第二百七十話~岩城家と相馬家~
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岩城家と相馬家、そして南部勢の動向となります。
第二百七十話~岩城家と相馬家~
戦場より撤退した相馬盛胤と相馬義胤親子と岩城親隆や岩城常隆親子は、小峰城ではなく岩城家の居城となる大舘城を目指していた。
もし小峰城に逃げ遂せたとしても、白河結城家の軍勢は手酷く痛めつけられているので持たせることはできないと踏んだからだ。それならば、戦場からより遠い大舘城を集結場所としたのである。以降のことは大舘城に入ってから考えることにして、両家の軍勢は必死に足を進めたのであった。
その一方で混乱した味方を何とか纏め上げた南部家の将である新田政盛も、ことここに至り南部領まで撤退する旨を決めていた。既に軍勢の三割以上は、戦死したか散り散りになるかして失っている。これ以上留まり続けることは、士気の面でも難しいと考えた上での決断であった。
同時に新田政盛は、相馬家や岩城家に対して使者を出している。これは南部領まで退く旨を、味方である両家に知らせる為であった。何とか無事に大舘城まで撤退していた相馬家と岩城家であったが、この知らせに驚きを隠せないでいる。だが、それも当然であった。
既に白河結城家は瓦解しているので、味方として当てにはできない。その状況で、兵の数では一番の主力といってよかった南部家の軍勢が引くとなってしまえば持ちこたえることなどできる訳がないからだ。
「左京大夫(岩城常隆)殿。我らにはもう、選択肢などないぞ」
「長門守(相馬義胤)殿、分かっている。近江守(新田政盛)殿と共に北へ向かい、南部家と合流するより他なかろう」
それはつまり、領国を捨てるということに他ならない。岩城家当主の岩城常隆も相馬家当主の相馬義胤も、長年守ってきた領地を捨てるなど断腸の思いであった。しかしこのままでは、領地もさることだが家すらも滅びかねない。ならば南部家と力を合わせ、勝つ道を模索する方がまだましであると考えたからであった。
勿論、両者とも分が悪いことなど先刻承知している。だが、一矢報いることもなく織田家に押し潰されるなど我慢ならない。それが負け戦への道であったとしても、ここで引くなどできなかった。
「いや、それはならぬ。そなたらは、それぞれの領地に残れ。南部へは……わしと弾正大弼(相馬盛胤)殿がいく」
「しかり」
『ち、父上!?』
思いもかけない父親の言葉に、岩城常隆と相馬義胤は異口同音に驚きの声をあげていた。
それも、そうだろう。
岩城親隆と相馬盛胤は息子たちへ領地に残るようにいい、自身たちが南部家へ向かうといっているのである。想定外の言葉に暫く呆気に取られた岩城常隆と相馬義胤であったが、ほぼ同時に我に返るとそれぞれの父親に詰め寄る。だが岩城親隆と相馬盛胤は、驚くぐらい静かな声で理由を息子たちへ告げていた。
「いいか。義胤に左京大夫殿。北に、南部領に向かうのはいい。だが、女子供、領民は見捨てていくのか?」
『そ、それは……』
相馬盛胤の言葉に、岩城常隆と相馬義胤が言葉に詰まった。
それは即ち、その言葉が正鵠を射ていたことを証明する事実でしかない。実際問題、北に向かうとしても、家臣と兵を連れて行くことが精一杯だろう。家臣の家族までとなると、恐らく時間が足りなくなる。それでは南部領まで行くなど、無理な話であった。
「それにのう。このままでは、家どころか血すらもなくなってしまう。それでは、ご先祖様に顔向けできん」
「……つまり父上は、我らは残り織田に降伏しろということですか」
「そうだ常隆。その方は、長門守殿と図り頃合いを見て織田家に降伏しろ。その後は、恥辱に塗れようとも必ず生き残り、家と血を残すのだ」
「しかし、それでは南部家への義理は果たせませぬ」
「左京大夫殿。我らが向かえば、義理は果たせる。ここは老い先短い我らに任せ、若いそなたらは生きろ」
「そして我らに代わり……戦のなくなった世を見届けてくれ」
『どのような世であったかは、いつか涅槃で聞けることを楽しみにしている』
『父上……』
岩城親隆と相馬盛胤の覚悟を決めている言葉を聞き、息子たちは一言返すのが精一杯となってしまう。そんな状態となってしまった岩城常隆と相馬義胤に向かって、それぞれの父親は透明といっていい笑みを浮かべていた。
