第二百六十六話~奥羽進攻へ向けて~
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第二百六十六話~奥羽進攻へ向けて~
日の本の統一まであとは奥州を残すのみとなった織田家であるが、奥州へ遠征する前に片付けておくべきことがある。それは、真言宗との関係であった。
義頼が褒美として添上郡を与えられ、同時に事実上の大和国国主となっている間は両者の関係はそう悪いものではなかった。しかし義頼が播磨国に領地を与えられ大和国が織田家の直轄地となった頃、問題が発生してしまう。それは、真言宗との間で領地に関する問題が発生してしまったからだった。
織田家としても、この段になって今さら畿内に問題が発生するなど想定していなかった事態である。その意味では早々に決着を図りたかったのだが、さりとて甘い対応をして相手を付けあがらせるのも避けたかった。
何せ真言宗は、単独で八万五千貫(十七万石)を有している。それだけの力を持つ宗派がそれこそ一向宗のように反旗を翻されては、面倒くさいこととなるのは必定だった。だからといって、甘い顔をしようものならつけ上がらせかねない。そこで織田信長と織田信忠は、あえて強気に出ることとしたのである。彼らは高野山の真言宗に対して、織田家の意向に従うようにと事実上の降伏勧告を出したのだ。
しかし、高野山側もすぐに了解とはならない。過去に織田家が比叡山延暦寺に対して攻勢を仕掛けたことや、一向宗に対して武力で鎮圧したことは勿論知っている。しかし、真言宗側にも比叡山の天台宗と並んで平安の御世より護国鎮護に貢献してきたという自負もある。武力で脅されたとしても、そう簡単に屈するわけにはいかなかったのだ。
だからといって、一向宗のように武力に訴えるような行動をしたくはない。また、延暦寺の二の舞もやはり避けたかった。ある意味で両者の思いが重なり合い、織田家と高野山との間で、事態の打開に向けての話し合いが持たれることとなった。
織田家側は、織田信長のいとこで、かつ義兄弟の間柄となる織田信成が正使となる。副使には、祝重正や菅屋長頼が派遣されている。そして高野山側はというと、代表は行算が務め、良運と空雅と応其が補佐という人事であった。
「織田家としては武装の禁止、及び寺領の大半を明け渡すこと。及び、謀反人などを匿うことへの禁止を要求する」
「そ、それは承服できかねまする!」
当然といえば当然である。
世はまだ戦国乱世であり、事実、寺は幾度となく戦火に巻き込まれている。僧兵による武装もその実、寺を守るという側面が無きにしも非ずといった次第なのだ。その上、事実上の寺領献上が要請されており、明け渡す規模も相当でもある。織田家側は九千貫(一万八千石)を残すとしているが、寺領としてはおよそ十分の一となってしまう。とてもではないが、高野山側が即座に分かりましたと頷ける内容ではなかった。
一方で、高野山側も事態打開の条件を出している。彼らの出した条件だが、寺領の三万五千貫(七万石)を織田家側に明け渡すことである。しかしこれでは、両者の前提がかけ離れすぎており纏まる雰囲気とはならない。そこで取りあえずは、お互いの条件を出し合ったということで最初の会合は終わりを迎える。以降は、最初の出された条件による織田家と高野山側の駆け引きとなったのだ。
しかし、彼らの話し合いは一向に進展を見せなかったのである。織田家側は、これ以上の譲歩は有り得ないとして頑として受け入れない。そしてそれは、高野山側も同じであったからだ。おかげで長きに渡り、それこそ二年近くたっても未だに決着がついていないのである。ゆえに織田家は、ここで最後通告を高野山側に通達して一気に打開を図るつもりであった。
この織田家側の動きであるが、高野山側も掴んでいる。そもそも真言宗は、全国に寺を持つ日の本における一大勢力の宗派である。その為、日の本各地の情勢についても、知ることが可能であった。
