第二十六話~但馬よりの帰還~
第二十六話~但馬よりの帰還~
塩冶高清による大物見を行い、その裏で鵜飼源八郎に率いさせた甲賀衆を此隅山城に派遣してから数日した早朝、鵜飼源八郎が戻って来た。
直ぐに義頼は甲賀衆を召し出すと、鵜飼源八郎からの報告を聞く。 しかしその内容は、思わず耳を疑うものである。 と言うのも、どうやら此隅山城に山名祐豊は居ないらしいと言う物だったからだ。
代わりに今城に居るのは、山名祐豊の息子となる山名氏政と山名家近臣の伊秩重久。 それから山名家重臣で織田家に付くを良しとしなかった田結庄是義や同じ一族の田結庄光保 らだと言うのだ。
また噂の域を出ないのだが、山名祐豊は既に亡くなっているという話もある。 確かに年齢から言って、死亡していてもおかしくはない。 だが死の理由が討ち死にと言う事に、義頼は首を傾げていた。
義頼が軍勢を率いて但馬国へ侵攻して以来、幾度か山名家に加担する者達との間で戦は行っている。 しかし相手は、山名家家臣と言うより但馬国の国人である。 そして山名一族の者はと言えば、ただの一人として相対したとの報告を受けていなかった。
この状況で山名祐豊が戦死したなどと言う話を鵜呑みにする程、義頼もお気楽では無い。 訝しげな表情を浮かべながら、傍らにいた沼田祐光へ話しかけた。
問われた沼田祐光は暫く考えた後、三つほど可能性を伝える。 彼が先ず上げたのは老衰であり、これは年齢を考えての事である。 次に上げたのが、病死となる。 此方も、齢六十を越えているので考えられなくもない。 戦と言う状況下で、年齢と緊張から来る病に掛かっても何ら不思議はない。 しかし、沼田祐光が最後に上げた可能性は聞き捨て成らなかった。
「祐豊の策……だと?」
「はい。 降伏した国人達の話によると山名家の家督は息子に譲られている様なのですが、父親の力がまだまだ大きいそうです」
「それは、事実上親子二人で但馬を治めているという事か?」
「恐らくは」
沼田祐光の話を聞き、義頼は再度考える。 暫く考えに耽っていた彼であっが、やがて顔を上げると沼田祐光の方を向いた。
「つまり現状では、祐豊殿が死んでいるのかどうかは分からない。 そう言う事だな」
義頼の確認するかのような問い掛けに、沼田祐光は黙って頷く。 すると義頼は、鵜飼源八郎に山名祐豊の捜索を命じた。 義頼から命を拝した鵜飼源八郎は静かにこの場から辞すると、配下の甲賀衆と共に但馬国内を密かに捜索へ入ったのであった。
それから、義頼は本多正信と蒲生定秀の両名を呼び出す。 また彼らだけでなく、信長の派遣した援軍の森可成と息子の森可隆。 それから軍監の坂井政尚を呼び出すと、現状で分かっている事を話した。
その上で、彼らに対して探りの意味も込めて一当てしてみたいと提案する。 これには森親子も坂井政尚も、そして義頼の家臣三人も反対しなかった。
「では大手を攻めるのは、但馬国人としましょう。 そして搦め手は、三左衛門(森可成)殿と傅兵衛(森可隆)にお願いしたい」
『応っ!』
その後、義頼は塩冶高清や太田垣兄弟などの但馬国人を大手門に配置する。 それから彼は、搦め手からの知らせを待った。
程なくして、森可成からの使い番が義頼の元に現れる。 使い番から森可成と森可隆の配置が完了したとの報告を受けると、義頼は軍配を返して此隅山城攻めを開始した。
その一方で攻められている山名氏政だが、無理に打って出る様な事はしない。 大手門や搦め手を確り固め、守りに徹している。 しかし但馬国人の大半が義頼の味方となっている今、そう遠くないうちに門が破られるのは火を見るより明らかであった。
「長くは持たん……か」
「余りにも兵力差があり過ぎますし、何より士気が上がりません」
「だろうな。 此処から見える殆どの旗が、但馬国人の者だ。 山名家重臣と言われた者達も、その方を除いて全員敵となっている。 これで士気を上げる事が出来るならば、そもそも此処まで攻めらてはいないだろう」
