第二百七十一話~陸奥国戦線北上す~
お待たせしました。
陸奥国南部での戦、決着です。
第二百七十一話~陸奥国戦線北上す~
南部家の軍勢と共に岩城家と相馬家、ついでに結城義親に付き従った一部の結城勢が船に乗り北湊(相馬港)から海へ乗り出した頃、小峰城へ入っていた柴田勝家旗下の織田勢第一陣による白河結城家領地の鎮圧が終わりを見せていた。
既に結城義親もこの地にはなく、代わりに先代となっていた筈の結城義顕が新たな白河結城家の当主となっている。しかもこの当主交代については、日の本最大の勢力を持つ大名家となる織田家が承認しているのだ。
この状況で、結城義親に付いて行かずに自領へ残った白河結城家家臣たちが逆らう筈もない。結城義顕名義の書状を携えた軍使が到達するや否や、彼らは逆らう姿勢すらも見せずに降伏していた。ゆえに噂が白河結城家領内に広まると、軍使の到着など待てないとばかりに我先に彼らは降伏していく。そのような経緯もあって、順調に白河結城家領内の鎮圧……鎮定が終わりを迎えていた。
こうして白河結城家領内の治安が安定を見せた頃、柴田勝家は岩槻城から宇都宮城へ移動していた織田家本隊へ、戦の詳細を記した書状と共に軍使を派遣する。その任を帯びたのは、柴田勝家の甥となる柴田勝豊であった。
やがて宇都宮城へ到着した柴田勝豊は、織田信長と織田信忠の親子に加えて十六代将軍の足利義信と面会する。実情は別にして名目上は、将軍位にあるこの三人が軍勢を率いているという形を取っているからである。しかして実際には、年齢と戦の経験も相まって織田信長が総大将と目されていた。
そのような暗黙の序列もあってか、先ずは織田信長が書状に目を通す。続いて織田信忠が、最後に足利義信が目を通していた。
「つまり勝家は、小峰城まで兵を進めろというのだな」
「は、ははっ」
「ふむ。まぁ、よかろう。数日後には移動を開始する」
「御意」
織田信長からの返答を聞いた柴田勝豊は、すぐに叔父の元へと取って返す。途中で一泊したが、翌日には小峰城へと戻っていた。その柴田勝家であるが、既に次の行動を起こしている。彼は小峰城近郊で行われた戦の結果を織田家本隊だけでなく、名目上は奥羽での同盟家となる伊達家と蘆名家と石川家へと連絡していたのである。そして時を同じくして、岩城家の領地へ侵攻をしていたのだった。
その岩城家領内では、抵抗らしい抵抗は受けない。何せ織田勢の侵攻上に城があっても、人がいる場合は降伏してくるからである。また空城となっている場合もあるが、それならばそもそも抵抗がある筈もない。罠の可能性もあるので慎重に制圧をしているが、今まで一回も罠などは見当たらず、本当に空であった。
予想外に順調な侵攻となり、岩城攻めを任された武田信勝こと頼山勝と上杉景勝は、思いの外順調に岩城家の居城となる大舘城へと到着する。その大舘城には、岩城家の旗印となる連子に月と相馬家の旗印となる九曜紋と繋ぎ馬が翻っていた。
それは即ち、大館城内に岩城家と相馬家の現当主がいるということに他ならない。頼山勝と上杉景勝は、すぐに軍勢を展開した。しかしながら、不思議なくらいに大舘城の動きがみられない。二人は訝しがりながらも、慎重に大舘城を取り囲むべくさらに軍勢を展開している。そこまでされているにも関わらず城からの動きはなく、そのまま大舘城は甲斐武田家と越後上杉家の軍勢により取り囲まれてしまった。
ここまで動きがないと、逆に不気味ですらある。その思いからか、頼山勝と上杉景勝は自身が頼りとする者を呼び出していた。程なくして、武田家からは曽根昌世が、上杉家からは樋口兼続が現れる。すると頼山勝と上杉景勝が、それぞれの家臣に相談をしている。状況を聞き両者は暫く考えていたが、やがて年長の曽根昌世が口を開いて見解を述べた。
「恐らくですが、両家は降伏するつもりではないかと愚考します」
『降伏だと?』
「はい。頼山勝様、関東管領(上杉景勝)様」
「なれば、早々に使者でも送ってくればよいではないか」
