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第二百六十二話~関東争乱と上杉謙信の終結~

お待たせしました。


書店アプリ『まいどく』において、配信もされております。



第二百六十二話~関東争乱と上杉謙信の終結~



 岩槻城にて合流した三軍勢を率いるそれぞれの将は、すぐに集いて軍議を開いた。

 上座には織田信長おだのぶながと、元服したのち足利十六代将軍となった足利義信あしかがよしのぶが座る。また下座には、上杉謙信が腰を降ろしていた。


「征東大将軍様、征夷大将軍様。古河公方は、せつに任せていただきたい」

「謙信。そなたは、関東管領でもある。その地位にありながら、古河公方を討つというのだな」

「致し方ございません。少なくとも、関東で起きたこたびの争乱につきましては、古河公方殿に責があります。なればこそ、関東管領たる拙が相対し諫めなければ」

「……よかろう。古河公方は、そちに任せる」

「感謝致します」


 こののち、織田信長が小山城を、足利義信が結城城を攻めることに決まる。その翌日、岩槻城の広間に集められた諸将の前で発表された。諸将に不満が全くないとはいわないが、強硬に反対するなどといった者はいない。ゆえに、岩槻城へ集っている軍勢は出陣の用意を始めた。

 だが、この方針は結局のところ無駄となる。それは、足利義氏あしかがよしうじが兵を押し出したからであった。彼は古河城を出ると、小山城と結城城に入っていた軍勢と合流したかと思うと、南下を始める。そうなれば、当然だが織田勢も動くしかない。彼らは軍勢と共に岩槻城を出ると、古河公方勢と対峙するべく北進した。やがて両軍勢は、利根川にあった高野の渡し付近に到達する。そこで、川を挟んで対峙したのであった。

 なお、当初の軍議では古河公方の居城となる古河城を攻めるとしていた上杉謙信うえすぎけんしんであったが、彼は両軍勢が対峙している地点より少し離れた川の上流部に陣を敷いた。何ゆえそのような場所に陣を敷いたのかというと、彼の軍勢は戦が始まる前日の夜に川を渡る為である。そして織田家の先鋒と足利義氏の先鋒がぶつかったあと、頃合いを見て古河公方勢へ側面より奇襲する手筈となっていたからだ。

 一方で対岸に陣を敷いた古河公方勢はというと、少しだけ混乱が起きていた。その理由は、織田家が戦場に持ち込んだ大砲にある。古河公方に協力した将兵の一部に、織田家の大砲を実際に味わった者たちがいたからだ。彼らに取り大砲は、いわゆる心的外傷となっていたのである。何せ、大砲により一方的に損害を与えられたという経験を持っている。その大砲が、かなりの数配置されていたのだから仕方がないといえた。

 しかし、彼らの動向が結果として古河公方らに敵が大砲を持っているということを知らしめることとなる。とはいえ、その一件はたいして重要視されなかった。なぜかといえば至極単純な話であり、古河公方旗下の将兵の大半が大砲を見たこともなければ、経験もしていなかったからである。先も述べた一部の将兵による騒ぎがなければ、大砲の存在すら認識できなかったぐらいなのだ。

 そんな者たちが、知りもしない大砲などを恐れる筈もない。無論、噂ぐらいは聞いていたが、正直にいえば眉唾ぐらいにしか思っていないのである。その為、彼らはのちに身をもって味わうことになるのであった。

 因みに、織田家の軍勢で一番大砲を所有しているのはいうまでもなく織田宗家である。だが大砲の種類という観点でいうと、義頼が率いる六角家が一番であった。何せ彼の家にある大砲だが、新規開発に成功しているものも失敗しているものもある。つまり六角家が所有している大砲は、玉石混合ぎょくせきこんごうといってよかった。