「確かに」
山名氏政の言葉に、田結庄是義は頷く。 歯に衣着せぬ物言いだが、ここまでの現実を見せられている山名氏政は文句を言う気も起きなかった。
それにどのみち、降伏する気でいるのだ。
元々、篭城し続けたのは山名祐豊が此隅山城を脱出するまでの時間無稼ぎでしか無い。 その彼も既に城を脱出しており、更に言えば山名祐豊が但馬国を出るまでの時間は十分に稼いだ。 これ以上は、無駄なあがきに等しかった。
「父上はなるたけ時を稼げといわれたが、これではどうにもならぬ。 味方の被害が大きくなる前に、降伏した方がよさそうだ」
「そうですな。 ただ、大殿(山名祐豊)は戦による行方不明と言い続けましょう」
「ああ。 父上の行方がはっきりしない方が、動き易かろう」
田結庄是義にそう言うと、山名氏政は伊秩重久を呼び出す。 そして彼を軍使として、義頼の元に派遣するのであった。
さて取りあえずの様子見のつもりで攻めた義頼であったのだが、兵力差からかそれとも士気の差からなのかその日のうちに此隅山城の大手門と搦め手を破ってしまう。 だが日暮れが近づいている事から、義頼はそこで城攻めを一端幕引きとした。
兵を引き守りをしっかり固め、夜襲に備える事にする。 しかしてその行動は、無駄となってしまった。 その理由は、此隅山城から軍使が現れたからである。 伊秩重久と名乗った使者は、山名氏政からと言う書状を携えていた。
その書状を受け取った義頼は、一通り眼を通す。 そしてその内容に、思わず目を疑った。 そこに書かれていたのは、降伏する旨だったからである。 眉を寄せつつも読み返したが、その内容に変わる訳では無かった。 すると頃合いを見計らったのか、伊秩重久が尋ねて来る。 義頼は眉を寄せたまま、逆に尋ね返すのだった。
「ところで御使者殿。 つかぬことを聞くが、右衛門督(山名祐豊)殿は如何されたか?」
「大殿は、行方知れずにございます。 戦に出たのは間違いございませぬが、城には戻られませんでした」
「なるほど、それで行方知れずと。 だが、戦死したとの話もあるが」
「それに関しては何とも。 所詮は、噂にございましょう」
「そうか……相分かった。 兎に角、降伏の儀は承った。 殿には取り次ごう、それで宜しいな」
「お願い致します」
翌日、義頼ら織田家の将は伊秩重久の案内で此隅山城に赴いた。
程なく大手門に到着すると、そこには正装した山名氏政と田結庄是義。 並びに、田結庄光保が佇んでいた。
こうして山名氏政の出迎えを受けた義頼達であったが、降伏したとは言えつい昨日まで敵対して来た者達である事に違いはない。 念の為に監視下に置き、事実上軟禁扱いにした。
拘束などは行わなかったが、山名氏政と田結庄是義。 田結庄光保と伊秩重久を別々の部屋に入れて、彼らを監視下に置いたのである。
なお義頼ら但馬国派遣軍が此隅山城を占拠した事で、事実上但馬国は織田家の版図に組み入れられている。 こうして首尾よく此隅山城に入った義頼であったが、彼が行う事は幾らでもある。 まずは伊勢国へ出陣している織田信長に対する書状である。 軍監の坂井政尚が経緯については報せてる筈であるが、義頼からも報告をしたのだ。
また鵜飼源八郎には、引き続いての山名祐豊の捜索を命じる。 そして但馬国内に置いては、兵を派遣して治安維持に務めていた。
これは国人について、義頼の一存では決められないと言う事情が存在する。 織田信長の許可が無ければ、所領安堵のお墨付きを出せないのだ。 折角織田家に協力したのに、領地が荒れては間違いなく不満が募る。 それを回避する為の派遣であった。
こうして此隅山城にありながら手を打っていた義頼の元に、織田信長への使者として出した横山頼郷が戻って来る。 彼の手には、待望の返書が携えられていた。
早速、義頼は書状を最後まで目を通すと、関係者を集める。 義頼が呼んだのは、森可成と森可隆の親子と坂井政尚である。 書状には、義頼と他三人に対する指示が書かれていたからだ。