「頼山勝様。まがいなりにも両家は、織田家に刃を向けました。多分、切掛けが欲しいのではいかと思われます」
武田家家臣の曽根昌世の言葉を聞いて、黙っていた上杉景勝が自身の家臣となる樋口兼続へと尋ねていた。
「兼続、切掛けとは何だ」
「それは勿論、降伏する為にございます」
「結局のところ、降伏か……いかがする、頼山勝殿」
「こうなれば、武田と上杉の連名で降伏を促すとしよう。昌世と与六(樋口兼続)殿のいう通りならば、降伏もしよう」
「そうですな」
こうして、甲斐武田家と越後上杉家の連名という形で使者が送られ、岩城家と相馬家に対して降伏勧告が行われた。
一方で降伏勧告の書状を受け取った岩城常隆と相馬義胤だが、いよいよだと覚悟を決めていた。勿論、織田家に抵抗するという覚悟ではない。それぞれの父親であり、同時に先代当主となる岩城親隆と相馬盛胤が残したいわば遺言ともいえる言葉に従い、織田家へ降伏するのだ。
二つに分けられた織田家の大軍勢のうち、先鋒を勤めた彼の家の筆頭家臣となる柴田勝家と干戈を交えたことで武士の意地は見せている。確かに負け戦であるが、ここで問題なのは抵抗する意思を示したということなのだ。勿論、勝てるのであればそれに越したことはない。だが、先の戦の経験したあとでは、負けて当然だと思えるようになっていた。
やはり致命的だったのは、大砲の存在である。あのようなものがあれば、戦の形態が変わり今までの戦のやりようが通じなくなる。実際、今までの戦と対して変わらない戦いをした自分たちが破れているのだ。つまり、自身の経験から導き出された結果である。流石に、この事態を否定する気にはなれなかった。
「では、よろしいな。左京大夫(岩城常隆)殿」
「長門守(相馬義胤)殿。この段になって、反故にする気などない。ましてや、遺言といっていい言葉を父から託されたのだ。なおさらに、裏切るつもりはない。それは左京大夫殿、貴公も同じであろう」
「その通りだ」
ここに、岩城家と相馬家は織田家に降伏する。その後、送り出した降伏勧告の使者と共に岩城常隆と相馬義胤の二人が甲斐武田家と越後上杉家の陣へ現れる。頼山勝と上杉景勝の前に現れた両名だったが、二人は堂々としている。そして媚びることもなく、粛々と年上となる相馬義胤から降伏の口上を述べていった。
だが、岩城家と相馬家の先代当主となる岩城親隆と相馬盛胤が一部の兵を率いて離反したという個所を聞いた両名は、揃って眉を寄せていた。ある意味で強かな戦略、要は家を生き残らせるための知恵ともいえるのだろう。さりとて、今となっては織田に属する者としてはそれを許容することなどできなかったからだ。
「長門守殿、左京大夫殿。そなたらの父親に会えば、容赦なく討つぞ。それでもよいのだな」
『無論』
きっぱりと言い切る岩城常隆と相馬義胤に、頼山勝と上杉景勝も内心で感心する。そこで両名は、降伏した岩城常隆と相馬義胤へ文を添える旨を伝えた。そのことは純粋に両名とも感謝したが、武田家にしても上杉家にしても織田家に戦で敗れ降伏しているので、どれだけの効果があるのかは疑わしいものである。それでも、先鋒を任されるぐらいには信頼を得ている両家の添え状というのだから、悪い話でもないのだ。
それゆえに岩城常隆と相馬義胤は、頼山勝と上杉景勝へ素直に礼をいう。その後、柴田勝家の前へと連れていかれたのだが、そこでも二人は態度を崩さず、また誰に憚ることなく降伏の口上を述べている。程なくして岩城家と相馬家が降伏したという旨は、当然だが織田信長らにも報告されていた。
柴田勝家からの書状を読んだ織田信長は、少し眉を寄せる。彼もそして柴田勝家も、頼山勝と上杉景勝が出した結論に気付いたからである。しかし、その件については添え状が付けられており、そこに岩城常隆と相馬義胤が返答した内容も併せて届けられていた為であった。
「これも一つの覚悟か。いいだろう、降伏は認めてやる。沙汰は奥羽での戦が終了したあとに行うとそう申し伝えよ」
「はっ」