その点から鑑みて、織田家は朝廷からの覚えがめでたい。一時は絶縁状態となった幕府との関係も、自家が有利な状態で改善している。そして支配領域も、東は関東から西は九州までも支配下に収めているのだ。
もはや彼の家による天下一統は、もはや時間の問題といっていい。まだ陸奥国や出羽国が完全に織田家の勢力下となった訳ではないが、たとえこの両国が揃って織田家に反旗を翻したとしても、織田家に勝てるとは思えなかった。
しかも出羽国の大名などでは、織田に誼を通じている家が多い。もし織田家の遠征が行われれば、轡を並べて雪崩のように織田家側に靡くのも想像できる。しかもこのことは、出羽国に留まらない。陸奥国中南部の大名である伊達家や蘆名家なども出羽国の者と同じような行動に出ることは、間違いなかった。
「致し方ありません。我らが折れましょう」
『山主!!』
「分かっているのでしょう。お山を焼く訳には参りません。比叡山の二の舞だけは、断固として避けなければならないのです」
『……』
金剛峯寺の山主(座主)である行算の言葉と決意に、補佐を務める良運と空雅と応其は二の句が継げなかった。
こうして高野山側は、かなり譲歩した条件を改めて織田家側に提示したのである。新たに出された条件であるが、武装の禁止と謀反人等を匿うことへの禁止は完全に受け入れる。そして寺領に関しては、真言宗側に残す地域を二万貫(四万石)まで減らしたのだ。
それでも寺領に関して、織田家側に不満がなかった訳ではない。しかし追い詰めすぎて、下手に暴走されても困る。それで戦となっても負けはしないだろうが、一向宗のように長々と戦となる事態は避けたかった。
そこでこの辺りが落としどころであろうとして、織田信長と織田信忠も高野山側の提示した条件を受け入れる決断をしたのである。ついに、二年近くに渡った交渉も終わりを見せたのだ。
なお高野山側は、織田家へ降伏する証として、嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書という真言宗の重宝を献上したとされている。なにはともあれ、畿内にとげのように残っていた高野山との和解という名の従属に成功し、いよいよ奥羽への遠征に力を入れて行くのであった。
織田家は遠征の前準備として、奥羽に向けて使者を派遣していた。これは、奥羽の雪解けに合わせて行われたものである。この使者へ抜擢されたのは、京にある阿弥陀寺の住職となる清玉上人であった。
実は彼と織田家の関係は、思いの外深い。それは何と、出生にまで遡るという。彼の母親が産気づいた際、偶々織田家の人間が通りかかり母親を助けたというのだ。
その助けた織田家の人間というのが、一説には織田信長の庶兄となる織田信広といわれている。彼はそう噂されるぐらい、織田家と関係を密にした僧侶であった。
派遣された清玉上人は奥羽各地の小大名や国人などの元を訪ね歩き、織田家に従うようにと彼らの説得を試みている。そもそも彼らの元には、義頼など織田家家臣や織田家に従属や臣従した所縁ある者、さらには将軍職にある足利義信からの書状も届いていたこともあってか、順調に推移していた。
織田家に好意的な反応を示した家で代表的なところ上げれば、蘆名家に伊達家、そして最上家に安東家となる。他にも、葛西家や戸沢家や黒川家などがあった。無論、反発を示した家もある。前述した南部家や大崎家の他にも、相馬家や白河結城家や岩城家などがあった。
なお、白河結城家であるが少々特殊な事情がある。実は白河結城家では内訌が起きており、何と当主が二人いるという状態になっていたのだ。ことの起こりは、白河結城家十代当主であった結城晴綱の病死である。とはいえ、彼自身の死に何ら不審な点があった訳ではない。しかし後継となった嫡男の結城義顕が幼年であったことが、白河結城家内に不穏の空気が立ち込める原因となってしまった。