その内容はと言うと、森可成と森可隆は兵を率いて伊勢国の北畠攻めの軍勢に合流する事。 そして義頼は、坂井政尚と共に但馬国の統治を行う事であった。
書状を読み終えた義頼は、三人へ渡す。 書状を受け取った三人は中身を確認したが、その内容は義頼の言った通りであった。 彼らは頷き、織田信長の指示を了承すると一先ず部屋から辞する。 その直後、義頼は但馬国人を呼び出した。
織田信長からの書状には、但馬国人に対する沙汰も書かれていたからである。 最もその内容は所領安堵であり、義頼から言い渡された彼らは内心で安堵したのであった。
書状が届いてから更に数日経ったある日、兵の編成を終えた森親子が岐阜へと出立する。 彼らを見送った義頼と坂井政尚は、その後も但馬国人を慰撫しつつ山名祐豊の捜索も進めた。
しかし、一向にその行方は分からない。 それでも引き続き義頼は、甲賀衆や但馬国人の協力を得つつ捜索を続けていた。 すると暫くした頃に、思わぬところから山名祐豊に関する報告が上がって来る。 但し、但馬国内では無く全く別の場所からの報告であった。
何と山名祐豊によく似た者を、堺で見付けたと言うのである。 それも、今井宗久の屋敷でだ。
今井宗久は、上洛時に堺の商人の中でいち早く織田家へ接近した豪商である。 また彼は近江佐々木氏の流れを汲む今井氏の出であり、六角家とも繋がりを持っていた人物であった。 そんな今井宗久の屋敷で、山名祐豊らしき人物を見かけたと言うのである。 事の真偽は兎も角、放っておける内容の報告では無かった。
義頼は早速、山名祐豊の行方が分かった旨や但馬国内の慰撫についての報告を認める。 その書状を、鵜飼源八郎に渡し、彼に届けさせた。 それから、鵜飼源八郎が消えた部屋で義頼は思案に耽る。 やがて部屋を出ると、家臣に命じて軟禁している山名氏政と田結庄是義と田結庄光保と伊秩重久を集めた。
彼らが揃うと義頼は、鵜飼源八郎が持って来た山名祐豊が見つかったと書かれている報告を見せる。 その報告に、山名氏政と伊秩重久の表情が微かに動く。 だが田結庄是義と田結庄光保は、経験の差か表情が動く事は無かった。
「さて御一同。 これは一体どういう事か、聞かせていただけるのでしょうな」
「何の事でございましょう、左衛門佐殿」
「この報告だ、左近将監(田結庄是義)殿。 右衛門督殿は生きているそうではないか」
『何と!!』
田結庄是義と田結庄光保の二人は、さも初めて知ったかのように驚く。 それから幾分慌てたかの様に、二人は義頼が置いた書状を見たのであった。
その様子に、義頼は白けた様な視線を向ける。 そんな視線を知ってか知らずか、二人は一見するとむさぼる様に書状を眺めていた。
田結庄是義と田結庄光保の態度に義頼は一つ溜め息をつくと、立ち上がる。 相も変わらず書状を読む仕草をしている二人や黙して語らない山名氏政と伊秩重久を見やると、口を開くのだった。
「どうやら、聞くだけ無駄の様だな。 それとこの事だが、殿へお知らせした。 異存など無かろう?」
すると山名氏政と伊秩重久が弱冠顔を青くしたが、残りの二人は顔色一つ変えなかった。 そればかりか、いけしゃあしゃと田結庄光保は言ってのけたのである。
「無論、ご異存など有りません。 むしろ、大殿の消息を知れて拙者達は嬉しゅうございます」
「そうか……邪魔をしたな」
そう言った義頼は、四人を睨むと踵を返し部屋から出ていくのであった。
その頃、話題の山名祐豊はと言うと、堺で笑みを浮かべていた。
既に堺町衆の今井宗久と長谷川宗仁を伝手として、北畠家の居城である大河内城を囲んでいる織田信長と既に接触を果たしていたからである。 彼らは伊勢国での戦が終わり次第、京で会う手筈となっていた。
