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第二百六十七話~戦前の一時~

お待たせしました。


なお、戦はまだ始まってません。


第二百六十七話~戦前の一時~



 織田信忠おだのぶただに対して秋田城介の官職と、正四位上征狄大将軍という新たな官位がたて続けに補任ぶにんされた同月の末、六角家では慶事を迎えていた。いよいよ臨月となっていた月姫が、玉のような男児を出産したのである。これまで戦が多く、あまり実子の誕生に立ち会える機会に恵まれなかった義頼ではあるが、今回の出産には立ち会うことができた。

 嘗て初めて立ち会ったときは酷く落ち着かない様子であったが、流石に年月を重ねたこともあってそのような雰囲気はない。だが、完全に落ちつけたのかというとそうでもない。用もないのに庭に出て歩き回ってみたり、腰を降ろしたかと思うとすぐに立ち上がったりとやはり落ち着かない様子であった。

そんな中でも時は過ぎていき、やがて月姫は無事に出産を終える。知らせを受けた義頼は、すぐに月姫の元を訪れた。部屋に入ると、月姫の傍らには赤子がおくるみに包まれて眠っている。起こさぬように覗き込むと、その赤子は聞いた通り男児であった。静かに眠っている自分の息子を、満足そうにみる。それからゆっくりと隣に視線を向けると、そこには疲れ切ってはいるが同時にやり遂げたという顔をしている月姫が布団に包まれていた


「でかしたぞ、月。玉のようなおのこだ」

「はい。ありがとうございます。して殿、お名前をお付けしていただきたく思います」

「うむ。この子の名は、景雲丸けいうんまるだ!!」


 景雲とは、景雲飛という言葉から取ったものである。景雲飛とは、空にめでたいとされる雲がひるがえり、辺り一面がめでたいものであるかように映るさまである。そこから義頼は、自分の子供が幸運に恵まれるようにと思い名を授けたのだった。


「景雲丸ですか。よき名です」

「で、あろう」


 月姫の言葉に片目を瞑りながら答えた義頼は、静かにしかし力強く眠っている景雲丸を抱え上げる。しかし景雲丸は頓着せず、眠り続ける。この様子に、義頼や月姫は笑みを浮かべていた。その後、景雲丸は兄姉にも対面する。義息であり事実上の庶長子でもある井伊頼直いいよりなおや嫡子の鶴松丸つるまつまる以下兄姉たちも、新たな弟に喜色を表していた。

 この新たな子供の誕生は、義頼は無論のこと、祖父となる北畠具教きたばたけとものりや伯父となる北畠具房きたばたけともふさも喜びをあらわにする。まして六角北畠家(北畠具豊きたばたけともとよが継いだ本家北畠家と区別する為の呼称)では、三年前に北畠具房に嫡子が生まれていたこともあり、喜びを新たにしていたのである。何より北畠具教からすると初孫であり、その意味では彼が一番歓喜していた。

 こうして新たな家族を迎えてから一月後、義頼は家族を伴い初宮参りへ出かける。向かった先は六角家の氏神でもある少彦名命を祭る沙沙貴神社となる。なお、この一行には北畠具教以下、六角北畠家の面々も加わっている。彼の家は、家臣であると同時に親戚ともなるので当然といえた。とはいえ、彼らだけで来ている訳ではない。当然ながら護衛として、藍母衣衆の面々も同行していた。

 当然だが、一行は全て正装している。その材質は絹で作られており、これは領内で行われた殖産によって増産されたものを使用している。材質としてはまだ唐(中国)の物にはまだ及ばないまでも、販売するには十分に仕上がっていたのだ。

 実際、義頼は織田家と兄の高家六角家へ上納している。すると織田家も、そして高家六角家当主となる六角承禎ろっかくしょうていも、一部を朝廷へ貢物として納めていた。

 何はともあれ、神主より景雲丸は祈祷を受ける。因みにこの神主も、実は佐々木氏の分家筋となるのであった。その後、無事に初宮参りを済ませると、一行は沙沙貴神社の一角を借り初宮参りが無事に終えられたことを祝っていた。祝い事ということもあって酒が入っていたが、そもそもからして宴会ではない。彼らは楽しそうであっても、羽目を外したかのように騒いではいなかった。それでもおよそ二刻ほど、彼らはどちらかといえば控えめに祝っていたのである。そのやや控えめな宴も終えると、一行は沙沙貴神社より辞してそれぞれ家へと戻ったのであった。





 夏の暑い盛りも過ぎて秋もたけなわとなった頃、今は亡き蒲生定秀がもうさだひでより申し出のあった孫娘に当たるとら姫の輿入れが行われた。この話自体は既に織田家へ知らせており、許可は得ている。お犬の方以下、六角家の奥でも納得ずくの話であり、こちらも問題はなかった。

