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第二百五十八話~織田家明智勢、日向侵攻~

お待たせしました。


書店アプリ『まいどく』において、配信もされております。



第二百五十八話~織田家明智勢、日向侵攻~



 博多の沖合に、船団が出現した。

 その船団を率いているのは、征西大将軍の地位にある織田信忠おだのぶただである。その船団に対して、一艘の船が近づいていく。その船には、丹生島城より派遣された義頼が乗船していた。

 彼が派遣された理由は二つあり、一つは単純に織田家の当主である織田信忠を迎える為である。そしてもう一つの理由はというと、博多商人への対応であった。

 博多の町は大友家の庇護下にあるといえるが、それはある意味で正しくある意味で間違っているといえる。博多は半ば自治を敷いており、十二人の行司ぎょうじを中心とした嘗ての堺に近い町であった。しかしその博多は、幾度となく戦乱に巻き込まれている。そして今回の筑前国の争乱においても同様であり、博多の町は略奪の憂き目にあっていた。

 そんな博多の町に、織田勢が上陸したこともあり、ちょっとした特需となり再興の一助となっている。そこにきて、織田家当主である織田信忠が博多に現れたのである。博多商人たちが、博多の町の完全復興を目指して彼に近づこうとするのは火を見るより明らかであった。

 大友家がもはや当てにならない以上、それは当たり前といっていい。そこで、商人や商売にある程度理解できる義頼が派遣されたという訳であった。もっともこの条件に当て嵌まるのは、義頼だけではなく羽柴秀吉でも問題はない。何せ彼は、織田家に仕官する前は行商を行っていたのだ。しかし羽柴秀吉は、大将として織田勢を纏め上げなければならない。その為、最終的には義頼一択であった。

 そして懸念した通り、義頼が博多に到着すると織田信忠への取次ぎが求められる。それは、大賀家や神谷家や島井家といった豪商を中心にした陳情であった。そして義頼は、彼らに明確な言質は与えず無難な対応をしてみせる。武士ならば舌で転がせばどうとでもなると思っていた博多商人たちは、期せずして現れた義頼の手強さに内心で驚きを隠せない。それでも彼らは手を変え品を変え言質を取ろうとしたが、義頼はのらりくらりと躱し続けていた。

 そうこうしているうちに、いよいよ織田信忠が現れたのである。即座に義頼は、織田信忠を迎えに行く。そんな彼を、博多商人たちは臍を噛んで見つめている。それらの視線を背に受けつつ、義頼は織田信忠の船へと乗り込んでいた。


「殿。ご無事の到着、祝着至極に存じます」

「うむ。ところで、義頼。あの町の騒ぎは何だ」

「ある意味では、殿を歓迎しているのです」


 何とも妙な言い回しに、織田信忠は眉を顰める。その傍らにて、彼と共に九州へ現れた織田家の将も首を傾げていた。なお、顔ぶれには池田恒興いけだつねおき佐久間信栄さくまのぶひで万見重元まんみしげもと堀秀政ほりひでまさといった者の他に、意外なところでは蒲生頼秀がもうよりひでがいた。

 池田恒興は、以前より義頼と共に織田信忠が軍勢を率いる際はなぜかよく付けられていることもあってか、意外とは感じられない。しかし、彼以外の顔ぶれは、今までとはかなり違っている。何より蒲生頼秀は、近江衆を率いているのだ。

 近江衆は、織田信長の近衛としての側面が強い。そもそも、近江衆を率いているのは義頼である。しかし、近江衆の取り纏めに専念させてしまうと、彼の持つ能力を存分に生かせない。そこで、名目上の大将はそのままに代理に任じられたのが蒲生頼秀の父親である蒲生賢秀がもうかたひであった。

 それであれば、蒲生賢秀が率いるというのが普通である。しかし、今回近江衆を率いてきたのは彼の息子である蒲生頼秀であった。これは、彼が織田信忠と年が近いということで織田信長が抜擢した為である。つまり、彼が率いてきた者は、殆どが次代として織田信忠に仕えることとなる者たちであった。