なお織田信長に包囲されている大河内城だが、最早落城の一歩手前であると言っていい。 大した兵糧もないままに一月近く篭城を続けたせいで、城内の食料がおぼつかなくなっているからである。 食糧が無ければ戦を続けるのは難しく、北畠家の降伏は時間の問題であった。
「父上。 もう長くは持ちませんぞ」
現北畠家当主である北畠具房が、隠居している父親の北畠具教へ現状を伝えた。
先代となる彼だが、隠居後も引き続いて北畠家内に隠然たる力を持っている。 これは、山名家や六角義治が当主であった頃の六角家と似た様な状態であった。
「分かっている。 最早、どうにもならん事もな」
「ならば、如何なさいます?」
「……致し方あるまい。 信長の条件を受け入れよう」
織田信長はつい先日の事であるが、北畠家に対して降伏勧告を行っている。 そこで示された条件は、織田信長の二男である茶筅丸を北畠の養子とする事と、成人後は北畠家の家督を茶筅丸に譲る事であった。
事実上の乗っ取りであるのだが、このままでは名門北畠家が滅びるのは必定である。 ならば断腸の思いで、この条件を受け入れるのも致し方ないと北畠具教は判断したのであった。
そして現北畠当主の北畠具房だが、彼は元々条件を受け入れるつもりであった。 だが父親が一端は反対したので、降伏勧告を受け入れなかったのである。 しかし父親の気が変わったのであれば、問題はない。 彼は、家老の水谷俊之を派遣して降伏を受け入れる事を織田信長へ伝える。 織田家もこれを受け入れ、北畠家は降伏した。
その数日後、織田信長は兵を纏めて大河内城に入城する。 城内の大広間にて、北畠具房から降伏の口上を受けた織田信長は、改めてそれを認めたのであった。
因みに大河内城内は予想していたよりかなり酷い状態であり、降伏後に入った城内にはいくつもの餓死者が横たわっていたという。
何はともあれ、凡そ五十日に及んだ織田家と北畠家の戦は終了する。 この戦は城の名前から、後に【大河内城の戦い】と呼ばれる様になった。
戦が終わると織田信長は大河内城に息子の茶筅丸、安濃野城に織田忠寛を入れる。 また渋見城と木造城は滝川一益に任せ、上野城には織田信包を入れて彼らに茶筅丸の補佐を命じた。
その後、大河内城を出た織田信長は伊勢神宮に参拝する。 そこで数日留まってから、京へと向かった。 無事に京へ到着すると、伊勢国平定の報告を義昭に行う。 明けて翌日になると、織田信長は約束通り山名祐豊と面会した。
「さて右衛門督。 その方の生存だが、義頼が半月ほど前に気付いていたぞ」
「義頼殿と申されますと……確か一月も掛からずに我が但馬を落とした者の名ですな」
「まぁ、そうなるの。 ところで右衛門督、その方からの銀一千貫の手土産は確かに貰った。 だからこそこうして会った訳だが、その方にこれ以上何か出せるのか?」
手土産はあくまで、面会を実現させるものでしか無い。 それ以上の何かを相手が欲していると言うのは信長も分かっていたので、敢えて尋ねたのだ。 そして山名祐豊も、それは想定内である。 故に彼は、銀とは別の条件を織田信長へ伝えたのであった。
「はっ。 今後、信長公が西進する際には全面的に協力致します」
「ふむ、協力のう。 別にその方の力など無くても西進は出来る、今は無理でもな」
しかし織田信長は山名祐豊の言葉に、さしたる興味も見せない。 だが彼に、慌てた様子は見えなかった。 それはまるで、この反応を予期していたかの様でもある。 そんな山名祐豊の態度に、かえって織田信長は興味を覚える。 すると図ったかの様に、山名祐豊が口を開いた。
「信長公、今一つございます。 山名家の所有する生野銀山、これをお納め下さい」
生野銀山は、国内有数の銀山であり、織田信長からすれば但馬一国よりも価値のある物であった。
それに名目上は兎も角、実質的には太田垣家に握られている銀山である。 そんな生野銀山を失ったとしても、山名祐豊としては痛くも痒くもなかった。
最も今は義頼が接収しているので、織田家の物と言えなくもない。 しかし正式な譲渡となれば、誰はばかることなく採掘出来る。 それはそれで、魅力的な提案であった。
