六角異聞年表
六角異聞の年表です。
本編に登場していない人物が二人ほど混じっており、注釈が入っています。
六角異聞年表
・1548年09月…六角定頼の次男として誕生。
幼名は鶴松丸。
・1563年01月…元服して名を五郎義頼となる。
従五位下侍従を賜り、同時に長光寺城主となる。
10月…観音寺騒動勃発
11月…観音寺騒動終結。その後、自ら謹慎。
・1564年01月…義頼の謹慎措置が解除。
03月…【小倉の乱】勃発。
・1565年05月…永禄の変勃発。
07月…和田惟政より、六角家に救援要請。
08月…足利義昭の受け入れが決まり、矢島御所造営が開始される。
11月…矢島御所完成し、足利義昭が矢島御所に移る。
・1566年02月…足利義秋、左馬頭就任。
褒美として、義頼に昇殿が許される。
06月…布施公雄、六角義治への不信感から六角家に反旗を翻す。
07月…【瀬田・布施山の戦い】勃発。
08月…六角義治が三好三人衆と通じる。
義頼、堅田衆棟梁の猪飼昇貞手を借りて足利義昭を若狭国に逃がす。
三好長逸が南近江に侵入するも、矢島の地で迎え撃ち撃退。
六角承禎、息子の六角義治を寺に押し込める。
・1567年04月…六角氏式目制定。
浅井家と六角家が、肥田城を巡り激突。
琵琶湖で【武島(多景島)沖湖上戦】勃発。
・1568年01月…義頼、従五位上左衛門佐に任官。
08月…織田家と六角家、足利義昭の上洛について会談し、共に上洛する事で合意を見る。
09月…上洛の為、織田信長が岐阜を出立。
三好三人衆と結んだ一部の重臣(永田賢弘、楢崎賢道、三上恒安ら)がクーデターを起こす。
織田・浅井・徳川連合軍、観音寺城の麓に到着後、箕作城を攻めて陥落させる。
義頼、六角家当主就任後に【野洲川の戦い】が勃発するも、六角家は敗れ織田家に降伏。
信長上洛。
10月…芥川山城を攻めて細川信良と三好長逸を捕縛。のちに細川信良は赦免されるが、三好長逸は打ち首。
足利義昭、15代将軍に就任。
織田家、五千の兵と京都奉行を四人残して京から岐阜へ戻る。
織田信長が、義頼と浅井長政に対して大型船の建造を命令する。
11月…琵琶湖を渡る船の建造開始。
12月…最初の大型船完成。
・1569年01月…正月の宴。
【本國寺の変】勃発。
02月…二条城の建築開始。
03月…二条城の建築終了。義頼、褒美として三日月宗近を与えられる。
05月…お犬の方が、義頼の正室として六角家に輿入れ。
06月…若狭沼田一族、義頼の庇護下に入る。
07月…毛利より織田家に使者。
第一次但馬侵攻。
08月…但馬国を鎮定。
山名祐豊行方不明。
11月…山名祐豊、織田家と和解。
山名家に但馬国を引き渡す。
・1570年01月…正月の宴。
観音寺の六角館にて正月の宴。
02月…相撲興行。
03月…朝廷御所と幕府御所を訪問。
義頼、六角承禎、吉田重高の三人が三十三間堂で通し矢を行う。
武家故実就任への要請。
04月…六角承禎が武家故実に就任、吉田重勝がその補佐に就く。
朝倉攻めの為に出陣するも、浅井家裏切りにより頓挫。
05月…織田信長の命で明智光秀、丹羽長秀が若狭の武藤友重の元へ向かい降伏勧告を行う。
浅井長政、浅井久政の首を持って織田信長に詫びを入れ、浅井家は織田家の従属大名となる。
06月…荒木村重、池田知正に対して謀反。
07月…野田・福島の戦い勃発。
09月…石山本願寺が蜂起を決め、【石山合戦】勃発。
【長島一向一揆】勃発。
10月…延暦寺の僧兵が、宇佐山城を攻撃。
近江国金森御坊、織田家に降伏。
大原義定、江南の一向衆駆逐
11月…柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益の活躍で織田信興救出。その後、勝幡城に撤退。
織田信長、長島から撤退。
桑名城より滝川一益撤退。
湖北十ヶ寺、織田家に降伏。その後、織田信長は横山城に入る。
11月…疋田城の朝倉勢撤退。
12月…朝廷の許可を得た上で延暦寺攻め。
山王十一寺攻め。
武田家の秋山虎繁、東美濃地域に侵攻。
・1571年01月…岐阜城にて新年の挨拶。
義頼、阿拝郡を下賜される。