「何だ、義頼。ある意味でとは」

「彼らは、殿への面会を願い出ています。目的は、殿へよしみを通じることにございましょう」

「ふむ。それならば別段、悪い話ではないではないか」

「彼らの目的がそれだけであれば、某も取り次ぎます。しかしながら、そうではないのです。真の目的は、九州での戦でより多く儲けることと、織田家の力による博多の復興にございます」


 つまり彼らの真の目的は、できるならば戦を長引かせて輜重しちょうなどの調達で儲けた上に織田家の力で博多を復興させて自分たちの懐を痛ませないようにすることにある。要は、他人の褌で相撲を取ることが目的であった。だからこそ義頼は、博多商人に言質を取られないように対応していたのである。下手に言質を与えると、生き馬の目を抜きかねない者たちであったからだ。

 義頼の批評を聞き、織田信忠は先程とは違う意味で眉を顰めた。別に、商人に儲けを出すのはさほど気にはしていない。しかしその儲けの為に、戦を長引かせようというのであれば話は別であった。何せこの九州の戦は、織田家の西における総決算といっていい戦である。その大事な戦を、商人の儲けの為の手段とされるのはいささか腹立たしかった。


「なれば義頼、その者たちはどうする」

「そうですな。このまま九州の戦に決着が済むまで有耶無耶にするか、逆に復興について宣言してしまうかのどちらかがよろしいかと」

「お主は、どちらがいいと考える?」

「どちらも一長一短でございますが、某が若し選ぶのであれば前者にございます。言質さえ与えなければ、どうとでもなりますゆえに」

「ふむ。秀政はどう思う」

「下手に言質を与えますと、あの強かな者たちであればいかようなことを言い出すか分かりません。平時であればそれも問題ではありませんが、今は戦時ですので面白くはありません。なれば、左衛門督(六角義頼ろっかくよしより)殿が申しますように、有耶無耶としておいた方が良いと愚考します」

「そうか……相分かった。そなたらの申す通りとしよう」


 これにより博多の町、及び博多商人の対応は後回しとされる。この後、船団より降りた織田信忠率いる織田家の本隊は、そのまま大宰府へと向かっていく。その軍勢を、島井宗室しまいそうしつなどは黙って見送るしかできない。義頼にいいようにかわされてしまったが為であり、内心では機会を逃してしまったことに忸怩たる思いであった。

 なお博多の町より離れた織田家本隊の軍勢は、義頼の先導で大宰府へと向かう。そこでは、高橋鎮種たかはししげたねが出迎えていた。彼に関しては織田信忠も書状にて大友家きっての将であると知らされている。ゆえに彼を紹介された織田信忠は、笑みを浮かべていた。


「そなたが高橋鎮種か」

「はっ。ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。高橋家当主、高橋主膳正鎮種と申します」

「ふむ。なるほど。良き面構えである。義頼や秀吉、光秀が褒める訳よ」

「これは、恐れ多きこと。拙者など、お三方の足元にも呼びませぬ」

「うむ。奢らず、さして卑下にもならず……気に入った。そなたには、この短刀を与えよう」


 そういうと、織田信忠は一振りの短刀を持ってこさせる。その短刀の銘、それは薬研藤四郎といった。この短刀は、管領の地位にあった細川正元ほそかわまさもとが中心となり起こしたとされている【明応の政変】と呼ばれた将軍擁廃立事件に登場する。一説には戦国の世の始まりの一つともされるこの政変であるが、政変自体は成功を収め、それまで将軍の地位にあった足利義材あしかがよしき(のちに足利義植あしかがよしたねに改名)はその地位を追われてしまった。