織田信長の判断が、彼へと伝えられた経路を遡る形で柴田勝家へ、そして岩城常隆と相馬義胤へと伝わる。織田信長の判断を聞いた両名は、必ず手柄を立てると内心で決断していた。なお岩城家と相馬家の当主を含む将兵に関しては、柴田勝家に委ねられこととなる。こうして岩城家と相馬家両家の軍勢は、柴田勝家率いる織田家第一陣の先鋒へ変わり、甲斐武田家と越後上杉家の軍勢は岩城家と相馬家の軍勢の後ろ、即ち第二陣となった。
また、宇都宮城にいた織田家本隊だが、柴田勝家の要請通りに小峰城へと移動を開始している。すると押し出される形で、織田家第一陣は本陣を白河城へと移していた。それから間もなく、大舘城から相馬義胤の軍勢が出陣する。彼が向かった先は、相馬家の居城となる小高城であった。
とはいえ、小高城に残っている者などそうはいない。何せ彼らは、相馬盛胤の命を受けて、相馬家の城を守る為に残っているだけの者でしかないのだ。そんな小高城へ相馬家当主の相馬義胤が柴田勝家より援軍と監視の役を合わせた形で付けた浅見道西と共に軍勢を引き連れて現れたのだから、抵抗などすることなく開城して降伏していく。そもそも、相馬義胤が現れたら開城して降伏するようにと相馬盛胤から彼らはいい含められている。そんな者たちが、今さらになって抵抗するという選択をする訳がなかった。
こうして、無傷で小高城へと入った相馬義胤と浅見道西は、相馬領内の治安維持に奔走する。とはいっても、浅見道西に地の利はないので実情は相馬義胤のみであった。また岩城家領内では、岩城常隆も同様に奔走している。当然のように監視は付けられており、岩城家には毛受勝惟が付けられていた。
なお居城の開城時期の関係もあって、岩城家領内の鎮定が先に終わる。すると、白河城より柴田勝家率いる織田家第一陣が大舘城へと入ったのであった。
その頃、織田信長のいる小峰城へ、蘆名家と伊達家、そして石川家の者が軍勢を率いて訪れていた。しかして軍勢と共に現れたその者とは、それぞれの家の臣下などではない。蘆名家当主の蘆名盛隆と伊達家当主の伊達輝宗、それと石川家当主の石川昭光であった。
さらにいえば、三人の後方に三人程だがやはり平伏している。そして、その三名ともが若かった。
以上のごとく計六人が揃って平伏している部屋に、織田信長と織田信忠、そして足利義信が入ってくる。基本的には同列の将軍位なのだが、織田信長の位階が一番高いこともありさきに織田信長が上座に腰を降ろす。続いて、織田信忠と足利義信が腰を降ろしていた。やがて織田信長から、頭を上げるようにとの声が掛かる。その声に従い三人が頭を上げると、彼らの中で一番年長となる伊達輝宗が口を開いたのであった。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。我ら伊達家、並びに蘆名家と石川家は、織田家に臣従致します。何卒、よろしくお引き回しのほどをお願い致したく存じ上げます」
『お願い致します』
伊達輝宗が降伏し従属する旨の口上をすると、続いて蘆名盛隆と石川昭光が続く。彼ら三家のうちで既に織田家へ従属することに関しては話し合いが成され合意を得ているので、当然ながら異論など出る筈もなかった。
「また、その証として人質を差し出したく存じます」
蘆名盛隆と伊達輝宗と石川昭光の後方に控えていた若い三人は、織田家に従属する証として差し出す人質であった。
伊達家からは次男となる伊達政道が、蘆名家より蘆名盛隆の弟でこの人質の為に急遽元服した二階堂行親が、そして石川家からは義兄となる泉光専が人質とされていた。
しかし実子を人質とした伊達家は別にして、蘆名家とし石川家からの人質が一門衆となったのは勿論理由がある。石川家に嫡子はいるのだが、まだ数えで四才なので人質としては幼すぎる。そして蘆名家に至っては、まだ嫡子がいないのである。そういった経緯で、先の二人が代わりの人質とされたのであった。
織田家としても今さら人質を強要する気はなかったのだが、人質を出してくるというのであればそれは吝かではない。ゆえに断ることなどせず、人質の提出を受け入れていた。
