第二百五十六話~織田家対島津家 本戦~
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第二百五十六話~織田家対島津家 本戦~
捕らえられた赤塚真賢は、当然だが取り調べを受けることになる。とはいえ、義頼が行う訳ではない。配下の忍び衆により、彼は尋問されたのであった。
「……やはり、織田の軍勢を調べていましたか」
「道雪殿。そのようです」
新たに得られた情報を持って、義頼が訪れたのは戸次道雪の元であった。情報共有という観点もあり、事実上大友家の軍勢を取り仕切っている戸次道雪へ知らせたのだ。この後、この得られた情報についてであるが、大友宗麟以下大友家には戸次道雪を通して知らされる。そして当然だが、織田家や竜造寺家にも流されることになっていた。
「どうやら島津は、一戦仕掛ける気でしょう」
「ええ。某も、そして我が家臣もそう判断しました」
義頼は、こうして大友家側に情報を齎す前に沼田祐光や小寺孝隆らと話し合っている。その話し合いで得られた答え、それは目の前で戸次道雪が口にしたものと同じであった。
この先、和戦いずれの道を選ぶかはひとまず置いておくが、島津家としてはこの場で一戦をしない訳にはいかない。負けそうだから、勝ち目が薄そうだからと兵を引いてしまえば、日向国の国人が反旗を翻しかねないからだ。
それが日向国より抜け、既に大隅国や薩摩国にまで撤退したあとであればまだいい。しかし、日向国を抜ける前に反旗を翻されてしまえば、前後から挟まれ進退窮まることは必至となってしまう。そうならない為にも島津家は、勝敗は別にしてここで一戦を交えるしかないのだ。
その島津勢だが、既に腹は括っていた。赤塚真賢が捕らえられたことで、島津家の思惑は相手に知られただろうと判断したからである。敵の情報が少ないことはいささか心許ないのだが、それでも大将となる羽柴秀吉を含め主だった将についてはそれなりに集められているのでおおよそ把握できる。そう考え、いよいよ干戈を交える決断をしたのだった。
一旦、腹を決めたのであれば、こそこそと動いても仕方がない。島津家当主の島津義久は、公然と軍勢の再編を始めていた。当然ながら、その様子は島津の敵となる織田家と大友家と竜造寺の連合勢からも見て取れる。彼らもまた、呼応するように軍勢を動かしたのであった。
そんな連合勢だが、中心となるのはやはり織田勢である。形としては大友家からの援軍要請で出陣しているので、普通であれば大友家が主導する形となる筈である。しかし織田家の抱える軍勢の兵数があまりにも突出していることもあり、いつの間にか織田勢が中軸となっていたのだ。
そもそもからして救援の引き換えは大友家の織田家への従属、場合によっては臣従である。つまり大友家としては、織田家に対して強くは出にくい。それは、竜造寺隆信の暗躍が暴露されてしまった竜造寺家も同様である。そのような背景も加味され、織田家の兵を率いる羽柴秀吉や副将である義頼や明智光秀が中心となるのは、当然であった。
そんな織田・大友・竜造寺の連合勢であるが、彼らは横陣を敷いている。配置としては、織田家の軍勢が中央に置かれており、そのやや後方に大砲の部隊が配置されている。そんな彼らが狙っているのは、設楽ヶ原の再現であった。
戦の流れとしては、開戦直後から大砲による攻撃を行い、できることならそこで決着をつける。もしそれが叶わなくても、島津勢が近づけば新式の擲筒を用いて攻撃を仕掛ける。それでもだめならば、火縄銃や弓矢による攻撃を行うのだ。
つまるところ織田勢は、島津勢を近づかせず一方的に損害を与えることを目的としていた。
また軍勢の左翼だが、こちらは大友家の兵で固められている。彼らを指揮しているのは、戸次道雪ではなく大友宗麟である。そして右翼は竜造寺家が布陣しており、大将の竜造寺隆信は陣中で気炎を吐いていた。
この島津家との戦は、竜造寺家にとっても大事な戦である。戦の結果いかんでは、竜造寺家とて潰されかねない。竜造寺隆信の仕掛けた策略を読まれてしまっただけに、その思いは大きかった。
そしてこの両翼だが、島津勢が近接された場合は、対応する部隊でもある。もしその前に敵となる島津勢が撤退となれば、彼らが追撃を行うこととなっていた。