 さての【明応の政変】が起きた際に、足利義材を支持していた管領がおりそれが薬研藤四郎の持ち主であった畠山政長はたけやまさながである。政変によって京を追われた足利義材は畠山政長を頼ったのだが、それを知った細川政元は、次代将軍を擁立すると畠山政長を河内守護より解任して事態を収めようとした。

 また、細川政元と共に行動を起こした伊勢貞宗いせさだむねが、諸大名や奉行衆、奉公衆に書状を送り、新将軍への忠節に対する支持を行っている。この知らせを受けた彼らは動揺したが、それでも新将軍の元に集うことで支持を明確にしていた。

 なおこの伊勢貞宗だが、彼のいとこに北條家の初代となる伊勢盛時いせもりとき(のちの北條早雲ほうじょうそううん)がいるとされていた。

 何はともあれ幕臣らの支持を得た細川政元は、軍勢を編成し四万に及ぶ兵を派遣する。一方で足利義材を唯一支持したといっていい畠山政長も、正覚寺城に籠城しつつ領国より軍勢を派遣させた。しかしその軍勢も、幕府側である赤松政則あかまつまさのりに敗れてしまう。そもそも急な戦であったことから兵糧も碌にない状態であり、そこに来て援軍の大敗である。これにより、逆転の芽が摘まれてしまった足利義材と畠山政長は大いに落胆した。

 もはやこれまでとして、畠山政長は河内守護代の遊佐長直ゆさながなおらと共に切腹して果てたのである。この切腹の際に初め腹を切る為に使用したのが薬研藤四郎であった。しかしてこの短刀、何度畠山政長が腹を切ろうと刀を突き立てても決して腹に刺さらなかったのである。そのことに腹を立てた畠山政長が投げつけたのだが、短刀は薬研に当たると完全に貫いていた。その様な経緯から、薬研藤四郎は決して主を傷つけない名刀と呼ばれるようになっていた。

 因みに畠山政長自身は、家臣の丹下たんげ備後守が自分の持つ差料の信国で十字腹を切り自害している。なお丹下備後守は、自分の膝に二度刺して確認してから渡していた。そして足利義材だが、彼は降伏し幽閉されることになる。のちに自身が小豆島へ流されると知ると、直前に逃げ出していた。

 その後、越中国に次いで越前国と逃れ続け将軍への復帰活動を続けている。最終的には、大内義興おおうちよしおきの支援を得て再度将軍職に復帰したのであった。



 話を戻して薬研藤四郎自体に関してだが、畠山政長の死亡後は元々の持ち主であった足利家へと戻され以降は足利家が所有する。しかし【永禄の変】のあとは、足利家から流れ松永久秀まつながひさひでの所有となる。そののちに織田家へ献上され、以降は織田家所有の短刀となっていたのだ。

 薬研藤四郎は、そのような曰くを持つ名刀である。しかしこれは、織田信忠の気まぐれではなく、今後の為の布石であった。何せ九州における戦の終了後に、当然だが九州の仕置きを行うつもりである。その際に織田家は、以前通達していたにも関わらず奴隷貿易の取り締まりを事実上行っていない大友家に対して詰問するつもりである。その際は、大友家の取り潰しも織田家側は視野に入れていた。

 だがその段になって、高橋鎮種らが大友家に義理立てし反旗を翻されても困る。下手をすれば、再度九州が争乱の渦へ巻き込まれてしまう。そうなっては、元も子もない。それを防ぐ為に、先に取り込んでおこうという意図であった。

 その一方で高橋鎮種も、薬研藤四郎の持つ逸話は聞き及んでいる。それだけに彼は、押し抱くように受領する。薬研藤四郎を静かに受け取っていた高橋鎮種に対する織田信忠の笑みは、より深いものへとなっていた。

 また、織田家による賞賛は、彼だけにとどまらない。宗像氏貞むなかたうじさだ問注所統景もんちゅうじょむねかげなどといった大友家より離反しなかった者たちにも与えられている。これもまた、のちに行う九州の仕置きに際する布石であった。

