第二百六十話~九州仕置き~
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第二百六十話~九州仕置き~
豊後国にある丹生島城、ここは大友宗麟が建築した城である。当初、丹生島に城などはなかった。しかし、近隣には大友家十五代当主となる大友親繁が築いた城館が存在していたのである。さらに、次代の当主となる大友政親が寺を建てるなど、丹生島の近隣はそれなりに開かれた場所であった。
だが、大友宗麟が何ゆえにこの地へ城を築いたのかというと、切っ掛けは内乱にある。彼が当主となってから六年後、家臣同士の対立から重臣の小原鑑元が挙兵するという事態が発生する。この時、大友家の居館のある府中でも挙兵があり、大友宗麟は急遽府中より離れこの地に移動したのだ。
さらにそれから二年後、形の上では盟約を結んでいた毛利元就が攻めてくると、やはり大友宗麟は大友家の居館のある府中からこの地にまで移動する。戦は長くなると見た大友宗麟は、この地を毛利家との戦における拠点と定めて戦へ傾注したのだ。
この戦は豊前国にある門司城を中心に行われ、何度かの中断を挟みながらも繰り返し行われている。最終的に足利将軍の仲介で毛利家と和睦をするまで、実に丸四年の年月を必要とする戦となっていた。
やがて門司城を巡る戦が終了すると、彼は剃髪をしてそれまで名乗っていた大友義鎮から大友宗麟へと名を変えている。同時に、この地にあった丹生島に新たな拠点として城の建築を始める。こうして、丹生島城が誕生した。
やがて丹生島城を完成させると、丹生島城の城下町は大友家第二の本拠地というぐらいに発展したのである。のちに隠居して家督を嫡子の大友義統に譲ると、丹生島城は大友宗麟の隠居城となった。
そのような経緯を持つ丹生島城であるが、今は織田信忠が滞在する為に提供されている。彼は丹生島城に羽柴秀吉と共に留まり、九州南部への侵攻を命じた義頼と明智光秀のどちらが先に島津家を攻略するのかを待っていた。
そんな織田信忠の元へ、書状が二通届く。あまり時間差がなく届いたその書状の差出人は、義頼と明智光秀であった。島津家討伐を行っている両名から届いた書状に目を通してみると、内容に大した差がない。してその内容とは、島津家の降伏に関してであった。
「ほう? なるほど、そうきたか」
「殿(織田信忠)、いかがなされました」
「秀吉、それから秀政らも見てみろ」
「……これはっ!」
「そうだ秀吉。島津は、降伏したいそうだ」
ここにきての降伏であり、羽柴秀吉もそして堀秀政らも一瞬だが驚きの表情を見せる。だが本当に一瞬であり、直後には笑みを浮かべていた。
「して殿、お受けになるのですか?」
「ふむ、秀政。その方はどう見る?」
「会ってみるのも、よろしいかと」
「そうだな。我もそう思う。ゆえに、秀吉に秀政。手筈を任せる」
『御意』
その後、返書が二通認められ、提出される。そこに内容を確認した織田信忠の花押が記入されると、義頼と明智光秀の元へ書状が届けられる。両名の元を訪れていた島津家の使者は、いつ届くか分からない返書を待っていたのだが、思いの外早く届いた返書に内心で安堵していた。
その書状を持って、それぞれの使者は内城へと戻る。そして、島津義久と島津家久へ織田信忠の返書が届けられたのだ。
「取りあえず、聞く耳はあるということだな」
「ええ。それは、幸いでした。しかし、どのような条件が出るかを考えると頭が痛くなります」
「何せこちらが言い出したことだからな……最悪、家の存続だけでもよい。家久、頼んだぞ。」
「はい」
内城を出た島津家久は、義頼の元を訪れた。彼が明智光秀ではなく義頼を選んだのは、割と単純である。それは顔見知りであったから、ただそれだけであった。そもそも島津家が義頼と明智光秀の両名に書状を出したのは、保険の意味合いが強い。もし片方が駄目であったとしても、もう一つから織田信忠へ繋ぎが取れればというものであった。
