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第二十五話~但馬への侵攻~


第二十五話~但馬への侵攻~



 安芸国吉田荘、ここには安芸毛利氏の居城たる吉田郡山城が存在する。安芸毛利氏は鎌倉幕府を開いた源頼朝みなもとのよりともの側近であり、初代政所別当を務めた大江広元おおえのひろもとの四男、毛利季光もうりすえみつを直接の祖とする一族であった。

 その安芸毛利氏の当主は、毛利輝元もうりてるもとである。しかし彼が毛利家の家督を継いだ時はまだ数えで十一歳と若かった事もあり、毛利輝元の祖父に当たる毛利元就もうりもとなりが後見役となっていた。

 しかしいまだに、軍事と政治は祖父である毛利元就が実権を握っている。その為、実質的な毛利家当主は毛利元就であった。その毛利元就であるが、自室で思案を巡らしている。 そんな彼の目の前には、絵図面が広げられていた。


「幸盛め。調子に乗りおって」


 忌々しげに毛利元就が漏らした名前、それは嘗て尼子家で家老も務めた事もある山中家の現当主である山中幸盛やまなかゆきもりのものであった。

 尼子家は京極家の分家に当たる家であり、婆沙羅大名とまで言われた佐々木道誉ささきどうよの孫である尼子高久あまごたかひさを家祖とする家である。その尼子高久の子である尼子持久あまごもちひさは、出雲守護代として出雲国に赴任した。そして彼の孫に当たる尼子経久あまごつねひさの代になると、尼子家は主家である京極家に逆らい、結果として尼子経久は山陰で勢力を拡大したのであった。

 その尼子家も毛利元就の手によって大名としては滅ぼされたのだが、山中幸盛や立原久綱たちはらひさつならと言った者達は毛利家に仕えるのは良しとせず京へ移動している。その京にて山中幸盛ら旧尼子家家臣は、東福寺の僧となっていた尼子家の血を引く一人の男を見出した。

 彼らはその男を説得し、還俗させる。その後、元服させると尼子勝久あまごかつひさを名乗らせている。 その尼子勝久を旗頭に山中幸盛ら旧尼子家臣は、但馬守護の山名祐豊やまなすけとよの後援を受けて尼子家再興を目指し兵を挙げたのであった。

 丁度その頃、毛利家は九州の雄である大友家と長期の戦をしていた。その間隙かんげきを突かれた形となってしまい、兵を送るのが遅れてしまったのである。その上、この挙兵には毛利家に降伏したり帰農したりしていた旧尼子家臣も同調した為、出雲国は瞬く間に席巻されてしまったという訳であった。

 こうして出雲国の殆どは尼子家再興を目指す彼らの領地となってしまっており、最早もはや残っているは皮肉にも旧尼子家の居城であった月山富田城周辺ぐらいであった。

 しかしこの月山富田城が落ちれば、完全に出雲国は尼子家の物となってしまう。しかし、大友家と事を構えている現状では、兵を直ぐに送る状況にもない。そこで毛利元就は、月山富田城の落城を避ける為の手を思案しているのであった。


「……先ずは後ろ盾を削るか。恵瓊を呼べ」

「はっ」


 毛利元就に命じられた小姓は、程なくして禅僧の瑶甫恵瓊ようほえけいを連れて再度部屋を訪れた。 この瑶甫恵瓊だが、嘗て元就に滅ぼされた安芸武田氏の一族である。しかし彼は、忠義の家臣によりどうにか死ぬ事無く助け出されていたのだ。

 その後、彼は安芸国にある安国寺にて出家する。その後は安国寺を出て、京の東福寺へと移動。 無事に東福寺に到着した瑶甫恵瓊は、東福寺の僧であった竺雲恵心じくうんえしんの弟子となった。