 それから大宰府にて視察を行い輜重などの現状を確認した織田信忠は、軍勢の進軍を再開する。なお、この際に大宰府を守る役目は、それまでの担当であった杉谷善住坊すぎたにぜんじゅぼうから城戸弥左衛門きどやざえもんに変えられていた。何せ城戸弥左衛門は、先の【丹生島城下の戦い】において、島津勢を撤退へと追い込む手柄を立てている。ゆえに、後方の輜重集積地とした大宰府の守備を命じた杉谷善住坊にも手柄を立てさせようという義頼の配慮であった。

 一方で織田信忠の軍勢が九州の博多に上陸したという情報を山くぐり衆から得た島津義久であったが、現状では手を出しようがなく臍を噛んでいた。既に北九州における争乱はなりを潜めており、介入の仕様がない。かといって味方は先の戦における損害も大きく、今は早急に兵を国元から送り出すように手配をしている状態なのだ。

 それとは別に島津義久は、近衛前久このえさきひさの要請もあって不戦条約を結んだ相良氏にも九州の独立を掲げて不戦より一歩結んだ同盟を打診する。だが相良家からは、断りの返書が届けられていた。

 何せ相良家当主となる相良義陽さがらよしひは、近衛前久にひいては朝廷を敬うことで勤皇として面を打ち出している。その一方で、相良家が義頼の義息となる井伊家当主の井伊頼直いいよりなおが同じ工藤家の流れを汲んでいることもあり、六角家を通して織田家とも繋がりを持っている。その相良家が、織田家の軍勢に協力せず島津家に靡くなど大名の実力という観点からもあり得る訳がなかったのだ。

 返書自体は丁寧ではあったが、歯牙にもかけていないという雰囲気が感じられる返書に島津義久は怒りを覚えないでもない。だが、今はそんな些事にかまけている暇はない。そこで彼は織田家を追い返すことができれば、必ず相良家に目に物を見せてやると内心で決意を固めるに留めていたのであった。

 そんな中、ついに丹生島城へ織田信忠の軍勢が到着する。先導する義頼は、島津義弘が行ったような奇襲を警戒していたのだが前述したように島津家にその様な余裕がなかったこともあって取り越し苦労に終わっていた。半ば肩透かしを食らったかのような気分でもあったが、問題がないのならばそれに越したことはない。織田信忠も、それはそれでよしとしていた。


「ご尊顔を拝し、恐悦に存じます。拙者は大友宗麟おおともそうりん、こちらに控えますは嫡男であり現大友家当主の大友義統おおともよしむねにございます」

「ふむ。われが、織田信忠である」

『ははっ』


 丹生島城へと入った織田信忠は、城の広間にて大友親子と面会した。救援要請を受けた筈の織田家当主となる織田信忠が上座に腰を降ろし、救援要請を行った側の大友親子が下座にて平伏している様子が、両家の力関係を明確に表していた。

 この時、大友親子を筆頭に大友家臣も平伏してるので彼らが見ることはなかったのだが、織田信忠の視線に親しみを表す色はない。そもそもこの九州における遠征で、大友家にも処断を行うつもりであるので当然ともいえた。

 その後、顔をあげた大友家の顔ぶれであったが、そこでは織田信忠が先ほどまでしていた視線を見ることはない。まだ二十を少し超えたぐらいの若さであったが、そのぐらいのことを行うぐらいには感情を抑えることはできるのだ。

 但し、戸次道雪ら一部の大友家臣からは眉を顰められている。幾ら抑えたつもりであったとはいえ、流石に歴戦の将となれば何かおかしいと感じられたからである。この辺りは、まだ若さが影響していた。

 また、この時点で織田家としてはまだ大友家に奴隷貿易に対してほとんど手を打っていない事態に対して責任の有無などを明確にするつもりはないので織田信忠が動くことはない。全ては島津家を降し、九州で行う仕置に際して行うつもりであった。