二人の息子はもう何もいえず、ただうつむき両の目から涙を流すしかない。岩城常隆と相馬義胤の両名は、もうそれぐらいしかできなかった。そんな息子の頭をそっと抱き、幼い子供にするように優しく頭を撫でてやる。その仕草に岩城常隆と相馬義胤は、まるで幼子のように泣き続けていた。
「さて、あとのことは我らに任せよ。よいな」
「うむ」
『……御意……』
その後、岩城親隆と相馬盛胤はそれぞれの家臣を集めると、これからのことについて話をする。これにより岩城家と相馬家の家臣は、二つに分かれることとなった。そして岩城家と相馬家の大抵の家臣は、岩城常隆と相馬義胤と共に残り織田家に降伏することになる。彼らにしても家を残すという絶対的ともいえる命題を抱えているので、その判断も当然であった。
だからといって、南部家にまで行く者が皆無であったのかというとそうでもない。ある意味で死に場所を求めているといっていい岩城親隆と相馬盛胤に付いて行くという判断をした者たちの大半は、いわゆる老将といっていいような者たちであった。
彼らは岩城親隆と相馬盛胤と共に、若い頃から戦場を掛けてきた武人である。どうせ死ぬならば、長く仕えた主と共に戦場でという者たちであった。それに家督などは、既に息子が継いでいる。その息子たちも領地に残るものが殆どなので、家が潰れることを考える必要もない。その意味では気楽でもあり、自分の気持ちに素直に従えるのだ。
「……はぁ、全く。揃いも揃って、こんな老人どもとは」
「全く、酔狂といえますな」
「御隠居も、左京大夫様もそう申されますな。何より酔狂なのは、同じにございましょう」
そう岩城親隆と相馬盛胤にいったのは、志賀甘釣斎である。彼は剃髪しており、以前は志賀武治と名乗っていた。彼は岩城家の臣として、佐竹家や伊達家との外交を主に担っていた重臣である。その志賀甘釣斎も、岩城親隆と共に南部家まで同行することを決めた男であった。
「なるほど。確かに」
「全くだな、甘釣斎」
その後、三名は一頻り笑いあう。その笑いにつられるように、他の老臣が笑っていた。こうして岩城家と相馬家の方針を決めたその一方で、南部領に向かう岩城親隆と相馬盛胤は新田政盛宛に返書を認めている。配下の者の知らせにより、南部家の兵が整然と移動していることが判明したからである。てんでばらばらに逃げているのならばまだしも、負け戦をしかも主要な将を三人も失っている南部家の兵が規律を守って移動するなど率いている者がいるに他ならないからであった。
その後、続報により旗印から南部家の兵を率いている人物が新田政盛だと判明したという訳である。すぐに書状を認め、そこに相馬家と岩城家の動向を書き連ねたのだ。なお、その書状には岩城常隆と相馬義胤のことは触れていない。領地に残し以降のことは関わらせないと決めた以上、たとえ書状であっても名を出す気はなかったからだ。
その後、岩城親隆と相馬盛胤は取る物も取り敢えず、北へと向かう。一刻でも早くとの考えから、岩城親隆と相馬盛胤は岩城家の水軍を使い相馬家の居城となる小高城へ向かったのであった。
話を少し戻し、結城義親が総大将となっていた連合勢を打ち破った柴田勝家の動向はというと、軍勢を再編した上で小峰城へと進軍していたのである。やがて同城を取り囲むと、結城義顕を呼び寄せていた。程なくして現れた彼に対し、柴田勝家はある提案を提示する。それは、小峰城の制圧であった。
城には多少兵などが戻ってはいるが、小峰城内に彼らを取り纏めるような有力な将がいる様子はない。逃げ遅れた為に他に行くところがないので、城に籠っているというだけでしかない者たちなのであった。彼らも本音のところでは逃げ出したいのだが、織田勢によって城の周囲を十重二十重に取り囲まれてしまっている。この状況下では、逃げ出すこともままならなかった。
もはやどうにもならないといってよく、城の運命は風前の灯火である。大軍を擁する柴田勝家があと一押しでもしてやれば、それだけで運命は尽きるだろうことは想像に難くなかった。
しかし柴田勝家は、あえて自身が攻めるという判断をしなかったのである。その代わりとして指名されたのは、結城義顕である。柴田勝家が彼に攻めさせようと考えた理由は、白河結城家の内紛に原因を求められた。