 その竺雲恵心だが、当時の毛利家当主であった毛利隆元もうりたかもとと親交を持っていた。その縁で瑶甫恵瓊は、毛利家の外交僧として活動する様になっていったのである。 

 なお、瑶甫恵瓊だが、毛利家の外交僧となった頃とほぼ同じくして安国寺と言う寺の住職になっている。その為か、瑶甫恵瓊と言う名より通称となる安国寺恵瓊あんこくじえけいの名の方が罷り通っていた。

 そんな瑶甫恵瓊こと安国寺恵瓊を呼び出した毛利元就の出した命はと言うと、彼に織田家へ行く様にとの指示である。何ゆえかと尋ねた安国寺恵瓊に対して毛利元就は、尼子家再興を目指す者達と彼らを支援する山名祐豊とその息子である山名氏政やまなうじまさの存在を告げたのだった。

 毛利元就から尼子再興を目指している者達の後ろ盾を行っている山名家の存在を聞いた安国寺恵瓊は、得心したとばかりに幾度か頷く。と言うのも、彼もまた尼子勢に後ろ盾があるのではと考えていたからだ。


「そうでしたか。やはり後ろ盾が居りましたか」

「そうだ。そこで、その動きを阻害する」

「……なるほど。それで織田家ですか」

 

 何故なぜに織田家なのかと言うと、地理的要因が関わっている。毛利家の領地と山名家の領地となる但馬国は、隣接していない為に毛利家から兵を送るのは難しい。そこで毛利元就は、最近とみに勢力を増した織田家に但馬国を攻めさせる事で、尼子家再興軍の後ろ盾を無くそうと考えたのであった。

 そんな毛利元就の考えを彼の言葉から読み切った安国寺恵瓊は、平伏して口を開いた。


「承知致しました。拙僧が織田への使者として、岐阜に赴きます」

「頼んだぞ」

「はっ」


 その後、毛利元就から織田家への書状を受け取った安国寺恵瓊は、翌日の早朝に出立したのであった。  


 岐阜城下にある織田信長おだのぶながの屋敷に、中国の雄たる毛利家からの使者が現れた。

 無論相手は、毛利元就によって派遣された安国寺恵瓊である。 彼の携えた書状には但馬国への出陣要請が記されており、書状を受け取り内容を確認した織田信長は使者の安国寺恵瓊を下げさせると居室にて一人考えに耽っていた。

 さて、織田信長が即決せずに間を置いた理由、それは現在但馬国への出陣より優先させたい戦があるからだ。それは、伊勢国への出陣である。かねてより伊勢国の北畠家や国人衆に対して仕掛けていた戦略が、ここにきて漸く実を結び掛けている。後は総仕上げとして自ら兵を率いて攻め込み、伊勢国南部にて力を有する北畠家を打ち負かすつもりなのだ。

 そんな織田信長の元に届いた出陣要請など、本来であれば無視したいと言うのが本音である。しかし、出陣要請して来た相手が毛利家となれば、話は違って来る。まだ畿内を手にしたばかりの織田家が、ここで毛利家という強敵を西に作る訳にはいかないからだ。

 ゆえに織田信長は、気が向かなくても兵を出す事は断じている。しかし伊勢国侵攻に重臣の多くを連れて行きたい彼としては、但馬国へ差し向ける将には最悪力は無くとも相応の家柄が求められた。

 家柄は、時として実力以上に価値を生み出すからである。  

 その時、織田信長の脳裏に一人の男の顔が浮かぶ。その者なら義理の弟であるので、己の代理としても問題は無い。 何より血筋、家柄共に申し分なかったからだ。


「……試してみるか、大将としての器を。【野洲川の戦い】、あれがまぐれかも分かると言うものだ。 秀政」

「はっ」

「そなたが使者として観音寺城へ向かえ。義頼に但馬攻めを任せる」

「承知致しました」


 翌日、織田信長より命を受けた堀秀政ほりひでまさが、岐阜を出立する。やがて到着した観音寺城下の六角館にて、義頼は使者の堀秀政から織田信長からの書状と但馬国攻めを伝えられた。