その一方で相対する島津勢であるが、彼らが敷いたのはいわゆる鋒矢の陣である。先頭に次男となる島津義弘が、そのすぐ後ろに四男となる島津家久が配置されていた。また彼らの周りにも、島津家中でも特に勇壮な将兵が布陣していたのである。そして陣の後方には、大将たる島津義久と三男の島津歳久があり、島津勢全体を纏めていた。
こうして両軍勢による展開が終わったのだが、だからといってすぐに兵がぶつかるなどといったことはない。互いに油断なく警戒こそしていたが、ただそれだけであった。それというのも、どちらの軍勢からも激突は翌日になるだろうという雰囲気が醸し出されていたからである。別段、両軍勢の間で申し合わせがあったなどといった取り決めなどがあった訳ではないのだが、なぜかそのような流れが戦場を支配していたのだった。
もっとも、戦が今から始まるよりは仕切り直して明日よりという方が、お互いやり易いといった側面もある。そのようなこともあり、何となく両軍勢の間で醸し出されていたというのが正直なところであった。それでも一応は、両軍勢共に夜襲の警戒はする。たとえ暗黙の了解に近い状態であったとはいえ、お互いが手放しで相手を信じられるかといわれれば、そうではないと返すしかないからだ。ゆえに、両軍勢とも警戒を怠らない。とはいえ、醸し出された雰囲気は有効であり、その為、両軍勢が懸念した夜襲などといった奇襲が行われることもなく、静かに夜が更けていった。
それは、正に嵐の前の静けさといっていいだろう。だが、そんな静かな夜も、日の出とともに払拭されていく。完全に日が出てから二刻ほどたった頃、両軍勢は味方の兵の展開を完了していた。すると羽柴秀吉と島津義久の軍配が、静かに動き出す。やがて彼らの持つ軍配は、力強く振り降ろされた。
『掛かれー!』
『おおー!!』
ここに織田・大友・竜造寺連合と島津の軍勢はぶつかったのであった。
島津義弘と島津家久に率いられた島津家の先鋒が突貫を始めるとほぼ同時に、織田勢を中核とした連合勢のやや後方に据えられた大砲群から砲弾が火を噴く。大砲群を纏めているのは、義頼である。しかし実際に指揮しているのは、六角家において杉谷善住坊と並び称される城戸弥左衛門が務めている。前述した通り、杉谷善住坊が大宰府にいる以上、彼が指揮するのは当然といえた。
その彼の指揮の元で放たれた砲弾は、次々と着弾していく。流石に一発目はどうしようないが、次弾やその次となれば話は違う。その砲撃により被害を生み始める島津勢であったが、彼らが止まることはなかった。
本当に最初の砲撃こそ、轟音等による驚きからか足を止めたが、気を取り直した島津義弘や島津家久の命によって、そのようなものなど眼中にないとばかりに突撃を再開したのである。これには義頼や羽柴秀吉や明智光秀、そして右翼にいる竜造寺隆信率いる竜造寺勢も目を剥いていた。
だが左翼にいる大友勢からすれば、この事態は驚いたぐらいでしかない。しかも彼らの驚く理由だが、大友家が抱える仏狼機砲より大きい轟音を聞いても島津勢が怯んだのが僅かでしかなかったという事実に関してである。寧ろ突撃が止まらなかったことについては、気にも掛けていない雰囲気であった。
嘗て、【高城の戦い】のさなかにておきた高城の攻防戦中に大友勢が持ち出した仏狼機砲にすら怯まなかったのである。その事実を知る大友勢であることを考えれば、彼らの反応も分からないではなかった。
何はともあれ、そんな勇猛というか戦馬鹿というか、島津家に対して思わず呆れてしまった義頼たちであったが、いつまでも呆けているような彼らでもない。特に義頼は、戸次道雪から島津家の対応については話だけでも聞いてはいたのだ。
だからからであろう、織田家の大将の中ではいち早く彼は我に返る。すると、気分を切り替える為かそれとも気合を入れる為か分からないが義頼が両手で左右のほほを叩いていた。どうやら力を入れすぎたらしく、思いの外大きい音が立つ。その音で、羽柴秀吉や明智光秀もまた我に返っていた。
他の者より先んじて気付いた義頼は、自分で叩いたことでじんじんと少し痛む方を少し気にしつつも砲撃の再開を命じる。その命により、再び大砲群より砲弾が放たれていく。それは、正に釣る瓶打ちと表現が相応しい光景であった。
このように大砲による損害を受けつつも近づく島津勢であったが、およそ十町(約1090メートル)を切ったあたりからさらなる追い打ちが掛かる。大砲とは別の投射武器といっていい擲筒からの攻撃が始まったからだった。