「さて、秀吉。先の戦の経緯は聞いた。島津に大層な被害を与えたそうだな」

「はっ。島津家の当主島津義久の弟に当たる島津義弘や島津歳久を筆頭に、少なくはない島津家の武将も討ち取りましてございます」

「それは、祝着である」

「御意」


 その後、話題は島津家に対するものに代わる。忍び衆や物見などの報告から、島津家が戦力の回復に傾注していることは分かっている。さらにいうと、こうして織田信忠も到着した以上、あとは最後の号令を発するだけであった。

 しかし、時は既に年末であり年越しで戦場というのもいささか無粋ともいえる。ゆえに織田信忠は、年明けからの進軍を通達した。


「正月明け、五日を出陣とする。それまでは、英気を養うのだ」

『はっ』


 その後、解散したが、代わりに正月の用意を行うこととなる。大友家からの要請により織田家軍勢が九州まで来ている以上、供応するのは大友家の役目である。しかし、今の大友家にそこまでの余裕がない。そこで、食材等の物資は織田家が供給することで決着を図った。その代わり、準備の一切は大友家で執り行うこととする。また、先の島津義弘による急襲もあり、警戒だけは欠かさない。こちらに関しては、織田家と竜造寺家が担当することとなったのであった。



 織田家と島津家が干戈を交えているとは思えないくらい、義頼を含めた織田方は静かな正月を迎えていた。とはいえ、例年に安土城で行うような新年を祝う盛大な宴は行えない。そもそもからして、遠征中であるのだから当然といえる。結果として、近年では珍しく控えめな年始であった。


「これより、島津家を討つべく進軍する!」

『おおー!!』


 年が明けてより五日、織田信忠が宣言した通り、軍勢の進軍を開始された。

 この進撃に際し、織田家は軍勢を分けている。織田信忠は、羽柴秀吉と共に丹生島城に残り本陣となる。そして義頼と明智光秀にそれぞれ軍勢を預け、進軍させるのだ。

 しかしてその進撃の道筋であるが、明智光秀は日向国から大隅国を抜け、薩摩国へと向かう。そして義頼だが、肥後国へ向かい、形の上では大友家に従属している阿蘇家や相良家などといった肥後国人らを軍勢に加えた上で、肥後国を南進して薩摩国へと攻め入る予定であった。

 最後に織田信忠は、水軍も動かしている。何せ水軍は、織田家先遣隊と織田家本隊と織田信忠の軍勢を乗せてきた船団である。その数は、正に膨大といってよかった。そんな水軍を二つに分け、一方は補給の上陸地となっている博多の防衛に残す。そして、もう一方の水軍をさらに二つに分けると、九州の海上を東と西から攻めさせたのであった。

 一方で戦力の回復に勤しんでいた島津義久であったが、敵が動いたとなれば早々に動く必要がある。しかも敵となる織田勢は軍勢を二つに分けており、これでは領地より兵を補充する為に引き抜くなどできる筈もない。そこで島津義久は、苦渋の決断であったが兵を引くことに決めた。

 肥後国の国境に兵を配するように島津義虎しまずよしとらへ指示を出し、肥後国との国境を固める。そして自身は、日向国と大隅国を経由して撤退する。それは、豊後国まで進軍した道筋を逆に辿るものであった。

 やがて日向国へと入ると、北部での防衛は諦めて放棄し、南部に兵を集中させる。具体的には佐土原城と都於郡城を中心に兵を集め、明智勢の侵攻を阻止するつもりなのだ。しかし明智勢には、伊東義祐いとうよしすけ伊東義賢いとうよしかたが同道しており、彼らは嘗ての旧臣へ織田勢に協力するように書状をだしている。元から伊東家に対して旧伊東家臣からは半ば愛想が付かされていたが、それで他国の者である島津家に与するよりはましなのであろう。先の大友家による侵攻時と同じく幾許かの旧伊東家臣が島津家より離れ、明智勢に付き従うこととなった。