 それに引き換え織田宗家が抱える大砲は、全て新規開発に成功した大砲しかない。そんな大砲を織田家は、金の力を持って配備しているのだから数が増えるのも当然であった。

 話を戻し、予定外の乱れがあった古河公方勢も、混乱した将兵を後方に下げたことで落ち着きを取り戻す。その後、改めて陣を敷いたところで夕刻となる。まだ日が暮れるには早い時間であったが、かといって開戦となるにはやや遅い。その為、開戦は明日という空気が織田勢、古河公方勢問わずに流れていた。

 最終的には、申し合わせたかのようにこれから戦という雰囲気は両軍勢から消える。彼らは何となく、戦は明日という気持ちに従い野営の準備を始める。やがて日も暮れて夜半となった頃、密かに上杉謙信の軍勢が渡河し始める。彼らは静かにそして慎重に川を渡ると、川の自然堤防を隠れ蓑とするように陣を敷く。そして警戒を密にし、古河公方らに気付かれないようにしたのであった。

 明けて翌日、織田勢と古河公方の軍勢が揃う。織田勢は、織田信長と足利義信の軍勢によって構成されていた。中軸となるのは、柴田勝家や丹羽長秀らといった織田家直臣に率いられた者たちとなる。そして古河公方勢は、足利義氏の呼び掛けに答えた小田氏と結城氏、宇都宮氏が中軸であった。

 そんな両軍勢であるが、ほぼ同時に織田信長と足利義氏の号令が掛かる。だが、両軍勢の動きは全然違っていた。古河公方勢は先鋒が掛け声と共に前進を開始したが、織田勢では一斉に大砲が火を噴いたのである。その轟音は凄まじく、慣れている筈の織田勢すら一瞬首を引っ込めたぐらいであった。

 慣れている筈の織田勢ですらも、思わず首を引っ込めたぐらいの轟音である。ならば慣れていないどころか大砲の轟音を聞いたことすらない古河公方勢の動向はどうなのかというと、彼らはほぼ等しく足を止めてしまっていた。

 あまりの轟音に、古河公方勢全体がある種の虚脱状態となってしまったからである。彼らはほぼ止まってしまった思考のまま、まるで申し合わせたかのように音がした方へと視線を向けた。その直後、川の中ほどに着弾するようにと調整された大砲から放たれた砲弾が降って湧いたのである。着弾位置は色々とずれてはいたが、それでも味方となる織田勢には降り注いではいなかった。

 その様子から大砲部隊を任されている滝川一益たきがわかずますは、着弾位置を修正する。その後、再度大砲より砲弾を放っていた。先の着弾による衝撃から混乱をきたした古河公方勢に、容赦なく砲弾が降り注ぐ。第一射目よりも正確となった砲撃に、古河公方勢の混乱は助長された。

 そのような隙を、織田信長が見逃す訳がない。彼は配を返し、砲撃を止めさせる。それから間を空けずに前線に配置した鉄砲隊より銃撃させた。だがその銃撃だが、最初は損傷を与える。しかしその銃撃により虚脱状態より脱した古河公方勢によって、二射目は阻まれてしまった。というのも、彼らが銃撃には対策は取っていたからである。古河公方勢は竹束を持って進軍しており、その竹束を用いて銃弾から防いだからである。しかしその竹束も、織田家の大砲までは止められなかった。

 もしこの戦場にある大砲が、大友家が所有する仏狼機砲であれば多少の軽減は可能であったかもしれない。しかし、織田家の持つ大砲はもはや別物である。どちらかといえば、同世代にヨーロッパで活躍したデミカノン砲やカルバリン砲に近いといえる。当然ながら威力も仏狼機砲に比べれば段違いであり、竹束程度では多少の威力を抑える程度の効果しか得られなかったのだ。

 だからこそ、古河公方勢の先鋒は大砲によって損害を被ったのである。しかし、火縄銃であれば竹束も効果がある。それが、先程の状況であった。その効果に古河公方勢の士気が上がるかに思われたが、あまり効き目がないと見切った織田信長からの指示により三度放たれた砲弾が降り注ぐ。当然ながらこの三射目は、二射目より正確さが増していた。

