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第二百八十話~その後~

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第二百八十話~その後~



 近江国内に存在する淡海乃海あふみのうみ、のちに琵琶湖と称されるようになる湖のほとりに一人の老人がたたずんでいた。中々なかなかの年を重ねていると思えるが、背筋も伸びていて老いさばらえているといった風情は感じられない。しかもその老人のうしろには、彼を守るように幾人かの武士が控えていたのであった。


「……陸奥で南部を降してより四十有余年か……我も、よく生きたものよな」





 さて、老人が漏らしながら回想したそれは、この日の本がおよそ百数十年ぶりに統一された出来事である。のちに戦国時代と呼ばれることとなるこの期間は、奥州の大大名であった南部家が尾張国に生まれた織田信長おだのぶながと彼の息子である織田信忠おだのぶただの手により当時の当主であった南部晴継なんぶはるつぐと彼の父親である南部晴政なんぶはるまさが討たれたことで漸く終わりを迎えたのだ。

 こうして日の本を統一した織田信長は、既に家督を譲り織田家当主となっている織田信忠と共に戦の消えた日の本を治めるべく手を打っていく。まず織田家が行ったのは、織田家家臣や大名、それから大小の国人らを安土城に集めて改めて織田家当主である織田信忠へ臣従と忠節を誓わせたことであった。

 続いて織田家は発令を出し、それにより大体的な領地替えが行われたのである。それは毛利家や島津家、北條家や越後上杉家や伊達家などといった大名や、従来から織田家臣であった者であったとしても逃れることなどできないものであった。

 無論、反発がなかった訳ではない。しかし意外なことに、先述したような家からの反発は出ていない。これには理由があり、織田家と対峙して直接干戈を交えたことで、織田家の実力を知ってしまった為である。せっかく生き残り家を残せたにも関わらず、ここで反発して家諸共滅ぼされては御免だという思いが強く彼らにはあったのだ。

 寧ろ反発が出たのは、国人たちからである。彼らは、長年治めてきた地からの領地替えに反発して、織田家へ反旗をひるがえしたのだ。この辺りは、まだ戦国の気風が残っていたといえるだろう。つまり自身の力を示し、相手からある程度の譲歩を引き出すというのは割とありふれた手であったのだ。

 しかし、この反乱に際して織田家は、断固とした態度と覚悟を示したのである。そもそも織田家は、有力家臣を地方に配置して、それぞれの地域を管理監督させる総督のような役職へ任じていた。具体例を挙げれば、九州を任された羽柴家や四国を任された明智家などがこれに該当する。そんな織田家の有力家臣へ通達を出し、反旗を翻した者たちに対する徹底的な討伐を命じたのだった。

 織田家としては、戦国の世ならではの気風を完全に否定することで、時代が変わったことを天下万民へ知らしめようとしたのである。それだけに、反旗を翻した者たちに対する織田家の態度は厳しいものがあった。それこそ、徹底的な討伐を行ったのである。それは正に、血の粛清といってもいい討伐であった。

 だがこの厳粛な対応により、本当の意味で織田家の力が日の本を席巻したといっていい。事実上の最高権力者としての地位を、織田家が確立した瞬間でもあった。

 この反乱騒動は、大小を含め各地に勃興したが殆どが僅かな期間に鎮圧されることになる。但し例外もあり、それは九州の地において起きた騒動であった。九州三国志などといわれるぐらい長らく戦を行っていた地であっただけに、国人の起こした反乱とはいえそう簡単には鎮圧されなかったのである。しかし九州を任されていた羽柴秀吉はしばひでよしは、病気からほぼ快癒していた竹中重治たけなかしげはるの進言などにより、少しずつであっても反乱を鎮圧していった。

 この九州で起きた反乱は他の地域と違い鎮定までに一年近くを要したが、それでもついには鎮圧されてしまう。そしてこの九州鎮圧が、日の本内で起きた一連の騒動における最後の鎮圧であったとされている。比較的初期に起きた反乱の鎮圧が国内で最後となるあたり、九州武士の強さがわかる事案でもあった。

 なお、この騒動において、ある家の嫡流が途絶えることになる。その家とは、竜造寺宗家であった。

 竜造寺家は、先の織田家による九州遠征時に漁夫の利を得ようとしたことで逆に織田家から咎められ、当時の当主であった竜造寺隆信りゅうぞうじたかのぶが隠居せざるを得なくなるという事態に見舞われている。これにより当主が交代し、竜造寺の家督は嫡子の竜造寺鎮賢りゅうぞうじしげともが継いでいた。