04月…蒲生頼秀(蒲生氏郷)、冬姫と婚儀。
織田信長、京にて立原久綱と会合。
尼子衆、織田家庇護下に入る。
05月…織田信長と山陰より撤退した尼子衆が謁見。
06月…毛利元就死去。
長島攻めを開始。
07月…【白井河原の戦い】勃発。
義頼、摂津国への出陣を命じられる。。
08月…摂津国に到着し、摂津茨木城と安威城を攻める。
織田家と荒木村重と阿波三好家が和睦。
長島一向衆から和睦の使者が現れるも、織田信長は無視。
09月…織田信長、長島一向衆と和睦交渉開始。
長島一向一揆の主だった将全ての首と引き換えに、和睦。
10月…筒井家、織田家に恭順。
義頼の嫡子、鶴松丸生まれる。
11月…山名祐豊による丹波侵攻。
第二次但馬侵攻。
・1572年01月…年始の挨拶
義頼、織田信長の三人の息子の元服に立ち会う。
北畠具教・具房親子の処遇を任される。
06月…北畠家の隠居屋敷(丸山城)完成。
07月…北畠信雄による北畠家家督相続成立。
北畠具教・具房親子、及び北畠一族と一部家臣が屋敷(丸山城)に移動。
織田信長、17条の異見書を足利義昭に提出。
08月…第二次信長包囲網完成。
義頼、浅井家の朝倉攻め援軍に出陣。
09月…木の芽峠城砦群陥落。朝倉家守将たちは討ち死に。
朝倉義景が切腹し、朝倉家が浅井家に降伏。朝倉景鏡、朝倉家陣代に。
武田信玄動く。
10月…【井伊谷の戦い】勃発。
【欠下城の戦い】勃発、武田信玄は義頼の奇襲にて深手を負い重体。
奥平定能、武田家を離れて徳川家に帰参。
織田家と武田家が激突するも、戦の最中に怪我と病の悪化で信玄死亡。
足利義昭、挙兵。
11月…義頼、近江石山城を降伏させ、その後、今堅田城を撃破する。
織田信長が京都に到着し、先発の義頼達と合流。
二条城で細川藤孝、細川昭元、三淵藤英、京極高吉、荒木村重と織田信長が面会。
槇島城を攻めて、足利義昭追放。
・1573年01月…二条城にて新年の挨拶。
義頼、大和国の添上郡を拝領。
丹後一色家にて内訌勃発。
元号改元、天正へ。
02月…井伊直虎改めお圓の方、義頼の側室に。
井伊家と徳川家の間で領地を巡る確執が勃発、井伊家が義頼配下に。
義頼、丹波国主として丹波国へ移動。
03月…丹後攻め、正式通達。
足利義昭、丹後建部山城を脱出して毛利領内へ移動。
04月…丹後国攻め開始。
義頼、福井城近くの攻防戦で新装備「銃槍」を初実戦導入。
丹後国攻めの論功行賞により、茶会の許可と九十九髪茄子を賜る。
05月…山国荘を朝廷に献上。
織田信長へ、従三位参議の官位と蘭奢待切り取りの許可が下りる。
義頼、織田信長を通して朝廷より正五位下右近衛少将の官位が与えられる。
蘭奢待切り取り。
06月…安土城築城、及び観音寺城大改修が始まる。
織田信長の京屋敷(二条御殿)造営開始。
08月…義頼とお圓の方(井伊直虎)の娘、結姫誕生。
浅井長政とお市の間に娘(お督)誕生。
09月…足利義昭の仲介で、石山本願寺と越後上杉家の間で和議が成立。
織田家と石山本願寺との戦、再燃。
【天王寺の戦い】勃発し、義頼が鈴木重秀(雑賀孫一)討ち取る。
10月…顕如の命を受けて加賀一向一揆勢が越前へ侵攻。
越前国主、浅井長政によって返り討ちにされる。
浅井家、加賀国へ逆侵攻開始。
11月…阿波三好家のお家騒動終結。
篠原長房が隠居、篠原自遁蟄居閉門(後に切腹)
・1574年01月…姉小路頼綱が信長に挨拶。
柴田家と姉小路家の間で婚儀が約束される。
虎松が元服し、井伊次郎頼直と名乗る。
04月…篠原自遁、切腹。
06月…【紀伊沖の海戦】勃発し、雑賀水軍敗北。
07月…三緘衆が織田家に恭順。根来衆が、織田家に協力する旨を通達する。
08月…雑賀(紀州)攻め勃発。雑賀水軍半壊、雑賀衆が降伏。
09月…鉄甲船解体。
10月~11月…設楽ヶ原・高天神城・東濃の戦いが勃発。
11月…お犬の方、妊娠四ヶ月。
12月…伊賀国へ視察・小寺(黒田)孝隆が、六角家と京極家を介して織田信長と謁見。
義頼、中国攻めの大将に任命される。
・1575年01月…安土城大広間にて新年の宴。
近江衆の人質返還が実施される。
