第二百六十四話~九州での最後の対応~
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第二百六十四話~九州での最後の対応~
他の織田家臣と共に広間を出た義頼であったが、表御殿より出る前に呼び止められていた。
彼を呼び止めたのは、堀秀政である。立ち止まり用件を聞くと、何と織田信長と織田信忠からの召喚である。とはいえ、いささか不思議に思う。用があるのならば、先の時に済ませばいい話だからだ。
さりながら、織田信長と織田信忠からの呼び出しとあれば応じない訳にはいかない。少し間を開けたあとで頷くと、堀秀政に付いて行く。やがて到着した部屋に入ると、そこには織田信長と織田信忠の親子が座していた。
即座に部屋へ入ると、義頼は下座にて平伏する。しかし織田信長から、顔を上げるようにいわれる。その言葉に従い顔を上げた直後、部屋に二人の男が入ってきた。一人は、羽柴秀吉である。そしてもう一人は、明智光秀であった。彼らもまた入室後は、平伏している。すると、彼らもまた織田信長から顔を上げるようにといわれる。その言葉に従い、両名は顔を上げていた。
「して信忠。肥前の話を聞こうか」
「は。義頼から知らせを受けても半信半疑でしたが、実際に行ってみるとそこは、とても日の本とは思えませんでした」
これは、いったいいかなる話なのか。
そもそもの話としては、義頼旗下の忍び衆による九州での情報収集にまで話は遡ることとなる。いずれは九州平定を考えていた織田家であり、その一環として現地の情報を集めさせている。これにより大友家や島津家などといった九州でのいわゆる奴隷貿易が織田家に知られてしまったのだが、実はその他にも無視できない話があった。
その話とは、肥前国でのことである。彼の国での最大勢力が竜造寺家であったのはいうまでもないが、彼の家が肥前国で一強であったという訳ではない。肥後国内には、他にも力ある勢力があった。代表的なところでいうと、大村家と有馬家である。実はこの両家、元を辿ると藤原純友の孫とされる藤原直澄へと至る家である。つまり同族であり、先に述べた藤原直澄から数えて七代目となる時点で、大村家と有馬家に分かれた家でもあった。
しかしこの両家は、戦国の世に入ると周辺で勃興した国人たちに押されて力を落とすことになるのだが、ある出来事を契機として再び勢力を取り戻している。大村家と有馬家が再興の為の原動力としたのが、南蛮貿易である。その南蛮貿易により力を取り戻したのだが、両家ではキリスト教への対応は違っていた。
有馬晴信が率いる有馬家は、当主がキリスト教を嫌悪していたことから貿易相手以上には見ていなかったのである。しかし大村家は、全くの真逆であった。当時大村家の当主は先代となる大村純忠が務めていたのだが、彼は南蛮貿易の一助となるのではとの思いからキリスト教について学ぶようになっていた。
やがて彼は本気でキリスト教に傾注してしまい、宣教師から洗礼を受けている。これにより大村純忠は、日の本で初の切支丹大名となっている。すると彼は、熱心すぎるくらい熱心に信徒としての活動を行っていた。
手始めに大村純忠は、領内にあった神社仏閣の破却を命じている。そればかりか、領民への改宗を強制していた。彼の活動はこれだけにとどまらず、先祖の墓所の破壊も行っていたばかりか、神主や僧侶をも捕らえ殺している。さらに大村純忠は、キリスト教への改宗を断った領民を捕らえると先に述べたように殺害していた。
それだけではとどまらず、南蛮の商人へ奴隷として売り渡しまでも行っていたのである。それでなくても、大村純忠が切支丹となったことに対して家臣から不満が出ていた。そこに加えて奴隷として領民を南蛮へ売り渡していることが判明すると、家臣の不満は家中不和にまで育ってしまう。これにより大村家は、幾度か内訌を引き起こしていた。