こうして蘆名家と伊達家と石川家を臣従させると、彼らは柴田勝家率いる第一陣へ組み込まれることになる。小峰城を出た伊達輝宗と蘆名盛隆と石川昭光は、軍勢と共に一まず大舘城へ赴く。そこで柴田勝家の軍勢と合流したあとで、形の上では相馬義胤が落としたとなっている小高城へと移動した。
そこで柴田勝家の命により、軍勢を再編する。今まで先鋒となっていた岩城常隆と相馬義胤の軍勢に、織田家に臣従した蘆名家と伊達家と石川家の軍勢を加えたのだ。そして彼らが向かう先だが、名生城となる。この城は、大崎氏累代の居城であった。
織田家の軍勢がこの城を攻めることで、織田家側に立っている葛西氏を救援するのである。それというのも葛西氏の居城となる寺池城は今、落城の危機に瀕していたからだった。
葛西家は、下総国葛西御厨の地を発祥とする家であり、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の出身である。初代となる葛西清重は、秩父氏の分家筋に当たる豊島氏の当主を勤めていた豊島清元の三男に当たる。彼が葛西御厨を所領したことから、葛西の姓を名乗るようになったのだ。
葛西清重は、父親の豊島清元と共に源頼朝の平家討伐に従って挙兵し御家人となる。のちに鎌倉幕府成立後におきた奥州討伐にて功を上げた葛西清重は石巻に新たな領地を賜ると共に奥州総奉行に任じられ、事実上の陸奥国守護となっていた。
しかしその翌年には、奥州総奉行に代わり陸奥国留守職が置かれている。そしてその役職には、伊沢家景が任じられた。すると葛西清元は鎌倉へと戻り、今度は幕府重臣として活躍する。一方で葛西家は、本拠を石巻から寺池に移動する。以降は、寺池城を本拠地としていたのであった。
そしてこの葛西家であるが、大崎家と徹底的に対立している。理由のいかんは置いておくとして、兎にも角にも大崎家と鎬を削っていたのだ。しかもほぼ力が均衡しているらしく、中々に決着が付かなかったのである。しかし、ここでこの流れに変化が起きる。それが織田家と対立した結果、奥州の南部家を頼った古河公方の地位にあった足利義氏の存在であった。
南部晴政が落ち延びてきた足利義氏を受け入れると、大崎家当主であった大崎義隆は足利義氏に味方するという書状を送ったのである。そこには二つの理由があり、一つは犬猿の仲といえる葛西家との戦に決着をつける為である。もう一つは、大崎氏の宗家に当たる斯波家の当代を一度は追放した織田家に降ることをよしとしなかったからであった。
そしてこの一件が契機となり、南部家と大崎家との間に同盟が結ばれることに繋がる。すると南部晴政は、大崎義隆の要請に応えて援軍を送っていた。既に九戸政実を大将とした援軍を陸奥国南部へ送っているにも関わらずである。さらに大崎家へも援軍を送れる辺りは、流石の南部家であるといえた。
援軍として南部晴政は、南部家重臣の東直義を総大将に任じて送り込む。また、表向きは同盟家なる斯波詮直などといった将を援軍に同行させ、軍勢を送り込んだのである。こうして葛西家は、二方向から攻められることになってしまった。
こうなると流石に持ち堪えることは難しく、徐々に押し込まれていく。ついに葛西家は、居城の寺池城に籠城する羽目となっていた。
この状況へ追い込まれた葛西家当主の葛西晴信は、ひたすらに援軍の来訪を待ち籠っているのだが、その気持ちが折れ掛かっていた。それは伊達家と蘆名家と石川家の連合勢が、南部家援軍と相馬家と白河結城家の連合勢に手痛い損傷を負わされたと聞き及んだからである。これでは早急の援軍を望むなど無理に等しく、あとは城を枕に討ち死にするか屈辱の降伏勧告を受け入れるしかないのだ。
ことここに至っては、家を滅ぼすよりはまだ屈辱だが降伏する方がましというものではある。だが、どうしても割り切れない思いがあった。これが攻めてくる軍勢の総大将が大崎義隆でなければ、とっくの昔に降伏という選択をしていたかも知れない。しかし、相手が大崎義隆であるというその一点だけで、降伏という決断ができなかった。それでも、限界はある。そしてその限界は、もう殆ど見えているといってよかった。