「生野の銀山のう。 その見返りが、但馬の領有と言ったところか」
「その通りにございます」
「まぁ良かろう。 その方の望み、叶えてやろう。 だが、けじめはつけさせてもらうぞ」
「けじめとは、如何なるものでしょうか」
「何も命まで、とは言わん。 剃髪して坊主となれ」
「承知致しました」
織田信長の指示に、山名祐豊は間髪いれずに答えた。
最も織田家との交渉の成否如何に係わらず、山名祐豊は剃髪するつもりである。 むしろ織田信長の言葉は渡りに船であり、望むところとも言えた。
何はともあれ織田信長と面会を果たし、但馬国領有の成果を得た山名祐豊は約束通り剃髪する。 同時に法名である宗詮を名乗り、これ以降は山名宗詮となったのであった。
こうして織田信長との面会を首尾よく済ませてから半月後、山名宗詮は数ヵ月ぶりに此隅山城に戻って来た。
程なく到着した城の大手門、そこで山名宗詮を出迎えた者が居る。 他でもない、義頼であった。
彼は代理とは言え、今まで但馬国を押さえていたのである。 その但馬国を山名家に返すのであるから、それは必然であった。
「やってくれましたな、山名祐豊殿」
「何の事ですかな?」
さも何でも無い風に、顔色一つ変えずに言い返す山名宗詮。 そこに義頼は、まだ己にはない海千山千の強かさを見た気がした。
正面から戦えば、負けるとは思わない。 実際、戦では勝ちを収めているのだ。 しかし結果だけ見れば、山名家は但馬国の領有を手にしている。 この様なやり方もあるのだと、義頼は教えられた気分であった。
とは言え、あまり気持ちのいい物ではない。 その気持ちが、義頼の表情に現れていた。
「……何でもありませんよ」
「ああそうそう。 佐衛門佐殿、拙者は見ての通り剃髪致しました。 よって拙者の事は、宗詮とお呼び下され」
丸めた頭を撫でながらひょうげた様子で言う山名宗詮に、義頼は毒気を抜かれてしまう。 その為、ややささくれ立っていた思いも抜けてしまう。 ある意味絶妙とも言える山名宗詮の態度に苦笑を浮かべると、義頼は言葉を返していた。
「良く分かりました、宗詮殿。 あちらに御子息らがおられるが、その前に殿と交わされた約束を果たしましょう。 但馬国、及び此隅山城は山名宗詮殿にお渡しいたします」
「確かに受領致しました」
先ほどまでの雰囲気はなりを顰め、厳かな雰囲気で義頼と山名宗詮は城と国の明け渡しを行った。
すると義頼は、その日のうちに此隅山城から出ると以前本陣を置いていた鳥居城に移る。 そして数日留まり、此隅山城の様子を観察してから、軍監の坂井政尚と共に兵を率いて観音寺城に戻ったのであった。
やがて無事に観音寺城に到着すると、近江衆を解散させる。 そしてその日、義頼は久し振りにお犬の方と閨を共にした。 数ヶ月ぶりと言う事もあり、二人はとても燃え上がる。 彼らは明け方近くまで、頑張ったのであった。
その翌日と言うか当日、義頼は坂井政尚と共に観音寺城を発ち岐阜へと向かう。 途中で一泊してから岐阜城下にある織田信長の屋敷に到着した二人は、程なく面会を果たしていた。
「ご苦労であった」
「はっ。 但馬国平定、及び山名家への引き渡しは滞りなく終了致しました。 仔細につきましては、報告を提出済みにございます」
「であるか」
報告を済ませると義頼は、久し振りに人質として岐阜に居る甥の六角義治や蒲生頼秀。 それから、元六角家臣の者達と面会する。 久し振りの再開に、義頼は織田信長の許可を得た上で皆と宴を催し旧交を温め合うのであった。
なお義頼だが、彼は但馬国平定の褒美として織田信長より加増される。 褒美として義頼が得たのは、甲賀郡であった。 しかも近江代官の職と城代はかわらずであり、彼は引き続き観音寺城に在番を続ける事になるのであった。
しかし、本当にあちこちに居ます佐々木氏。
ご一読いただき、ありがとうございました。




