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第二百七十二話~織田信忠、出陣~

お待たせしました。


あと、新しく連載を始めました。


第二百七十二話~織田信忠、出陣~



 小峯城に駐留していた織田家本隊であるが、こちらも動き始めていた。

 相馬家当主の相馬義胤そうまよしたねと岩城家当主となる岩城常隆いわきつねたかは既に降伏し、伊達家当主の伊達輝宗だててるむねと蘆名家当主の蘆名盛隆あしなもりたかと石川家当主の石川昭光いしかわあきみつは、織田家に臣従した。すると、三家の周辺に属する国人らも我先にと織田家へ臣従する。これにより、織田家と敵対する大崎家の居城となる名生城への道が開かれたといってよかった。

 そうなれば、柴田勝家しばたかついえ率いる軍勢を向かわせ、寺池城に籠る葛西晴氏かさいはるうじを救援させるだけである。以降は大崎家をも討ち、南部家と直接対峙すればいいだけであった。

 これで、陸奥国側の進軍経路はほぼ決まったといえるだろう。だが、このままでは陸奥国側だけの大名や国人だけで戦を決してしまうことになる。しかしそれでは、この戦が始まる前にこうべを垂れてきた出羽国側の大名や国人の出番がなくなってしまう。この戦は、日の本の統一最後の大戦おおいくさであり、同時に奥州鎮定における最後の戦でもあるのだ。

 そのような世紀の決戦に、奥州に領地を持つ大名や国人に参画させないという事態は彼らとの間にしこりを生みかねない。たとえ形だけでも、出羽国の者たちも動員させておく必要があったのだ。


「信忠。分かっておるな」

「はい、父上。北狄大将軍として出羽国勢を率いて、津軽より侵攻して南部家を攻めましょう」

「うむ。そなたには、副将として義頼と恒興をつける。軍監は秀政に申し付ける」

「承知しました。ですが父上、よろしいのですか? 義頼は、父上と拙者の傍を守る者ですが」

「構わぬ。それに、近江衆の三分の二は残させる。あとそなたには、中国勢もつける」

「分かりました。早速にでも用意をし、軍勢が調い次第出陣致します」


 その後、義頼と池田恒興いけだつねおき、それから毛利家や尼子家や三好家など、中国地域に領地を持つ大名や国人らに出陣の命が下る。彼らは粛々と、その命に従っていった。

 程なくして、出陣の用意を調え始める。そもそも義頼は、奥州に攻め込んだ軍勢全体の兵糧奉行の一人でもあったので兵糧等を調達するのは容易である。しかし、織田家当主の織田信忠おだのぶただが率いる軍勢の副将も務めるとなると、仕事が集中しすぎてしまう。無論、こなせない訳ではないのだが、人材がいないという状態でもないので義頼にそこまでの負担を掛ける必要がない。ゆえに、彼の肩書から、兵糧奉行という役職が外された。今であれば、兵糧総奉行である明智光秀あけちみつひでともう一人の兵糧奉行である羽柴秀吉はしばひでよしがいれば、何も問題がないからだった。


「日向守(明智光秀)殿、筑前守(羽柴秀吉)殿。あとは、お頼みします」

「こちらは任せられよ。心置きなく、殿(織田信忠)の元で働きなされ」

「うむ。日向守殿のいわれる通りだ」

「お任せください」


 こうして義頼は、職責の移譲を明智光秀と羽柴秀吉に対して行っておく。この二人であれば、心配することはないので安心して出羽国へ向かえるというものだった。

 そしてその夜、義頼は織田家の親衛隊といえる近江衆において副将を勤める蒲生賢秀がもうかたひでを呼び出す。他にも近江衆において、主要な武将も何人か呼び出していた。彼らは全て織田信長おだのぶながの身辺を守る者として残る者たちとなる。因みに、織田信長と織田信忠の身辺を今守っている近江衆は、義頼と共に出羽国へ向かう者たちであった。


「賢秀。最後の戦で共に行けぬのは残念だが、あとは頼んだぞ」

「お任せください。上様(織田信長)の御身は、我らの命に代えましてもお守り致します」


 義頼の言葉に蒲生賢秀が応えると、近江衆を率いる将のうちで池田景雄いけだかげお小倉実房おぐらさねふさ平井高明ひらいたかあき目賀田貞政めがたさだまさといった武将たちが頷くことで返答としていた。

