第二百七十四話~津軽侵攻~
お待たせしました。
あと、別の連載中です。
第二百七十四話~津軽侵攻~
安東家当主となる安東愛季が居城としている脇本城へ、織田信忠が率いる軍勢が到着する。既に出羽国南部の有力者となる最上家や大宝寺家を頭に、大小の国人をも加えた軍勢である。その軍勢を、安東愛季は重臣と共に脇本城の大手門まで出向いて出迎えていた。
既に織田家と安東家は、よしみを通じている関係にある。ただ、力関係は圧倒的に織田家の方が強い。ゆえに安東愛季ら安東家の者は、平身低頭で対応していた。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。拙者、安東家当主となります安東侍従愛季にございます。そして脇に控えますは、嫡子の安東業季にございます」
「安東業季と申します。お引き立てのこと、よろしくお願い奉ります」
「それでは、参議(織田信忠)様、こちらへ」
「うむ」
安藤愛季と安東業季の親子が直々に案内して織田信忠以下、義頼や池田恒興らを脇本城へ先導していった。
因みに湊安東家を継いでいる安東業季だが、自身を紹介した際に通称を名乗らないでいる。その理由は、湊安東家の通称が秋田城介であったからだ。何せ目の前の織田信忠は、朝廷より正式に秋田城介の官職を賜っている。その織田信忠の前で秋田城介などと名乗ろうものなら、何をされても文句はいえない。まず間違いなく、過去の経緯などは完全に無視して滅ぼされることは請け合いだった。
そんな愚行を、安東愛季が行わせる筈もない。父親から散々に釘を刺されていたこともあって、安東業季は秋田城介を名乗ることをしなかったのであった。
やがて織田信忠の一行は、脇本城の本丸へと到着する。そのまま彼らは、本丸にある内館と呼ばれている屋敷へと案内され、そのまま一室へ腰を据えた。
さて内館であるが、館内の広間は人で溢れている。その広間には、安東家の重臣は元より、小野寺家や戸沢家などといった出羽国北部に存する諸家の者が揃っていたからである。彼らもまた、織田家へ臣従する為に集った者たちであった。
彼らはこの機会とばかりに、雑談に見せかけつつ情報収集などを行っている。しかし心うちでは、織田信忠ら織田家の一行が現れるのを今か今かと待ちわびていた。
そんな広間に、安東愛季と安東業季が入ってくる。安東家の当主とその嫡子が現れたことで、広間内の空気が一気に引き締まる。雑談もなりを潜め、静かだがどこか張り詰めたかのような空気となっていた。その雰囲気は暫く続いたが、やがて広間に織田信忠たちが現れることを告げられる。すると、広間の雰囲気は完全に緊張したかのような物へと変貌していった。
そんな張り詰めたかのような空気が支配する広間に、いよいよ織田信忠たちが登場する。その一行を、出羽国北部の大名や国人たちは平伏して出迎えた。やがて広間の上座に、織田信忠が腰を降ろす。そのすぐ近くには、義頼を筆頭に織田家家臣が周りを固め、さらに今回の奥羽討伐に参画した諸将が固めていた。
「面を上げよ」
静かだが通る声で、織田信忠が命じる。その声に従って、安東愛季らはゆっくりと頭を上げていった。ここが脇本城ということもあって、先ずは安東愛季が臣従の言上を行う。その後、小野寺家が続き、それから戸沢家などの家々が織田信忠へ臣従する言上をおこなっていった。
これにより出羽国の国人全てが織田家に臣従し、出羽国もまた織田家の版図となる。このあとは、祝いの宴が行われ、この席でも義頼は、最上家などといった出羽国南部の家々が臣従したあとに行われた祝いの宴の席の時と同様に、蟒蛇ぶりを見せ付けたのであった。
それから数日、脇本城に留まっていた織田信忠と旗下の軍勢であるが、いよいよ持って動き出す。南部家当主の南部晴政らからの逆撃など受けたくもないので、国境に領地を持つ出羽国人らは領地へ戻して防衛を命じている。彼らには、南部家の軍勢が侵攻してきた場合に備えて、連携して防衛戦を行うのだ。
