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第二百八十一話~終幕~

六角異聞、最終話となります


第二百八十一話~終幕~



 新体制の下で始まった織田家の政策だが、まず行われたのが蝦夷の開発となる。何ゆえこのようなことを始めたのかというと、やはり先の争乱に原因があった。織田家に逆らった国人の殆どを潰したのはいいが、それに伴い牢人が急増してしまったのだ。

 それでなくても、戦国の世が終わったことで日の本に牢人が増えていたのである。そこに追い打ちを掛けるかのごとく、多数の国人がついえたことで一気に増えてしまったのだ。

 勿論、新たに直轄地を得た織田家も牢人を雇用したが、全てを吸収できるものでもない。そして牢人の中には帰農した者もいるにはいるのだが、それとて全てではないのだ。

 そこで目を付けたのが、陸奥国の先にある広大な土地となる蝦夷である。この地はそもそも日の本であるとしての認識が希薄であった。しかし織田家が、陸奥国北部を治める南部家をその手で討伐したことで、陸奥国の北に広がる土地があることを中央も実感したのである。幸いといっていいか分からないが、曲がりなりにもその土地の一部を治めていた蠣崎氏がいる。彼らも織田家に臣従していたので、道先案内人としては丁度良かったのだ。

 織田家は蠣崎家当主の蠣崎季広かきざきすえひろに、蝦夷奥地への調査を命じる。その人員として、ちまた数多あまたいる牢人を集め、彼らを調査員として派遣したのであった。その際に、餌となるべきものも彼らに与えている。それは、家の再興であった。

 嘗て仕えていた主家や、自身の家の再興が叶うかも知れない。この理由は、彼らを蝦夷の地へ送り込むに十分であった。しかし、蝦夷の地は過酷である。特に冬は、奥州の者であったとしても厳しい。少なくはない犠牲を生むことになるが、それでも人員を確保するに困ることはなかったのであった。

 また織田家は、西にも目を向けている。それは、九州の先にある琉球王国であった。日の本の最高権力者である織田信忠は、琉球へ使者を送ると彼の国へ織田家臣従を求めたのである。一見、いきなりのようにも見えるが、実はこれには根拠があった。

 話としては、鎌倉の御世までさかのぼる。鎌倉時代に起きた【承久の乱】が鎮圧されたのち、屋久島や奄美大島、喜界島や徳之島や沖永良部島などが鎌倉執権であった北条家の直轄地として認められた経緯があるのだ。

 織田家は、北条家と同じ平氏長者であるという理由も加味して臣従を求めたというわけである。臣従の条件は、元は北条家の土地であり現在は琉球王国が占領している先に述べた島々の領有を認めるというものであった。

 しかし琉球王国の王であった尚永王しょうえいおうが、拒絶したのである。琉球王国としては、これまで通り交易中継地としての位置づけを確保しておきたいという理由がそこにはあったからだ。

 それでも織田家は、粘り強くそれこそ数年に渡って再三再四さいさんさいし臣従を求める使者を送り続けることを繰り返す。しかし琉球王国側も、頑として譲らなかった。これにはついには織田家もしびれを切らし、琉球への遠征を決断する。その遠征軍の総大将とされたのが、義頼であった。

 兵は主に中国地方と九州地方から出し、四国地方の兵は後詰兼、中央で万が一の事態が起きた時の兵力とする。また、その中央だが未だ現役である柴田勝家に押さえさせることで対応としていた。歴戦の勇将である柴田勝家。彼が睨みを利かせていれば、そうそうよからぬ事態が起きるとは思えなかったからだ。

 このような手を打った背景には、まだ牢人の数が世に多いという事実が存在しているからである。新たに蝦夷と名付けられた北方の地の調査も道半ばでしかないので、まだまだ油断はできない。しかも戦国の気風も残っているので、よからぬことを考える者が出ないとは言い切れないのだ。