 なお、近江衆を率いる武将には、堀秀村ほりひでむら山岡景隆やまおかかげたかなどの武将がいる。しかし彼らは義頼と共に出羽国に向かう為にこの場におらず、先述の通り織田信長と織田信忠を守っていた。


「それと、為次。そなたも、頼んだぞ」

「無論にございます、殿」


 最後に義頼が声を掛けたのは、甲賀衆の佐治為次さじためつぐである。彼は、織田信忠を守っている忍び衆となる滝野吉政たきのよしまさ下山しもやま甲斐守と同様に、織田信長に付けた護衛の為の忍び衆を率いている者であった。

 義頼が織田信長と織田信忠に、護衛の為の忍び衆を付けた時期は同じである。幸いにして護衛の忍び衆を配置したあとで、織田信忠の時のように織田信長が戦場で危機に陥るという事態に遭遇することがなかった為、表に出ることがなかった者たちでもあった。

 そういった経緯があるので、近江衆は彼らの存在は知っている。しかし逆にいえば彼らしか知らない者たちでもあり、織田家中でも秘中とされている精鋭部隊であった。


「そなたらや近江衆の出番がない。それが最も良いことなのだが、万が一の事態においては躊躇うな。味方を殺してでも、上様を守るのだ!」

『御意!!』


 気迫の籠る彼らの返事を聞き、義頼は満足げに笑みを浮かべつつ頷くのであった。



 すがすがしいまでの五月晴れが広がる小峯城の城下町郊外に、北狄大将軍となる織田信忠が率いる軍勢が集結していた。

 その軍勢を織田信忠が高所より見下ろしており、彼の両脇は義頼と池田恒興という二人の副将によって固められている。特に義頼は、将としても武人としても名を馳せていることもあって、彼の存在自体が織田家現当主を守っているともいえた。

 勿論、義頼を筆頭とする近江衆により守られてもいるし、他にも義頼の手配した忍び衆による防衛網もある。彼らの存在も、目立つ目立たないに関わらず圧力がある。しかしながら、名が売れているという時点で義頼という存在は大きかったのだ。

 それだけに、織田信忠も安心している。岐阜に常駐する家臣に比べれば接点は少ないが、信頼という意味では群を抜いていた。何より、並みいる織田家重臣にあって義頼は織田信忠と年が近い。年齢も九才しか離れていないので、他の織田家重臣よりも接し易かったのだ。


「さて、そろそろよろしいかと。殿。出陣に当たり、一言賜りたいと存じます」

「うむ」


 義頼の言葉に頷いた織田信忠が、ゆっくりと立ち上がる。数歩ほど前に出ると、それまで騒然としていた雰囲気も止み、静かになっていた。しわぶきなど一つもなく、真に静かである。そんな旗下の軍勢をじっと見降ろしてから、織田信忠は口を開いた。

 

「我らは出羽へと赴くが、ただ赴くにあらず! 天下統一への最期の布石として、およそ長きに渡り続いた戦国の世を我らの手で終わらす為だ!! 妻に子に、父母や祖父母、または孫や玄孫やしゃご、ご先祖や子々孫々ししそんそんに至るまで我らがこの戦の世を終わらせたのだと胸を張りのたまおうではないか!」 

『おお!』


 織田信忠が言葉尻に合わせ、自身の拳を天に向けて突きあげる。すると兵士から同調するかのごとく声が返され、同時に彼らも合わせて拳を天に向かって突き上げていた。正に、意気軒昂いきけんこうといえるだろう。そのような味方の姿を見たあと、織田信忠は視線を義頼へと向ける。主君からの視線を受けた義頼は、一つ頷き返してから声を張り上げた。


「出陣!!」


 その掛け声とともに、軍勢が動き出す。一糸乱れぬ動きに、彼らの思いが一つであることを認識させる。それは勿論、戦国の世の終焉という思いであった。

 こうして小峯城を雄々しく出陣した軍勢は、北上する。彼らがまず向かった先は、須賀川城である。この城では、蘆名家・伊達家・石川家連合勢と白河結城家・相馬家・岩城家・南部家援軍連合勢がぶつかった浅川城外の戦で重傷を負った蘆名盛氏あしなもりうじが療養していた。しかし、具合はあまりいいとはいえない。正直にいえばかなり悪化しており、予断を許さない状態であった。