 その為、上がり掛けていた古河公方勢の士気が、またしても下がってしまう。この最前線の様子に、足利義氏は増援を決める。そして予備としていた兵を投入しようと考えた矢先、彼のもとに急報が届けられた。


「て、敵の奇襲にございます!!」

「なにっ!? 相手は誰だ!」

「は、旗印は……毘、及び乱れ龍! う、上杉謙信にございます!」

「なんじゃと!!」


 そう。

 前日の夜半に川を渡河したあとで隠れていた越後上杉家の軍勢が、襲撃を掛けたのである。足利義氏を含む古河公方勢の意識が砲撃により完全に織田勢へ集まったと理屈ではなく持ち前の直感で感じとった上杉謙信が、襲撃を開始する。越後上杉勢は完全に意識の外であった為、古河公方勢は奇襲をまともに食らってしまった。

 それでなくても関東の将兵は、上杉謙信に幾度となく進攻された経験を持っている。その為、越後勢の強さは骨身にしみ込んでいた。そんな彼らが受けた奇襲であり、しかも仕掛けたのは上杉謙信である。その上、都合三度の砲撃より、動揺が広がっていた軍勢であり、奇襲を受け止めきることは難しかった。

 かくて古河公方の軍勢は、上杉謙信によって二つに分けられてしまう。すると、狙ったかのように足利義信の軍勢が動く。無論、指揮しているのは丹羽長秀である。この戦が初陣である足利義信に戦の機微など分かる筈がないので、それも致し方なかった。 

 彼らの先鋒が、古河公方勢の先鋒へ攻勢を掛ける。続いて、織田家の先鋒もまた攻勢を掛けた。それでなくても、分断されている古河公方の先鋒である。そこに二段構えの攻撃を仕掛けられては、持たせることなどできはしなかった。

 直後、古河公方勢を分断させた上杉謙信は、返す刀で再度攻勢を掛けている。しかも攻撃を仕掛けたのは、足利義氏のいる本陣が存在する方向であった。


「謙信め。関東管領の地位にあるにも関わらず、古河公方たる殿へ刃を向けるか……持助」

「はっ」

「わしが出る。お主は殿をお守りせよ」

「承知しました、父上」

「では……いくぞっ!」

『おおー!!』


 打って出たのは、梁田晴助やなだはるすけである。梁田氏は代々鎌倉公方や古河公方へ仕えた一族であり、同時に筆頭家臣をも代々務めていた。その例に漏れず梁田晴助も重用されており、足利義氏の父親となる足利晴氏から晴の一字を偏諱されるぐらいである。そんな古河公方家重臣である梁田晴助も動かざるを得ないぐらい、危機感に襲われたといってよかった。

 迫りくる上杉勢に真っ直ぐ突き進む梁田晴助率いる軍勢に対し、上杉謙信は斎藤朝信さいとうあさのぶ北条景広きたじょうかげひろに迎撃させる。斎藤朝信は武を誇る将が多い上杉勢にあって内政に名を残す存在であるが、同時に「越後の鍾馗」とあだ名された人物である。その人となりは、生前の武田信玄たけだしんげんにも称賛された程であった。

 また北条景広も、越後上杉家が誇る剛の者である。まだ数えで三十一であるが、彼は「鬼弥五郎」とまで称されていた。しかも北条景広は、武一辺倒な男でもない。先に述べた斎藤朝信と同様に、内政でも活躍した人物でもあった。そのような二人を迎撃に当てる辺り、上杉謙信も決して相手を侮ってはいない。寧ろ足利義氏の筆頭家臣を、評価していたといってよかった。


「越後の鍾馗に鬼弥五郎、相手にとって不足なし! 者ども、征くぞ」

『おおー!!』


 軍の先頭ではないにしろ、梁田晴助は軍勢を率いて突撃を仕掛ける。しかして斎藤朝信と北条景広も、兵を繰り出して突貫させていた。ほぼ正面から、両軍勢がぶつかる。兵の数では二将を当てた越後上杉勢が勝っていたが、勢いは必死の覚悟を持って打って出た梁田晴助率いる古河公方勢の方が上である。その為、彼らは拮抗していた。