 拝命した義頼は、急いで兵を集める。近江衆を動かす許可は使者の堀秀政の書状と共にもたらされていたので、即座に行動へ移す事が出来たのだ。

 すると程なく、義頼の出した招集に答えて江南の各地より将兵が続々と集まって来る。その速さは異常と言ってよく、織田信長の許可が有ったとはいえ領地の殆どを失った上に織田家の一家臣となっている義頼が迅速に江南の近江国人を掻き集められたのは、ひとえに六角家時代に築いた信頼と実績が物をいったからだと言えた。

 その様な経緯もあって、招集してから間もなくには近江衆が六角館につどう。そんな彼らに対して義頼は、織田家からの援軍が来てから出陣する旨を伝えた。

 それから数日後、織田家からの援軍として森可成もりよしなり森可隆もりよしたかの親子。更には、軍監の役目を帯びた坂井政尚さかいまさひさが兵を率いて観音寺城下に到着した。


「殿の命により、援軍として参りましたぞ」

「お待ちしておりました。三左衛門(森可成)殿、傅兵衛(森可隆)殿、右近将監(坂井政尚)殿。では、明日にでも出陣致します」


 織田信長の派遣した織田家からの援軍を加えた義頼は、己の代理として観音寺城に甥の大原義定おおはらよしさだと兄の六角承禎ろっかくしょうていを残す。そして、総数で二万に届くか届かないかぐらいの兵を率いて但馬国へ向けて出陣した。

 やがて但馬国へ入った義頼の軍勢がまず向かったのは、国境にある生野城である。この城は国境を守る城であると同時に、生野銀山を運営する上での役所という側面も合わせ持つ城であった。

 その様な役目も併せ持つ生野城へ、大将である義頼の命令一下、火の様な勢いで攻めたてる。彼らは平押しに攻勢を続け、僅か半日で生野城を攻め落としてみせた。

 同時に義頼は、生野銀山にも兵を派遣してこれを掌握する。あまりにも素早い動きに、生野銀山の経営権を握っていた竹田城主の太田垣輝延おおたがきのぶてるは援軍の兵を出すいとまさえなかった。

 城攻めを始めて僅か一日で、生野城と生野銀山を落とした義頼の軍勢はその日のうちに生野城へと入る。 すると沼田祐光ぬまたすけみつが義頼へ、太田垣家へ降伏勧告を促すようにと進言した。

 義頼としても無駄な戦は避けたいところであるので、沼田祐光の進言を採用する。そして軍使には、三好釣竿斎みよしちょうかんさいを当てた。

 明けて翌日、竹田城に到着した釣竿斎から太田垣輝延へ降伏を促す書状が渡される。書状を読み終えると、彼は軍使の三好釣竿斎には別室にて控えて貰い、本人は別室にて話し合いをもうけていた。

 参加したのは父親の太田垣朝延おおたがきあさのぶと大叔父の太田垣定延おおたがきさだのぶ、それから弟の太田垣信喬おおたがきのぶあき太田垣宗喬おおたがきむねあきである。

 この太田垣一族による話し合いだが、あまり雰囲気は良くない。だが、それも当然と言えた。生野城は僅か一日で落城し、攻めて来た兵数も味方より遥かに多いのである。幾ら竹田城が堅城で、しかも防御側が有利だとは言え、彼我ひがの兵数があまりにも違いすぎたのである。篭城しても、とてもではないが持ち堪える事が可能とは思えないからであった。


「さて。こうして織田家より使者が来た訳だが……父上、いかにした物でしょうか」

「ふむ……生野城での戦いを見るに、士気も兵もあちらの方が上であろう」

「ですね」


 返答した太田垣朝延の意見に、だれも否とは言わない。それでなくても、兵力の違いは生野城落城という現実によってまざまざと見せつけられたのだ。なればここは、早急に降伏するのが最善だと言える。 特に太田垣家を残すと言う意味においては、最善と言っていい策であった。