その結城義顕だが、僅か七歳で白河結城家を継いでいる。しかし当主としては幼すぎるので、当然のように後見人が付いた。その後見人として選ばれたのが、小峰義親である。彼は結城晴綱の兄弟とも叔父ともいわれる人物であり、その血筋から後見人となった人物であった。
しかし新たな主が幼君であったことから、彼は家の乗っ取りを行ったのである。結城義顕が当主となって二年後、白河結城家の家臣と共謀して小峰義親は幼年の主君を追放する。そして自らが新たに当主に就任したとして、白河結城家十二代当主を名乗り姓も小峰から結城へと変更したのであった。
しかしてその白河結城家も、佐竹義重の侵攻にあって佐竹家へ降伏してしまう。だが、織田家の関東征伐に紛れる形で白河結城家は佐竹家より離反を果たしていた。
こうして、結城義親と姓を改めていた小峰義親は再び白河結城家当主になったと高らかに宣言する。なお彼に追われた結城義顕であるが、実は蘆名家の庇護を受けていたのだ。そこで不遇を囲っていたのだが、奥羽に織田家からの使者である清玉上人が現れたことで流れが変わる。これを奇貨と捉えた結城義顕の側近が、密かにそして速やかに結城義親より早く清玉上人のもとへ現れると、結城義親の追放を条件に彼を通して織田家に臣従したのだ。
織田家としても陸奥国へ兵を向ける大義名分となる為、結城義顕からの申し出を受け入れたのである。しかし結城義親からすれば、認められるものではない。ゆえに彼は織田家との交渉など行わず、きっぱりと拒絶したのだった。
また奥羽には、織田家と関連する問題がある。それは、嘗て織田家の主家筋であった斯波氏の流れを汲む家が複数存在していることにあった。大崎家や高清水家に古川家、さらに奥州斯波家や最上家といった具合にである。しかし、彼ら斯波家の流れを汲む家でも織田家に対する対応は明確に分かれた感があった。
そもそも斯波の姓の由来は、足利家四代目当主となる足利泰氏の長男となる足利家氏が陸奥国斯波郡の所領を譲られ、彼の子孫がその領地に因み斯波を名乗るようになったことが由来であるとされている。なお足利家氏自身は、生涯足利の姓のままであった。
その足利家氏だが、元は足利泰氏の嫡男である。しかし足利泰氏が、北条家三代目当主の嫡子となる北条時氏の娘を正室として娶ることとなる。彼自身は北条家を継ぐ前に亡くなってしまったが、北条家からの輿入れであることに鑑みて足利家氏の生母は足利泰氏の正室の娘に座を譲り自ら側室となったのだった。
これで男児が生まれなければ問題とはならなかったのだが、北条家より輿入れした新たな正室が男児を生んだことで問題として浮上してしまう。すると足利泰氏は、足利家氏を廃嫡して新たに生まれた子を嫡子とすることで事態の打開を図ったのだ。
足利家氏としても面白いわけがなかったのだが、だからといって足利家を滅ぼすわけにはいかない。そこで彼も、父親の決定に渋々だが従うことにしたのである。しかし、元は足利家の嫡男であった足利家氏であり、しかもその力量は父親に勝るとも劣らないとまでいわれていた。
それゆえに足利家内でも彼は特別視されており、室町の世になるまでは彼の子孫は足利の姓を名乗る足利別家の扱いであったのだ。
前述の理由で今でこそ斯波を名乗っているが、元は足利別家であったという影響は簡単に拭えるものではない。そんな足利家内でも特別な家である斯波家の分家に当たるのが、前述した家や最上家や大崎家などであった。
そういった経緯もあり、斯波宗家に当たる人物を追放した織田家に対する思いがない訳でもない。ゆえに大崎家、彼の家と行動を共にした高清水家や古川家や奥州斯波家は織田家と対立する道を選んだのだ。
一方で大崎家などと同様に斯波家に連なる家である最上家や楯岡家、さらに元は新田流里見氏であったが、のちに最上家より養子を入れたことで里見氏の流れを汲みつつも斯波氏へ連なる家扱いとなった天童家などは逆に最上家と共に織田家に臣従したのであった。
因みに楯岡家や天童家などは、ごく最近まで最上家と対立していた家である。しかし織田家という強大な存在が奥羽へ手を伸ばしてきたことで、争いをやめて揃って織田家に臣従する道を選んだのだった。
