第二百五十九話~織田家六角勢の進軍~
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第二百五十九話~織田家六角勢の進軍~
南に向かった明智光秀が日向国に入って間もなくした頃、義頼もまた肥後国へと入っていた。幸いにして肥後国では、北九州程には戦乱が起きていない。それには、二つの理由があった。
一つは、肥後国南部に勢力を張る相良氏の存在である。嘗て、近衛前久が下向してまで仲立ちした大友家と竜造寺家と島津家の間で結ばれた不戦条約に付随する形で締結された島津家と相良家の不戦条約が、島津家にとり予想外に障害となってしまっている。彼の家が存在することで、薩摩国から直接進撃する道筋が塞がれた形となってしまったのであった。
だからといって、【高城の戦い】で撤退した大友家に引導を渡す為に島津義久が率いている本隊より兵を割くという訳にもいかない。確かに撤退する大友勢を追って丹生島城近くまで進撃できたとはいえ、大友家の力も侮れるものではないからだ。
一時とはいえ、九州における最大勢力を誇った大友家は伊達ではない。そこで島津義久は、ひとまず肥後国は後回しにし、大友家との決着を優先させたのだ。だがこの判断は、結果として最大の誤算となってしまう。それこそが、肥後国に戦乱がまかれなかったもう一つの理由である。もう一つの理由、それは織田家の存在であった。
島津家も【高城の戦い】のあとに織田家が介入してくる可能性は考慮していたので、その前に九州の統一をと考えていた。しかし、島津家の予測を超える速度で織田家の介入が始まってしまう。まさか【高城の戦い】が終わってからそう時を掛けずに織田家が畿内より遠く離れた九州まで介入してくるなど、予測できなかったのだ。
その為、島津家は肥後国へ兵を向ける機会を完全に失ってしまう。この為、肥後国では周りの国とは対照的に表面上は静かであったのだ。
因みにこの肥後国介入の誤算だが、竜造寺家も同様である。何せ竜造寺隆信も、隙あらばと肥後国へ介入の機会を探っていた。しかしながら織田家の介入が早かったこともあって、実行する機会に恵まれなかったのである。だからこそ彼の家は、筑後国に進軍を絞ったのだった。
話が少しそれた。
何はともあれ、そのような背景があった肥後国へ、いよいよ義頼率いる軍勢が進出してきたのである。しかも彼らは、肥後国人の大半がよすがとしていた大友家の救援を大義名分としてこの九州へ現れた軍勢である。そんな彼らに対し、肥後国の国人が頼らない筈がなかった。
折しも【高城の戦い】で大友家が惨敗し、影響力を著しく減退させている。ゆえに彼らが、織田家を選ぶのは家の生き残りを考えれば寧ろ当然であった。そんな肥後国人の中で、最初に動いた比較的有力な国人は合志氏である。というのも合志氏は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲んでいたからだ。つまり佐々木氏の後継である六角家は、宗家筋に当たる。そこで合志氏当主の合志親為は、同じ佐々木氏の流れという縁を頼り義頼の下へ自らが出向いてきたのであった。
義頼としても、同じ流れを汲む家と言うこともあり無下にはしない。ゆえに合志親為との面会は、滞りなく実現していた。するとその席で、合志親為は織田家に従属する旨を伝達する。暫く考えた義頼であったが、程なくして了承していた。
「……よかろう。伊勢守(合志親為)殿の申し出、受けるとしよう」
「はっ!」
こうして合志家は、織田家に従属したのである。すると合志親為は、居城の竹迫城を提供する。そして自らは、近隣にある原口城へと移動していた。このように合志親為より提供を受けた竹迫城に駐屯した義頼は、そこで腰を据えた上で肥後国の国人を召集する。形の上では大友家との連名での召集であり、彼の家に一応配慮はした形ではあった。
無論、彼だけが義頼の元へ訪れた訳ではない。程なくして赤星氏や城氏、隈部氏などといった肥後国北部の国人らが召集に応じて現れる。その中において、隈部氏の当主である隈部親永は少々複雑な思いを抱えていた。
というのも、彼は赤星家と城家との間にいざこざを抱えていたからである。元々赤星家と城家と隈部家は肥後守護職を勤めていた菊池家の家老を勤めていた家であり、菊池家の三家老ともいわれていた家である。しかしその菊池家も最期の当主である菊池義武が大友家の手の者によって殺されてしまうと、同僚であった彼らは大友家を後ろ盾として菊池家の遺領を抑えていた。