つまり大村家は、竜造寺家による侵攻の前より家中に問題を抱えていたのである。それであるにも関わらず彼が当主であり続けたばかりか大村家として一角の勢力を保ち続けたのには、その日の本国内の切支丹を取り纏めていたといっていいイエズス会が事実上の後ろ盾となっていたからであった。
実際、竜造寺家が侵攻した際に大村純忠は、イエズス会を介してポルトガルが抱える艦隊の力を借り受けて一度は撃退している。だが、相手も無償では動かない。そこで大村純忠は、イエズス会へ領内から茂木の地を寄進する約束をしていた。しかしこの約束を履行する前に、彼は竜造寺家に敗れてしまう。その為、この話は立ち消えとなっていた。いや、なっていたと思われていた。
さて、話を織田信忠が現地へ赴いた話へと戻す。
大村家は、南蛮貿易を始めるに当たって長崎の湊を使用したのだが、その際に湊と及びその周辺を寄進している。すると当然のようにイエズス会は、寄進された地に教会や西洋風な街並みを作り上げたのだ。しかし、その長崎の湊も竜造寺家に接収されてしまったことでイエズス会の力は及ばなくなる。だが彼らが建てた教会や町並みなどは残っており、そこを織田信忠は自身の目で確認したのだ。
その上、前述したようにイエズス会は大村純忠による領民へ行った改宗の強制や墓所の破壊、そして神官と僧侶の殺害や奴隷貿易に関わっている。それは即ち、南蛮と呼ばれていた地域に存在する国々も関わっていたということと同義といってよかった。
「……なるほど」
「長崎は、本当に日の本なのか見紛う程でした。それに、神社仏閣の破壊までしております。父上、これは捨ててはおけません」
「ふむ。義頼はいかに思う」
「上様。某個人としてはあまり申し上げたくはございませんが、切支丹に関しては一向宗と同じではないかと」
義頼にとって姉とも母とも慕った義姉である如春尼の夫である顕如が率いているのが一向宗である。織田家と一向宗の過去の経緯は兎も角として、あまり悪し様にはいいたくないのだ。
そんな義頼の内心は置いておき、彼のその言葉には織田信長と織田信忠の顔を引きつらせるに十分な意味合いが含まれていた。何せ織田家は、先に述べている通り一向宗に長年悩まされている。今でこそ膝下に屈させたが、散々にてこずらせてくれた相手である。その一向宗を引き合いに出したということはキリスト教、及び信徒である切支丹は厄介な存在だと義頼が考えていると答えているに等しかった。
「一向宗か……秀吉はどうだ?」
「上様。拙者も、左衛門督(六角義頼)殿と同じ思いに駆られました」
「そなたもか。光秀はどうだ?」
「拙者も同感にございます」
「そなたら全員がそう思うのか」
これが義頼一人の考えならばまだしも、共に肥前国を目の当たりにした羽柴秀吉や明智光秀までもが同意している。その時、織田信長は、息子へ視線を向ける。父親から視線を向けられた織田信忠は、首を縦に振ることで同様の意思であることを父親へ返答としていた。
「それにあ奴らは、大村純忠なる肥前の国人から寄進された土地を返せと直談判もしてきました。もっとも、会わずに追い返しましたが」
「まて。肥前を一旦でも統一したのは、竜造寺であろう。それでありながら、そなたに直談判だと?」
「はい」
真っ直ぐ見つめ返しながらも返答した息子の態度に、嘘は感じられない。それでも織田信長は義頼に視線を向けて、確認した。すると、黙って頷き返してくる。息子に続き重臣である義頼からの返答に織田信長は、偽りではないと確信した。