このように入り乱れ、中々に混沌としている奥羽であったが、対照的に織田家は静かに刃を研いでいる感がある。奥羽国人に対する調略は相変わらずなのだが、その裏で兵糧などといった戦略物資も着々と集めていた。
何といっても日の本で織田領と呼べない場所など、もう奥羽ぐらいしかない。日の本の大半を抑えているという地力を持って、戦の準備を粛々と行っていたのだ。
とはいうものの、流石の織田家も今年中の侵攻は難しいといわざるを得ない。先年の年末までは関東平定に力を入れていたし、九州に関しては数か月前に漸く平定を終えたばかりである。それこそ一気に制圧するというならば可能かもしれないが、奥羽は織田家にとり全くといっていいほどに地の利がない土地だ。
そんな地域を短時間で制圧するなど、それこそ侵攻した地域全てに対して撫で切りでも行わない限り、可能とは思えなかった。そして当然だが、織田家としてもこのようなことなど行おうとは思わない。血気に逸る一部の家臣から出ないでもなかったが、所詮は一部である。何より、義頼や柴田勝家や丹羽長秀、明智光秀や羽柴秀吉などという織田家重臣の悉くが反対の意向を示し、さらに滝川一益や蜂屋頼隆、金森長近や池田恒興などといった家臣たちも反対したのだ。これでは、とてもではないが主流な意見となりえない。即座にその動きは抑えられ、奥羽への侵攻は来年以降の状況次第ということで決まったのだった。
奥羽への侵攻に当たり、主攻となるのは柴田勝家や丹羽長秀など東へ侵攻した武将たちとなる。彼らは、関東へ出陣した際に消費した物資を補給しつつも、進軍に必要な物資を集めていったのだ。
では、征西大将軍として西へ進軍した織田信忠や義頼たちが何もしていなかったのかというと、そんなことはない。彼らは彼らで、動いていた。
そもそも、織田家の方針として東は織田信長が、西は織田信忠が担当すると明確に振り分けていた。しかしながら今回の戦は、日の本統一の戦である。これがまだ西で戦をしているというのであれば考慮しないのだが、既に西に関しては平定が終わっている。ならば、この戦に参加させないというのは、完全に兵力を遊ばせてしまうことになるのでもったいないといえた。
そこで織田信長は、織田信忠以下西に向かった者たちにも参戦の機会を与えたのである。まずはその一環として、織田信忠に別の将軍位が与えられることとなった。彼は役目を終えた征西大将軍の地位を返上したのだが、その代わりに秋田城介に補任される運びとなる。しかも秋田城介に補任されてから十日後には、それまでの正四位下の位階より一つ上げて正四位上となった上で征狄大将軍の将軍位が与えられたのである。役職的にいうと征東大将軍である織田信長が太平洋側である陸奥国を、織田信忠が日本海側である出羽国を担当するということとなる。しかしこれはあくまで名目上であり、彼ら親子が最初から分かれて侵攻するというわけではなかった。
何といっても、出羽国に領土を持つ大半の国人は織田家に従う可能性が高いとみなされている。無論全てではないとされているが、わざわざ織田信忠自身が兵を率いてまで出羽国へ向かうまでもないであろうとも考えられている。それこそ、代理として織田家重臣か織田家連枝を向かわせてしまえばそれで事足りる話でもあると思われていた。
また西に向かった当事者である義頼や羽柴秀吉、それから明智光秀や池田恒興などや、長岡藤孝ら元幕臣たちに関しても何も仕事が与えられないということはない。彼らに与えられた仕事は、織田家全体の兵糧など物資の調達である。この役目の総責任者は、明智光秀とされた。
何せ義頼と羽柴秀吉は、織田信長より命じられた外つ国への対応がある。特に羽柴秀吉は、万が一にも攻め込まれた場合、その立地条件から最初に当たる家となる織田家重臣である。その為、この問題に関してはまだ比較的関与が薄い明智光秀へ役目が与えられたのだ。