だが菊池家旧家臣による主導権争いがおこり、隈部家と赤星家が明確に対立したのである。のちに両者は直接干戈を交え、隈部親永が赤星親家を討ち取ることで主導権争いは終息を見るかに思われた。
しかし赤星親家の嫡子に当たる赤星統家が大友家に訴えたことで、事態が複雑化してしまう。結局、大友宗麟が仲裁に入ることで事態は収束したが、隈部家は赤星家に対して忸怩たる思いを持ち続けていたのだ。
その赤星家と足並みを揃えるというのが、いささか歯がゆいのである。しかし、だからといって義頼が率いている織田家の兵と対立するなど、考えられない。そのようなことすれば、鎧袖一触とばかりに滅ぼされるのは明確である。ゆえに隈部親永は、お家の為、一族の為として気持ちを押し殺して召集に応じたのであった。
また、彼らより少し遅れていたが、名和氏や阿蘇氏などといった国人たちも参集に応えて訪問してきていた。その名和氏であるが、彼の家は村上源氏の流れを汲む家である。そして先祖を辿れば、建武の新政を行った後醍醐天皇を支えた名和長年を輩出した一族であった。
そんな名和氏の現当主を務める名和顕孝は、同じ村上源氏ということで北畠具教と息子の北畠具房に接触を図ると、義頼への仲介を願い出ていた。申し出を受けた彼らも同族ということで力を貸したこともあり、名和顕孝は事実上の従属という形で首尾よく義頼率いる軍勢に加わることができていた。
そして阿蘇氏であるが、こちらは古代より続く家であり、同時に阿蘇神社の大宮司を勤める一族でもある。嘗ては肥後国において菊池氏や相良氏と並び称された家でもあったが、内訌が多かった為か力を落としていたのだ。
その阿蘇家は、筆頭家臣となる甲斐宗運を竹迫城へ派遣している。しかも彼は、阿蘇家当主の阿蘇惟将と話し合い織田家に臣従するように説き伏せた上での訪問であった。
そう。
彼の家は、従属ではなく臣従を選んでいる。つまり阿蘇家は、織田家の家臣となる判断をしたのだ。下手に従属という形より、率先して臣従することで、織田家中において一定の存在感を持たせようと考えた甲斐宗運が当主である阿蘇惟将を説得したのである。申し出を受けた義頼も、阿蘇家の思惑が分からないでもない。しかも阿蘇家は名門であり、彼の家が臣従したとなれば利点も大きい。ゆえに、その申し出を受けたのであった。
こうして主に肥後国北部から中央部に掛けての国人らを集めていた頃、相良氏もまた竹迫城へと軍使を派遣する。その顔触れは、丸目長恵ともう一人、相良家家老の地位にある深水長智であった。深水家は、相良家四代目当主となる相良長氏の三男の子供を祖とする家であり、相良家一門衆の家である。その出自ゆえか深水家は、代々相良家の重臣として仕えた家であった。特に深水長智は、名臣としてそして教養人として名を馳せていたのである。いわば、相良家における文官の筆頭といっていい男であった。
「久しいな蔵人佐(丸目長恵)殿」
「左衛門督(六角義頼)様。お目通りが叶い、感謝の言葉もございません」
「うむ。して蔵人佐殿、隣の御仁はどなたか?」
「はっ。こちらは相良家家老、深水様にございます」
「ご尊顔を拝し、恐悦に存じます。して、左衛門督様。こちらは、我が殿よりの書状にございます」
深水長智が差し出した書状を受け取ると、義頼はその場で目を通す。そこには、織田家に阿蘇家と同様に臣従することが記されていた。それだけでなく臣従の証として、嫡男の亀千代を差し出すとまで記されている。嫡男を差し出すあたり、相良家当主の相良義陽の本気度が知れる申し出であるといえた。
阿蘇家に続いて相良家からも出た臣従の申し出に義頼は、少しの間だが考えにふける。何ゆえに、相良家が従属ではなく阿蘇家と同様に臣従を言い出したのかについてである。やがて義頼は、相良家の抱える事情について思い出す。それは、島津家と結んだ不戦の約定であった。
確かに従属という形では、この約定に触れてしまい彼の家は中々に動きづらい。だが、臣従となれば話は別である。あくまで主君の家である織田家の意向に従ったに過ぎないことになるので、約定を破ったことにはならないとできるからだ。