確かに、竜造寺家が織田家に降伏した以上、織田家に話を通すというのは筋が通っているように見える。しかしイエズス会へ土地を寄進したのは、大村家であり織田家ではない。その大村家は竜造寺家に降伏しているのだから、話は竜造寺家へするべきである。たとえ寄進された土地を、現在は織田家が領有していたとしてもだ。
しかしイエズス会は、竜造寺家ではなく織田家へ寄進された土地の返還を求めている。その理由は、織田家との繋がりであった。織田信忠が面会したことはなかったのだが、織田信長はイエズス会の宣教師であったフランシスコ・カブラルは岐阜で面会も果たしていたのだ。
その縁を頼って、九州で活動していたフランシスコ・カブラルが織田信忠との面会を望んだのである。父親からフランシスコ・カブラルについての話を聞いたことはあったが、それだけでわざわざ会う理由にはならない。ましてや織田家とは直接関係のない寄進された土地に関してのことであり、なおさら会う理由とはならなかった。
しかし断られたフランシスコ・カブラルとしては、収まりがつかない。そもそもフランシスコ・カブラルは、日本人を含むアジア人を見下していた。その見下していた日本人が、自身の要請を断ったなど許せる筈もない。しかし、織田信忠が取り合わなかったので結局面会が実現することはなかったのだ。
「……ふむ。少々、図に乗っているようだな。どうやら、付き合いを考慮する必要があるか? まぁいい。南蛮の態度も気に入らぬが、今は日の本統一の方が優先だ。とはいえ、きな臭いのも事実か……義頼。外つ国へ忍びを出してもいい、情報を集めよ」
「はっ」
その後、本丸表御殿より退出した彼らは、それぞれの屋敷へと向かう。そして義頼も、六角屋敷へと戻った。すると、再度、息子や娘の出迎えを受ける。疲れているからとそれぞれの母親から窘められるが、義頼は笑って彼女たちを宥めていた。
しかし時間も半端であり、出かけるには遅すぎる。かといって、琵琶湖へというのも季節がらまだ寒く、風邪をひいてしまうかもしれない。その為、屋敷で息子や娘の相手をする。子供たちとしても、年越しにも会えなかったばかりかおよそ半年ぶりの再会でもある。長女と次男以下の子供たちは、全力で義頼との遊びを満喫していた。
その中にあって、流石に嫡子となる鶴松丸は自重している。勿論、本音では父親である義頼と遊びたかった。しかし六角家の次期当主として、そして長子として振舞わねばならないと傅役の馬淵建綱からの教えもある。ゆえに鶴松丸は、弟や妹らのように義頼へと甘えなかったのであった。
そんな息子の様子を見て、内心で義頼は微苦笑する。それは、自身にも覚えがあるからだ。義頼も子供の頃は、育ての親ともいえる兄の六角承禎や傅役であった蒲生定秀からこれでもかというぐらい教えられ叩き込まれたのである。だからこそ義頼は、この場で鶴松丸の態度については、言及しなかった。とはいえ、まだ数えで九才の子供である。そこで義頼は、あえて鶴松丸へ手を差し伸べていた。
「そなたもこい、鶴松丸」
「あっ! その、いえ……」
「遠慮などするな」
「は、はいっ!!」
本当に嬉しそうに、鶴松丸も義頼へ飛び込む。それは、既に義頼の傍にいる弟や妹を纏めて抱きかけるようでもある。そんな息子や娘たちを、義頼は優しく抱擁したのであった。
親子の触れ合いを堪能してから数日後、本多正信より数多の報告を受ける。それは義頼が九州へ攻め込んでいた間に集められた、各地域からのものである。幾ら西国に関して平定が終わっているとはいえ、まだ気が抜ける程には遠い。また、いつ何時、西国の者たちが反旗を翻すか分からないからだ。