 彼女の輿入れは側室としてであり、決して派手とはならない。しかし、義頼を幼き頃より傅役として傍で支え続けた蒲生定秀の孫娘の輿入れである。その上とら姫は、織田信長おだのぶながの娘婿である蒲生頼秀がもうよりひでの妹である。ゆえに派手さはないが、貧相でもなく中々に趣味の良さを併せ持つ輿入れであった。

 その夜、義頼ととら姫は初夜を迎える。特にとら姫にとって義頼は、幼少のみぎりよりあこがれていた存在である。彼女は喜びのうちに、義頼によって手折られたのであった。

 とはいえどうしてこの時期に輿入れが行えていたのかというと、実は織田家がまだ奥羽へ進軍はしていなかった為である。だが奥羽への諸大名へ調略を続けており、同時に兵糧等を調えていた。機を見れば敏な動きを見せる織田信長にしてはかなり慎重であったが、もちろんこれには理由がある。その理由だが、幾つかあった。

 関東への遠征と九州への遠征という大戦が、たて続けにあったことが一つある。そして、帝からの要請により行った馬揃えにもあった。幾ら日の本の大半を抑え、経済的にも膨大な織田家といえども限界はあるということである。しかし厳密にいえば、織田家の経済が限界を迎えている訳ではない。徴収など行えば、戦を行うことは可能であった。しかし織田信長と織田信忠は、そのような戦をよしとしなかったのである。

 確かに天下統一は悲願ではあるが、その為に民を困窮させては本末転倒であると考えたのだ。そこまで無理をするならば、侵攻時期を延ばして戦の体制を万全に調えてから行う方がいいとしたのである。つまり、無理をしてまで今年中にする戦ではないと判断したのだ。

 だがそれ以上に気になったのが、欧州というかポルトガルの動向である。事実上、織田家に脅されたアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、九州へ戻らず京に留まり動いているのは、義頼の放った忍びを通じて調べがついている。彼らの動いているその内容まではあまりにも勝手が違う為に判明していないが、その雰囲気から織田家側にとり不具合となる動きには見えなかった。

 だからといって、油断はできない。嘗て竜造寺家が肥前国の統一を目指して起こした一連の戦の際、一度だけだが前述した通りポルトガルの船団が派遣されているのだ。その派遣が今一度行われれば、織田信長と織田信忠は外つ国からの侵攻と判断する気なのである。そのような事態が発生すれば、奥羽への侵攻など中断しなければならない。それこそ、織田家が全力を挙げて迎撃するつもりである。だからこそ、体制はしっかりとしておく必要があった。 

 これらの点を鑑み、奥羽への侵攻を同年に行わず翌年へと延ばしたのである。その延ばした時間の分だけ、しっかりと戦の準備を行うつもりであった。この方針に従い、義頼も配下の忍びを動かしている。しかし、四六時中仕事がある訳ではない。何より今は、戦への準備期間となっている。家臣に遺漏なきようにと命じているが、そこは完全に任せていた。

 だからこそ、この時期にとら姫の輿入れを行ったのである。天下統一の最後の戦となるかはまだ分からないが、大戦になると義頼は判断している。もしならなかったとしても、遠征は大規模となるし時間もかかるのは間違いない。その前に、亡き蒲生定秀のある意味で遺言でもあったとら姫の輿入れを終わらせたのであった。

 こうしてとら姫の輿入れを終わらせた義頼は、忙しくも暇となるこの時期に色々なことをしていた。織田家に降伏後、彼はそれこそ方々に主に戦の為であったが派遣されている。その際、義頼はその派遣された地の風土などを記していた。

 元々、地の利等を生かす為に、現地の風土などについて詳しく知る必要がある。その情報を集める為に忍び衆を駆使していたこともあり、その手の情報を集めることは比較的容易かったという事情もあった。

 しかしそのままではただの報告書であり、面白いものではない。そこで義頼は、各地の風聞や風土を編集して物語風に仕立て上げていたのだ。これ自体は前より行っているのだが、正直にいうとあまり進捗していた訳ではない。しかし去年の九州遠征前の頃やこたびの時期には、進捗することができていた。

 もっとも、およそ十年分以上に渡って集められたものであり、最新のものまでは全く追いついていないのが現状である。しかし、別に直ぐに完成させなければならないものではない。義頼は、のんびりとそれこそ一生掛けてでも完成させるつもりであった。

 その時、ふと義頼は外を見る。庭には秋の日差しが降り注ぎ、長閑のどかでもある。その柔らかな日差しに、屋敷内にいるのも惜しい気になっていた。


「ふむ。こうして書に纏めているのも悪くはないが、出かけるのもまたよしであろう。前に鶴松丸と約束した釣にでも行くか……どうせならば、皆で行くのもいいな。誰かある」

「はっ」

「皆と共に釣りに行く、用意をせい」

「御意」


 その後、義頼は自身がいったように家族と共に釣へと出かけた。

一行が向かった先は、愛知川近くにある垣見城であった。この城は永田栄俊ながたひでとしの城である。元は六角家家臣であったが、今は織田家直臣となり近江衆の一角を担っている。当然ながら、近江衆を纏める義頼の配下でもあった。