打ち始めとしてはいささか最大射程より遠かったのだが、牽制の意味もあったので実行される。何せこれから向かう先に、擲筒から放たれた弾が着弾しているのだからその圧力は推して知るべきである。だがそれでも、島津勢から撤退なり停止なりの命は出ない。だからこそ、島津勢がその場に留まることはなかった。
そして軍勢が止まらない以上、彼らは擲筒の射程内に踏み込むことになる。その為、当然のように彼らの損害は加速していった。何せ擲筒の数は、大砲など比べ物にならないだけ存在している。一つ一つの破壊力は大砲に遠く及ばないが、速射性と数は擲筒の方が上なのだから当然であった。
そのような事態となれば、流石に島津勢からも動揺が生まれてくる。自分たちは敵に対して全く損害を与えていないのに、相手からの損害は一方的に受け続けている。しかも、その損害は馬鹿にならないからだ。
敵の大砲が着弾すれば味方が吹き飛んだり、火達磨になったり、全身に恐らく破片だろうと思われる何かを食らっている。なまじ敵の突破を目指し、鋒矢の陣を敷いていたことも悪い方に働いていた。
こうなると、いかに勇猛果敢な島津勢とはいえ士気の維持は難しくなる。この事態にいち早く気付いたのは後方にて全体を取り纏めている大将の島津義久であり、そして彼の近くに控える島津歳久であった。
「どうする。このままでは、不味いぞ」
「むぅ……」
「と、殿!」
「どうした!」
その時、飛び込んできた伝令に島津義久が声を掛ける。伝令は、呼吸を荒げながらもなんとか報告をしていた。
「ち、中書(島津家久)様が怪我を負われました!」
『何だとっ!』
報告の通り中書こと島津家久がけがを負った訳だが、寧ろよく今まで怪我を追わずに済んでいたといっていいだろう。兄の島津義弘に比べればまだましだったとはいえ、彼もまたほぼ最前線にいたのだ。
なお、先鋒を率いている島津義弘だが、未だに元気である。流石に全くの無傷とはいわないが、それでも負っている傷は破片か何かが掠ったことでできた物が幾らかあるぐらいである。だからこそ、島津勢の突貫は止まらなかったのだ。
とはいえ、ここで島津家久が怪我を負ったことは無視できない。報告によれば幸いなことに致命傷とまでは至っていないらしいが、それでも兄の島津義弘のように無視できる程でもない怪我であったからだ。
「……兄上、引きましょう」
「本気か!?」
「はい。このままでは全滅とまではいかなくても、甚大な被害となります。もしそうなってしまえば、先の戦いで我らに追い込まれた大友家以上の損害が出るのは必至です。ならば今後、万が一負けるにしても、抵抗すらもできない状況とそうでないならばまだ後者の方がまだましというものです」
「……分かった、引こう」
苦渋を滲ませている島津義久の決断により、島津家の軍勢は撤退に移行する。しかし、そう簡単に撤退が成功する筈もなかった。敵勢の動向を察した戸次道雪が、大友宗麟へ進言する。ほぼ同時に、鍋島直茂が竜造寺隆信へ進言している。その後、左翼の大友家の軍勢と右翼の竜造寺家の軍勢は、追撃に移っていた。
なお、羽柴秀吉は彼らの動きを止めていない。織田家本陣も、島津家の動向が見て取れたからだ。寧ろ、間髪入れずに追撃へと入ったことに僅かでも感心したぐらいである。何せ彼らの役目であるのだから、当然であるのだが。
兎にも角にもこうして追撃を受けることとなる島津家だが、殿として残ったのは島津歳久であった。彼は此度の敗戦について、責任が自身にあると考えていたからである。島津家の四兄弟で決めた戦ではあったが、彼だけはやや時期尚早ではないかと思っていたのである。勿論、自身の懸念は伝えたが、兄の島津義久や島津義弘が既にその気になっていたこともあって押し切られた形であった。
因みに末弟の島津家久だが、どちらかといえば島津歳久の考えに近い。しかしそれは相対的に近い程度のものでしかなく、何が何でも反対だという程でもない。有り体にいえば、ほぼ中立だがどちらかといえば島津歳久に近いという程度のものでしかなかった。
ゆえに開戦が決まった訳だが、まさかここまで軍として地力の差があったとは想定していなかった。特に、大砲を初めとした火器の差が顕著である。【高城の戦い】で経験した仏狼機砲などなど、比べるのも烏滸がましいくらいに明確な差が存在していた。
そこで彼は、責任を取るとして自ら殿を願い出たのである。島津義久は反対したが、彼は頑として聞き入れない。さらに島津家の者が殿を勤めれば、家臣にもいい訳が立つとして説得してきたのだ。