 とは言う物も、一戦もせずに降伏を選択しなければならないという事実が彼らを打ちのめしていると言うのも理解できる。だからこそ降伏論を言った太田垣朝延は無論のこと、当主を務める太田垣輝延もそして他の一族の者達も何かを堪える様に黙っていた。

 だが、何時いつまでも黙っている訳にはいかない。特に当主である太田垣輝延は、一族の行く末を決定する責任があるのだ。

 それでも彼は迷う。そして、迷いに迷った末に彼が出した結論、それは父親の太田垣輝延の言葉に同調して降伏勧告を受け入れると言う物であった。

 漸く決断した太田垣輝延は、その旨を軍使である三好釣竿斎に伝える。そして翌日になると、太田垣輝延は竹田城を父親の太田垣朝延と大叔父の太田垣定延に任せると兄弟揃って義頼の居る生野城に三好釣竿斎と共に赴いたのである。やがて、一行は義頼と面会した。 


「拙者、太田垣家当主を務める太田垣土佐守輝延と申します。これに控えるは、弟の信喬と宗喬です」


 兄に紹介された二人の弟は、一度顔を上げてから再び平伏した。


「六角左衛門佐義頼だ。して土佐守(太田垣輝延)殿、降伏の儀は受け入れてくれるそうだな」

「はっ。太田垣家は織田家に降伏致します」

「良き判断をしていただき、真に感謝する。我が殿には某から「よしなに」と口添えをしましょう」

「おおっ! 感謝致します」


 こうして太田垣家を降伏させて味方に引きれた義頼は、太田垣輝延へ約束した通り口添えの上で織田信長に書状を送る。併せて義頼は、他の但馬国人に対しても太田垣家と同様に降伏を促す書状を送っていた。

 これには二つの意味があり、一つは書状の文面にある通り但馬国の国人へ降伏を促すという事である。戦をせずに味方を増やせるのだから、それは当たり前と言っていい。それに、し断れば、有無を言わさす攻めるだけである。差し伸べた手を払ったのだから、当然であった。

 そして今一つは、六角承禎から託された策を実行する為である。その時彼は、観音寺城を出陣する前日に六角承禎と行った会話を思い出していた。



「義頼。 但馬へ行くなら、出雲から但馬に移住している出雲源氏を動かせ」

「出雲源氏……えーっと……あっ、思いだした。確か佐々木義清ささきよしきよ公の子孫、でしたか兄上」

「そうだ。後鳥羽上皇の【承久の乱】で上げた功で出雲と隠岐の守護となった義清公は、出雲に下向した。その子孫が出雲と隠岐の各地に領地を持つようになり、その地で土着したのだ」

「そしてその者達を称して出雲源氏という様になった。と、幼少のみぎりに兄上から教わりました」


 なかば忘れていた義頼であったが、もうおくびにも出していない。だが六角承禎は、敢えて取り合わず、更に言葉を続けていた。


「その様な経緯から出雲源氏は我らと同じ佐々木の末であり、近江源氏(佐々木源氏)分流とも言える者達だ。その出雲源氏の者達の一部が、山名家に仕えたおり但馬国へと移動している。その様な者達に嫡流の末であるお主から書状が来たとなれば、彼らの中から動く者が相応に出るだろう」

「つまりそこで味方を増やし、事を優位に進めろという訳ですね」

「そう言う事だ。 義頼、しっかりやって来い」

「はい」



 やがて回想から戻った義頼は、書状を認めると但馬国内に居る出雲源氏の者達へと送る。すると程なく、出雲国から但馬国に移住した出雲源氏の流れを汲む彼らから書状が送り返されてきた。 