 すると、越後上杉勢も古河公方勢もこの周辺に集まってくる。その為か、この辺りでの戦が最も激しくなる。そんな中にあって、梁田晴助は前線を抜こうと檄を送った。何せ本陣の近くまで攻め寄せられていることもあり、古河公方勢が劣勢であるのは間違いない。この状況を一服させるには、越後上杉勢を蹴散らすのが必須であった。

 その為にも、この乱戦模様となった戦線を抜くしかない。しかるのちに上杉謙信へ攻勢を掛け、追い払うなり討ち取るなりする必要があった。とはいえ、乱戦模様となってしまったが為に逆に難しくなったといっていい。少数で上杉謙信に向かったところで、先に述べた成果を望むなど難しい。かといって、多数の兵で向かえるほど味方に余裕がない。しかも、どうやら上杉勢に押し返されている。前線近くで兵を指揮しているからこそ、感じられた状況であった。

 今はまだ士気が高いゆえ、そう簡単に抜かれることはない。だが、一端抜かれれば一気に戦況は不利となるのも間違いなかった。そうなってしまっては元も子もないと考えた梁田晴助は、弟の簗田助縄やなだすけのりを呼び寄せた。


「平四朗(梁田助縄)、そなたは本陣に戻れ」

「本気か、兄上!」

「聞け! これは万が一を考えてのことよ。もし劣勢とならば、北へ逃れろ」

「北、にございますか?」

「うむ。蘆名や伊達は難しいかもしれんが、大崎や南部であれば殿を匿う筈だ」


 大崎氏は東北の名門である。何せ、奥州探題を世襲していた家なのだ。しかし戦国の世に翻弄され力を落とし、さらには伊達家が陸奥国守護に任じられたことで没落してしまう。しかも奥州探題と同じく大崎家が世襲していた左京大夫の官職も伊達家に奪われたことで、名実ともにその地位を奪われてしまったのだ。

 勿論、大崎家が恨みを覚えない筈がない。しかし力関係が劣勢であったこともあり、当時大崎家の当主であった大崎義直おおさきよしなおは涙を飲んで伊達家の影響下に入ったのである。だが恨みは忘れておらず、いつかは返り咲くことを大崎家の宿願としていた。

 もっとも、その大崎義直は既に死亡している。しかし大崎家の宿願はいまだ生きており、現当主となる大崎義隆おおさきよしたかもあわよくばという思いがあった。しかも大崎氏は、嘗て織田家が仕えていた斯波家の分家筋に当たる家なのである。その斯波家は、宗家が織田信長により滅ぼされたという因縁を持っていた。

 斯波家最期の当主となる斯波義銀しばよしかねが事実上の傀儡であることに不満を持ち、今川家や吉良家を引き込んで、織田家を滅ぼそうとしたのである。しかし実行前にことが発覚してしまい、斯波義銀は尾張国より追放されてしまう。これにより、大名としての斯波家は滅んだのであった。

 その斯波家の分家筋に当たるのが、大崎家である。宗家の無念を晴らすという意味でも、一戦も交えずに織田家へ降伏するという判断はできなかったのだ。

 また南部家であるが、大崎家とは別の理由で織田家と関係を悪くしてしまっていた。

 その切っ掛けは、南部家の内輪もめにある。南部家は甲斐源氏の分家に当たる家であり、名門の家であった。その南部家の現当主は、南部晴政なんぶはるまさである。彼は南部家の勢力拡大に尽力し、「三日月の丸くなるまで南部領」と謡われるぐらい、領地を広げた人物であった。