 こうして万が一の事態に対応する手を打ったあと、義頼を総大将とする織田家の軍勢が出陣したのである。彼らは島津家の居城であった内城をまず後陣とすると、軍勢は坊津の湊に集合させる。それからこの戦の為に集められた水軍を束ねる九鬼嘉隆くきよしたかによって、琉球王国への侵攻が始まったのであった。

 因みに総兵数では、九州遠征時より若干落ちるぐらいである。それだけの数の船と軍勢が、幾つかに分かれ、大国とはいい辛い琉球王国へ侵攻したのである。しかも安宅船や関船には、大砲を搭載しての侵攻であった。

 しかし、大型な大砲は殆ど搭載されていない。大砲の大体は中口径のものであるが、それでも大砲であることに間違いはなかった。他にも、小口径のものも多数持ち込まれている。こちらは、持ち運びが容易いので主に上陸後に使用する目的で持ち込まれたものであった。

 一方で攻められた琉球王国側だが、大砲などの重火器へ対応をとることができないでいる。そもそもの射程からして、思いもかけない距離なのである。その距離を維持しつつ攻撃を仕掛けられている上に、織田家側が砲弾を発射する際に生じる轟音に兵も怯えている。かといって、籠城策をとったとしてもこれまた砲弾を打ち込まれてしまう。堅牢な筈の城門も、金属の塊である砲弾を撃ち込まれては、耐えきることができない。結果として、次々に島も城も落とされていったのであった。

 琉球王国側としては、それこそ明へ救援要請の使者を出すのが精一杯というぐらいの侵攻である。琉球王国が明へ救援要請を出した理由だが、これは明の冊封国であったがゆえであった。しかしこの救援要請だが、琉球王国の思惑通りとはいかなかったのである。それというのも明の皇帝となる万暦帝が、全く興味を示さなかったからだった。

 事実上、彼は要請を無視したといっていい。海を越えた東夷の出来事であるとして、官僚へ対応を丸投げしたのだ。上がこのような態度であれば、下の者も反応も想像に難くない。自国となる琉球王国を攻められている使者としては、どうにか援軍を欲して交渉を行うが、明の対応は酷くすげないものである。これにより、彼らは無為に時間を過ごすこととなってしまった。

 こういった明の対応もあり、救援もないままに琉球王国は瞬く間に沖縄本島へと追い込まれてしまったのである。だが琉球王国を治める尚永しょうえい王以下、一族や有力な家臣は、明からの救援を信じて首里城に集結していたのだった。

 ひるがえって織田勢はというと、沖縄本島北部にある今帰仁城に攻め寄せていたのである。しかしこの城は既に打ち捨てられており空き城となっていたので、そのまま占領してしまう。こうして拠点を難なく手に入れたに織田勢は、沖縄本島南部にある首里城へ陸と海から兵を派遣したのだった。



 ここまで侵攻されているにも関わらず全く持って現れない明からの救援に不安を感じていた尚永王は、この難局の打開を図ろうと画策する。具体的には、織田家へ和睦を求めて使者を派遣したのである。その使者となったのが、菊隠宗意きくいんそういという名の僧であった。

 彼は僧となってから京都五山などへ赴き、教えを受けたこともある。また、琉球王国と島津家の外交にも携わっていたこともあり、島津家とも交流があった。その辺りを考慮しての、抜擢である。しかし彼は、一旦その要請を断っている。だが、国王より再度要請されると受け入れて使者となる。同行者として彼の他には、城間盛久ぐすくませいきゅう名護良豊なごりょうほうがいた。

 彼らは陸路で向かったが、織田勢が攻め寄せていることもあって足止めされてしまう。そこで陸路は諦め、船を調達して海路より今帰仁城へ向うことにした。やがて恩納まで到達するとそこで一泊したのだが、明け方の頃に宿泊場所が取り囲まれたのである。取り囲んだのは、義頼旗下の忍び衆であった。