 届けられた書状全てに、義頼へ味方する旨が記されている。つまり彼らは近江源氏の分家として、嫡流家に当たる六角家の申し出に応じたのだ。

 想像以上の成果に、義頼は無論だが本多正信ほんだまさのぶや沼田祐光や蒲生定秀がもうさだひでなども喜びを表す。それから一頻ひとしきり喜んでいた彼らであったが、やがて表情を引き締める。そうして浮かれた雰囲気を押さえると、義頼が本多正信へ次の命を与えた。 それは、但馬国人の説得である。書状を送り降伏を促している義頼であるが、それとは別に本多正信にも説得を命じたのだ。

 彼は太田垣輝延の弟である太田垣信喬と太田垣宗喬と共に但馬国内を回り、国人達を説得して回ったのである。その一方で義頼も、ただ座していた訳ではない。太田垣輝延を案内人として、近隣の城に攻め掛かっていった。

 さて、山名家重臣である太田垣輝延が降伏し道案内をしている事実は、衝撃を持って但馬国人達へ知れ渡ってる。すると但馬国人達は頑強な抵抗など見せずに降伏するか、はたまた夜陰に紛れて逐電するのであった。

 そんな国人達の動向を、此隅山城に拠る山名祐豊とその息子である山名氏政は苦々しく思っていたのである。だが、そのどこかで「致し方無い」と思ってもいた。それは、若し自分達が国人の立場であったなら、同じ行動をしている事が想像出来たからだ。

 だからと言って、このままで良いと言う訳ではない。義頼による城攻めと、その裏で行われている調略と言う硬軟取り混ぜた策に、但馬国内は翻弄されている。何もせずに放っておけば、山名家が滅びてしまうのだ。

 じっと考えに耽ってい山名祐豊であったが、やがて目を見開くと指示を出し始めた。


「氏政。 お前は城に残り、出来るだけ敵を引きつけよ。わしはその隙を突いて、堺へと向かう」

「……それは構いませぬが、この兵力差ではたいして持ちませぬぞ」

「分かっておる。わしが城を出るまでで良い。その後は、降伏せよ。わしは城を出た後に堺の伝手を頼り、そこで信長公と接触を試みてみる」

「……攻めて来ている者たちでは、駄目なのですか父上」

「所詮、家臣に過ぎぬわ。わしら親子が引き続きこの但馬を治める為には、信長公との交渉は欠かせぬと思うておる」


 確かに家の存続だけならば、攻めて来ている義頼達へ降伏すれば恐らくは大丈夫であろう。しかし山名家が但馬国を引き続き治めようとするのならば、やはり織田信長との交渉が必要になってくる。山名氏政は暫く考えたが、やがて彼は父親の策に乗る決心を固めた。

 こうして意見の統一を図った山名祐豊は、息子の山名氏政に後を託すと僅かな供回りと共に密かに居城の此隅山城を出立したのであった。



 その一方で義頼であるが、彼は此隅山城近くへと軍勢を押し出していた。

 義頼の率いる兵数は、但馬国侵攻時より増大している。これは本多正信という稀代の謀略家の調略によって味方となった者や、軍勢を派兵された事で降伏した者。更には攻められる前に降伏して来た者達など、味方に取り込んだからである。そんな彼ら率いて、この地へ布陣したと言う訳であった。

 それから義頼は、出石川沿いに建つ鳥居城へと入りこの城を本陣とする。それから程なくした頃、鳥居城に見知らぬ軍勢が到着した。彼らを率いているのは、塩冶高清えんやたかきよである。彼は、但馬国内に在住する出雲源氏の流れを汲む者達を率いて来たのであった。

 と言うのも、塩冶氏は出雲源氏嫡流と言える家だからである。そしてそれは、但馬国に移住した出雲源氏の中でも同じ意味合いを持っていたのだ。


「よくぞ参られた、周防守(塩冶高清)殿。貴公達のお陰で、素早く事が進んだ。礼を言う」

「はっ」


 彼らも合流した事で但馬国内に居る国人を大多数を味方に引き入れる事に成功した義頼は、本陣としていた鳥居城を出ると同城を後陣とする。そして自身は、軍勢と共に此隅山城を取り囲んでいた。