だが、図らずも義頼と明智光秀の両方に出した書状が織田信忠へと届いたことで、どちらに赴いてもいいということとなる。そうなると、一度も会ったことのない人物より顔見知りを選んでしまうというのは、人として自然であった。それに聞き及んだ話であるが、織田信忠に対しても義頼は関与が深いという。その点を考慮し、島津家久は彼を選んでいた。
無論、恨みがない訳ではない。戦況云々以前の問題として、兄である島津義弘を討ったのは他でもない義頼だからである。しかし、ことは島津家だけでなく薩摩国人の浮沈すらも左右しかねない。今は恨み辛みを棚上げしてでも、成功させる必要があった。
何はともあれ、内城を出た島津家久はひとまず出水へと向かう。現地に到着すると、彼は僅かな供を伴って義頼が入っている井ノ上城へと赴く。そこで、義頼自らの出迎えを受けた島津家久は、一日の休息を挟むと義頼と共に丹生島城へと赴くこととなった。
因みに残された軍勢を預かるのは、甥の大原義定である。そうなると竜造寺家の軍勢を纏める者がいなくなる為、彼の代わりに永原重虎と小寺孝隆が派遣されることになった。
さて、井ノ上城を出た義頼と彼の護衛である藍母衣衆と藤堂高虎以下馬廻衆は、島津家久の一行と共に義頼が率いた軍勢が井ノ上城までにまで至った道筋を戻るようにして丹生島城へと戻って行く。幸いなことに途中で何らかの問題なども発生せず、彼らは無事に到着すると丹生島城の城下町にて一日滞在することになる。そして翌日、島津家久は織田信忠との面会にこぎつけていた。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」
「中書(島津家久)、久しいの。して、用件は降伏であったな」
「はい」
今さら取り繕っても仕方がないので、島津家久は織田信忠からの問いに率直な返答をする。既に降伏する旨を記した書状を送っているのだから、そのようなことをする必要もなかったが。
「では、条件を伝える。薩摩国、大隅国、日向国半国の召し上げ。島津家は、薩摩より日向半国へ移動させる。加えて、島津義久を隠居させ、織田家の人質とする。以上だ」
「なっ! それは幾ら何でも、あんまりにございます!!」
「これでも甘いつもりだがな。そこにいる義頼の六角家は、本貫地以外全て召し上げたのだ。それに比べれば、ましだろう。それでも不満だというのならば仕方ない、文字通り島津をすり潰す」
「そ、それは……」
織田信忠の言葉に、島津家久は言葉に窮した。
先に上げた領地条件が、当初の想定より厳しかったからである。確かに最悪は、兄の島津義久から首を差し出すとまでの言質を得ているので、それに比べればましである。しかし、兄弟としてできうるならばそのような事態とはしたくはない。ゆえに島津家久としては、大隅国と日向国を手放すことで手打ちにしたいと考えていたのだ。
しかし出された条件は薩摩国と大隅国と日向半国の召し上げに加えて、島津義久の隠居と人質であり、さらには本拠地ともいえる薩摩国からの移動である。以上の項目を挙げたばかりか、淡々とした態度で脅しまで付け加えられていた。いや、織田家の実力を考えれば脅しでもない。問題なく実行できるものであること、それは厳然たる事実であった。
もしそのようなことになれば、織田勢により島津家……否、薩摩国内は蹂躙される。それこそ、家臣国人問わずにだ。家の存続をもさることながら、家臣国人のことを考慮すれば、それだけは何としても避けねばならない。つまり、島津家久に残された選択など、始めからなかったのだ。
「どうする。織田としてはどちらでもよいぞ」
「……分かりました。全面的に受け入れます」
「そうか。賢明な判断だ」
こうして島津家の降伏が決まると、島津義久の召喚が行われる。実行したのは、明智光秀であった。書状による連絡を受けると、彼は軍勢と共に内城へと赴く。既に詳細について報告を受けていた島津義久は、数名の重臣と幾許かの護衛を引き連れて明智光秀と合流すると丹生島城へと出立した。