また、それは東に関しても同じである。九州に先立ち関東を平定した織田家だが、油断できないという点では西国と同じである。いや、まだ争乱の機運が残っている東国の方が、余程きな臭いといえた。しかしながら、この流れも織田信長が関東に進出し古河公方を関東から追いやったことでこの流れも変わっている。先述したように織田家の軍勢が岩槻城に到着すると、それまで中立であった佐竹家が織田家に使者を送り従属したのだ。
その際、佐竹家当主の佐竹義重は武田信勝に仲介の労を頼んでいる。何せ佐竹家は、甲斐源氏と同族となる常陸源氏の頭領といえる家である。甲斐源氏の祖とされている源義光の子供で七人いた男児の長男となる源義業が常陸国久慈郡佐竹郷に本拠を定め、その折、自身の妻の出身であった常陸平氏の協力を得て勢力を広げたのである。つまり源義光は、甲斐源氏の祖であると同時に常陸源氏の祖といえる人物なのだ。
なお、姓の由来であるが、いうまでもなく源義業が居を定めた佐竹郷から取られている。しかし、彼自身は佐竹の家名を名乗っていない。彼の家督を継いだ長男が佐竹を名乗ったのが最初とされている。以降、佐竹家は常陸国へ勢力を張ったのであった。
因みに甲斐源氏であるが、こちらは源義光の次男とも三男ともされている源義清が常陸国那珂郡武田郷を父親から譲られたことで武田を名乗った家である。もっとも、源義清が武田を名乗ったかは定かではない。彼の嫡子となる長男は武田を名乗ったのが最初であるともいわれていることから、兄の源義業と同様に名乗ってはいない可能性が多分にあった。
話を佐竹義重に戻す。
先述の通り、武田信勝の仲介によって織田信長と面会して織田家に従属すると、周辺で古河公方側であった千葉氏や里見氏、結城氏などを攻めている。その功によって佐竹氏は、事実上常陸国主として常陸国を任されることになった。しかし、常陸国内の国人全てが佐竹家に従っている訳ではない。つまり、国主と認めてやる代わりに自身の手で常陸を統一して見せよという指示でもあったのだ。
因みに、佐竹義重が従属した際、那須当主の那須資晴も従属している。また、中立姿勢を見せた壬生義雄も慌てて織田家に従属している。但し、壬生家は従属時期が先の二家より遅かったこともあり、家の存続は許されたが代わりに幾許か領地を削られてしまっていた。
兎にも角にも関東では、古河公方がいなくなりそして味方した勢力も軒並み力を落としていたり滅亡していたりしていることから、そう簡単に争乱が再発するとは思われていない。古河公方を追いやったこともそうだが、何より関東を任された柴田勝家が睨みを効かしているからだ。
しかし、彼も年齢を重ねている。もし柴田勝家が亡くなるようなものならば、どうなるかは分からない。それゆえ、彼の補佐として滝川一益が一族と共に北陸より関東へと移動していたからだ。
「九州では、切支丹というか南蛮。坂東もまだ手を抜けず、奥州では最後の戦か。このまま天下を統一できたとしても、まだまだ油断はできんな」
「はっ。奥羽平定後も、気は緩めません。しかし、大殿(織田信忠)が乗り切れば、織田の支配は盤石となりましょう」
「まぁ、それはそうなのだがな。まぁいい、まずは天下統一。話はそれからだ。その為にも、報告を上げよう」
「御意」
本多正信へそう返すと、義頼は手に入れ吟味した情報を織田信長や織田信忠へ提出する報告書を作成する。そして、すぐに送らせたのであった。
やがて一通りの処理を終えた義頼は、気になっている案件について尋ねる。但し、これは私的ととれる報告であった。その報告とは、蒲生定秀と三雲定持の容態である。実は両名とも、今年に入って間もなく体調を崩していたのだ。それも、思いの外容態が悪いらしい。特に三雲定持は特に重く、体を起こすどころか床を上げることもままならない状態であった。
「そうか。そんなに悪いのか」
「は……」