 その為、蘆名盛氏が小峯城へ向かうことはできなかったのである。そんな彼がいる須賀川城へ、織田家の軍勢が到達するという知らせが届いた。しかも軍勢を率いているのは、織田家当主で北狄大将軍でもある織田信忠である。幾ら容態が悪いからといっても、迎えに出ない訳にはいかない。そこで蘆名盛氏は、義息で蘆名家現当主を務める蘆名盛隆あしなもりたかの実父に当たる二階堂盛義にかいどうもりよしと共に出迎えることにした。

 二階堂家は、藤原南家を創設した藤原武智麻呂ふじわらのむちまろの子供の一人、藤原乙麻呂ふじわらのおとまろに連なる家である。彼の子孫となる工藤行政くどうゆきまさ源頼朝みなもとのよりともに仕え、のちに相模国鎌倉郡二階堂村(神奈川県鎌倉市二階堂)に領地を得る。その賜った地に因み、姓を二階堂と称したのが始まりとされていた。

 二階堂氏はその後、幾つかの家に分かれる。その家の中で須賀川を本拠とする須賀川二階堂家は、二階堂家七代目当主となった二階堂行綱にかいどうゆきつなと八代目当主となった二階堂頼綱にかいどうよりつなの子孫に当たる家であった。

 しかし、当時須賀川の地を代官として治めていた一族の二階堂行続にかいどうゆきつぐが三代目鎌倉公方となる足利満兼あしかがみつかねに対して反旗を翻したことで、彼に対して討伐の命が下る。その命を受けたのが、先の二人の直系の子孫となる二階堂為氏にかいどうためうじであった。

 間もなく奥羽へと出陣した彼は、二階堂行続を討ち取り須賀川城一帯を支配したことで、須賀川二階堂家が成立して二階堂為氏が須賀川二階堂家を創設する。彼は、須賀川二階堂家の現当主となる二階堂盛義の七代前の人物であった。

 以降、須賀川城のある陸奥国岩瀬郡を支配していたのだが、二階堂盛義が蘆名盛氏に敗れてしまう。彼は嫡子を人質として蘆名家に差し出したことで助命され、二階堂家は蘆名家配下として存続が許される。この二階堂盛義が差し出した人質こそが、蘆名家現当主の蘆名盛隆であった。

 しかし当時は蘆名盛興あしなもりおきという蘆名盛氏が将来を嘱望しょくぼうした嫡子が蘆名家にいたので、彼が蘆名家当主になるなどまずあり得ない話であった。だがその蘆名盛興が、二十代半ばで死亡してしまう。一説には、酒毒によるとされていた。

 こうなると困ったのが、蘆名盛氏である。何せ蘆名家には、彼以外に男児がいなかったのだ。そこで人質として蘆名家にいた二階堂盛隆が蘆名家に養子に入り、蘆名家の家督を継ぐこととなった。

 因みに彼が後継として選ばれた理由は、蘆名家の血を引いているからである。蘆名盛隆の母は伊達晴宗だてはるむねの娘となる阿南姫おなみひめなのだが、その伊達晴宗の母が蘆名家十三代当主となる蘆名盛高あしなもりたかの娘であった。つまり蘆名盛隆は、蘆名盛高の玄孫やしゃごに当たる。そして蘆名盛高は、蘆名盛氏の祖父となる人物であった。

 何とも複雑ではあるが、それでも蘆名家の血を引いていることに変わりはない。こうした経緯があり、二階堂盛隆は蘆名家と養子縁組して蘆名盛隆となったのだった。

 話を戻して須賀川城の大手門では、顔色がすこぶる悪い蘆名盛氏と隣で心配気な表情をしている二階堂盛義が織田信忠の軍勢が到着するのを待っている。但し、二階堂盛義からすれば、いつ蘆名盛氏が倒れるのか気が気ではない。だが、幸いかどうかは分からないが、彼の気力が尽きる前に織田信忠の軍勢が須賀川城へと到着していた。


「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。拙者は二階堂家当主二階堂盛義にございます。隣に控えますは、蘆名家先代当主、蘆名修理大夫盛氏殿にございます」


 こういった場合、目上となる蘆名盛氏が挨拶の口火を切るのが普通である。しかし彼の容態が悪いこともあって、代わりに二階堂義盛が挨拶の口上を行っていた。自身が紹介されたことで顔を上げた蘆名盛氏であるが、その顔色に織田信忠は目を剥く。顔色は青を通り越して、土気色といっていいからである。その顔を織田信忠の脇から見た義頼は、内心で死相が出ていると判断していた。