一方で出水地方にて島津義虎と対峙していた六角家を中心とした軍勢は、そのまま薩摩国内に入り島津家及び家臣や国人らを監視下に置くことになる。義頼を介して命を受けた大原義定はすぐに軍勢を動かし、薩摩国内を鎮定していくのであった。
明智光秀と共に丹生島城へと入った島津義久は、一旦部屋へと通される。そこで、弟の島津家久と再会した。その後、兄弟揃って織田信忠の前に召し出された二人は、改めて降伏の口上を述べる。最後まで抵抗した島津家が降伏したことで、織田家による九州鎮定は終わりを迎えたといっていい。あとは、織田家による九州の仕置きとなる。その仕置きの矛先が最初に向けられたのは、大友家であった。
島津義久と島津家久を広間より退出させた織田信忠は、同じ広間に控えていた大友家の者たちの中にいる大友宗麟に目を向ける。それからゆっくりと口を開き、彼へ話し掛けた。
「さて、宗麟。そなたに聞くことがある、正直に答えよ」
「それは、無論にございます」
「では、義頼」
「御意」
織田信忠より指名された義頼は、書状を広げるとそこに記された内容をつらつらと読み上げ始める。その内容とは、嘗て大友家からの嘆願により織田家で仲介した大友家と島津家と竜造寺家で結ばれた不戦条約に関してであった。
前述したように織田家は、大友家からの嘆願に答えるに当たって、条件を突き付けている。それは、大友家で行われていた奴隷貿易の取り締まりと禁止であった。しかし大友宗麟は、家中に通達こそしたが、ただの一回も取り締まりなどを行っていなかったのである。この点については、戸次道雪も高橋鎮種も懸念し、苦言を呈していた。しかし大友宗麟は一顧だにせず、放置し続けたのである。そして、ついにそのつけを払う時が来たという訳であった。
「さて宗麟殿、弁解はありますか?」
「……」
「何もないということは、肯定したと取りますが、よろしいか?」
「……」
「答えられよ! 大友宗麟!!」
淡々と感情すら籠らせず問い掛けていた義頼であったが、ついに最後には声を荒げる。そこに込められた語勢と気迫は、丹生島城の広間の空気を激しく揺らし、広場内にいる者を一様に気圧していた。
この事態に際し、かの戸次道雪ですらも気圧されていたのである。しかし流石は歴戦の将であり、彼はすぐに気を取り直す。しかしその直後、彼は苦虫を噛み潰したような表情となっていた。
何せ彼としては、義頼との仲を深めた理由の一つに、この件があったのだ。しかし義頼を含めた織田家上層部の様子から、この一件について引く気がないのは容易に想像できる。そもそもからして、不戦の仲立ち条件としていたにも関わらず、履行どころか動く素振りすら見せなかったのだからいい訳のしようがない。だからといって、粛々と受け入れるなど家臣としてできなかった。
「参議(織田信忠)様! お待ちください!!」
「どうした、道雪」
「確かに、宗麟様に罪はあるやも知れませぬ。しかし、それは我ら家臣とて同じにございます」
「……それで?」
少し間を開けたあとに織田信忠より先を促された戸次道雪は、一つ唾を飲み込むと言葉をつづけた。
「ゆえに、ゆえに伏してお願い致します。我が命と引き換えに、赦免をいただきたく存じます」
「なるほど、道雪は忠義者だな……だが、今となってはそのような問題ではないのだ。有り体にいおう、織田家は大友家から虚仮にされたのだ! そのような家に対し無条件に許すなど、できる筈などないではないかっ!!」
織田信忠の言葉に、戸次道雪の言葉が詰まった。
それでなくても織田家は、大友家に対して誠実といっていいだけの動きをしている。大友家からの要望により実現した不戦条約の件しかり、こたびの救援要請への対応しかりである。それに引き換え、大友家が誠実に対応したとはとてもいえる状況ではなかった。