六角館にて、織田信長と織田信忠と丹羽長秀を招いて新年の茶会を開く(茶頭は松永久秀)。
02月…北畠具教の娘(月姫)、義頼の側室としての申し出をうける。
義頼、山岡景佐の娘(龍姫)と六角義治の婚姻話を進める。
北畠具教から、娘となる月姫の側室入りと婚儀が行われる。
04月…上杉謙信、西進。
能登畠山家で、上杉家からの調略を受けた重臣による内訌勃発。
義頼、織田信長と共に上洛。その後、能登畠山家の援軍と言う形で義頼が北陸へ出陣。
織田・浅井連合軍と越後上杉軍の戦が勃発し、辛くも織田・浅井連合軍の判定勝利を得る。
05月…義頼、正五位下右近衛少将から正五位上右近衛少将へ昇進。
二男、寿亀丸誕生。
石山本願寺が事実上降伏して、石山合戦収束。
六角承禎を家祖とした高家六角家(武家羽林六角家)が創家される。(創家時、従四位下兵部卿)
備中騒乱に敗れた三村元親、落城前に備中松山城を脱出。義頼との縁を頼り、播磨国へ落ち延びる。
06月…義頼が、軍勢を率いて播磨国へ進軍。
龍野赤松家を除く播磨衆、義頼に降伏及び随身。
龍野赤松家が義頼に降伏し、宇喜多領となっている地域を除いて播磨国を鎮定する。
07月…毛利家、吉川吉春を総大将に、小早川隆景を副将とした軍勢を派遣。
宇喜多直家により浦上家が滅ぼされる。その後、浦上宗景の行方は不明。
08月…織田信長の命により、織田信忠が播磨国へ鎮西大将軍として移動。
三石城にて、毛利勢と宇喜多勢が合流。宇喜多直家、備前石山城(岡山城)に戻る。
上月城近く、久崎の地で【佐用川の戦い】が勃発。
浮田家久(遠藤清秀)へ、義頼の暗殺が命じられる。
織田信忠、軍勢と共に播磨国へ到着。
白旗城にて浮田家久に狙撃されるが、結果として返り討ちにし九死に一生を得る。
駒山城の戦いにて毛利家が撤退、播磨国全てが織田家の勢力下にはいる。
因幡武田家嫡子の徳充丸が、毛利家の承認の元で家督を継承する。
織田信忠、岐阜へ兵を返す。
09月…吉川元春、三石城跡より吉田郡山城へ撤退。
阿波三好家より、三好義継を介して織田家に降伏の打診。
阿波三好家にて、内訌騒動勃発。
阿波三好家内訌騒動への対応として、三木通秋と赤松広秀に瀬戸内の警備を命じる。
義頼、備前国侵攻開始。
長船城に入城、浦上秀宗(浦上久松丸)を確保して備前国侵攻における旗頭に据える。
10月…肩脊城開城し、城主の岡貞綱が降伏する。
吉川経信が吉川家嫡子となり、名を吉川広家に改める。
虫明城が開城し、花房家が降伏する。これにより、備前半国が織田領に組み込まれる。
宇喜多春家を宇喜多直家の影武者として仕立て上げた上で、亀山城へ進軍。
宇喜多直家、石山城を脱出して毛利家庇護下に入る。
宇喜多春家ら義頼に降伏。その後、石山城に移動。
11月…備前国内の鎮定終了する。
吉川広家に策を仕掛け、宇喜多直家を討たせる。
策に乗せられた吉川広家と市川元教が宇喜多直家殺害の責任を取る形で、廃嫡と蟄居。
12月…毛利家の使者が、義頼を尋ねる。
安土に向かう。
・1576年01月…安土城にて新年の宴。
完成した安土城と、改修した観音寺城のお披露目が行われる。
織田信長へ従二位内大臣の地位が与えられ、右近衛大将の官職は、如元。
織田信忠へ正四位下参議、丹羽長秀へ従五位上内匠頭の官位が与えられる。
中国地方での戦績を評価され、丹波衆の完全家臣化及び新た官位(従四位下左衛門督)が与えられる。
柴田勝家も飛騨の地を与えられ、飛騨国主へと就任。
義頼、甲賀郡を経由して伊賀国へ移動。
02月…大和国にて、義頼へ奈良伝授が行われる。
03月…毛利家の呼びかけと足利義昭の仲立ちで甲越相三国一和が成る。
織田信長が上洛し、石山本願寺跡地で、四国征伐に向かう軍勢の馬揃えを行う。
六角承禎の元に甲越相三国一和と甲越の軍勢についての報告がされ、その後、義頼と織田信長へ連絡。
明智光秀、淡路島を陥落。その後、三好義継を第一陣として四国へ派遣。
04月…阿波三好家が織田家に降伏し、派遣された三好義継と共に細川真之らを討伐。
武田家、上杉家、北條家、毛利家の同盟発覚を受けて、義頼の山陰派兵は取りやめ。