確かにこれから島津家は、苦難の道を歩むだろう。織田家と戦端を開き、しかもこうまで一方的に叩かれたのだ。家臣や国人が離反していくなど、考えるまでもない。しかしここで島津宗家の者を、いい方は悪いが人身御供とすることで少しでも家臣や国人の離反を防げるという弟の考えも理解できた。何より島津義久は当主である。肉親に対する情は情として大事だが、まず優先させるべきは家なのだ。
「……相分かった。死ぬなよ、歳久」
「無駄死には致しません、兄上」
島津歳久の言葉を背に受けつつ、島津義久は撤退に入った。
先程も述べたように、彼は島津家現当主である。彼が整然と撤退することで、島津家としても速やかに撤退へと移れるのだ。元々後方にいたのだから、撤退も比較的容易い。だが、気を付けねばならない。何せ島津家の軍勢自体は、ほぼ全て大砲の射程内なのだ。
つまり、いつどこから、大砲の弾が降ってくるのか分からないのである。しかし気を付けたからといってどうにかなるものではないが、無警戒に撤退などできる筈もなかった。それが功を奏したのか、結局のところ島津義久の撤退は滞りなく進み、彼は栂牟礼城へと到着した。戦場となった場所よりそこそこ距離はあるので、撤退後の拠点としてはあまり適切とは言えないかもしれない。だが、途中にこれといった拠点が存在しないのである。無論、皆無という訳ではないのだが、島津家の軍勢が勢揃いできる程の大きさを持つものではない。ゆえに島津義久は、大友家の重臣を務める一族である佐伯氏の元居城となる栂牟礼城まで撤退したのだ。
それに栂牟礼城の周辺には、幾つか城が点在している。その点でも、追いつかれた際に迎え撃つには丁度良かった。
こうして損害は大きけれども無事に撤退を終えた島津義久に続く形で、怪我を負っていたという島津家久が戻ってくる。彼は、怪我こそ負っていたが、同時に屈指の将でもある。その能力をいかんなく発揮し、怪我人ながらも無事に撤退を成功させていたのだ。
一方で戦場に殿として残った島津歳久だが、彼は捨てかまりと称される戦法で追撃を凌いでいた。この戦法は座禅陣とも呼ばれ、殿の中よりさらに少数の部隊を選出し、彼らに足止めさせることで時間を稼ぎ撤退を成功させるという味方の犠牲を厭わない凄絶といえる戦法であった。
何せ足止めを行った部隊体が全滅すれば、すぐに次を繰り出して引き続き足止めを行わせるのだから凄まじい以外の何ものでもない戦法である。また足止めを任された者たちも、置き捨てされることを当然と考えているのだから実際に相対する方はたまったものではなかった。
とはいえ、追撃に移った大友勢や竜造寺勢としては簡単に撤退を成功させるわけにはいかない。特に竜造寺家は、家の浮沈がかかっているだけにその思いはなおさらに強かった。その彼らが狙ったのは、当然だが島津の殿を務めている島津歳久である。最低でも、彼の首だけは挙げるつもりであった。何せこの戦で大友勢も竜造寺勢も、手柄らしい手柄を挙げていない。織田家の持つ火力によって雌雄が決されてしまったのだから、それも当然であった。
それだけに、ここは何としても島津歳久などといった島津家の有力な将を討ち取るなり捕らえるなりして手柄を立てる必要がある。もしここで手柄を立てられなければ、大友宗麟や竜造寺隆信は無能のそしりを受けかねないのだ。
その為、大友勢と竜造寺勢は、小さくはない被害を受けることになる。だがそれでも彼らはそれこそ必死に働き、島津歳久は無論のこと、島津家臣の鎌田政金や本田四郎左衛門など討ち取っている。しかし、島津家の撤退自体を潰すことは叶わなかったのであった。
さて残るは次男の島津義弘であるが、こちらは少々他の兄弟とは異なっている。何せ彼自身が、撤退していなかったからであった。島津義弘は、自身の家老となる有川貞真に軍勢を任せると、少数の精鋭を伴って姿を隠したのだ。
彼が狙っていたのは、戦後の油断である。戦勝すれば、勝ち気が緩む。まして大友家は、少し前まで島津家から散々に損害を受けていたのだ。それだけに戦勝となれば、浮かれるのは道理といえる。そしてその気持ちは、援軍の織田家にも蔓延する筈である。その隙を突き、島津義弘は敵将を討つつもりであったのだ。
凄まじいまでの撤退戦をへて、兵を失いつつも敵勢たる島津家を蹴散らした大友家は感慨にふけっていた。少し前まで、大友勢は丹生島城へと追い込まれていたぐらいなので、その気持ちも分からない訳ではない。しかも島津四兄弟のうち、三男に当たる島津歳久の首も挙げたのだからなおさらであった。