 そんな彼にも、悩みがある。それは、嫡子に恵まれなかったことであった。そこで南部晴政は、祖父に当たる南部政康なんぶまさやすの次男となる石川高信いしかわたかのぶの嫡子を長女の婿とした上で養嗣子としたのである。しかし彼が五十を超えた頃に、待望の嫡子が生まれたのである。すると南部晴政は、養嗣子とした南部信直なんぶのぶなおを疎ましく思うようになった。

 しかし叔父の石川高信は南部一門であり、その出自ゆえに南部家内に影響力を持つ。その為、簡単に排除は難しい。そこで南部晴政は、石川家を排除するべく動き始めた。彼は石川家と同じく南部家より別れた久慈家の分家に当たる大浦家当主となる大浦為信おおうらためのぶを使い、石川家の居城となる石川城を攻めさせて、石川高信を討ち取らせたのだ。

 しかし、この影響は小さくなかった。

 そもそも津軽地方は、石川高信によって首尾よく抑えられていたという経緯がある。その津軽の要石ともいえる彼が死んでしまったことで、津軽地域の政情が一気に不安定化してしまった。

 そこで南部晴政は、南部家の有力一門である九戸政実くのへまさざねを密かに大浦為信の後ろ盾とさせ、大浦家による津軽地方の平定を命じたのである。しかしその過程で、北畠家の分家とされる浪岡北畠家の浪岡御所を攻めて滅ぼしてしまった。

 当主であった浪岡顕村なみおかあきむらは、彼の後見役を勤めていた叔父の浪岡顕範なみおかあきのりが身代わりとなったことで何とか落ち延びている。浪岡顕村は妻の実家となる安東家を頼り、安東家当主となる安東愛季あんとうちかすえの保護を受けていた。

 安東愛季は織田家と誼を通じていたこともあり、即座に経緯を織田信長へ知らせている。その時期は、関東で古河公方たる足利義氏が兵を挙げる少し前のことであった。

 関東への出陣前に報告を受けた織田信長は、息子が宗家となる伊勢北畠家を継承していることと、織田家重臣である義頼の家臣にそもそもの伊勢北畠当主であった北畠具教きたばたけとものり北畠具房きたばたけともふさを理由として詰問の使者を南部晴政へ送ったのであった。

 もっとも、織田信長にとってこの理由は取ってつけたに過ぎない。陸奥国北部に大勢力を持つ南部家であり、織田家としてはそのまま残すなど考えてもいなかったからである。つまり、体のいい理由とされてしまったのだ。

 一方で南部晴政であるが、頭を抱えてしまう。前述した通り、大浦為信を諭したのは南部晴政である。実際、浪岡家は邪魔であったこともあり、浪岡家を攻めることを黙認したのだ。その結果が、織田家からの詰問である。それなりに織田家とも誼を通じていた南部晴政であったが、この一件でその誼も壊れてしまったのだ。

 それでなくても、南部家では内輪もめを抱えている。自身が南部家内で絶大な力を持っているからこそ表面化してはいないが、もし彼が鬼籍にでも入ろうものなら、家中の内輪もめが内訌にまで発展しかねない。しかも南部晴政は、齢六十を超えている。つまり、いつお迎えが来てもおかしくはないのだ。

 そうなると、家中を纏める為にも旗頭か神輿が必要となる。そんな南部家にとり、足利義氏という存在は都合がいいと思われる可能性があるのだ。


「……南部に大崎ですか」

「他にも最上が味方すればとも思うが、こちらも蘆名や伊達と同じく望み薄かも知れぬ」


 最上家は、足利家庶流となる家である。奥州探題を世襲した大崎氏と同じく、最上氏は代々羽州探題を世襲した家であった。しかし現当主となる最上義光もがみよしあきの妹が、伊達家現当主となる伊達輝宗だててるむねの正室として嫁いでいる。伊達家は織田家と誼を通じていることもあり、最上家が足利義氏の味方となるかは微妙であった。