その上で織田信忠は、出羽国を北上して国境を越えると陸奥国内へと雪崩れ込む。この辺りは南部家との係争地ではあるが、主に活動していた大浦家当主が戦没しており、後継となる嫡子も数えでまだ七才と幼くとてもこの難局を乗り切れるとは思えない。そこで戦死した大浦為信の養父となる大浦為則の次男、つまり大浦為信の義弟となる大浦信勝を当主とすることで家中を纏め、急ぎ迎撃の用意を調えたのであった。
とはいうものの、相対するのは別動隊とはいえ織田家当主となる織田信忠率いる軍勢である。そこで大浦信勝は南部晴政へ、援軍の要請をするとともに周辺の南部家家臣にも救援の要請を行った。
しかしながら、大浦家家臣や大浦家と盟約関係にある家は別にして、それ以外の国人からの返答は素っ気ないものとなる。大抵は病気などといった似たり寄ったりの理由を掲げ、兵どころか兵糧すらも送ってはこない有様だった。
これには、急遽大浦家当主となった大浦信勝も面を食らってしまう。まさかここまで、近隣の国人から冷たい態度を取られるとは思ってもみなかったからである。これでは彼らを当てにするなど、とてもではないが無理であった。
しかし、何ゆえに大浦家がここまで素っ気なくされたのか。それは、結果として大浦為信がやりすぎた為であった。そもそもこの津軽一帯は、前述したように南部晴政の叔父に当たる石川高信がその技量を持って押さえていた地域である。その津軽において、いかに南部晴政の意向があったとはいえ、大浦為信は討ってしまっていた。
そればかりか、石川家自体も滅んでいる。石川家は石川高信の次男に当たる石川政信が継いでいたのだが、彼は家督を継いで翌年に急死していた。しかもこの死にはうしろ暗い噂もあり、大浦為信が毒殺したのではともいわれている。これが南部晴政の意向を受けてのものか、それとも大浦為信が独断で行ったことかは分からない。しかし、この一連の行動が周囲の在地国人から不信感を持たれてしまったのだ。
何度もいうように、石川高信は南部家一門衆である。しかも現当主の叔父という近しい関係にありながらも、討たれてしまいひいては石川家の滅亡へと繋がっていった。そのような近しい家ですら滅ぼすようならば、他の国人に対してもどんな難癖をつけて滅ぼしたとしてもおかしくはないと考えたのである。しかも、その考えを裏打ちするかのように、大浦為信は津軽の名門、浪岡北畠家を討ち滅ぼしてしまった。
当主の浪岡顕村は、彼の叔父となる浪岡顕範が身代わりになることでかろうじて生き延びているので厳密にいえば家が滅んだ訳ではない。しかし僅かな家臣しかなく、しかも妻の実家である安東家にて保護されているだけの存在となってしまっているので、津軽の国人らからすれば滅んでいると捉えられていたのだ。
その浪岡顕村だが、織田信忠によって津軽侵攻の旗頭というか大義名分の一つとされている。実は、彼の存在も周辺の津軽国人が大浦家への合力を消極的にしている理由の一つでもあった。
いかに力を落とそうが、浪岡北畠家は伊勢北畠家の分家筋という名門である。しかも浪岡北畠家は、伊勢国の国司とされる北畠本家と同様に陸奥国の国司ともされる家でもある。津軽の国人たちが、織田家に従う理由としての一助と成り得るのだ。
こうして津軽の国人の大半は、動かずに局外中立というような立場をとったのである。完全に敵対しなかったのは、南部家に対するせめてもの義理立てであった。
とはいうものの、大浦家としてはたまらない。侵攻してくる織田勢に対抗できないからこそ、周囲の国人たちや南部家へ援軍を求めたのである。大浦家としては、国人たちの合力を得て何とか時間を稼ぎ、その上で南部家よりの援軍と共に追い払うつもりだったからである。その前提条件が崩れてしまっては、手の打ちようがない。かといって、降るという選択はできなかった。
何せ織田勢の大義名分の一つに、大浦為信が追い払った浪岡北畠家の再興がある。その上、織田信長率いる織田家本隊の軍勢には、北畠氏の宗家となる伊勢北畠の現当主北畠具豊がいるのだ。