 とはいうものの、それだけで家が没落することはない。しかも彼は、竜造寺家の家督を継ぐ際に、九州を任されていた羽柴秀吉に願い出て一字を拝命していた。彼の元々の名である鎮賢だが、この名は亡き大友宗麟おおともそうりんが剃髪する前に名乗っていた大友義鎮おおともよししげから鎮の一字を賜って名乗っていた。だがその大友家も没落し、今は本貫地だけを許された弱小勢力でしかない。しかも本貫地は相模国にあり、もはや九州にすらいないという事態となっている。そんな大友家に配慮などする必要を感じなかった竜造寺家は、抜け目なく羽柴秀吉に接近したのであった。

 一方で羽柴家としても、九州鎮定の褒美として領有した筑後国の隣国となる肥前国の最大勢力である竜造寺家が味方の戦力として考えられるという事態はむしろ歓迎すべきである。こうして両家の思惑が合致した結果が、竜造寺鎮賢改め竜造寺吉家りゅうぞうじよしいえという名に現れていた。

 しかしその竜造寺吉家も、九州で起きた騒乱のさなかで命を落としてしまう。いや、彼だけでなく彼の弟たちも、落命していた。その理由は、必ずしも戦場でというわけではない。戦場以外でも、怪我や病気などが原因となって嫡流の流れを汲む者たちが次々と冥府へと旅立っていったのである。この中には、竜造寺隆信の弟である竜造寺長信りゅうぞうじながのぶの名があり、彼も例外とはならずに亡くなってしまっていたのだ。

 流石の竜造寺隆信も、全ての息子と弟を全て失ってしまっては一気に消沈してしまう。嘗ては肥前の熊とまで称された巨漢であった彼の体は、やせ衰え見る影もなくなってしまったという。そんな状態の中で、最後まで残った竜造寺隆信もまた身罷ったのであった。

 この一連のできごとから、竜造寺嫡流は原田隆種はらだたかたねに呪い殺されたとまことしやかに伝えられるようになる。何ゆえにそのような話が出たのかというと、命を落とした竜造寺家嫡流の流れを汲む者全ての片耳に、まるで食い千切られたかのようなあざが残っていたという話がまことしやかに囁かれたからだ。

 奇しくもその跡は、嘗て織田家の九州遠征の前哨戦で織田家と対立した挙句に亡くなった原田隆種が、最後の最後で命を引き換えに食い千切った竜造寺信周りゅうぞうじのぶちかと同じであったという。これが事実かどうか、それは分からない。だが、この反乱騒動のさなかで、龍造寺宗家のことごとくが死滅したことに間違いなかった。

 そんな竜造寺家に起きた不幸は兎も角、ここに日の本国内で起きた最後の争乱も鎮圧されたことにより、本当の意味での天下の静謐せいひつが、織田家によってもたらされたのであった。





 日の本各地で起きた争乱の鎮圧から数えて一年と半年、京の都は盛大に湧いていた。

 その理由は、京で行われた二度目の馬揃えにある。織田家による奥州派兵が行われる前、織田信長と今上天皇との間で約束された馬揃えがついに実現した形であった。しかもこの馬揃えには、全国津々浦々ぜんこくつつうらうらから人員が参画していたのだからその盛況ぶりは推して知るべしといってよかった。

 それゆえ、こたびの馬揃えの規模は、前回を遥かに凌ぐものとなっている。これには今上天皇はとても喜び、馬揃えが終了するまでの間、織田信長おだのぶなが織田信忠おだのぶただへ幾度となく勅使を派遣していたという。

 また、この馬揃えが行われたあとで、三十三間堂にて通し矢が行われている。当然ながら織田家が主催したもので、全国より集った弓自慢が腕を競い合った。そして義頼も、織田家から命じられて参画している。しかもこの通し矢であるが、馬揃えと同様に天皇や誠仁親王による観戦があり、いわゆる天覧試合となっていた。

 この天覧試合となった通し矢で義頼は、最終的に九割五分に近い命中精度を誇り、通し矢に参画した者の中で最高成績を叩き出している。これにより義頼自身も、そして通し矢を主催した織田家も面目を果たしたのであった。

 これら一連の出来事を有終の美としたのか、形だけの隠居をしていた織田信長が、完全に表舞台から引退したのである。これにより、名実ともに天下は息子の織田信忠に移ったのであった。

 そして、これと時を同じくして人事の面でも大きな動きが出る。一番大きなものは、天皇からでた誠仁親王への譲位話である。実は前から話自体は出ていたのだが、様々な理由から実現していなかったのであった。

 しかし天皇は、既に齢六十代となっている。そんな理由もあって、譲位を行いたい旨が改めて通達されたのである。とはいえまだ仙洞御所もない状態なので、譲位は仙洞御所の完成後にということで落ち着いていた。