「もう、これ以上は無理か……」
「殿、無念にございます」
「いうな、明吉」
葛西晴信へ無念さを漏らしたのは、柏山明吉である。彼は葛西家筆頭家臣といわれる程の力を持つ、有力家臣であった。またこの場には、及川重氏や浜田広綱など、幾許かの葛西家家臣も揃っている。しかも彼らは、一様に悔しさを滲ませていた。果たして、ここに葛西家の転機が訪れる。その知らせを齎したのは、佐々木実綱であった。
「殿! 朗報にございます!! 織田家の軍勢が、結城義親を総大将とする連合勢を破ったとの知らせがございました!」
「何だと! それは真か!!」
「はっ。わが元に、織田家からの密使が参りました」
「そなたの元にだと!? 何ゆえだ」
「その理由は、書状の差出人ゆえにございます」
そう述べたあと、佐々木実綱が書状を差し出す。その書状には、義頼の花押が印されていた。葛西家の状況を鑑み、一刻も早く知らせる為にと急ぎ近江源氏の一族となる佐々木実綱へ書状を送ったのだ。因みに、書状を届けたのは藤林保豊である。彼は義頼直属の忍びのうちで伊賀衆を纏める者であり、葛西家を離反させない為にも重用している彼を送り込んだのであった。
しかしてその書状には、佐々木実綱が言った通りに軍勢を打ち破ったことや、白河結城家と岩城家と相馬家の領地を織田家が粛々と抑えている旨が記されている。並んで、蘆名家や伊達家や石川家が織田家に属することも記してあった。
もっとも、蘆名家や伊達家や石川家が織田家に従属するというのは葛西家でも共有している情報である。いずれは葛西家も、先にあげた三家と同様に織田家へ従属するつもりだからであった。
「そうか……そうかっ! これで、これで義隆ずれなどへ降伏せずに済む。何としても城を堅持し、織田家の来訪を待つ! よいな!!」
『御意!』
およそ、最低に近いところまで下がっていた城内の士気であるが、この知らせを契機にして一気に回復していく。その雰囲気の変化を、大崎家の軍勢を率いる大崎義隆と南部家からの援軍を統率している東直義と斯波詮直は、敏感に感じ取る。特に大崎義隆と東義直は、それぞれが総大将ということもあって、より顕著であった。
このことに、攻め手の大崎勢と南部勢は首を傾げる。何せ、雰囲気というか戦場の空気が変わる切掛けとなったのが、居城に押し込められている筈の葛西勢からなのである。それゆえ士気が落ち込んだ為に空気が変わったというのならばまだ分からないでもないのだが、実際は逆に上がっている。そう。明らかに、寺池城へ籠る葛西勢からの士気が上がっているのだ。
だが、その理由が分からない。少なくとも戦場で味方の有力な将が討たれたなどといった報告がない以上、敵の士気が上がるなどという変化が現れることなどはまずないからだ。とはいえ、これは由々しき事態である。確かに葛西勢を寺池城へ押し込んでいるのだが、まだ決定的な勝利を得たとはいえないからだ。それゆえ居城へ押し込みながらも城を取り囲んで、葛西晴信に籠城を選択させるしかないという手を打ったのである。あとは、葛西勢を心身的に疲労させて降伏か討ち死にかという選択をさせるつもりであった。
しかしながら、あと少しでというところで、いきなり葛西勢の士気が上がるという不可思議な現象が起きてしまっている。これでは、二の足を踏まざるを得ない。少なくとも原因が分かるまでは、迂闊に攻められる状況ではなくなってしまったのだ。
取り敢えず、大崎義隆と東直義と斯波詮直は話し合う。そこで彼らは、何よりも優先して原因を突き止めることで見解の一致をみる。そして原因が判明するまでは、力押しなどという強硬手段は行わないということでも一致する。これにより、すんでのところで葛西家の命運が繋がれたのであった。
岩城家と相馬家は、織田家に降伏しました。
これにより、戦線は北へと移動します。
ご一読いただき、ありがとうございました。