幾ら織田信忠の軍勢には同行していないといっても、彼の家の存在により浪岡北畠家の再興というお題目がより現実味を帯びてくることとなる。宗家が没落した分家に手を差し伸べることに対し、文句などいえる筈もない。それだけに、浪岡北畠家を滅ぼした大浦家が降伏などできないのだ。
「こうなれば、徹底的に籠城するしかない。幸い、殿(南部晴政)は援軍を確約してくれた」
「……それしか、ありませぬな」
「是非もなし」
大浦信勝の言葉に対して諦観と共に言葉を返したのは、森岡信元である。その彼に続いて、きっぱりと言い放ったのは、兼平綱則であった。彼ら二人は、小笠原信浄というもう一人の重臣と共に大浦為信を支えた者であり、彼ら三人を称して大浦三老と呼ばれていた。
だがその大浦三老も、既に一人欠けている。それというのも、小笠原信浄が戦死しているからだった。彼が戦死したのは、最近である。実は小笠原信浄、陸奥国南部へ援軍として派遣された大浦為信と同行していたのである。しかしながら、のちに【小峯城下の戦い】と呼ばれるようになる、織田勢第一陣を率いる柴田勝家との戦において主君と共に討ち死にしていたのだ。
彼自身は大浦為信のように、大砲の砲弾によって命を落とした訳ではない。しかし火縄銃によって、彼はその命を散らしていたのだ。
「しかし、そなたたちはいいのか? 幾ら分家筋とはいえ、残ったのは何ゆえだ?」
「わが父、森岡信治は先々代様を後見した家でございます。そして拙者も、先代様と共に大浦家を大きくしようと力を尽くして参りました。今さら、大浦家を見捨てるなど致しませぬ」
森岡家は、大浦為信の曾祖父となる大浦光信の実子とも養子ともいわれる大浦盛信を祖とする家である。彼の子供が大浦から森岡へと姓を変えた為、森岡と名乗るようになったのである。そして実質的な森岡家の初代となる森岡為治の孫に当たるのが、森岡信元であった。
「そうか……済まぬとしかいえぬ」
「はっ」
それから大浦信勝は、この場にいるもう一人の重臣である兼平綱則へ視線を向ける。実はこの兼平綱則の家となる兼平家も、森岡家同様に大浦家の一門へ連なる家であった。そしてこの兼平家の祖とする人物は、森岡家の祖となる大浦盛信の弟となる大浦盛純である。
彼は、兼平の地を領地として賜った際、姓を地名に因み兼平と変え兼平盛純と名乗るようになる。この兼平盛純の子が、兼平綱則であった。
「殿。拙者も亡き先代様と共に、幾多の戦場を駆けました。十郎左衛門(森岡信元)殿と同じく、今になって大浦家を見限るなど致しはしません。それに、我が戦の中には浪岡北畠家を滅ぼした戦もございますゆえ」
「北畠家を抱える織田家に降伏などできる筈もない、ということか」
「……はい……」
「あい分かった。織田に、そして浪岡北畠へ我らの力をみせつけてくれようぞ」
『御意!!』
こうして内実は兎も角、思いは共にした彼らは大浦城へ味方する全兵力を集めて、徹底抗戦の態度を織田勢へ見せ付ける。その裏で、南部家からの援軍を待つことにした。
しかしてその南部家では、南部家当主の南部晴政が頭を抱えていた。
白河結城家や相馬家、岩城家への援軍として送った軍勢が戻ってきたのはいい。しかしその損害は、想定を越えていた。岩城親隆と相馬盛胤が、軍勢と共に同道しているのが救いといえるかも知れない。彼らの軍勢があれば、被った損害が多少は補填できるからだった。
しかし、それも束の間である。織田家当主となる織田信忠の軍勢が、津軽地方へ侵攻してきたからだ。当然だが、大浦家より援軍要請がきている。しかし問題なのは誰を送るか……ではなく、兵そのものに余裕がないことだった。
陸奥国内を侵攻している織田信長率いる軍勢の先鋒は既に葛西氏の居城となる寺池城まで到達しており、大崎家と大崎家の援軍として送り込んだ東直義や斯波詮直の軍勢と対峙しているのだ。