さて、奥羽への侵攻に当たっての構成であるが、軍勢を大雑把にいえば二つに分けて進撃を行うこととなっている。関東攻めや越後上杉攻めなどの担当であった柴田勝家や丹羽長秀などが第一陣となり、先鋒として奥羽へと侵攻する。そして織田信長や織田信忠は、第二陣として第一陣を追う形で侵攻するのだ。
つまり義頼たちは、この第二陣を構成する軍勢となる。無論、彼らだけで構成される訳ではないが、織田信長旗下として東に攻め込んでいた将たちの大半が第一陣に組み込まれていることを考えれば、彼らが第二陣の主流となるのは間違いなかった。
こうして奥羽進攻における大体の担当が決まった頃、義頼は蒲生賢秀と顔を合わせていた。
元来義頼は、織田信長と織田信忠の近衛兵団に相当する近江衆を統括するという役目がある。しかし最近は、専ら地方派遣軍団を率いる軍団長として活動していたが、彼本来の役目はこちらの近衛兵団を纏める団長なのである。つまるところ義頼は、最後の最後にきて漸く本来の役目を担うことになったといえた。
「一体どれくらいぶりか。このお役目で、そなたと顔を合わせるのは」
「左衛門督(六角義頼)様は、中国における責任者であらせられましたから」
「その分、そなたには苦労掛けてしまった。済まぬ。だが、この戦も日の本では最後となる。遺漏なく努めねばならぬぞ」
「はい。しかし、葡萄牙でしたか? 懸念が全くないではないというのが、口惜しい」
「それは、ひとまず置いておけ。まずは、日の本の統一だ。これにより、わしの願い……いや夢が叶う」
義頼の夢、それはこの日の本から戦をなくしたいという思いであった。この夢を果たすべく、彼は戦に明け暮れていたといっていいだろう。逆説的な話ではあるが、そうしなければ日の本より戦はなくならない。そう考えて、義頼は戦ってきたのだ。
西国では【応仁の乱】、若しくは【応仁の乱】起きてから二十五年後に起きた【明応の政変】、東国では前述した【応仁の乱】よりもさらに五十年程前に起きた【上杉禅秀の乱】を皮切りとして日の本国中に広まった血で血を洗うかような戦の世である。この殺伐とした時代が、ついに終わりを見せるところまできている。しからば、なおさらに無様な姿を見せる訳にはいかない。自身たちもそうだが、何より主家である織田家の威光に泥を付けるような無様な姿を見せるわけにはいかなかった。
無論、これは義頼たちだけではない。他の織田家臣も、これまた同じ思いを持っている。しかし織田信長と織田信長を直接守る近江衆の動きや身嗜みなどは、そのまま織田家のそれとみなされてしまうところがある。そんな些末な理由で、主家を貶めるなど許されるはずもない。ゆえに義頼はこうして蒲生賢秀をわざわざ呼び出してまで、話し合いを持っているのだ。
そのような理由であることから、この場には他にも近江衆はいる。青地茂綱や池田景雄や小倉実房、平井高明や堀秀村、目賀田貞政や山岡景隆などいう近江衆の主要な将も揃っていた。
彼らとともに、今までよりもより雄々しくそして煌びやかにと近江衆を仕立てるべく話し合っていく。義頼自身は、あまり派手にするのは好きではない。これは、自身がこれまでに幾人もの敵将を屠ってきたことにも由来していた。
義頼も若い頃は、将として敵味方に目立つような恰好をしている。しかし何人も矢で討ってきた経験から、目立つのは必ずしもいいことではないのではと考え始めていたのである。そこで義頼は、ある程度は目立つが決して目立ちすぎないようないで立ちへと徐々に変化させていた。
勿論、軍勢を率いる将として身に着ける鎧はとてもいい物を使っている。しかしながら、他の将などのように、派手過ぎる出で立ちとはならない鎧兜を身に着けるようにしていた。
しかし、織田信長は割と派手好きである。その為、近江衆は派手とまではいかないまでも見た目的に目立つ格好をしていた。派手好きではない義頼も、近江衆を率いる時は別である。彼も他の近江衆に引けを取らない格好で、近江衆を率いていたのだ。