それでも戸次道雪は、家臣として長年仕えた大友宗麟を助けるべく口を開こうとする。だがその行動を征したのは、他でもない大友宗麟であった。
「もうよい、道雪」
「しかし、宗麟様!」
「よいのだ……参議様。こたびのことは、拙者の不徳の致すところにございます。さすれば、わが命を持って詫びに代えたいと存じます」
「そなたの命か。ふん、足りぬな。こたびの件については、そなたばかりではない。その方により、大友家中に通達されたあとも続けた不届き者らもおろうがっ!」
大友宗麟へそう言ったあと、織田信忠はこの場にいる大友家家臣へ視線を向ける。その視線は家臣全てではなく明確に誰誰へと向けられており、その仕草から織田家が大友家のどの家臣が大友宗麟からの通達後も奴隷貿易を行っていたのかを把握していることを裏付けていた。
その情報収集力の高さに、戸次道雪など一部の大友家臣の表情が驚きに彩られる。同じ九州に領地を構える大名国人ならばまだ分からなくもないが、畿内と九州という絶対的ともいえる距離すらも超えて情報が集められていることに驚愕を禁じえなかった。
一方で視線を向けられた大友家家臣はというと、一気に血の気が引いている。現在丹生島城は、織田家に貸し出されている状態であり、城内にいる兵の大半は織田家の兵である。大友家の兵もいない訳ではないが、その者たちは殆どがこの場にいる大友宗麟や大友義統や大友家家臣の護衛の者たちである。護衛という役目である以上、武に覚えがある者たちであるが大きすぎる兵数の差を覆せる程でもないのだ。
詰まるところ、彼らが余程上手く言い逃れを行えなければ、明日はないのである。そもそも、事実上大友家の最高権力者となる大友宗麟が追及されている。そのような状況で言い逃れや弁明すら届くとは、とても思えなかった。
「……分かりました。その者たちにも、責任を取らせます」
『宗麟様!』
「この戯けっ!! もはや遅いのだということが、まだ分からぬかっ!」
大友宗麟の言葉に、彼の名を呼んだ家臣らが一斉に表情を歪め、そして口を噤んだ。
彼らにとり、お家大事が最優先事項である。必要とあれば、親兄弟や息子や娘、はたまた自身すらも犠牲にして家を守らなければならない。それこそ、仕える主家すらも犠牲とするのもやむなしとすることすらもあるのだ。その考えからすれば、ここで自身の命を使ってでも家を守らなければならない。だからこそ彼らは、表情を歪めながらも大友宗麟の言葉に反論しない……いやできなかった。
さりとて、下手に言葉を紡げば怒りを見せる織田信忠や、声を荒げた大友宗麟から叱責が飛びかねない。その為か、奇妙な沈黙が広間に横たわっていた。そんな重苦しい沈黙の中、義頼が意を決したように口を開く。どのみち、このままとはいかない。誰かが口火を切るしかなかった。
「しからば殿、いかがにございましょう。こたびの戦で大友家の家臣が挙げた功を持って、大友家自体の存続を許すというのは」
「……義頼、それはいったいどういう意味だ?」
「はい。そこにおられる戸次道雪殿や、この場にいない高橋鎮種殿らの功、さらにいえば、日向守(明智光秀)殿の旗下として島津家侵攻の際に挙げた功、これらを持って一旦は大友家を取り潰さないとするのです」
「だが織田家、ひいては父上や我を虚仮にしたという事実に関してはどうする」
「そちらに関しましては、宗麟殿自身がおっしゃられたように命を持って償っていただきましょう。また、大友家も領地を召し上げ九州より移動させればよろしいかと」
義頼からの提案だが、決して織田家にとって悪いものではない。大友家家臣の挙げた功を引き換えにするということは、褒美を与える必要がなくなるということだからだ。無論、全くなしという訳にもいかないが、その辺りは金でも出してやればいい。全く手に入らない事態であったのに、金を手にすることができれば幾らかでも鬱積が晴れるというものだからだ。しかも、金を出すのは織田家である。感謝こそすれ、恨まれることはあまりないと思われるからだ。