それに【高城の戦い】ののち、大友家の力が落ちることおびただしく当てにできないという事実もある。そこで相良家は、いっそのこと織田家に対して臣従して家臣となってしまおうと決断し、この場でその旨を伝えたのであった。
「よかろう。相良家の臣従を了承しよう……それとご子息の身柄に関しては、島津家の討伐が終わったあとでよい」
『はっ』
義頼の返答に、深水永智と丸目長恵は揃って頭を下げていた。この相良家の臣従によって、肥後国内の有力国人は織田家の軍勢に参じたことになる。軍勢も規模による差はあっても、どの家もほぼ一様に派遣している。こうなれば、体制はほぼ決まったといえよう。肥後国は、事実上義頼によって抑えられたのであった。
肥後国を押えた義頼は、新たに参集した肥後国人らと共に竹迫城を出ると丸目長恵と深水長智の案内で相良家の城の一つである水俣城へと移動する。この城に入った義頼は、そこで初めて相良義陽と面会する。その場で、改めて相良家の臣従が伝えられていた。
無論、義頼は了承している。ここに、相良家の軍勢は織田家家臣として組み込まれたのである。その後、この水俣城を後陣とした義頼は、いよいよ薩摩国へ向けて進軍を開始する。とはいえ、一気に薩摩国へという訳にはいかない。何せ国境は島津家の兵によって押さえられており、まずはこれを突破する必要があった。
そこで義頼は、軍勢を二つに分けて進軍した。一つは毛利勢を中心とした中国地方の国人に、竜造寺家の軍勢を加えた軍勢である。但し大将は毛利輝元ではなく、大原義定が務めさせている。いつもは領地に残り義頼の代理となることが多い彼であるが、流石にこの戦には義頼も連れてきていたのだ。
その大原義定に六角家の軍勢や大砲などを付け、中国勢を中心とした軍勢に合流させる。その後、海沿いに走る街道に沿って薩摩国へ侵攻さていた。そして義頼だが、六角家の軍勢と肥後国の国人らを引き連れて進軍を開始する。彼が向かったのは、薩摩国と肥後国の堺にある矢筈峠である。やがて峠の近くまで到着すると、そこにはやはり島津勢が駐屯し押さえていた。
もっとも、予想通りであり驚くに値しない。早速義頼は、攻略するべく陣立てをした。もはや定番といっていい、大砲を前面に押し出し圧倒的な火力を持って制圧するつもりである。そして相対する島津勢であるが、彼らは薩摩国に残っていた者たちである。つまり義頼の軍勢とは初顔合わせであり、大砲については話こそ聞かされていたが経験はないのである。ゆえに、彼らは見慣れない大砲に対して訝しく思っていた。
そんな島津勢に対して義頼は、大砲による一斉砲撃を敢行する。大砲より吐き出された砲弾は、矢筈峠に向かっていく。そして間もなく、峠の辺りに着弾した。しかし下からの砲撃であり、初弾から命中どころか挟夾にもならない。だが、轟音はすさまじいものがあり、さしもの薩摩兵も身震いしていた。
その後、着弾点を修正された砲撃が再度行われる。すると、先程までより近い位置に着弾を受け、幾つかは挟夾していた。こうなると、彼らも砲撃の威力を実感する。それは今までに感じたことなどない体験であり、つい先ほどの身震いとは違う震えを覚えていた。このままでは、大砲からの砲撃によってなぶり殺しにされるのではとの思いに突き動かされた島津勢は、突撃を命じていた。
それにより大砲からの砲撃から逃れることに成功した島津勢であったが、しかしそれだけでしかない。何せ六角勢の火力は、大砲だけではないのだ。やがて、擲筒による攻撃が始まる。こちらは大砲とは違い取り回しが容易いので、島津勢の侵攻に合わせて着弾点をずらしていった。
こうなってしまうと、島津勢はたまったものではない。六角勢に近づくもままならず、かといって引けば大砲の餌食となりかねないのだ。ついには士気が崩れてしまい、軍勢が四散し始めたのである。峠の守備を任されていた島津家の分家となる薩州家の当主の島津義虎は必死に押し留めようとしたが、一旦始まってしまった軍勢の崩壊が止まることはなかった。
それでも彼は諦めることなく軍勢を取り纏めようとした。しかし、どうあがいても無理であるとしか判断できない。彼は歯噛みしながらも、居城の出水城へ撤退を開始する。程なくして島津勢を蹴散らした義頼は勝鬨を上げると、矢筈峠を確保したのであった。