 その垣見城に入ってから暫く休んだあと、義頼たちは愛知川へと向かいそこで釣りを始める。義頼と庶長子扱いとなる井伊頼直と嫡子の鶴松丸は愛知川にて釣を行っていたが、他の家族は河原にて遊んでいた。そのうち、寿亀丸としかめまるがまとわりついてくる。そこで義頼は、自分の膝上に座らせると寿亀丸は、とても喜んでいた。

 元々、活発な子供でもあるのだが、今は大人しく義頼の釣りを見ている。少し不思議そうな顔をしているので、恐らくは釣についてよくわかっていないのだろうと思われた。だが寿亀丸にとっては、父親の膝上に座っているだけでも嬉しかったのである。だからこそ大人しく、義頼の釣りを見ていたのだ。

 だがそれも、義頼に釣果がなければすぐに飽きていただろう。しかし義頼はそれなりに釣り上げており、寿亀丸が飽きるということはなかったのだった。

 大体夕方前ぐらいまで釣などの川遊びを行ったあと、一行は屋敷へと戻る。その後、夕餉を終えると、子供たちは遊び疲れたのか早々に眠りについていた。遊びに行った子供たちは、誰もが皆満足そうな笑みを浮かべながら眠っている。そんな子供たちの様子に、義頼やお犬の方などといった母親たちも満足そうに頷いていた。

 そのようなことをしつつも、義頼自身は己の仕事をこなすことも忘れてはいない。領内の収穫を終えると、すかさず彼は伊賀国と丹波国、そして播磨国を回っていた。何せ来年の春には、十中八九じゅっちゅうはっく織田家による奥羽への遠征が行われる。無論、実際に行われるかどうかは今年の収穫や兵糧の買い付けの進捗状況によることとなるだろう。ゆえに、確認をしておく必要があった。

 だが、どうやら今年の収穫は順調のようである。豊作とまでとはいわないが、ほぼ例年通りといえた。これは、織田領内でも同じである。となれば、やはり来年の遠征は予定通りに行われるとみて間違いはない。滞りなく順調な収穫状況に、彼も安心をしていた。

 その傍らで義頼は、古今伝授をされた者として弟子へ相伝している。今となっては大和国より離れてしまったが、奈良伝授とまでいわれた以上はすたれさせる気はない。そんな義頼から教えを受けていた者は二人おり、一人は蒲生頼秀がもうよりひでであった。しかしながら、彼はまだ古今伝授を行えるほどではない。その一方でもう一人は、あとは相伝するだけという存在であった。

 彼の名は粛といい、相国寺の禅僧である。その彼だが、実は公家の出であった。粛は、義頼が播磨国を得たことで特に親しくなった下冷泉家の当主である冷泉為純れいぜいためずみの三男だったのである。だが、彼は嫡男でもなくしかも庶子であった為に、家督問題が起きないように家を出ると相国寺にて禅僧となっていた。

 冷泉家は上と下の両家に分かれているが、どちらの家も歌人を輩出してきた家である。彼もその例に漏れず、歌の才を持っていたのである。その彼が何ゆえに義頼の弟子となっていたのか、それが先に述べた奈良伝授へと繋がる話であった。

 そもそも朝廷内における古今伝授、即ち御所伝授は三条西家が一子相伝のような形で受け継いでいる。ゆえに、当代に認められた者にしか御所伝授が行わなかった。しかし、当時の相伝者であった三条西実枝さんじょうにしさねきが、自身の年齢と後継たる三条西公国さんじょうにしきんこくの幼さから、別の者に相伝させている。それが、当時は細川藤孝ほそかわふじたかと名乗っていた長岡藤孝ながおかふじたかであった。

 その三条西実枝は、長岡藤孝へ相伝する際にある誓いを立てさせている。その誓いを要約すると、三条西家以外の者には相伝もさせないことと。万が一にも三条西家で相伝が断絶した場合は、必ず責任をもって返伝を行わなければならないというものであった。そして長岡藤孝は、誓いの通り三条西公国へ古今伝授を相伝している。ゆえに、問題とはならなかった。

 少々それたので、話を粛のことへ戻す。

 その粛であるが、彼も冷泉家の人間であるから歌には嗜んでいる。しかし若くして禅僧となったことからか、父親の冷泉為純れいぜいためずみや下冷泉家嫡子の冷泉為勝れいぜいためかつほど上手いという訳ではない。しかし歌道に対する思いはあり、それが彼に義頼の弟子となるという選択を提示したのであった。