「分かりました。万が一の時は、中務大輔(梁田持助)殿と共に古河公方様を守り北へ落ち延びる」

「頼むぞ」


 弟と息子に後を託した梁田晴助であったが、視線を戦場に戻すと苦笑を浮かべてしまった。その理由は、明らかに味方が押されているからである。上杉謙信率いる越後勢もさることだが、彼により分断された前線部隊が、織田信長と足利義信の兵によってほぼ殲滅されていたからだ。その両部隊も、再編成に努めているとみられる。それが終われば、こちらへ攻めてくるのは必至であったからだ。


「持助に縄助。どうやら、そう遠くはないようだ。すまぬが、あとは任せる。わしは先に冥府へ旅立つとしよう……我こそは古河公方足利右兵衛佐義氏なり! この首を欲しくば、早々に我が前へと進み出でよ!!」


 そう宣言したあと、梁田晴助は旗下の兵と共に敵軍勢へと突貫する。宣言を聞いた織田家の兵も、彼へと殺到する。嘘か誠か分からない宣言であったが、その内容ゆえに捨て置くことはできないからだ。

 こうして梁田晴助はそれこそ死ぬまで抵抗を続け、最後の最後に幾つもの槍を体に刺されて絶命したのである。この文字通り命を懸けた時間稼ぎの隙を突き、足利義氏は戦場を離脱したのである。旗なども戦場に残し逃走した古河公方の一党は、梁田晴助の遺言通り北へ向けて落ち延びていった。

 因みに織田信長は、敢えて足利義氏を見逃している。幾ら戦場であったとはいえ、敵大将の動向が把握できないということなどない。ましてや織田信長には、嫡子の織田信忠と同様に義頼が命じて付けている忍び衆がいる。その状況下で、全く情報が入ってこないなどあり得ないのだ。

 それであるならば、何ゆえに見逃したのかというと先を考えてである。落ち延びた足利義氏が捕らえられるもよしであるし、どこぞの大名に受け入れられてもいい。さらにいえば、野垂れ死んでしまったとしても問題はなかった。

 ことここに至っては、足利義氏の存在は北へと攻め込むに当たっての大義名分の一つとしてしか成り得ないのである。兎にも角にも、戦勝を治めた織田信長は、関東における仕置きを終えると兵を引きあげる。やがて軍勢が畿内へと戻ったのは、年末のことであった。



 明けて翌年、戦があったことから少しずれこみ二月、上杉景勝うえすぎかげかつへ越後上杉家の家督が譲られる。するとその日の夜、祝いの宴のさなかに上杉謙信が倒れてしまった。

本来であれば、先代となる上杉謙信と当代となる上杉景勝が揃って織田家に家督を委譲したことを告げる挨拶に向かう筈だったのだが、急遽取りやめとなった。

 上杉景勝は急ぎ医者の手配をすると同時に、自身の代理として直江兼続なおえかねつぐを派遣して事情を説明する。知らせを受けた織田家も、上杉家に関しては急いでいる話でもない。事の次第がはっきりするまでは、安土まで来る必要はないとしていた。

 しかし上杉謙信は、中々目覚めない。だが、二月の中頃突如目覚めた。すると彼は、上杉景勝に生前に纏めていた十六ヶ条に及ぶ言葉を遺言として残す。これはいわば訓戒とも取れるものであり、上杉景勝は押し戴くように受け取っていた。

 その後、二言三言声を掛けると、上杉謙信は全てをやり遂げたかのように体を横にする。そして目を瞑ると、再び目覚めることはなかったのだった。


関東争乱が終結。

そして、上杉謙信の人生も終結しました。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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[一言] ついに来てしまったか 事後を託するだけ御館の乱がないだけよかったかもしれませんね あったら絶対蘆名盛隆が支援して新発田が謀反起こすし 北畠顕村は旧領を回復できるだろうか にしても津軽為信の…
[一言] 宴会中に…… やっぱり酒のみですからねぇ こうして戦国の雄が退場して逝くのか……
[良い点] 豪雪地帯で梅干や粗塩ツマミののんべいですからね~ 託す時間あっただけでも有情?
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