 そのまま彼らは、忍び衆による監視の元で今帰仁城へ連行される。琉球王国から派遣された和睦の使者であったことが、一行の命を長らえさせたのだった。

 連行という形であっても、攻め手の総大将がいる今帰仁城へ到着出来たことは幸いといっていい。その後、菊隠宗意らは義頼と面会を果たし、和睦についての話し合いを望んだ。面会した義頼も、差し出された書状を確認したが、その内容に酌むべきところはない。何せ、琉球王国と織田家の戦が始まる前まで戻し、そこから改めて話し合いをしたいという強気な内容だったからだ。

 琉球王国側が、何ゆえにこれだけ強気な態度に出たかは不明である。だがこれでは、和睦どころか会談をする価値もない。そう断じた義頼は、使者の一行に対して滅ぶか無条件に降るかどちらか選ぶがいいとだけ残してその場から立ち去ってしまう。差し出した書状すらもその場に残されており、事実上の決裂であった。

 それでも菊隠宗意らは、何とか再度の会談を望むが、今となっては叶えられることはない。それどころか、使者の一行自体が今帰仁城より追い出されてしまった。これではどうしようもないとして、彼らは落胆しつつも帰路へとつく。だが彼らが那覇へと到着してみれば、既に港は抑えられており織田の兵が上陸していたのだ。

 一応使者の肩書があったので、彼らが囚われることもなく首里城まで到達する。しかしその間に聞けた話では、味方の城は殆どが落とされており、それこそ首里城を含めた数城が残っているに過ぎなかった。

既に絶望的ともいえる状況でしかない中、首里城へと戻った菊隠宗意らの一行は尚永王へ和睦が成らなかった旨を報告した。

 すると、家臣の一人が打って出るべきだと進言する。ここで出撃して一撃を与え、そののちに改めて和睦なりの話し合い行うべきだと主張したのだ。その者の名は謝名利山じゃなりざんといい、琉球王国の家臣でも対織田家外交における強硬派であった。

 確かに、この状況で織田勢を追い払うのは難しい。しかし、それなりに打撃を与えればいい条件が引き出せるだろう。そのような思考の元、琉球勢の出撃が行われたのだ。しかし、兵数が隔絶しているこの攻撃は無謀以外の何ものでもない。謝名利山が城より打って出て間もなく、擲筒てきつつによる攻勢や火縄銃による釣る瓶打ちが加えられる。この攻撃により謝名利山は、成す術もなく進撃先を織田勢からあの世へと変えてしまっていた。

 だが織田勢からの攻撃は、そこで止まらない。攻撃されたのだからとして、そのまま首里城へも攻勢が行われたのだ。これにより、首里城の大手門や城壁などへ少なくない損傷を受けてしまう。何より大手門が焼け落ちてしまったのは、痛恨であったといえるだろう。しかし織田家の軍勢が城内へ雪崩れ込んでくるといったことはなく、あくまで脅しの意味合いが強かったのだと思われた。

 だが、強硬派の謝名利山が鎧袖一触がいしゅういっしょくとばかりに蹴散らされたことは、大きな衝撃となって琉球王国側へと襲い掛かる。しかも、明からは未だになしのつぶてである。これではもう致し方ないとして、尚永王も織田家に降伏する決断をしたのであった。

 その後、尚永王は織田の軍勢と共に日の本へと向かい、そこで織田信忠に対して降伏の口上を述べる。これにより彼も織田家家臣となり、琉球王国は滅亡した。しかし琉球王国は明の柵封を得ているという事実もあるので、表向きは明と織田家に両属するという形をとることとなった。

 なお、人質として娘婿が織田家の元に残されている。これは、尚永王に男児がいなかったための措置である。のちに尚永王も子がないままに死去してしまい、家督はこの人質とされた娘婿が継ぐことになるのであった。



 この琉球王国との戦、これが義頼の生涯で自身が出陣した最後の戦となる。以降は織田家重臣筆頭として、主に国内の安定へ力を入れていくことになった。先に述べた国内の牢人問題、蝦夷の調査や移民を成功させる為の政策、日の本全土への検地や日の本に現れる外つ国への対応など、上げればきりがないぐらい仕事は目白押しであったからだ。