 流石に織田信忠も心配となり、すぐに休むようにと申し付ける。蘆名家の処遇については蘆名盛隆が臣従しているので、今さら問題にもならないからだ。蘆名盛氏としても、休めといわれたのは非常にありがたい。彼は、蘆名家重臣で一門衆でもある針生盛信はりゅうもりのぶの肩を借りて、寝所へと向かっていった。


「ふむ。かなり悪いようだな」

「医者にも診て貰っているのですが、あまり捗々はかばかしくはないようでして」

「……殿。少しよろしいでしょうか」

「何だ義頼、いうてみよ」

「は。その前に信濃守(二階堂盛義)殿、これは確認なのだが蘆名家に左京亮(蘆名盛隆)殿の他に子はいないと思っていたが、相違ないか?」

「よ、よくご存じで。確かに、蘆名家には修理大夫(蘆名盛氏)様の養子となった我が子意外には、男児はおりません」

「そうか。養子とはいえ、死が間近まで迫っている父親に一目だけでも会えないというのも、これはまた哀れというか」


 義頼が蘆名盛氏の家族構成を聞き及んだあと漏らした言葉を聞き、二階堂盛義が驚きの表情をする。だがそれ以上に、義頼が蘆名盛氏の死を予測したかのような言葉を漏らしたことに絶句した。

 それは彼だけでなく、この場にいる織田信忠も池田恒興も、そして軍監の堀秀政ほりひでまさも同じである。驚きが辺りを支配する中、織田信忠が言葉の意味を尋ねる。すると義頼も、その答えを返していた。


「義頼、それはどういう意味だ?」

「そのままの意味にございます。勘、みたいなものですが、修理大夫殿はそう遠くないうちに身罷みまかりましょう」

「な! 何ゆえ、そのようなことが分かります!!」

「信濃守殿。先もいった通り、勘みたいなものです」

「ふむ。もし本当ならば、確かに哀れか。義頼、自信を持っていえるのか?」

「十割、とは申せませぬ。ですが、十中八九じゅっちゅうはっく間違いはないかと」

「そうか。ならば、我の命で盛隆を一度戻してやろう。無論、父上の了承を得てだが」


 織田信忠の言葉に、彼と義頼以外が驚く。しかし織田信忠は頓着せず、進めていった。こうなると、反対する意味がない。池田恒興も堀秀政も、織田信忠の命に従い粛々と進めていった。

 一人置いていかれてしまったのが二階堂盛義であるが、彼にも仕事はある。それは、蘆名一門についてであった。

 確かに蘆名盛氏には男子がなく、現当主の蘆名盛隆に至っては彼がまだ若いということもあって一人の子供もいない。こうなると、一門衆にまで広げる必要がある。もし織田信忠がいった通り蘆名盛隆を前線から呼び戻すとすれば、代わりに蘆名家の軍勢を纏める人物が必要となるからだ。

 今までは養父の蘆名盛氏がいたので、どうとでもなっていたのである。しかしその蘆名盛氏の容体が、捗々しく悪いのだ。これでは、今までのように彼を代理とする訳にはいかず、代わりとなる人物が必要だった。

 蘆名の領地自体は、「蘆名の執権」とまで称される金上盛備かながみもりはるがいる。金上家も一門衆であるので、彼を派遣しても問題とはならない。しかし彼には、蘆名領を守るという役目があった。他にも一門衆として猪苗代家もあり、思う程には人材に困らないのだ。流石は陸奥国南部、会津地方を治める大名蘆名家といえる。ただ猪苗代家は独立傾向が強く、軍勢を任せるには少々問題があった。


「しからば殿。修理大夫殿に付き添っていたあの者でもいいのでは?」

「恒興。そのような者が……ああ、いたな。義頼、何といったか」

「針生殿と申したかと。確か、針生民部盛信殿であったと記憶しています」


 針生家は、蘆名盛氏に近い家である。針生家の家祖は、針生盛幸はりゅうもりゆきといった。その彼の父親は、蘆名盛滋あしなもりしげという。そして彼は、蘆名盛氏の伯父に当たる人物であったのだ。

