ん? それはつまり、池田家に内訌が起きると言う事か」
「恐らくではありますが、その可能性は高いかと」
実は今、六角承禎へ報告している山中長俊が集めた情報に、三好家の事は記載されていない。 彼らは池田家に起きている不穏な動きの後ろに、三好家の存在がある事までは突き止められなかったのだ。
しかし、摂津国で池田家を中心に事態が動いているのは事実である。 彼の国で起きているそんな動きを、放っておくわけにはいかなかった。
報告から事情を確認した六角承禎は、義頼へ連絡するべく報告を持ってきた山中長俊を派遣する。 すると彼は直ぐに京を発ち、織田信長が岐阜へ戻る際、一緒に観音寺城に戻った義頼の元に走った。
観音寺城で六角承禎の書状と報告書を見た義頼は、思わず内容の正否を尋ねた。 問われた山中長俊は、間髪入れずに返答する。 その様子と雰囲気に嘘ではないと感じ取った義頼は、一つ頷くと取り敢えず下がらせた。
その後、義頼は直ちに本多正信と沼田祐光の両名。 それから蒲生定秀と馬淵建綱を呼び出し、彼らに承禎からの情報を示した。
報告を一通り読み終えると、彼らは一様に何とも言えない表情を浮かべる。 京のある山城国の隣国である摂津国で起きる騒動である事を鑑みれば、それは致し方ない反応ではあった。
「……ですが殿……何故に池田家で内訌など起きたのでしょうか」
「それは恐らく、人質の件が切欠でしょう」
「ですな、本多殿」
馬淵建綱の問いに本多正信が答え、すかざず沼田祐光も同意する。 そんな二人の言葉に、馬淵建綱は尋ね返した。 すると本多正信は、摂津池田家が抱える家中の火種について馬淵建綱へ説明する。 いやこの説明は、同席する義頼や蒲生定秀に対しても行われたものであった。
事実、疑問を口に出した馬淵建綱だけでなく義頼と蒲生定秀も本多正信の言葉を黙って聞いていたのである。 やがて説明が終わると、義頼は沼田祐光に対して尋ねた。
すると彼も、本多正信とは同じ考えである事を告げる。 ただそれだけではなく、沼田祐光は一言付け足していた。 それは、畿内の状況である。 今畿内には、人質の命を出した信長が居ない。 それが畿内国人に対して、緩みの様な物を生み出している。 それは形ある物では無いだけに、厄介とも言える存在であった。
「……なるほど。 不満の蓄積と、殿の不在による畿内の緩みか。 あり得そうな話だな。 なれば、報告を上げておくか」
「その方が宜しいでしょう」
「ですな。 浅井家の件もありましたし、報告はしておいた方が間違いは無いかと」
沼田祐光と馬淵建綱が、義頼の言葉に同意する。 その傍らでは、本多正信と蒲生定秀も頷いていた。
召し出した四人が揃って同意したのを見た義頼は、後を任せると馬廻り衆や少数の護衛と共に摂津国で起きている案件と今後予想される動きについて報告する為に観音寺城を出立した。
なお、この馬廻り衆の中に藤堂高虎が居る。 何故に六角家から離れ浅井家臣となった藤堂家の者が馬廻り衆に居るのかと言うと、その理由は朝倉攻めの際に一度は離反した浅井家にあった。
離反後は前述の経緯の後に織田家に降伏した浅井家だが、代償として領地を削られている。 その削られた領地だが、織田家の直轄領となっていた。 当然浅井家の領地ではなくなった為に、その地域に領地を持っていた国人は浅井家の家臣ではなくなってしまう。 そんな彼らが次の士官先としたのが、織田家であった。
しかし、全員が全員仕官できる訳ではない。 その仕官できなかった家の中に、藤堂家があった。 その為に藤堂家は、一家揃って牢人となってしまったのである。 こうなってしまっては、背に腹は代えられない。 藤堂家の当主であった藤堂虎高は、嘗て義頼の傍に仕えていた息子の藤堂高虎の伝手を頼りに六角家に仕官を求めたのだ。
その藤堂高虎だが、以前は義頼の馬廻り衆として傍に仕えていたと言う経緯を持っている。 そして義頼も彼は気に入っていたし、何より藤堂虎高も嘗ては甲斐武田家に仕え当時の武田家当主であった武田信虎より名の一字を拝領するまでに武将としての才を買われた人物であった。
織田家に降伏後、家中に厚みを付けたいという義頼の考えもありその仕官は認められる。 そして【野洲川の戦い】において義頼と共に織田本陣まで突入した実力を買われ、藤堂高虎は再度馬廻り衆に抜擢されたのであった。
因みに藤堂高虎だが、彼は六角家に再仕官後、義頼に懇願して弓と馬術の弟子入りを果たしている。 馬廻り衆である彼の技能を高める意味あいもあって、この弟子入りは認められたのであった。