織田信長の命により、義頼が中国地方より近江国へ軍勢を率いて移動。
義頼の妻三人が、揃って妊娠したことが告げられる。
お圓の方(井伊直虎)に、井伊家家督相続の相談をする。
長宗我部元親、織田家に同調して挙兵し、伊予国へと攻め込む。
河野通直、敵対勢力であった西園寺公広と共に迎撃する。
毛利家、援軍とし軍勢の派遣を決定。
義頼を通じて織田家に通じていた村上総通(来島総通)が挙兵。
東国で武田家と上杉家と北條家が、織田領へ侵攻開始。
三河国で反乱が起き、義頼が出陣する。
05月…三河国で、義頼の軍と反乱軍が激突するも、素早くこれを鎮圧。
徳川家臣に三河国を任せ、遠江国へ出陣。
天竜川にて、義頼の軍勢と北條家の軍勢が激突し、義頼が勝利する。
北條氏繁率いる北條勢と秘密交渉を行い、北條勢の自領までの撤退が決定される。
撤退した北條勢を追撃すると言う名目で駿河国へ侵攻し、同国内の武田勢を撃破及び降伏させる。
駿河国陥落を織田信長に通達。
駿河国を今川氏真らに任せ、甲斐国へ侵攻。
06月…織田領へ侵攻していた武田信勝(武田勝頼)だったが、甲斐国への侵攻を聞き躑躅ヶ崎館へ撤退。
義頼、織田信忠らと合流。
織田家と武田家の決戦ののち、武田勢は上野国へ撤退。
藤田氏邦(北條氏邦)、武田家敗北の隙を突いて上野国へ侵攻。
甲斐武田家降伏。武田信勝は出家し、以降は頼山勝と名乗る。
藤田氏邦と会談し、彼の蠢動を押さえる。
北條家の撤退と甲斐武田家の降伏を知った上杉謙信が、急ぎ撤退開始。
安土へと戻った義頼は、井伊頼直へ井伊家の家督を継がせる。
07月…毛利家による備中高松城水攻めの最中、備中国へ出陣。
備中高松城救援の為、毛利家と対峙した後に毛利家を撃退。
小早川隆景の策により、大砲群に少なからずの損耗を負う。
小早川隆景、備中松山城撤退後に海を渡り、四国勢の援軍。
08月…京極高吉を総大将とする山陰方面侵攻部隊が編成される。
四国にて吉川元春と小早川隆景が合流後、四国攻め中の明智光秀や羽柴秀吉らに痛撃を与える。
吉川元春、山陰への梃入れの為に四国より山陰へ移動。
毛利家、戦線を縮小する為に備中国より兵を退く。
09月…金子元宅降伏。
小早川隆景の撤退により、河野家と西園寺家が降伏して四国征が伐終了する。
10月…義頼に一男二女誕生。三男は金剛丸、二女は鏡、三女は琳と命名。
今衣山城にて武田就信大敗し、鳥取城に逃げるも包囲される。その後、武田就信討ち死に。
元甲斐武田家家臣、山県昌景率いる山県一族、武藤昌幸と弟の金井高勝。
及び小山田昌成を当主とする石田小山田一族が六角家家臣入り。
義頼による、備後国五箇庄攻め。
11月…因幡武田家が降伏し、因幡国が鎮定される。
南条元続を主軸とする伯耆国国人らが毛利家より離反。
因幡武田家救援に向かっていた吉川元春の軍勢を足止め。
尼子衆、伯耆国へ侵攻。
備後国で、福原貞俊捕縛される。
12月…神辺城攻防戦、勃発するも数日で落城。
杉原元盛、切腹。
義頼、安土へ向けて出立。 途中で京に寄り、六角承禎と会談。
・1577年01月…安土城大広間にて新年の宴。
織田信忠と松姫の婚姻が執り行われる。
九州の情勢に、大友家からの要請で織田家が使者を派遣して介入する事が決まる。
六角承禎が従三位参議、兵部卿並びに源氏長者になる。
併せて、高家六角家の家格が上がり、羽林家より大臣家となる。
柳生谷に滞在していた上泉秀綱の病状が思わしくない為、柳生宗厳らが義頼より別れ柳生谷へ向かう。
02月…義頼、山陽道沿いの各国人と会い、地盤固める。
03月…足利義昭が、中国攻めに参加している織田家の武将へ手紙を出し織田家よりの離反を示唆する。
義頼を含め、足利義昭より書状が届いた武将の悉くが要請を拒否。
04月…足利義昭、義頼らから断りの返書が届くと激怒し、毛利家に対して義頼の軍勢を攻める様に命じる。
義頼、足利義昭の将軍職解官を織田家へ進言。
足利義昭の将軍職解官が朝廷に承認され、同時に勅使の正使として六角承禎が任じられる。
また、義頼も副使として任じられる。
小早川隆景の指示を受け、毛利家に繋がりながらもあえて降伏していた細川通薫が策動する。