 だが此隅山城から敵兵が打って出て来る風でもなく、不気味なぐらいひっそりとしている。一向に動きを見せない敵に、義頼は此隅山城近くまで出向くと城をじっと見つめていた。


「うーむ」

「如何なされましたかな?」

「おお、周防守殿か」


 此隅山城を見上げる義頼は、釈然としない表情を浮かべつつも首を傾けている。そんな彼に声を掛けたのは、塩冶高清であった。

 総大将たる義頼が前線近くまで来ているので声を掛けた訳だが、その義頼は訝しげな表情をしている。その表情に塩冶高清は、何か気に掛かる事でもあるのかと内心考えたのだ。

 

「左衛門佐(六角義頼ろっかくよしより)殿。しきりに首を傾げられておりますが、何か気になる事でもありましたかな?」

「いや、此隅山城だが違和感というか、どうにも釈然としない」

「どういう事ですか?」

「旗を見る限り、まだそれ相応の者と兵が居ると思われる。だがその割に、妙に静かというか」

「……確かにおかしいですな」


 義頼の言葉を聞き、塩冶高清はその時になって始めて此隅山城の違和感に気付く。すると義頼の傍らに居た沼田祐光が、塩冶高清に話しかけた。


「周防守殿、貴殿は此隅山城に詳しいですか?」

「まぁ、それなりには」

「では、お願いがあります。大物見に行ってはいただけませぬか、貴殿御自身の目で確かめていただきたいのです」

「……よかろう。拙者もあの様子は気になるのでな」

 

 塩冶高清は義頼に軽く頭を下げると、その場から消える。すると沼田祐光は、義頼へ甲賀衆を派遣する様にと進言を行う。その進言に少し考えた義頼だったが、最終的には彼の進言を採用している。すると義頼は、鵜飼源八郎うかいげんぱちろうを筆頭とした腕利きの甲賀衆を派遣する。それと言うのも、どうにも情報が少なく判断がしづらいからだ。

 情報が多いからと言って必ずしもそれが良いとは限らないが、無さ過ぎるのは問題があり過ぎる。それに義頼には本多正信や沼田祐光などと言う謀将も抱えている。 また他にも、経験豊富な蒲生定秀がもうさだひでや三好兄弟などもいる。情報が多すぎて惑わされると言う事は、あまり考えられなかった。

 程なく現れた鵜飼源八郎ら甲賀衆に、義頼は此隅山城の情報収集を命じる。そこで義頼は、甲賀衆に無駄死にと無理だけはするなと厳命した。


「その方達は城を探ってまいれ。但し、無理はするな。生き残る事を考えよ、良いな」

『はっ!』

「行け」


 それから一刻ほど経った頃、鳥居城に戻っていた義頼の元に塩冶高清が現れた。

 しかし彼の表情は、あまり芳しくない。その表情に手痛い反撃でも受けたのかと危惧したが、それは杞憂きゆうであった。しかし同時に、いぶかしげにもなる。と言うのも大物見を行った塩冶高清の感触では、敵勢に戦をする気概の様な物が感じられないと言うのだ。

 彼は一戦覚悟で、此隅山城に籠る将兵に挑発や誘いを仕掛けたらしい。しかし、城から一向に反応が見られないと言うのだ。

 味方に被害が出なかったというのは幸いと言えるが、はっきり言ってこの反応は不気味である。だが大将として、迷っている態度を味方へ表す訳にはいかない。義頼は訝しげとなった表情を笑みに変えると、塩冶高清をねぎらった。

 すると彼は、義頼に一つ頭を下げると彼の前から辞する。そんな塩冶高清の背を義頼は、笑顔で見送る。 程なくして周りから人影が消えると、義頼は視線を城へと向けた。


「少なくとも、異常な状態である事は分かった。あとは、甲賀衆の報告待ちか……一体、何を考えている山名祐豊」


 そう呟くと義頼は、拳を力強く握りしめる。そして、じっと此隅山城を見詰めたのであった。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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