一方で海岸近くに走る街道沿いに侵攻した大原義定率いる軍勢だが、肥後国と薩摩国の国境に流れる境川にて待ち構える島津勢と対峙した。あまり大きい川でもないのだが、境川は国境にある川である。そのことから、この地は幾度となく戦場となった場所でもある。ゆえにこの地で両軍勢がぶつかったのも、必然であった。
こうして始まった戦であるが、実はこちらも義頼の戦とそう変わる訳ではない。大原義定が選択したやり方も、火力を前面に押し出した攻勢である。こちらの軍勢にも、義頼率いる本隊程ではないが、大砲は配されていたのだ。
この軍勢で大砲や火縄銃を統括している柘植清広によって統制された砲撃により、展開していた島津勢は少なくない被害を被ってしまう。軍勢を率いていた三葉忠継は、島津義虎の弟である。その彼も兄と同じく士気の崩壊と受けた被害から兵を引かざるを得ず、悔しさを滲ませながら彼らも出水城へと向かったのであった。
国境に展開していた島津勢を蹴散らした義頼と大原義定はともに国境を超えると、出水城へ向けて進軍する。大原義定は進軍の途中にある途中の安原城と朝隈城を攻略し、義頼は井ノ上城と太田城を攻略している。その後、両軍勢は合流を果たし、いよいよ出水城へ迫っていた。そして出水城に籠城した島津義虎はというと、島津義久に使者を派遣して、援軍を求めたのであった。
「援軍……か」
島津義虎からの軍使と面会した島津義久は、一先ず使者を下がらせている。そして彼は、軍使が携えていた書状を見つめていた。彼がいっていることは、理解できる。理解はできるのであるが、島津家自体に余裕がないのである。何せ戦線は、島津義虎が守っていた出水側だけではないのだ。
明智光秀率いる軍勢もおり、彼の軍勢は既に大隅国の半分を攻略していたのである。彼が取った戦法は至極単純であり、大兵力に物をいわせた正攻法であった。無論明智家も大砲は携えており、そちらの被害も馬鹿にならない。こちらには、織田信忠が自身の軍勢に存在している大砲を幾許か貸し出していたことも、被害に拍車を掛けていた。
なお、義頼の六角勢には貸出ていない。彼の家では大砲など既に充実しており、今さら大砲を貸し出す必要などなかったからだ。
しかも戦線はもう一つあり、こちらも問題である。それは、水軍での戦いであった。坊津湊を本拠とする島津家の水軍である坊津水軍と、織田家の水軍が坊津湊の近くでぶつかったのである。しかして戦の結果は、坊津水軍の惨敗であった。
そもそも船の数も兵の数も、そして火力も織田家の水軍の方が上である。何せ織田家の水軍衆は、九鬼水軍と安宅水軍と村上水軍を中核とした軍勢である。それだけでも脅威であるにも関わらず、熊野水軍や土佐水軍などといった水軍も存在しているのだ。幾ら、派遣された軍勢が水軍の全てではないにしても、その数は膨大であり島津家の坊津水軍を凌駕していた。
さらにいうと織田家の水軍衆には、大砲が積まれた軍船も存在している。擲筒も水軍衆には装備されており、火力でも叶わない。こうして坊津水軍は、陸戦と同様に蹂躙されてしまったのであった。
その後、坊津湊を抑えた織田家の水軍衆により、島津家は後方よりも圧力を掛けられている。まだ再編成中であるのか、内城にまでは侵攻してきてはいない。しかし、それも時間の問題であるのは容易に想像できていた。
「兄上。八郎左衛門尉(島津義虎)殿の援軍だが、我が行こうか?」
そういったのは、島津家久である。島津義久の実弟で生き残っているのは、もはや彼だけとなってしまっていた。その彼が援軍として行くのであれば、問題はない。だが、島津家久は先の戦で追った傷が完治している訳ではない。いわば傷を押してこの場にいる訳だが、島津家存亡の危機であり悠長に療養という訳にはいかなかったからだ。
「……確かにお前が行けば、問題はないだろう。だが、たとえそれで義虎らを助けられたとしても一時でしかない」
「ならば兄上、どうするといわれるのか」
「おぬしも分かっているのだろう? もはや島津家に残された手など、一つしかないことに」
「……そうか。決めたのだな、兄上」
「うむ。島津家は、織田家に降伏する。このままでは、島津家すらなくなりかねん。最悪、我が首もあれば織田も納得しよう」
「兄上……分かった。では、拙者が赴くとしよう」
「頼むぞ」