その策により、降伏してから間もない備後国人を中心に暴走。
千光寺山城へと勝手に進軍し痛撃を食らうも、あとを追った義頼ら働きで壊滅は免れる。
05月…六角承禎が将軍職解官の勅使の正使として京より出立。
織田家の代理として近衛前久が九州へ向かう。
大舘晴忠の独断で、義頼暗殺未遂事件が発生するも未然に防がれた事もあり、義頼は報告せず。
近衛前久、織田家からの依頼通り大友家と竜造寺家と島津家の仲立ちを行う。
06月…山陰にて、尼子衆による侵攻が開始。
織田家からの依頼を果たした近衛前久が九州より出立。
同行者に、島津家久。その他、護衛として丸目長恵が同乗。
六角承禎、備後国へ到着。併せて、義頼の副使就任が伝えられる。
これにより、大館晴忠の引き起こした暗殺未遂騒動が大問題へと発展する。
朝廷と織田家に、勅使の副使となった義頼に対する暗殺未遂事件が報告される。
尼子衆の出雲国侵攻、義頼の命で打ち切りとなる。
堺に近衛前久が到着。
義頼と毛利家が、顕在化した勅使暗殺未遂騒動解決の為に第一回目の秘密会談を行う。
先の暗殺未遂騒動を受け、朝廷より糾問の使者が派遣される旨が決定。
併せて、織田家より織田信忠の派遣も決定。
上洛した織田信忠が、朝廷からの意向も踏まえて軍勢を率いて京より出陣。
中国地方における戦が全て停戦。
織田信忠の出陣を受けて、義頼が毛利家と第二回目の秘密会談を行う。
その席で、毛利家側より織田家に降伏する旨が伝えられる。
07月…織田信忠が備後国へ到着し、杉原保にて毛利輝元らと会談。その席で、毛利家の臣従が伝えられる。
織田勢と毛利勢が、足利義昭を捕らえるべく長門国にある大寧寺へ進軍。
大寧寺にて、足利義昭捕縛。
尼子勝久が尼子義久の養子となり、尼子家の家督が継承される。
備後国にて、備後国人の暴走に対する沙汰が言い渡される。
義頼の褒美として、播磨一国が与えられる。代わりに大和国は没収され、織田家直轄領へ。
08月…越後上杉家降伏。
義頼暗殺未遂の顛末や対応の為、一度畿内へ戻る。なお、大舘晴忠を除く幕臣は無関係として無罪。
主犯の大舘晴忠本人も含め、大舘一族で成人している男性全員が四条河原で処刑される。
なお、女性と成人前の子供は助命され寺へ。
島津家久、織田信長との面会するも、西は織田信忠に任せているとして短時間で面談は終わる。
島津家久、織田信忠が戻るまでの間、伊勢参りなど行う。
09月…島時家久、帰京した織田信忠と面会する。会談後は、九州へ戻る。
義頼、備後国へ戻り、中国攻めの後処理を行う。
織田信長、右大臣と右近衛大将の官職を朝廷へ返上。
朝廷が武家伝奏たる六角承禎を派遣して、織田信長の心うちを問う。
中国攻めの後処理を終えた義頼が、軍勢と共に畿内への帰還の途へ就く。
六角承禎が、京へ帰還する。
10月…伊賀国にて、三雲賢持と大久保善兵衛が、新装備の擲筒(現代の迫撃砲に該当)を義頼に披露する。
大和国にて、筒井順慶や松永久通らの引っ越しを労う。
京にて、六角承禎と面談する。
11月…丹波国における義頼の代理を、土岐頼次から波多野秀治へ変更する。
丹波国内で、新たな城を建築を開始し、丹波国内にある幾つかの城を壊し、資材とする。
九州で、日向伊東家が薩摩島津家に敗れる。
12月…播磨国姫路城へ到着後、伊東家が敗れたとの報告を受ける。
安土へ向かい、織田信忠へ九州の情勢を報告する。
・1578年01月…安土城大広間にて新年の宴。
現古河公方となる足利義氏が朝廷へ使者を派遣して、年度の挨拶を行う。
03月…古河公方から次期将軍職の打診をされるも、朝廷は受諾せず。
織田家及び朝廷の話し合いで、足利義尋の次期将軍職継承を前倒しして行うことが決まる。
大友宗麟が伊東義賢、伊東義祐を旗頭として日向国へ侵攻。
足利義尋へ、従五位左馬頭の官位が与えられる。
04月…大友家、日向北部に勢力を持つ土持氏を討ち、土持氏の領土を版図とする。
足利義尋へ従四位征夷大将軍の官位が与えられ、室町幕府第十六代将軍となる。
同時に元服し、足利義信を名乗る。
古河公方、足利義信の将軍就任を知り激怒する。
島津家、援軍を日向国へ派遣する。