そんな大友家の喜びに引きずられるように、織田家と竜造寺家の軍勢は喜びに沸く。その様子に羽柴秀吉は弱冠の懸念を覚えないでもなかったが、だからといって彼らの気持ちに水を差す気にもなれない。何より織田家単独で見れば、殆ど被害を受けていないのだ。皆無とはならなかったが、戦死者どころか怪我人すらも憂う程の被害はない。近年、まれにみる大勝利であった。
ゆえに羽柴秀吉は、戦勝の宴を執り行うと宣言する。これには織田家の将兵は無論のこと、大友家や竜造寺家の将兵も喜びを爆発させる。そんな中にあって、義頼は眉を顰めていた。彼は、別に宴に反対だとかそういったものではない。ではなんで眉を顰めていたのかというと、ある懸念があったからだ。
その懸念とは、島津家の者による反撃である。より正確にいえば、奇襲などによる一撃であった。何せ義頼は、嘗て同じ事態に陥っていたことがある。それは、まだ毛利家と干戈を交えていた頃まで遡る話であった。
中国攻めの過程で水攻めにされた備中高松城を救援する為に、義頼は毛利家と一戦行っている。その戦自体には勝ちを収めたので、織田勢は勝利の美酒に酔う。しかしてその隙を、小早川隆景によって突かれてしまったのだ。
彼は義頼の抱えていた大砲群を脅威とみなし、またその大砲を操る義頼も危険だと改めて判断したのである。そこで大砲の奪取、若しくは破壊を目指して動く。そしてできれば、義頼を物理的に取り除くことすらも視野に入れ奇襲部隊を送り込んだのだ。
宴の真っ最中であったことも加味され、この奇襲には成功されてしまう。義頼自身に被害はなかったが、大砲の一部や火薬に被害を受ける。その為、義頼は被害を受けた代替品の用意や補給のやり直しやらなどもあって中国攻めの侵攻を一時中断しなければならなかったのだ。
「……どうしたものか」
「殿。いかがされました?」
「ああ、祐光か。どうにも備中高松城を思い出す、だからといって、彼らの喜びに水を差すというのも憚られる」
「なるほど。確かに、状況は似ていますな。ですが、彼らにそう申したとして聞く耳を持ちますか?」
沼田祐光からそういわれてしまうと、彼としても首を傾げざるを得なかった。
久方ぶりの勝利ということもあるのだろう、大友勢の浮かれ具合は相当な物である。そんな彼らに島津家が兵を送り出してくるかもなどといっても、聞き及んでくれるかが分からない。何せ現時点においていえば、島津勢の受けた被害の度合いも鑑みるに反撃などあり得ないと考えるのが当然だからだ。
しかしながら、その当然を破るからこそ奇襲は成功するといえる。立ち合いにおける残心ではないが、確実と判断できるような状況となるまでは警戒を緩めるべきではないのだ。とはいえ、これは義頼の軍勢が嘗て敵対していた頃に毛利家からの奇襲を受けていたからこそ思ったことである。もし義頼らが奇襲を受けていなければ、気付かずに宴に参加していたであることは想像に難くなかった。
しかも、大友勢を起点とする気分の高揚が織田勢と竜造寺家にも伝播している。こうなってしまうと、織田家や竜造寺家の諸将からも否定的な意見が出かねなかった。だからといって、放置していい問題でもない。万が一にも奇襲を受けてしまえば、勝利が台無しになるばかりか折角落ち着かせた北九州に再びの戦雲が巻き起こらないとも言い切れなかったからだ。
「……仕方がありません、殿。我らで貧乏くじを引きましょう」
「やはり、それしかないか」
「ええ。それとできれば、大友家や竜造寺家からの協力者が欲しいです。やはり地の利という点を考慮しますと、我らはまだ門外漢といっていいですので」
「大友家や竜造寺家からの、か……取りあえず道雪殿に相談してみるか」
このところ、大友家の将の中で義頼が一番接点を持っていたのは他でもない戸次道雪である。それに戸次道雪自身、武も文も好む当代きっての良将とまでいわれるぐらいの武人である。そのような事情を考慮すれば、義頼の口から彼の名前がまず挙がるのもある意味では致し方なかったのであった。
これも、タイトル詐欺となるのだろうか。
結局のところ、直接刃をまじえてないしなぁ。
いや、戦は行っているのだから、詐欺ではない……筈だ。
うんうん。
ともあれご一読いただき、ありがとうございました。