一応、島津家久は織田信忠と面識はある。しかし、今の状況では会えるかどうか分からない。そこで彼は、実際に攻めてきている義頼と明智光秀を介して面会する手はずを整えるつもりであった。何せ義頼の元には、島津家の分家に当たる播磨島津家当主の島津忠之がいる。また、島津家家臣には、大山綱実という人物がいる。彼は義頼も知らなかったのだが、実は佐々木氏の流れである。大山氏は、佐々木高綱の孫に当たる野木行綱を祖とする一族であった。
そして明智光秀には、美濃土岐氏の流れを汲む敷根頼兼を向かわせる。明智氏は、土岐源氏の流れを汲む家だからである。そんな彼らを介在して、島津家久は織田信忠に面会するつもりであったのだ。
こうして義頼の下へ派遣された大山綱実は、島津忠之と面会を果たす。彼に島津家からの書状を見せ、義頼との面会を希望したのである。すると島津忠之は了承し、彼を伴って義頼との面会に臨んでいた。
「忠之。その者が、島津からの使者だというのか」
「御意」
「そうか。して使者殿、名は何と申される?」
「は。島津義久が家臣、大山綱実と申します。このような事態とはいえ、宗家の方と会えしこと望外の喜びにございます」
「……宗家だと? もしやそなた、佐々木の流れか」
「はい。野木行綱様が子孫となります」
「野木……ということは、左衛門尉(佐々木高綱)様の次男、壱岐守(野木光綱)様の末か」
義頼の指摘を受けた大山綱実は頷くことで、返答としていた。
「なるほど。ゆえに島津も使者としたか……しかし、薩摩に佐々木家の流れがいたとはな」
「は? 何かおっしゃられましたか?」
「いや、何でもない。それよりも用向きを聞こう」
「では、こちらを」
そういってから差し出されたのは、島津義久と島津家久の連名が入った書状である。そこに記されていたのは、今さらいうまでもないが島津家の降伏であった。
義頼としても、島津家が織田家に降伏するというのであるならば差し支えはない。彼は二回程頷くと、差し出された書状を畳みつつ大山綱実へ織田信忠に知らせる旨を伝えた。その言葉に、使者となった大山綱実も安堵する。織田家と島津家の話し合いが首尾よくいくかはまだ定かではないが、それでも仕える家である島津家が残る可能性は見えたのだから彼の心持も分からないではなかった。
その後、義頼は使者の大山綱実へ出水城の島津勢の去就についても訪ねている。すると出水城へは既に使者を派遣しているが、囲みが厳しく城へ入れないと伝えられた。そこで義頼は、六角家の者が同行するのならば島津の使者が城に入ることの許可を出すと島津義久へ伝えるようにという。それまでは、城を囲み続けるとも合わせて伝えられた。
島津家が降伏する旨については了承しているが、最終判断は織田信忠次第である。若し彼が承知しなければ、出水城は攻め落とすこととなる。それゆえに、攻囲を解く訳にはいかないのだ。
兎にも角にも、大山綱実は義頼の言葉を伝えるべく島津家の居城へととんぼ返りをする。そこで島津義久と島津家久へ、一言一句違えることなく彼らへ伝えた。聞き及んだ彼らとしても、致し方ないとするしかない。了承した上で、再度、大山綱実は義頼の下へ戻ることとなった。
やがて再度の面会が叶うと、島津家は全て了承する旨が伝えられる。そこで漸く、島津義虎への使者は出水城へと入る。その使者には、大山綱実と共に六角家からも人員が出されていた。彼ら立ち合いの元、島津義久からの使者が島津義虎へ書状を差し出す。同時に、使者の口よりその内容が伝えられる。当然だが、使者の告げた内容と書状の中身は全く同じものであった。
こうして伝えられた島津義虎としては業腹であるが、島津義久からの命となれば従うよりほかはない。不承不承ながらも了承したことで、一先ず出水城の攻防は棚上げされたのであった。
ほぼ時を同じくして、大隅国でも事態は動いていた。
大隅国へ派遣された敷根頼兼は、明智光秀との面会を首尾よく果たす。彼は書状を差し出し、島津家の意向を伝えた。面会した明智光秀も島津家の申し出には了承を示し、すぐに織田信忠へと伝えられている。最後に大隅国での戦についてであるが、こちらも義頼と同様に織田信忠の判断が出るまで棚上げされることになったのであった。
ついに、島津も降伏と相成ります。
あとは、あと始末です。
前書きにも書きましたが、2019年最後の更新となります。
来年も、よろしくお願いします。
頑張って、完結目指すぞー!
ご一読いただき、ありがとうございました。