大友宗麟、寺社仏閣の破却を命じる。
05月…伊東家旧臣の一部、島津家に反旗を翻し挙兵する。
島津家、石ノ城へ攻勢を掛けるも失敗し退却する。(第一次石ノ城の戦い)
古河公方の使者が朝廷を訪問し、足利義信の将軍就任の審議を問うも相手にされず。
大友義統、大友家本隊を率いて南下する。
島津家、伊東家旧臣が籠る城の一つ、上野城を攻める。(上野城の戦い)
06月…大友義統、大友家先遣隊と合流し、高城攻めを行う。(高城の戦い)
島津家、伊東家旧臣が籠る城の一つ、石ノ城を再度攻める。(第二次上野城の戦い)
島津義久、薩摩国内城を出陣する。
古河公方足利義氏、関東の大名と国人に書状をだして味方を募る。
07月…石ノ城に籠城していた伊東家旧臣の長倉祐政、劣勢から開城し退去する。
島津家本隊、佐土原城へ到着。時を置かずして、伊東家旧臣が再度蜂起する。
伊東家旧臣、都於郡城攻めを行う。島津義久、北郷時久に都於郡城を救援させる。
撤退した伊東家旧臣の籠る三納城が落城する。
08月…島津本隊、高城へ向けて佐土原城を出陣する。
島津家と大友家、高城近郊で激突する。
味方の不和から大友家が破れ、総撤退を行う。
09月…戸次道雪、北九州を高橋鎮種に任せると、独断で軍勢を動かし大友家救援に向かう。
大友宗麟、丹生島城に籠城する。
島津家、日向国を取り返し豊後国南部を制圧すると丹生島城へ進撃する。
戸次道雪、丹生島城へ到着する。間もなく、島津義久も丹生島城へ到着する。
丹生島城を巡り、島津家と大友家が激突する。
北九州各地で、大友家旗下の国人による蜂起が相次ぐ。
10月…関東で、君側の奸である織田家を排除するとして古河公方が蜂起する。
関東への派兵が決定する。
北九州の有力国人である秋月家と原田家と筑紫家が同盟する。
大友家が織田家に救援要請を行うと、織田家による九州への軍勢派遣が決定される。
征夷大将軍となる足利義信、及び征東大将軍に任じられた織田信長の両名を大将とした軍勢が出陣。
毛利家を旗頭とした中国勢、長宗我部家を旗頭とした四国勢が九州先遣隊として派遣される。
秋月家と筑紫家の合同で、宗像家の居城となる蔦ヶ嶽城へ進軍する。
竜造寺家の軍勢が、北九州を席巻するべく出陣する。
石山本願寺跡地にて、織田信忠へ九州征伐軍のお披露目が行われる。
11月…九州先遣隊が上陸。その後、筑前国の鎮定を開始する。
織田家九州討伐本隊が、九州博多に上陸すると大宰府に本陣を構築する。
織田家本隊、筑後国へ進撃する。
竜造寺家による肥前国統一が成る。
織田家本隊、筑後国を鎮定する。
12月…織田信忠、九州へ出陣する。
織田家本隊、竜造寺隆信の暗躍を詰問する為、肥前国へ進撃する。
竜造寺隆信と接見し、竜造寺家へ仮処分を行う。
織田家本隊、丹生島城近郊にて島津家と激突する。
島津義弘、織田家本隊を含む竜造寺家と大友家の軍勢を急襲するも、義頼によって討ち取られる。
織田信忠、九州博多へ上陸後、丹生島城にて合流する。
・1579年01月…織田家と大友家と竜造寺家の連合軍が、島津家討伐の為に出陣する。
明智光秀、島津勢を日向国で打ち破り鎮定する。
義頼、肥後国を鎮定する。
朝廷より織田家へ、京で馬揃えを行うようにとの要請がされる。
明智光秀、大隅国へ進撃する。
02月…越後上杉家で、上杉謙信の持っていた家督が上杉景勝へと譲られる。その夜、上杉謙信が倒れる。
織田水軍と島津水軍が激突。島津水軍が破れ、坊津湊が織田水軍に占領される。
義頼、薩摩国へ進撃し、出水で島津義虎を追い込む。
上杉謙信、死の直前に意識が戻ると、纏めていた十六条の遺訓を残す。
その夜、春日山城にて眠るように没する。
蒲生定秀と三雲定持が体調を崩す。
島津義久、織田家に降伏する。
織田家による九州仕置きが行われる。
03月…織田信忠、長崎の実情を見る。その後、博多へと移動する。
博多から離れる直前、織田信忠の宣言により博多復興が約束される。
安土城にて、九州攻めの論功行賞が行われ、義頼には、童子切安綱と千鳥の香炉が与えられる。
また、近江守の官職も与えられる。
蒲生とら、義頼の側室となる。
三雲定持、死亡。