 彼は大体二十年くらいに渡り織田家臣として尽力したあとで、仕事をしつつも育てあげた後進へと譲り、未練を見せることもなく勇退している。六角家の家督は既に成人している嫡男へ譲っていたので、その点においても問題はなかった。

 その後、完全に隠居の身となった彼は、戦の為に赴いた日の本各地域の文化などを記した書物、他にも六角家の家記の編纂に残りの生涯を傾けることになる。しかし量が膨大であり、完成の日の目を見たのは、義頼の死後に受け継いだ孫の代になってからであったとされていた。





「大殿。そろそろ、日が傾いてきております。お体に障りましょう」

「うむ。そうであるな」


 家臣からの呼び掛けに答えた老人こと義頼であるが、その姿から流石に往年の動きはもう不可能であることは想像に難くなかった。すると義頼は、声を掛けられたあとに今一度琵琶湖を眺める。そこで、彼は一言呟いていた。


「……よく生きた。よく生きたが、やはりわが手で天下の安寧を! という思いは拭いきれぬわ」


 【野洲川の戦い】で織田信長に敗れ、その後は織田家家臣として織田家による天下統一へ尽力した義頼だが、それでも彼は自身の手で天下の安寧をという思いはどこかに持ち合わせていたのもまた事実であったのだ。


「だが……もう今さらではあるな……」


 万感の思いを込めながら言葉を漏らした義頼は、静かに踵を返そうとする。正にその時、何ともいえない倦怠感に自身が襲われた。思わずよろめいた義頼であったが、倒れぬようにと力を籠めるもたたらを踏んでしまう。それでもいささか頼りなくあっても何とか踏ん張ることで、倒れずに済んだ。

 しかし、その代わりに琵琶湖の水面みなもに自身の顔が映り込む。その顔を見た瞬間、義頼は自身の顔を移す水鏡にある気配を感じる。それは、自身に訪れている死の気配であった。


「……まさか、自身でも分かってしまうとは……」


 つい先ほどまで考えていた過去の思い、それはある意味で走馬灯とも言えたのかも知れない。そう考えれば、さほど不思議でもないのだろう。寧ろ覚悟を決められる分、ありがたいとすら思えたのであった。

 その後、自身を叱咤するかのように義頼は全身に力を入れる。若かりし頃のようには無理でも、堪えることはまだできる。それが実感できれば、それで充分であった。


「こんなところで、無様に倒れるなど……できぬ!」


 武士として、無様な姿を見せることはできない。そんな思いもあってか、先ほどよろめいた様子など微塵も感じさせずに義頼は隠居屋敷へと戻る。そして、死の気配など周りに感じさせずに彼は、いつものように夜食をとっていた。

 それから自室へ戻った義頼は、何を考えたのか鎧や刀を身に着けていく。程なくして身に着け終えると、最後に床几へ腰を降ろしていた。そこで一息ついてから、義頼は懐より小さな仏像を取り出す。この仏像は携帯できるようにと小型化したもので、いわゆる念持仏である。その姿は、佐々木氏の氏神である少彦名を習合している金剛蔵王権現であった。

 その念持仏へ手を合わせたあと、義頼は静かに目を閉じる。すると、不思議なくらい穏やかな気持ちとなる。同時に、意識が少しずつ希薄となっていくのを感じたのであった。



 明けて翌日、義頼が起きてこないことを不思議に思った家臣が寝所を尋ねると、そこで鎧を身に着け床几に腰を降ろした状態で亡くなっている義頼の姿を見る。その手には、念持仏が握られていたという。

 享年七十七。それは、喜寿を迎えた年であった。


この話を持ちまして、六角異聞完結いたします。

およそ六年半近くに渡りましたが、ありがとうございました。

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[気になる点] ずっと気になっていたのですが、竜造寺は、本当はこっちの龍です。 [一言] 6年お疲れ様でした。
[一言]  楽しませていただきました。  ありがとうございました。
[良い点] 完結おめでとうございます   & 6年以上と長期間楽しませて頂き、ありがとうございました [一言] ご都合主義の超ファンタジーになりやすい、IF歴史ものの中で、硬軟バランス良い作品として楽…
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