嘗ては白河結城家の当主でありながら一門衆となる結城義親によって追放された結城義顕が、兵を率いて自身を追放した結城義親の居城を攻める。これは即ち、白河結城家の当主に再び結城義顕が返り咲いたという旨を内外に知らしめることができるからだ。
どのような経緯を辿ろうが、自身が抱える兵力で当主の座を取り返したという事実が重要なのである。たとえそれが、織田家によって演出された茶番劇に近いとしてもであった。もっとも柴田勝家より提案を受けた結城義顕は、そのようなことに気付いていない。彼を襲った身の上は兎も角、まだ若いという現実が気付かせなかったのだ。
「真に、よろしいのですか!?」
「うむ。小峰城を落とさば、家の内外に明確な形で示すことができよう」
「あ、ありがとうございます!! では、早速にでも!」
興奮冷めやらずといった風情で立ち上がった結城義顕は、すぐに自陣へと戻って行く。そんな彼を見送りながら、柴田勝家はまるで好々爺かと思うような笑みを浮かべていた。しかし内心では、「まだ若いな」と結論付けている。勿論、既に老将の域にまで達している彼が、そんなことをおくびにも出す筈もなかった。
一方で柴田勝家の前を辞した結城義顕は、機嫌よさげに自陣へと戻っている。いまだに仕えてくれている数少ない家臣を集めると、彼らに出陣する旨を告げたのであった。いきなりとも取れる出陣の宣言に、家臣の一人である芳賀晴則が理由を問い掛ける。すると結城義顕は、その理由を告げた。
その話を聞いた芳賀晴則や郷朝之は、柴田勝家の思惑に気付く。とはいえ、ここで自らが働き当主の座を取り返したという事実は大きい。ならば、そのお膳立てに乗るのも悪くはないとして反対しなかった。
こうして城攻めへと移った訳だが、前述したように小峰城からの逃げ道はない。しかも結城義顕は降伏勧告など行わなかったので、小峰城に籠った兵は死に物狂いで抵抗した。たとえ将がいなくても、戦い方を知らないという訳ではない。しかも掛かっているのは、自身の命である。生き残りたいという原始的ともいえる欲求に従い、すべからず彼らはよく戦う。その為、結城義顕旗下の兵は思った以上の損害を被ることとなる。それは、寡兵の敵から与えられたとは思えない被害であった。
だが、所詮は少数である。そういつまでも、耐えられる筈もない。疲れが溜まった者から一人、また一人と討たれていってしまう。そうこうしているうちに、小峰城は結城義顕の手に落ちることとなる。これにより、およそ八年前に始まった結城義顕と結城義親による白河結城家の家督相続争いは、一応であったとしても決着の日の目を見たのであった。
なお結城義親であるが、実はしっかりと生き残っている。彼は小峯城には撤退しておらず、新田政盛が率いている南部家の軍勢に紛れて南部領へ向かっていたのであった。
戦場より撤退した南部家の軍勢が向かっていたのは、相馬家の居城である。相馬家と岩城家の軍勢との連絡が取れたことで、小高城にて集合することになっていたからだった。もっとも、連絡が取れなかったとしても新田政盛は、小高城を目指したのは間違いない。彼が向かっていたのは、正確にいえば小高城ではない。城より北に存在する北湊(相馬港)であった。何せそこには、南部水軍の船が停泊しているのである。何ゆえに南部水軍の船が停泊しているのかというと、彼らが南部家より派遣した援軍を運んでいたからだ。
南部家の援軍が相馬家や白河結城家、岩城家への援軍として向かうにはどうしても伊達家が邪魔だったのである。しかも伊達家は、そう簡単に撃破できる弱小の家でもない。南部晴政も戦をしたところで負けるなどとは露ほどにも思っていないが、ここで伊達家の軍勢と干戈を交えてしまえば軍勢の南下などまず無理である。そこで彼は、南部水軍を使って援軍を送り出すことにする。その援軍を乗せた南部水軍の寄港先が、北湊だったのだ。
つまり、織田家側に付いた伊達家と蘆名家を中心とした連合勢を撃破していない以上、南部家へ戻るには南部家の水軍衆を使うしかない。そして結果として負けてしまった南部家の軍勢にとり、彼らが向かう先など北湊しかなかった。