 次に大きなものは、織田家中で起きた相次ぐ隠居である。織田信長が完全に第一線から退しりぞいたことで、織田家重臣からも相次いで隠居する者が出たのだ。柴田勝家しばたかついえが当主を務める柴田家や羽柴秀吉はしばひでよしが当主を務める羽柴家のように後継となる嫡子が未だ幼い家は流石に無理であったが、丹羽長秀にわながひで滝川一益たきがわかずます明智光秀あけちみつひで池田恒興いけだつねおきなど主だった織田家臣は大抵隠居していた。

 これにより織田家中は、一気に若返ることとなる。その若返った織田家中は、義頼と柴田勝家と羽柴秀吉が要となって纏め上げていた。だが、今まで織田家筆頭とされていた柴田勝家も齢六十を超えている。老いてなお矍鑠かくしゃくとしているが、流石に中心となるのはきついものがある。その為、中軸として動いたのは、三人の中で一番若い義頼であった。

 代わりに年嵩となる柴田勝家と羽柴秀吉は、あえて一歩下がりかなめとして家中への睨みを効かせる。これにより義頼は、織田家中の世代交代と相まって織田家筆頭家臣と名実ともに認識されたのだった。

 その織田家はというと、当主の織田信忠が義頼と浅井長政あざいながまさ堀秀政ほりひでまさらを使い、争乱終了後の日の本を安定させるべく尽力している。同時に、新たな体制作りも推し進めていた。

 まず手始めに行ったのが、織田信忠の太政大臣への就任である。これは元々(もともと)、織田信長へ打診されていた話であった。彼に対して朝廷から、左大臣か関白か足利義信あしかがよしのぶが征夷大将軍辞任後に次の征夷大将軍に就任する。そのいずれかを与えるという打診が、表立ってではないがされていたのだ。

 しかしその織田信長が返答する前に、完全に隠居をしてしまったことで話の対象が変わってしまう。その結果、この話は父親から息子の織田信忠へ打診されることとなる。その際に朝廷側が配慮したのであろうか、左大臣就任が太政大臣へと変わっていた。

 その後、足利義信がかねてからの約束通り朝廷へ征夷大将軍を返上する。そして織田家へ臣従したことで、一気に現実味を帯びる話となった。元来がんらい、父親に来ていた話であるので織田信忠もそして織田家重臣であった義頼や柴田勝家や羽柴秀吉、そして織田信長の側近筆頭でもあった堀秀政も知っている。そして浅井長政も織田信長の同腹妹を娶っているという事実と、織田家による日の本統一前までは織田家に従属した大名筆頭という立場にあったこともあって、やはり知っていたという訳である。そんな事実上の織田家最上位の者たちによる謀議の結果、織田家が求めたのは太政大臣という地位であった。

 関白にしても征夷大将軍にしても、律令下における令外官である。だが、太政大臣は正式な官職となる。名誉職と言えば名誉職なのだが、やはり朝廷における正式な最高職という意味では重みがあったのだ。

 太政大臣が日の本を治めるという意味では、今まで征夷大将軍が行っていた幕府体制と変わるところはないようにも見える。しかしながら、新たに織田家が敷いた政治体制だが、まず天皇が一番上でありその下にある太政大臣が実務を担当する。その太政大臣が武士も、そして公家も纏めるとしていたのだ。

 この体制については、特に公家側から不満が噴出する。しかし、不満以上は噴出しなかった。その理由は、先の争乱にある。織田家が断固たる決意をもって争乱の処理に当たったことで、公家も織田家を畏怖したのだ。

 下手に逆らえば、争乱で負けた者たちのようになるのではないかと。

 何せ織田家に反発した者は、族滅に近い形でことごとく討たれてしまっている。それこそ、一族の根切りと言っていいだろう。それぐらい苛烈な対応を、織田家はしたのだ。ここでその織田家に逆らい、反発した者と同じ目にあわされてはたまらない。ましてや織田家は、この争乱の切掛けとなったと言っていい領地替えによって直轄地を増やしていた。

 その後に起きた争乱においてかなりの数の国人を討ったことで、さらに直轄領を増やしている。しかも退位を表明している天皇も、次代の天皇と目されている誠仁親王も織田家と仲が悪いわけでもない。この状況下で強硬に反対を主張したところで、不審死の当人に成りかねなかった。

 何はともあれ、この日の本は幕府も開かれない新体制によって統治されることとなったのであった。


南部家との戦が終わったあとの話となります。

戦乱から平安への過渡期に当たります。

そして、次話が最終話となります。


連載中「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」

こちらも、よろしくお願いします。



ご一読いただき、ありがとうございました。

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[一言] いつかは終わりが来るものと分かっていますが寂しいです……今となっては義頼VS信長軍が懐かしいです………あともう少し!いつもと変わらず応援しております!!
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