そして今回は、先に述べたように日の本内における最後の戦となる可能性が高い。勿論、今後に必ずしも一揆や争乱などが起きないなどというような楽観視はしていないし織田家中でもされてはいない。しかしながら、大名同士の戦としては恐らく最後となるであろうことはまず間違いないと考えられていたのだ。
いわば、有終の美といえる戦である。義頼自身の嗜好は先ずおいておき、それこそ物語として語られるぐらいの出で立ちを織田家の近衛兵団として見せる必要があった。
因みに織田信忠だが、彼は父親に比べれば派手さは控えめである。とはいえそこは日の本で最大勢力を持つ織田家当主であり、煌びやかさなどでいえば他の将などの追随を許さない身なりであった。
何はともあれ義頼は、織田家の近衛である近江衆を今まで以上に見栄えよくするべく動いていく。同時により精鋭となるよう、さらに厳しく彼らを鍛えていくのであった。
近江衆を鍛えている義頼であるが、それだけが彼の仕事ではない。他にも、重要な役目がある。何といっても義頼は、織田家の情報網を統括している存在でもあるのだ。これから侵攻する奥羽の情報を集め精査し、織田家に挙げなければならない。また織田家重臣として、織田家中に情報を共有させる必要もあった。
しかして、勝手に集めた情報を流す訳にもいかない。そこは先に織田信長や織田信忠と話し合い、取捨選択をする必要があった。ここまでは従来の仕事であるが、これに加え仕事が一つ増えている。それは先に述べたポルトガルなどの外国や、切支丹を統括している存在でもあるイエズス会への警戒であった。
しかもこの仕事は、義頼単独という話ではない。九州における最前線となる羽柴家や、その後方支援となる明智家と共同で進めなければいけない話でもあった。何せことは、国内ではなく外国も絡む話である。今まで日の本国内だけの活動であったが、ついに国外へと広がったのだ。全く経験したことがない事例でありながらも、そうそう失敗が許されない事例でもあった。
幸いといっていいのは、義頼の六角家や羽柴秀吉率いる羽柴家や明智光秀率いる明智家が情報に対する考えに胡乱さがないことであろう。彼らは揃いも揃って情報の重要性を理解する者たちであり、その意味ではやり易い関係でもある。この辺り、彼らの関係が足を引っ張り合うような物騒なものではないことにも関係していた。
そこで三家は、合同で命じられた仕事を推し進めるべく話し合いを持った次第である。彼らは忍び衆などを抱える家であるが、それぞれの家が単独で別々に動いてはどうしても無駄が多くなってしまう。それに万が一にも別々に動いたことが原因となり、何か不利益を齎してはいささか不味い状況へとなりかねないのだ。
ことは火縄銃の元となった銃や大友家を通して当時の足利将軍家へと伝えられ、それがまわりまわって織田家へそして義頼の元へと伝わった大砲の元となった火器を生み出した存在に対する相手である。そんな国の軍勢から攻められた原因が、実は六角家と羽柴家と明智家の足の引っ張り合いでしたなどといわれるわけにはいかないのだ。
そのような事態を避けるべく、彼らはこうして会合を持つに至った次第である。この件については織田家より許可を得ているので、何ら問題とはならなかった。
さて集まった顔ぶれであるが、明智家からは当主の明智光秀や娘婿の明智秀満、他に明智家重臣となる斎藤利光らである。続いて羽柴家からは、当主の羽柴秀吉や玄宥や病療養中であったが今はかなり快癒した竹中重治、そして蜂須賀正勝が参画していた。
六角家からは義頼は無論のこと、大原義定や本多正信、沼田祐光や三雲賢持や黒田孝隆などが参加している。彼らは情報収集やポルトガルなどから攻め込まれた場合の防衛体制について話し合い、万が一への対処について三家で共有をしていくのであった。
奥羽進攻における準備です。
しっかり用意して、遺漏なく終わる……といいなぁ。
ご一読いただき、ありがとうございました。