それに今回の件で助けることができるのは、大友家だけである。織田家の意向を受けて大友家が家中に通達したのちも奴隷貿易などを止めなかった者たちについて、考慮してやる必要は全くなかった。
「ふむ……しかし、大友をどこに移動させる」
「それについては宗麟殿、確認したい」
「何か」
「大友家は元々、相模の国の出であるな」
「よくご存じですな。左衛門督(六角義頼)殿がおっしゃられた通り、大友は相模国足柄上郡大友郷の出にて」
大友家は、初代とされる大友能直が、先に述べた地を継承した際に地名にちなんで姓を大友に代えたことで始まる。それまでは近藤姓であり、藤原氏の流れを汲んでいた。
しかも彼は、源頼朝から寵愛を受けていた。そのような経緯もあって、のちに豊前国と豊後国の守護職となっている。その後には、筑前国の守護も兼任したようであった。しかし本人は九州にあまりおらず、京や鎌倉を中心に活動している。代わりに領国には、守護代を配置している。なにはともあれこうして大友家は、九州に勢力を伸ばすこととなったのだ。
「そういうことか。いいだろう義頼、そなたの進言を採用する。では、大友家の処罰についてだが、宗麟や織田家としての通達を無視した者らは切腹。だが先の戦などで挙げた大友家臣の手柄を鑑み、大友家の存続は許す。しかし、九州より移動させる」
「分かりました。ですが、参議様にお願いの義がございます」
ここで大友宗麟が、織田信忠に対して何と願いを口にする。流石に不遜と思ったのか、羽柴秀吉が叱責した。しかし、興味をかられたのか、他でもない織田信忠が先を促す。主が先を促した以上、羽柴秀吉としても遮る訳にはいかない。不承不承ではあっても、口を閉じていた。
すると大友宗麟は、願いを口にする。その内容は、先を促した筈の織田信忠ですらも困惑させた。何せ、自身は自裁を行うことができないので死を賜りたいというのである。一応大友家は名門となるので、織田信忠はせめてもの情けとして切腹を言い渡したのだ。それであるにも関わらず、大友宗麟から遠回しに切腹ができないというのである。これでは困惑するのも、当然であった。
「宗麟。いったい、どういうつもりだ。その方は切腹できないと、そういうのか」
「誠に申し訳ないとは存じます。ですが、拙者にはできないのです」
「何だそれは。理由をいえ、理由を」
「切支丹は、自ら命を絶つことは罪となります。ゆえに、できないのです」
「はぁ?」
まさかそのような理由で、切腹を拒否しているなど夢にも思わなかった織田信忠は驚きのあまり素っ頓狂な声をあげる。それは、他の織田家の家臣も同様であった。
何ともいえないでいる織田信忠は、ふと視界に入った大友宗麟の息子である大友義統へ本当かを尋ねる。何せ、彼もまた切支丹である。ならば、父親の申し出に間違いがないかなど簡単に判断できる。すると織田信忠より問われた大友義統は、ただ一言で肯定していた。
「なるほど。嘘ではないということか。ということは、我にそなたの首をはねろと命じさせたいのか。ふざけるなっ!!」
「伏して、お願い致します!」
「ならば、大友家は潰す。それだけだ!」
「何卒、何卒!」
「……宗麟。二つに一つだ。大友家を潰すか、それとも、棄教でも何でもしてその方が切腹するか。明日、いや二日だけ猶予を与えてやる、それまでに決めろ。以上だ」
「参議様、御慈悲にございます!」
「既に大友家を残すという慈悲は与えた。これ以上は、不遜であろう。違うか、大友宗麟」
その言葉に、がっくりと大友宗麟が崩れ落ちる。そんな彼を睥睨したあと、織田信忠は大友家当主である大友義統と大友家の存続を願い出た戸次道雪へ視線を向けた。
「大友義統、戸次道雪。そなたらが、しっかりと責任を持て。遅くとも二日後までには、宗麟の決断を伝えにこい。よいな二日後だ、忘れるな」
『し、承知致しました』