幸い、蘆名家と伊達家を中核とした連合勢の立て直しが終わっていなかったことと、柴田勝家が追撃よりも白河結城家の所領掌握を優先させたこともあって、比較的容易に南部勢も撤退を行えていた。
「どうやら、問題なく小高城までつけるか。その後は船に乗り、南部領まで戻るしかない」
「殿。小高城が見えてきました」
「うむ。先駆けを送り、我らの到着を伝えるぞ」
「御意」
情報などが交錯している関係から、しっかりと連絡を入れておかねば下手をすると同士討ちという事態にすらなりかねない。そのようなことを避ける意味でも、ここは連絡を取っておく必要があった。何より、負け戦の直後である。何かがあったとしても、何ら不思議なことではないのだ。
程なくして、先駆けとして出した使者が戻ってくる。その者から、城には岩城親隆と相馬盛胤がいることが告げられる。だが、相馬家の当主である相馬義胤の姿がないという報告には首を傾げる。しかし、先代とはいえ相馬盛胤がいるのならば問題はないだろうとして、新田政盛は進軍した。
ある程度小高城に近づくと、そこには木幡継清が待っていた。彼は相馬家の重臣であり、そして相馬盛胤の南部領行きに賛同した家臣でもある。その彼の案内で、新田政盛は小高城へと到着する。同城の大手門では、何と相馬盛胤と岩城親隆の出迎えを受けたのだ。
「これはこれは。両将の出迎えとはこの盛政、嬉しく思う」
「よくぞ、無事であられた。流石は近江守殿」
「しかり」
「それは過分な言葉。それよりも、弾正大弼殿。申し訳ござらぬが、休ませてはいただけぬか?」
「無論、否などありませぬ。どうぞこちらへ」
その後、相馬盛胤の案内で城内へと誘われた新田政盛率いる南部勢は、歓待を受けた。敗戦後ということで宴にこそならなかったが、それでも何とか逃げ遂せてきた彼らからすれば十分である。そして新田政盛はというと、相馬盛胤と岩城親隆と共に今後について話し合っていた。
「しからば、貴公たちが同行すると」
「うむ。南部家には、援軍や兵糧を送ってもらった。残念ながら勝ちを掴み取ることはできなかったが、せめてその恩を返さねば面目が立たぬ」
「弾正大弼殿のいわれる通り」
新田政盛も、馬鹿ではない。彼らがいっていることが、言葉通りの意味だけではないことに気付いていた。その理由はいうまでもなく、相馬義胤と岩城常隆がいないことである。確かに相馬盛胤も岩城親隆も、一廉の将ではある。しかし彼らは隠居した身分であり、当主ではないのだ。
ここにいるのが彼らだけでなく、相馬家と岩城家の現当主がいれば話は別である。しかし彼らの姿は皆目見当たらず、しかも隠居した筈の先代がまるで当主であるかのごとく振舞っている。これだけ揃えられれば、否が応でも気付いてしまう。彼らはある意味で、捨て駒を買って出ているのだということに。
相馬盛胤と岩城親隆は、先にも述べたように将として抜きんでているといっていい。その二人が負け戦のあととはいえ、南部領まで来訪すれば様々な意味で面目が立つ。それは両家の現当主である相馬義胤と岩城常隆が、領地に残り同行しない理由ともなるのだ。
だが、ここでの増援は有難いともいえる。援軍として赴いた南部兵の三割以上離散してしまった分を、これで取り返すことができるからだ。それに新田政盛としても、彼らの行動を理解している。もし自分が彼らの立場であれば、同様の行動をしていたかも知れないからである。それだけ彼らにとって家というものは、大きくそして重いものであった。
「……分かりました。南部家は、その申し出を歓迎します」
「おお! 次こそ、織田を屠りましょう」
「今度こそ、岩城の力を、相馬の力を見せましょうぞ!!」
表面上は喜色を表す岩城親隆と相馬盛胤を見つつ、新田盛政は小さくため息を付いたのであった。
それから二日後、新田政盛率いる南部兵は南部水軍の船に、岩城親隆率いる岩城兵は岩城水軍の船に、そして相馬盛胤率いる相馬兵は相馬水軍の船にそれぞれ乗り込み、一路北へと進路を向ける。これにより戦線は、陸奥国南部から陸奥国中北部へと移動したのであった。
岩城家と相馬家は二つに分かれ、現当主らは織田家に降伏を、先代当主らは南部家へ向かうこととなりました。
これも、一つの生存戦略です。
ご一読いただき、ありがとうございました。