話を戻し観音寺城を発った義頼だが、道中は何事も無く岐阜城下に到着した。
それから屋敷で少し休んだ後、身嗜みを整えてから義頼は織田信長の屋敷を訪問する。 そこで謁見を果たすと、摂津国の動向等について報告した。
黙って報告書を読みつつ報告を聞き及んだ織田信長は、義頼へ調査の継続と池田勝正に伝える命を出す。 主からの命を受けた彼は、織田信長の屋敷を出ると一度六角屋敷に戻る。 そこで人質として屋敷に滞在している甥の六角義治にも、摂津国の動きを伝えた。
その後、義頼は鵜飼孫六を召し出すと彼に池田勝正への使者を命じる。 それと同時に布施公保を使者として兄の六角承禎の元へ派遣して、引き続いての情報収集を頼んでいた。
またこの件は、義頼からだけでは無く明智光秀や木下秀吉といった京在住の奉行からも織田信長に知らせが届く。 そこで彼らにも、情報収集を命じたのであった。
そしてその頃、石山本願寺では織田信長の通達に対しての話し合いがもたれていた。
時期こそ明確にはされてはいなかった織田家からの石山本願寺からの退去通達だが、逆に言えば今直ぐにでも退けと言っているとも取る事が出来る。 これは、そんな通達なのだ。
しかし石山本願寺側としては、一方的な通達に過ぎない。 一向宗を率いる者として、到底承知致しましたと受け入れる訳にはいかない。 矢銭を用意立てするのとは、根本的に違う話なのだ。
顕如は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべつつも、側近の下間頼廉に受け入れる事は出来ぬと答える。 その顕如の言葉を聞き、頼廉は抗議するかを尋ねる。 すると、この場に居る他の坊官からも同様の言葉が上がっていた。
とその時、部屋の障子が開く。 そこには、男が一人立っていた。 その男が、顕如の言葉を遮ったのである。 彼の名は、近衛前久という。 彼は信長上洛時、関白の地位にあった男だが今はその地位に無い。 その理由は、足利義昭にあった
と言うのも、彼は足利義栄の将軍推挙に協力したかどで、足利義昭の兄である足利義輝が討たれた【永禄の変】に関与をしているのではないかと疑われたからである。 その上、前久の前に関白にあった二条晴良が義昭に同調して彼を追求したのだ。
その結果、近衛前久は不本意ながらも朝廷より追われたのである。 都より落ちた彼が先ず頼ったのは、丹波国人の赤井直正となる。 それは、彼の継室が近衛植家娘であったからだ。
近衛植家は近衛前久の父親であり、つまるところ妹の婿を頼ったのである。 更に近衛前久は、顕如を頼って石山本願寺に移動したのだが、この頃に関白を解任させられたのだった。
その近衛前久が断りもなく入室してきた事に、頼廉が一言抗議する。 その抗議に一言詫びてから、彼はそのまま言葉を続けた。
「すまぬ。 だが、抗議よりよい手がある」
「良い手とは?」
「これをご覧あれ」
近衛前久が懐から差し出したのは、書状であった。 差出人は、篠原長房である。 訝しがりながらその書状を読んだ顕如であったが、やがてその表情には驚きの色が帯びて来る。その理由は書状の内容が、顕如に対する三好家からの協力要請であったからだ。
そう。
三好家は、織田家勢力を畿内から駆逐するための手段として三好家からの書状は荒木村重だけでなく顕如にも手を伸ばしたのである。 その繋ぎ役として篠原長房が選んだのが、石山本願寺に居る近衛前久であった。
この三好家からの要請は、京へと戻りたい前久としても都合がいい話である。 彼が京へと戻るにはいとことは言え足利義昭が邪魔であり、彼を追い落とすには彼の後ろ盾となっている織田信長の排除が必須であったからだ。
「とどのつまり三好家は、織田を追い払らいたいと言う事であるのか?」
「然り。 それに伴い三好家は、策も着々と進めている。 なればここで信長に無駄な抗議をするより、三好家と歩調を合わせた方が良いではないか」
「だが三好家単独で、織田家に勝てると言われると?」
「先ほど拙者は言ったではないか顕如殿、策も進んでいると。 他に朝倉家や摂津国内にも、三好の手は延びている。 そこに本願寺が加われば……」
そこで近衛前久は、言葉を切る。 決定は石山本願寺が、いや顕如がするのだと言わんばかりにであった。
勿論、顕如も近衛前久が言わんとした事は分かっている。 彼は暫く目を瞑った後、心が決まったのかゆっくりと開ける。 そして坊官達を見た後、顕如は紙と筆を持って来させたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