04月…蒲生定秀、死亡。
05月…京都馬揃えが行われる。(第一回)
アレッサンドロ・ヴァリニャーノやルイス・フロイスらが織田信長と面会する。
06月…織田家の意向を受けた清玉上人が、降伏の使者として奥羽へ派遣される。
数年に渡り行われていた織田家と高野山との交渉が終了する。
高野山は、武装及び謀反人等罪人を匿うことの禁止。
寺領を二万貫(四万石)まで減らし、その分を織田家に献上することで合意する。
07月…織田信忠へ、秋田城介が補任される。参議は如元。
正四位上の位階と征狄大将軍の官職が与えられる。参議と秋田城介は如元。
10月…蒲生とらの輿入れ。
奈良古今伝承者として、義頼の弟子となる藤原惺窩が奈良へ赴く。
11月…古今伝授失伝対策の為、御所伝授と奈良伝授における予備の者を育てる提案をする。
御所伝授の三条西家の了承もあり、それぞれで予備の伝承者を作っていくこととなる。
・1580年01月…織田家において、新年の宴が行われる。
02月…アレッサンドロ・ヴァリニャーノの策で、フランシスコ・カブラルがインド管区長として栄転する。
03月…柴田勝家を総大将とした奥羽進攻の第一陣が、関東へと出陣する。
04月…織田信長を総大将とした奥羽進攻の第二陣が、関東へと出陣する。
陸奥国にて蘆名家・伊達家・石川家連合勢と白河結城家・相馬家・岩城家・南部家連合勢が衝突する。
白河結城家・相馬家・岩城家・南部家連合勢が勝利。
敗れた蘆名家・伊達家・石川家連合勢は浅川城へ押し込められる。
大崎家・南部家・奥州斯波家連合勢が葛西家領内へ進撃する。
05月…滝川一益を大将とした奥羽侵攻軍第一陣の先鋒が、陸奥国へ侵攻する。
白河結城家・相馬家・岩城家・南部家連合勢が浅川城包囲を解き、小峰城救援の為に進撃する。
織田信長を総大将とした奥羽進攻の第二陣が、岩槻城へ入る。
陸奥国国境での戦に勝利した滝川一益が、白河城を落城させたのちに入城する。
柴田勝家率いる織田家奥羽侵攻軍第一陣が国境を越えて白河城へ入る。
白河結城家・相馬家・岩城家・南部家連合勢が、小峯城へ入る。
織田信長が率いる軍勢が、宇都宮城へ入る。
柴田勝家率いる織田勢第一陣と白河結城家・相馬家・岩城家・南部家連合勢が激突し、織田勢が勝利。
大崎家・南部家・奥州斯波家連合勢に押された葛西家が寺池城に籠城する。
敗戦した白河結城家・相馬家・岩城家・南部家連合勢のうちで相馬家と岩城家は、大舘城へ撤退する。
同じく戦に敗れた南部家の軍勢とごく一部の白河結城家連合勢が、小高城へ撤退する。
織田勢が小峯城へ入り、柴田勝家は、小峯城から白河城へ移動する。
蘆名家・伊達家・石川家の当主が織田信長と謁見し、織田家へ臣従する。
相馬家・岩城家が二つに分かれ、両家の現当主は織田家に降伏する。
分かれた先代当主は、南部勢と共に南部領へ移動する。
葛西家を攻めていた大崎家・南部家・奥州斯波家連合勢と葛西家が、織田家の勝利を知る。
06月…織田信忠率いる軍勢が、織田家本隊と別れ出羽国山形城へ向けて進軍する。
蘆名家・伊達家・石川家の軍勢が小高城へ向う。
織田信忠が、須賀川城へ到着する。
蘆名盛氏の容体が捗々しくないという理由から、前線より蘆名盛隆が呼び寄せられる。
柴田勝家率いる織田家第一陣が白河城より出陣し、小高城へ向かう。
蘆名盛氏が死亡し、織田信忠や義頼などが葬儀に列席する
柴田勝家が小高城に入城し、相馬家と岩城家が合流する。
蘆名盛氏の葬儀後、須賀川城を出た織田信忠は米沢城を経由してから出羽国山形城へ到着する。
出羽国中南部に領地を持つ大名や国人が、織田家に臣従する。
織田信忠が軍勢と共に山形城を出陣し、安東愛季の居城、脇本城へ向かう。
織田信忠が、脇本城へ到着する。
出羽国北部に領地を持つ大名や国人が、織田家に臣従する。
水軍を用いて、葛西家の救援の為に蘆名家・伊達家・石川家・相馬家・岩城家の軍勢が出陣する。
07月…織田信忠率いる軍勢が、脇本城より出陣する。
柴田勝家率いる軍勢が、寺池城へ向かう。
蘆名家・伊達家・石川家・相馬家・岩城家の織田家先鋒が伊寺水門(現在の石巻港)沖に到着する。