大友義統と戸次道雪からの返答を聞いた織田信忠は一つ頷く。しかし処分の対象となるのは、大友宗麟だけではない。先に述べたように、織田家から大友家より通達されたあとも奴隷貿易を続けた者たちへ対する沙汰を済んでいない。織田信忠は、この場にいる大友家臣ら全てを一瞥してから、処罰について通達したのであった。
「また、他の者についてだが、成人した男子は全て切腹。女子供は寺に入れ、領地は全て召し上げる。よいな」
『ぎ、御意……』
処罰対象となる大友家家臣からすれば、納得できるものでもない。しかし、相手は強大な織田家の当主である。逆らったところで、今の大友家ではどうにかできる訳でもないのだ。万が一にでもこの場で討てれば何とかなる芽が出てくるかもしれない。しかし、それを実行することなどできはしない。それは、広間の状況が変わっていたからだ。
何せいつの間にか、織田家の兵が広間の周辺に現れているのである。それはこの場にいる大友家家臣の数などより多い。これでは、へたに動くと討たれてしまうだろうことは容易に想像できた。
また、彼らは気付いていないが、織田信忠の身辺を守る義頼の付けた忍び衆もこの場には忍んでいるのだ。そんな忍び衆の存在は別にしても、これでは織田信忠をこの場でもし討てたとしてもあとが続かない。それどころか、親兄弟どころか領民まで鏖殺されかねなかった。いや、報復と称して間違いなく鏖殺される。そうなれば、間違いなく族滅である。それだけは、何としても避けたい。ゆえに彼らは、表情を歪ませながらも織田家の処断を受け入れていた。
それからおよそ半月後、大友家の関係者に対する処分が行われた。
まず大友宗麟についてであるが、家を残す為として苦渋の決断ながら受け入れている。本人からすれば不本意極まりなかったのだが、流石に息子らを巻き込むことはできなかったのである。もし自身だけであれば、決して彼は切腹など受け入れることはなかったであろう。だが、そのような事態とはならず。彼は文字通り血の涙を流しながら家族の為に腹を掻っ捌いたのであった。
なお、大友宗麟は、今際の際に自身の腸を悔しさのあまり引きずり出し切腹した部屋一面に投げつけたという話もあるが定かではない。
ある意味で壮絶とも取れる死を迎えた大友宗麟を筆頭に、幾人もの大友家家臣が涅槃へと旅立つ。そして大友家自身は、のちに大友義統らは相模国にある大友郷へ移動する。これにより大友家は、領地周辺を全て北條家に囲まれることとなった。
因みにこの大友家の移動に関連して領地が減らされてしまった北條家であるが、彼の家には別の土地が補填されることとなる。その補填とは、北條家初代となる北條早雲こと伊勢宗瑞の所領であった備中荏原荘、即ち北條家の本貫地ともいえる地が与えられたのであった。
何はともあれ、こうして大友家に対する懲罰を終えた織田信忠が、次に仕置きしたのは竜造寺家である。その竜造寺家では、ある不幸が起きていた。というのも、竜造寺隆信の弟となる竜造寺信周が正月明けて間もなくには身罷っていたのである。彼は原田隆種に寄って負わされた耳たぶの傷の治癒が思わしくなかったようであり、ついには命を落としてしまったのだ。
とはいえ、竜造寺家には嫡子の竜造寺政家もいるし、竜造寺隆信のもう一人の弟となる竜造寺長信もいたのでさほど問題とならなかったのが不幸中の幸いであった。
そんな竜造寺家に対する仕置きであるが、肥前半国の領有である。但し、形の上では北九州の鎮定に協力したことと島津家侵攻の際に義頼の旗下として挙げた功を考慮し、追加の褒美が与えられている。その結果、竜造寺家は肥前国の三分の二を領有することとなる。最後に、肥後国に関してだが、こちらはどの家も織田家に反抗しなかったこともあり、国人の所領についての安堵が通達されていたのであった。
大きなところでの九州仕置きが終わりました。
これにて、西はほぼ終了です。
あとは、東での出来事となります。
ご一読いただき、ありがとうございました。