 蘆名盛滋は蘆名家十四代目当主であったのだが、残念なことに子がなかったのである。そこで仕方なく、蘆名盛氏の父親である蘆名盛舜あしなもりきよへ家督を譲って隠居したのだ。

 だがその隠居中に、蘆名盛滋に男子が生まれたのである。しかし蘆名家の家督は、前述した通り弟の蘆名盛舜へ譲っている。既に蘆名家の家督を継げない身分となっていたので、その男児は成人すると新たに針生家を興したのだ。

 その針生盛幸の孫に当たるのが、針生盛信である。つまり蘆名盛氏から見れば従甥じゅうせいとなり、蘆名盛隆から見れば義理だがまたいとことなる。つまり血筋的に蘆名宗家に近いので、蘆名盛隆の代理とするならば十分であった。

 こうして選ばれた針生盛信は、織田信忠の命により一時的に蘆名家の軍勢を率いることになる。また織田信長の方も、義頼のいったことが本当に当たるのかどうかがおもしろそうだと内心で考え許可を出したので、針生盛信が代将を勤めるという案件は罷り通ることとなった。

 この件に際し「蘆名の執権」こと金上盛備は、当初内心難色を示す。蘆名家で辣腕を振るい権勢を持つ彼からすれば、蘆名宗家に近い針生家が邪魔だからである。これは針生家側も同じであり、表立ってはいなくとも蘆名家中において両家の仲はあまりいいものではなかった。

 だからといって、今回の件に関して文句をいうことがはばかられる。既に蘆名家は織田家に臣従しており、その織田家当主の命であるからだ。金上盛備もここは諦め、表面上は何ら変わることもなく、粛々と命を履行するべく動く。蘆名の四天とまで称された四家老と共に、蘆名盛氏の容体が悪いことを原因とする家中の動揺を治めつつ、針生盛信が遺漏なく役目を履行できるよう環境を整えていった。

 こうして針生盛信は前線に向かい、その代わりに蘆名盛隆が一旦帰国したのである。幸い、織田家によって陸奥国南部は鎮定されているので、それほど多くの家臣や兵を連れて移動する必要もない。それでも最低限の警戒の中須賀川城へ入った蘆名盛隆は、すぐに蘆名盛氏の元へ通される。半ば慌てての目通りとなった理由は、いよいよ蘆名盛氏の容体が末期を迎えていたからであった。

 何とか医者が持たせているといった状態であり、それも一両日持つかどうかといった次第である。正に寸でのところで蘆名盛隆は、間に合ったのだ。


「義父上!」

「……お、おお……盛隆」


 蘆名盛隆の声に、蘆名盛氏はゆっくりと目を開き、続いて声を絞り出す。その声にも、そして雰囲気にも覇気は感じられなかった。在りし日の義父を知る彼に取り、その状態は信じられない。しかし弱々しく寝ている人物は、間違いなく義父である。そんな蘆名盛氏の手を握りしめながら、蘆名盛隆は枕元に座った。


「間に……おうてくれ……たか……これ、は……参議(織田信忠)様に……いやさ、殿へ感謝……をするべき……だな」

「義父上。弱気なことを。まだまだ拙者を叱り、そして導いてくださりませ」

「そうしてやりたい……のは山々……だ。しかし……残念ながらもう無理だ……」

「義父上!!」

「今後、は……盛備や盛国……盛信などの一門衆……並びに平田舜範ひらたきよのりら家臣を……よく使い……領民の為、家中の為……それから……織田家の……天下の為に尽力しろ……よいな!」

「は、はい!」


 最後の最後で力強く述べた蘆名盛氏の言葉に釣られるように、蘆名盛隆も力強く返答する。その言葉を聞き満足そうな表情を浮かべると、蘆名盛氏の目が静かに閉じていった。

 数えで二十一の時に父親の蘆名盛舜より家督を譲り受けてより、田村家や佐竹家、二本松家など周囲に存在した家との戦に明け暮れながらも、領地を拡大し続けた人生が漸く終わりを迎えたのだ。

 享年六十、耳順じじゅんの年であった。

織田信忠が出陣しました。

それと、会津の雄、蘆名盛氏が亡くなりました。


前書きにも書きましたが、新連載を始めました。

タイトルは「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」です。

ジャンルとしては異世界転移(憑依)物となります。

こちらも合わせて、よろしくお願いします。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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[良い点] ここで退場はある意味ラッキーですね 仕置きと冷害の苦労考えたら
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