寺池城を攻囲していた大崎家・南部家・奥州斯波家連合勢は、攻囲を解いて味方の立て直しを図る。
葛西晴信が領地回復の為に近隣の城館を奪還する。
大浦信勝からの救援要請を受けて、南部晴政は七戸家国を大将とした援軍を派遣する。
蘆名家・伊達家・石川家・相馬家・岩城家の織田家先鋒が寺池城に入り、葛西家と合流する。
織田信忠は、臣従する津軽国人を吸収しつつ、朝日行安救援の為に飯詰城救援に向かう。
柴田勝家率いる織田家第一陣が、織田家先鋒と葛西家の軍勢と合流する。
織田信忠が、大浦家家臣となる小山内主膳が籠る金山館を攻略する。
七戸家国率いる南部勢が、和徳城へ入る。
蠣崎季広が織田信忠を訪問し、臣従する。
08月…柴田勝家の織田勢と大崎・南部連合勢が激突し、柴田勝家が勝利する。
大崎家の降伏を条件に、大崎義隆と嫡子の大崎義興が切腹する。
織田信忠率いる軍勢が七戸家国と大浦信勝の軍勢と激突する。
戦の最中に、南部家の弓名手となる川守田正広弓に狙撃されるが、義頼によって防がれる。
その川守田正広も、義頼から逆に狙撃仕返されて絶命する。
戦は織田家が勝利し、七戸家国は撤退、大浦信勝は討ち死に。
柴田勝家率いる織田家第一陣が、南部家の居城となる三戸城を包囲する。
09月…織田信長率いる織田家本隊が、三戸城へ到着する。
織田信忠率いる軍勢が、織田家本隊へ合流する。
南部信直ら南部家の大半が、南部家より離反して織田家に降伏する。
南部家へ身を寄せていた古河公方たる足利義氏とその家臣が、南部家より離れて織田家へ降伏する。
南部晴政、南部家の家督を嫡子の南部晴継へ継承する。
南部家、織田家の軍勢に吶喊する前日の夜に、最後の宴席を開く。
その際、織田家より酒と肴が南部家へ届けられる。
南部家による最後の吶喊が敢行され、南部家は全滅し天下統一が成される。
・1581年01月…織田家において新年の宴が行われ、その際に全国より大名や国人を招致して、忠節を誓わせる。
03月…織田家より、大名、国人、織田家家臣に問わず全国的な領地替えが命令される。
09月…領地替えに反発した日の本各地域の国人らが相次いで蜂起し、一年以上に渡り争乱が起きる。
・1582年05月…織田信忠と松姫の間に男児誕生。
11月…九州の鎮圧を最後に、争乱が終結する。
・1584年05月…京都馬揃えが行われる。(第二回)
京の三十三間堂にて御覧試合による通し矢が行われる。
義頼は、参加した者の中で最高成績の九割五分という命中率を出した。
織田信長が、第一線から本格的に身を引く。
朝廷より織田家へ、太政大臣か関白か征夷大将軍のいずれかを与えるという旨が内々に提示される。
06月…朝廷より譲位の打診が織田家に出され、織田家も了承する。
丹羽長秀、滝川一益、明智光秀ら織田家有力家臣が相次いで隠居する。
09月…足利義信が征夷大将軍を朝廷へ返上し、室町幕府が終焉する。
織田家より、太政大臣就任の返答が朝廷へ上奏される。
・1585年01月…織田信忠が、朝廷より正二位太政大臣の地位を賜る。のちに従一位となる。参議と秋田城介は返上。
04月…蝦夷入植の為の準備として、蝦夷地調査が始まる。
琉球王国へ、降伏を打診する。
05月…仙洞御所が完成し、誠仁親王が天皇となる。
07月…全国的な検地が開始される。
・1586年01月…鶴松丸が元服し、六角頼綱を名乗る。
六角承禎、正三位権大納言へ昇進する。
08月…天皇が大病に陥るも、曲直瀬道三らの働きにより一命はとりとめる。
以降、体調を崩すことが多くなる。
・1587年01月…久我敦道(本編未登場)が、正三位大納言へ昇進する。
六角承禎と同格となるが、彼が先任ということもあり源氏長者はそのまま。
・1588年01月…再三にわたる降伏勧告にも応じない琉球王国へ、派兵が決まる。
六角金剛丸が、六角承禎の養子となる。
04月…琉球王国へ派兵。
05月…琉球王国、明へ援軍要請するも明は無視。
07月…琉球王国、織田家に降伏して滅亡。尚永王は娘婿を人質として送り込む。
・
・
・
・
・1624年09月…義頼死去、享年七十七。
同月内に複数項目がある場合、上の事象ほど先に起きています。