義頼の漏らした一言に、本多正信は歯切れが悪そうに返していた。蒲生定秀は義頼の傅役として傍に仕えた人物であるし、三雲定持も六角家重臣として、また甲賀出身の者として陰に日向にと支えてきた人物なのだ。
しかも両名とも、義頼の父親となる今は亡き六角定頼の頃より六角家の重臣である。そんな彼らの容態が悪いというのは、義頼の右腕ともいえる本多正信であったとしても配慮が必要な人物たちでもあったからだ。
「よしっ。見舞いに行く。準備をせよ」
「はっ」
それから数日後の早朝に屋敷を出た義頼は、三雲城へ向かった。どちらを先にしようか少々迷ったが、明日をも知れないという程ではないにしても容態が悪そうな三雲定持を先にしたのだ。
三雲家の居城となる三雲城であるが、山城となる。その為、三雲家の者たちは麓にある館にて生活していた。
その舘へ到着した義頼は、急ぎで迎えに来た三雲成持の案内で、三雲定持が療養する部屋へと案内された。彼は綿布団に寝かされていたが、その顔色は押しなべて悪い。そこに義頼は、死の気配を感じてしまった。元服して間もない頃から、それこそ戦場を渡り歩いた義頼である。その経験からか、漠然とであるが感じられるようになってしまっていたのだ。
おおよそであるが、恐らく今月は持たないだろうと内心で思いつつ義頼は三雲定持が眠る傍らに腰を降ろす。力が入らない体に鞭打ち起き上がろうとする三雲定持の肩を、義頼はやんわりと抑えた。
「無理せずともよい」
「……申し訳ございません」
「それよりも、体によかろうと薬を持参した。成持に渡しておいたから、飲むとよい」
「誠に忝く存じます」
義頼は見舞いするに当たり、高麗人参の入手を行っていた。この急ともいえる依頼に応えたのは、堺の薬問屋である小西隆佐であった。実は、彼の息子が義頼の家臣となっているからである。それは、備前国を織田領へとした二年前の話である。宇喜多直家の宇喜多家を備前国より追いやったあと、義頼は同国の鎮定に着手している。そのおりに宇喜多家の商人であった阿部善定の元にいた男を一人、家臣に加えていた。
その人物は小西行長といい、彼は小西隆佐の次男であった。その縁から、小西隆佐とも付き合うようになる。今回も、その伝手を頼り高麗人参を短期間で手に入れたのである。もし小西隆佐との縁がなければ、さらに時間が掛かったかもしれなかった。
それはそれとして、短時間で高麗人参を手に入れた義頼はそれを土産として訪れたという訳である。それから暫くして、三雲成持自らが持ってきた薬湯を受け取った三雲定持は、ゆっくりとであるが全て飲み干す。そのさまを見届けた義頼は、体に障るであろうからと立ち上がる。その際に三雲定持は、今一度礼をいった。
「殿、ありがとうにございます」
「気にするな。それよりも、体を愛えよ」
「は、ははっ」
部屋を辞した義頼は、館の別室に通される。そこで一泊し、翌日に三雲定持と再度会ってから屋敷を辞して次の目的地へとなる日野城へ向かった。しかしながら一行は、日野城ではなく近隣に存在しているある屋敷へと向かっている。その屋敷とは、嘗て六角家で起きた【観音寺騒動】を義頼が収束させたあとに独断専行をしたとして自ら謹慎した屋敷であった。
そもそもこの屋敷は、家督を息子である蒲生賢秀に譲った蒲生定秀が隠居したのちに過ごす屋敷として建てられたものである。体調を崩した蒲生定秀がその屋敷にいるのも、当然であった。
「こ、これは殿。お恥ずかしい姿を」
「よい。無理はするな、そのまま寝ておれ」
「そうは参りません」
「いいから。息子や孫に、心配させるな」
「……はっ……」