 粛は、父親を通して義頼の元を訪れる。そして、弟子入りを直訴したのである。すると義頼は、本人は無論だが父親の冷泉為純に対しても可否を確認した。


「左衛門督様。禅僧となった息子は家の者ではありません。好きにさせていただきたく」

「そうか……ならば、いいだろう」


 こうして弟子となった粛は、兄弟子となる蒲生頼秀と共に古今伝授をされるべく教えを乞うたのである。しかし粛は冷泉家の人間ということもあって、基礎はしっかりとしていた。それが蒲生頼秀と粛で、相伝への差が現れた理由である。蒲生頼秀は悔しくもあったが、同時に粛を尊敬もしていた。

 そのような弟子間の関係は置いておくとして、程なくして粛へ相伝が無事に行われる。こうして彼は、新たな相伝者として大和国へ赴くこととなった。そんな彼の身柄は、幸いにもまだ健在である義頼へ古今伝授した林宗二はやしそうじへ任せることとしている。彼は商人でもあり、その商いの内容から饅頭屋宗二という別名を持つ彼は、喜んで受け入れていた。

 また粛は、大和国へ向かう前に改名を決意している。自身は冷泉の家より出たものであるとして冷泉の姓は名乗らず、代わりに冷泉家の元の血筋となる藤原を名乗ったのである。そして名も惺窩せいかと改めたのであった。

 なお、奈良伝授は大和国へ向かう藤原惺窩とは別に六角家でも相伝して行くことにしている。これは、万が一を避けるべく義頼が考えたものである。蒲生頼秀を弟子としていることは、その一環でもあった。そしていずれは、息子へ教えるつもりである。その義頼が懸念した万が一とは、急死への対策であった。

 もし相伝を一人だけに限定してしまうと、相伝者が急死した場合など失伝してしまう恐れがある。そのような未来をできるだけ避ける為に考えたのが、複数による相伝であった。とはいえ、相伝の本流は藤原惺窩の奈良伝授にある。六角家での相伝は、失われた際の予備ともいえる相伝であった。

 これはつまり、三条西実枝がやむをえないこととして長岡藤孝へ中継ぐ形で相伝を行ったことと同じであった。但し義頼は、別に長岡藤孝の件を参考にした訳ではない。彼が参考としたのは、兄の六角承禎ろっかくしょうていが一時日置流の当代であったことである。六角承禎が日置流当代となる際、日置の家の者ではないからとしてそれまで当代であった吉田重政よしだしげまさと対立している。その時、日置流の失伝を恐れた吉田重政は、息子の一人であった吉田重勝よしだしげかつへ日置流の全てを託して京へと送り出していた。

 ここに、日置流は分派が存在するようになる。このことを義頼は、参考としたのだ。実はこの考えだが、義頼は別の者にも提案している。提案を受けた人物、それは長岡藤孝であった。

 先の奈良伝授に対する危惧、実はそのまま御所伝授にも当て嵌まるからである。先述した通り、御所伝授は三条西家だけで相伝されている。家業でもあるので、ある意味では致し方ないのだが、それでも義頼が危惧した失伝の可能性がある。そのような未来を回避するには、今の状態がもっともいいのではと長岡藤孝へ提案したのだ。


「三条西家と別に、ですか」

「無論、三条西家にも図らなくてはならない。しかし別の者に伝えていれば、万が一にも相伝された者が急死した場合でも対応できる」

「それは、そうかも知れぬ……なるほど、それゆえ今の状態がいいと」

「ええ。現在、三条西家と藤孝殿の二人によって相伝されています。この状態を続けることができれば、失伝の可能性を少なくすることができる」

「……いいでしょう、その話は拙者より三条西家へしてみます」

「よろしくお願い致す」

 

 その後、長岡藤孝より相談された三条西公国は、初めてその可能性に気が付いた。

 何せ以前より、一人の相伝が普通だったからである。これが当たり前であり、そのような危険をはらんでいるなど考えてもいなかったからだ。しかしいわれてみれば、全くその通りである。ならばその対策をと考えるのも、また道理であった。

 そして、相談と共に提案された内容こそ、その失伝という可能性を排除することができる手である。唯一という訳ではないが、手っ取り早く行われる手段であった。ここに三条西家以外の者で相伝された者は、失伝されるという事態に陥らない限り絶対に他者へは相伝しないという約定の元に複数の者へ古今伝授が行われることになる。予備とはいえ相伝されるのだから、歌人として一流だと認められたといっていい。同時に副次効果として、三条西家の権威が上がることになったのだが、それは別の話であった。


前話に引き続いて、まだ奥羽侵攻戦とはなっておりません。

このような日常もあると、思いください。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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[気になる点] 甲斐田畑具教ってなんやねん
[良い点] 室町~織豊辺りでは失伝しまくったでしょうね
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