そこにきて、援軍要請である。これ以上の援軍となると、南部家本拠地となるこの三戸から出すか、もしくは一族分家から出すしかない。そして津軽に近く兵に余裕がある分家は、もう七戸家しかなかった。
厳密にいえば、彼の家だけはなく八戸家にもある。しかし南部に戻って間もない者や、岩城家と相馬家から分かれた者が中心となってしまう。流石に疲れの抜けきっていない彼らを援軍とするのは、憚られた。
これがもう追い詰められどうにもならないという緊急事態であれば別だが、少なくともそこまでとはまだ南部晴政も思っていない。しかしそれも、この援軍の結果次第だとも考えていた。
何はともあれ南部晴政は、七戸家当主となる七戸家国へ援軍として大浦家の救援に向かうようにと命を出す。七戸家は八戸家と同様に、大浦家と比較的近しかったこともあって命を受諾する。それから間もなく、彼は軍勢を率いて七戸城より出陣したのであった。
大浦信勝が家臣や将兵を集め、居城の大浦城へ籠城という策をとったことで、織田信忠の軍勢を止められる存在などいなかった。それゆえ、軍勢は順調すぎるぐらい順調に進軍を重ねていったのである。とはいえ元から兵数差が大きすぎるので、籠城策をとらなかったとしても進撃速度がそう変わるとは思えなかった。
だからといって、すぐに大浦家の本拠地である大浦城に到達するなど、できるものではない。地元の大浦家に比べるとどうしても地の利には乏しい為、慎重に行動せざるを得ないからだ。そこで先鋒による大物見や、義頼旗下の忍び衆による斥候を欠かさない。その斥候を行っていたのは、元北條家旗下であった風魔の者であった。
北條家が織田家へ従属したあと、風魔衆の大半は北條家を離れている。その後、彼らは、織田家家臣や周辺の大名や国人に雇用されていた。その中にあって最大の集団は、義頼旗下となっていたのである。その理由は、風魔衆の一人である二曲輪猪助にあった。
彼は嘗て、伊賀にて修業したことがある。その時に得られた伝手を使い、義頼直属の忍びである藤林保豊に接触を果たす。これにより風魔衆全てではないが、それでもかなりの勢力が義頼旗下の忍び衆に加わったのだ。
こうして風魔衆が義頼旗下となった訳だが、幾ら風魔衆の実力者の一人であったとはいえ幹部でしかない彼がこれだけの動きをできたのかというと、実は指示を受けて行動していたからである。そして彼に指示を出した者こそ、風魔衆の頭領であった風魔小太郎であった。
彼は北條家お抱え忍び衆である風魔の頭領であるが、同時に北條家家臣でもあった。風魔小太郎はその出自からか本名ではなく、風間出羽守として北條家家臣の一人として名を連ねていたのである。この時代、忍びの扱いはあまりいい物ではない。その意味では頭領が家臣の一人であるというのは、待遇がいいともいえるだろう。だが風間出羽守こと風魔小太郎はまだしも、他の風魔衆の待遇が良かったかといわれるとそうでもなかった。
やはり忍びは忍び、下賤な者よと考える北條家家臣は多かったのである。それでもまだ、頭領が北條家家臣であることで多少の配慮はされていた。しかし、それも北條家が織田家に臣従したことで意味がなくなってしまう。何より風魔小太郎は、北條家にはこれ以上先がないと判断していたのだ。
そこで彼は風魔衆全てに自身の考えを打ち明けた上で、彼らに好きにするようにと通達したのである。これにより、幾つかの小集団が風魔から離れて独自に動くこととなる。この風魔衆より離れたいくつかの小集団が、前述したように義頼以外の織田家臣や周辺の大名などへ雇われたのだ。
その一方で、何だかだといっても風魔小太郎は風魔衆の頭領だった男である。彼の元には、相当数の元風魔衆が残ることとなる。事情を話し、それでも残ってくれた彼らの為にと風魔小太郎は頭を捻る。その彼に対し、伊賀衆を通して義頼へ仕官できるかも知れないと進言したのが二曲輪猪助であったのだ。