 また、旧伊東家家臣であったが、伊東家に対する恨みから伊東家より離れて六角家に接触した野村文綱のむらふみつなは弟と共に伊東家とは別に動き始める。義頼からの命を受け野村文綱は、近隣に配されていた旧伊東家家臣に声を掛けて島津家より離反することを持ちかける。何せ彼の後ろ盾は織田家重臣となる義頼であり、彼らとしても十分に勝ちが見える誘いであったから彼らも島津家から離れることに同意した。

 その後、野村文綱は弟の野村吉綱のむらよしつなを密かに派遣して明智光秀と接触する。野村家については、義頼より聞いていたこともありすぐに面会した。


「なるほど。では、宮内少輔(野村吉綱)殿。そなたの兄へと伝えよ。佐土原近辺まで進軍した際に、兵を挙げよと」

「はっ」


 野村文綱が城主を務める内山城は、佐土原城や都於郡城から見るとやや後方に存在している。つまり内山城及びその周辺の城が織田家に味方するということは、後方を脅かすだけでなく島津家との連携を絶つことにも繋がるのでとても都合が良かったのだ。

 さらにいうと、明智光秀は日向守の官職を得ている。その日向守が日向国へと兵を押し出すのだから、明智光秀自身もまた大義名分と成り得ていた。やがて日向国へと進撃した明智勢は、島津家が放棄した日向国北部を制圧する。なお、日向国を南進する明智勢には大友家の軍勢も加わっていた。

 だが、彼らには軍紀を守るようにと特に注意喚起されている。その理由はいうまでもなく、先の日向国侵攻において大友宗麟が行った神社仏閣の破却が多分に影響していた。大友家としての戦ならばまだしも、織田家が主導する戦においてこのようなことをされてはたまらない。何より、織田家当主として織田信忠がいる。彼へ、不名誉など被せることなどできる訳がなかったからだ。

 こうした経緯もあり、嘗ての大友家侵攻時に比べると明らかに早い占領が可能となる。余計なことをしないのだから、それは当たり前でもあった。順調に日向国内を進軍した明智勢は、島津家と大友家による激戦となった高城を含む一帯に駐屯すると佐土原城と都於郡城を中心に防衛を敷く島津勢と対陣する。兵力差から島津勢は籠城しつつも周辺の城と連携して防衛するつもりであった。

 だがそれもつかの間、内山城及びその周辺にある幾つかの城が一斉に蜂起する。まさか後方から裏切り者が出るなどとは思ってもみなかったこともあり、島津勢の動揺は激しい。その隙を、明智光秀が見逃すはずもない。彼は佐土原城と都於郡両城を攻略するべくほぼ全軍を持って攻め掛かった。

 佐土原城と都於郡城は、島津家が敷いた日向国南部の防衛線における中枢である。ゆえにこの両城さえ陥落せしめてみせれば、あとは各個撃破すればこと足りるのだ。そして実際に、その通りとなる。動揺が収まらないうちに攻め掛かられた佐土原城と都於郡城は、あえなく落城の憂き目を見る。こうなってしまえば、防衛も何もない。両城の周辺に存在していた城は、次々と撃破されていく。しかも後方は、島津家を裏切った野村家を中心とした軍勢により阻まれている。これではどうにもならず、彼らは城を枕に討ち死にするか降伏するかのどちらかを選んでいった。

 この戦が事実上、日向国の趨勢を決める戦となる。こうして日向国は、島津家の予想よりも遥かに早く織田家の軍門に屈したのであった。


ついに、織田家による九州征伐が締めに掛かりました。

いよいよの島津攻めです。

それと、前話で二百万文字超えていました。

ここまで長くなるとは。

何はともあれ、ご一読いただき、ありがとうございました。


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[良い点] 明智・引退したいです、日向落したから
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