漸く義頼の言葉に従い、彼は体を横たえる。その様子に、この場にいる蒲生賢秀と蒲生頼秀ら肉親が安心したように胸をなでおろしていた。実際問題、蒲生定秀の顔色は悪いのだから致し方ない。そしてそれは義頼も、蒲生家の面々と気持ちは同じである。幼くして父親を亡くした義頼にとって、自身を育ててくれた兄の六角承禎と蒲生定秀は父親代わりであるといっていい。そんな父親代わりの男から死の気配を感じるのだから、心配するなという方が無理な話であった。
「兎も角、そなたは体を大事にせよ」
「父上。左衛門督様より高麗人参をいただきました」
「おお! この老骨に、かような物を。殿、かたじけのう存じます」
持参した土産の高麗人参も、既に蒲生賢秀へ渡されていたのである。その旨を知らされた蒲生定秀は、微笑みつつ礼を述べていた。その後、長居は負担になるだろうとして義頼は腰を浮かせる。だがその前に、蒲生定秀より声を掛けられる。改めて座り直すと、用件を促した。
「実は……殿へお願いがございます」
「願いだと? いってみよ」
「我が孫、とらを殿の側室としていただきたいのです」
「は? えっと……とらとは、そこにいるとらのことか?」
「御意」
とら姫は、数えで十五になる蒲生賢秀の娘である。蒲生定秀が傅役であり、嫡子の蒲生賢秀も近江衆として義頼の部下となる。そしてとら姫の兄弟も、彼の家臣であったり茶や弓の弟子でもあったりすることから、義頼と蒲生家の繋がりは深い。ゆえに、義頼ととらも互いに面識はあった。とはいえ、義頼からすれば年の離れた妹ぐらいにしか感じていなかったのである。
一方で、とら姫はそうではなかった。実は、彼女の初恋が義頼だったのである。そしてとら姫も、文化人として名を馳せる義頼に相応しくなるようにと、和歌や漢詩などに励んでいたのだ。勿論、そんな彼女のことは祖父となる蒲生定秀や父親の蒲生賢秀も知っている。しかし、今まではとら姫が若く義頼も忙しかった為に言い出すようなことはしなかったのだ。
だが、体調を崩したことで蒲生定秀は、せめて孫の思いを遂げさせようとこの場で頼んだという訳である。もっとも、それだけではない。蒲生家としても、悪い話ではないのだ。既に蒲生頼秀が、織田信長の娘を迎えている。さらに、六角家当主でありしかも織田信忠の家臣筆頭となるであろうとみなされている義頼と縁を繋いでおけば、蒲生家は安泰といえる。つまりとら姫の思いと蒲生家、両方を満たす一挙両得な話となる。ゆえに蒲生賢秀も、反対などする筈もなかった。
「とら、わしでいいのか? そなたとわしでは、親子ほど年が離れているのだぞ」
「はい。左衛門督様がいいのです」
「そうか。それで、賢秀。そなたもいいのか? 娘の話であろう」
「はい。そもそも反対ならば、とうに声を挙げております」
「……わかった。とら、そなたの願いを叶えてやる」
『ありがとうございます』
義頼が了承すると、蒲生家の面々が揃って礼をいってくる。すると義頼は、少し恥ずかしそうに後頭部を掻いていた。病人がいるというのに、和やかな雰囲気となる。だが、誰も悪い気はしていなかった。その日は三雲家と同様に日野城の館に宿泊し、翌日になると辞して安土城にある六角屋敷へと戻った。
それから数日後、義頼の元へ急使が現れる。その使者は三雲家からであり、彼はもしかしたらとの思いに駆られる。果たしてその使者からの言葉は、義頼の予想を残念ながら裏切ることはなかったのであった。
感想を読んで、確かに三雲家お先に見舞いに行かないのはおかしいと思い改訂版をアップしました。
改訂前には入っていなかった三雲家の見舞が、蒲生家の見舞の前に差し込んであります。
そこで、若干ですが文章が前後しています。
なお、切支丹関係には手を入れておりません。
切支丹という問題を、織田家が認識しました。
どうなりますやら。
ご一読いただき、ありがとうございました。