義頼の忍びに対する待遇は、風魔小太郎も知っている。実際に、義頼の忍びに対する待遇を初めて聞いた時、耳を疑ったぐらいなのだ。何せ忍び衆のうちで幹部相当の者の中には、武士として六角家家臣となっている者がいるぐらいである。しかも下級武士などではなく、中堅どころもそれなりにいる。さらにいえば、重臣級としても少数であるが存在しているのだ。
また、忍び自体も待遇はいい。基本的には足軽とそう変わらないぐらいであるが、仕事の内容によってはいわゆる危険手当的なものが追加で支給されるので、下手をすると足軽より良くなるのだ。これだけの待遇があるといわれて、すぐに信じられるほど風魔小太郎はお気楽ではない。それはまだ風魔衆が北條家に仕えていた頃の話だが、彼は何度となく義頼のことを調べていたのだ。
そして得られたのが、義頼の忍びに対する待遇の報告に間違いはないという結果である。だが、伝手がない。風魔小太郎が北條家から離れる時に次に仕える候補としたかった六角家だが、伝手がない以上は難しいだろうと除外したのである。それゆえに残ってくれた風魔衆をどうしようかと悩んだのだが、まさか二曲輪猪助に伊賀衆へ伝手があるとは風魔小太郎も思ってもみなかったのだ。
そこで彼に指示を出した結果が、風魔小太郎以下風魔衆大半の六角家忍び衆加入である。六角家家臣となると、風魔小太郎は以前のように風間出羽守として今度は六角家家臣の一人として名を連ねるようになっていた。
そして元風魔衆自体も、その出身ゆえに主に東国での忍び働きを任されていたのである。こたびの斥候もその一環であり、風間出羽守こと風魔小太郎以下、風魔衆の者たちは張り切って仕事をこなしていた。
すると風魔衆の斥候という網に、南部家の動静が掛かる。その情報を得たのは、風魔衆の一人で、風魔小太郎と同じく北條家家臣でもあった鳶沢甚内である。
前述したように南部晴政によって出された命に従う七戸家国が、軍勢を率いて居城を出たことを鳶沢甚内率いる風魔衆によって確認される。すると彼は引き続きの監視を命じると、風魔小太郎の元へ取って返す。この報告は、そのまま義頼へと報告された。
「なるほど。南部晴政の命なのだろうな」
「恐らくは」
「ふむ……そなたらはどう思う?」
そういって義頼が問い掛けたのは、本多正信と沼田祐光と三雲賢持、それと武藤昌幸と黒田孝隆である。ここには事実上、六角家の頭脳といえる者たちが揃っていた。
彼らが集っていたのは、効率よく津軽地方の鎮定を行うかを話し合う為である。勿論、総大将が織田信忠である以上は、彼の主催する軍議が開かれそこで方針が決まる。その前に六角家としての方針を、幾つか考えておこうという為の物であった。
その集まりの途中で、風魔小太郎より南部家の動きが報告されたのである。これまで大浦家や津軽国人の動きしか分からなかったのだが、ここにきて南部家の情報も手に入ったのである。これは急いで報告しなければならないとして、義頼は風魔小太郎と共に織田信忠へ報告に出向く。夜食後であったが、その内容ゆえにすぐに通されて義頼は無事に織田信忠と面会した。因みに風魔小太郎は、風間出羽守として義頼に付き従っていた。
「南部が動いたということに間違いはないか」
「はい。手の者の知らせがございました」
そう前置きしてから、義頼は報告書を出す。小姓を介して受け取った織田信忠は、隅々までその報告書に目を通す。それから視線を上げると、義頼へ問い掛けた。
「相違、ないのだな」
「はっ」
「分かった。明日、軍議を開く。よいな」
「御意」
こうして、津軽地方の命運を決めることになるだろう織田信忠の軍勢と、南部晴政の命により派遣された軍勢と大浦家の軍勢による連合勢との衝突が、徐々に近づいていくのであった。
織田信忠が、出羽国を手にして南部領津軽へ侵攻しました。
連載中「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
こちらも、よろしくお願いします。
ご一読いただき、ありがとうございました。




