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第二百五十五話~織田家対島津家 前哨~

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書店アプリ『まいどく』において、配信もされております。



第二百五十五話~織田家対島津家 前哨~



 首尾よく筑前国と筑後国を平定し、肥前国で最大勢力となる竜造寺すらも従属して見せた織田家の軍勢は、筑紫家の居城であった勝尾城を出ると高橋家の居城である岩屋城へと向かった。やがて城へ到着すると、高橋鎮種たかはししげたねに筑前国と筑後国と肥前国を約定通りに委ねる。そもそも、彼が岩屋城に残っていたのは、大友家における北九州の抑えであるので否などない。粛々と、了承していた。

 それから数日岩屋城に留まり体を休めたあと、義頼や羽柴秀吉はしばひでよし明智光秀あけちみつひでは高橋鎮種を残して出陣する。彼らが次に向かったのは、古処山城であった。この城には長宗我部元親ちょうそがべもとちか、そして高橋鑑種たかはしあきたね宗像氏貞むなかたうじさだらが入っている。既に秋月家を降している彼らであり、織田家の軍勢に彼らを再度加える為に古処山城へ向かったのだ。

 程なくして古処山城へ到着すると、代表する形で長宗我部元親が祝いの口上を述べる。その後、羽柴秀吉は彼らに対してねぎらいの言葉を掛けていた。それから彼らを軍勢に吸収すると古処山城を出立する。次に軍勢が向かったのは、大友宗麟おおともそうりんのいる丹生島城であった。

 現在、丹生島城は、大友家と島津家が直接干戈を交える最前線である。大友家の危機を察知し、北九州より独断で軍勢を率いて駆け付けた戸次道雪べっきどうせつが、島津義久しまずよしひさ率いる島津勢と相対しているのだ。その大友家と島津家の最前線に【高城の戦い】に敗れた大友家を見限ったかはたまた好機と見たかは分かれるが、何であれ大友家より離反した者たちを鎮圧した織田家の軍勢が到着した。

 軍勢の大将である羽柴秀吉は、義頼と明智光秀、そして護衛の者たちとを伴い丹生島城へと入る。やがて彼らは、大友宗麟及び大友家現当主となる大友義統おおともよしむねを筆頭とする大友家の者たちと面会する。流石に戸次道雪は、島津勢の動きに対応をしなければならない為にこの場にはいない。だが、他の大友家臣に関してはすべからく揃っていた。

 そんな中、大友親子は、手始めに北九州における平定に対して多大な力添えをして貰ったことに感謝の意を表す。その言葉に対して義頼らは、鷹揚に頷き返していた。


「して、紀伊守(羽柴秀吉)殿。島津への攻勢ですが、いつからとなりましょうや」

「その旨ですが、宗麟殿。今少し、待っていただきたい」

「待つ……のでございますか?」


 思いもよらない言葉に、大友宗麟も大友義統も思わず顔を見合わせてしまう。その仕草に一瞬だけ笑みを見せた羽柴秀吉だったが、すぐに咳払いをして表情を引き締めると居住まいを正す。その様子に、大友宗麟も大友義統も、そして大友家臣も引き締まった顔付きとなっていた。

 その後、羽柴秀吉の話を聞いた大友家の面々は驚きを表すことになる。それというのも、織田家当主たる織田信忠おだのぶただがこの九州へ現れるというのだったからだ。正直にいって寝耳に水の話であり、大友親子は異口同音に驚きの声をあげている。それと、大友家家臣もそれは同じであった。

 既に大軍を送ってきている織田家であり、それは救援を求めた大友家としては十分な、否、十分すぎる助力である。それであるにも関わらず、織田信忠が織田家当主としてだけでなく征西大将軍として九州に現れるというのだから驚くのも無理はなかった。

 何せ九州に征西大将軍が現れるのは、後村上天皇の治世だった正平年間以来の話である。もっともこれは、室町幕府創設の頃に起きた話である。しかも任命したのは、南朝であった。なおこの一件を除けば、藤原純友ふじわらのすみともの乱の時代までさかのぼることとなり、天慶年間に藤原忠文ふじわらのただふみが任じられて以来の話でもあった。


「しからば、反抗は征西大将軍が御到着成されてからということですか?」

「そうなるであろう。ゆえに、我らもしっかり守っておく必要がある。よろしいな」

『はっ!』


 大友宗麟に大友義統、そして大友家臣揃って平伏しつつも返答した。

 その一方で島津勢はというと、目論見が達成できなかったことに切歯扼腕せっしやくわんしていた。当初、豊前国まで侵攻した勢いもあったことから大友家を討ち滅ぼすのも難しくはないとある意味で楽観視していた節がある。早急に大友を討ち、筑前国や筑後国で大友家に反旗を翻した勢力も吸収してできうる限り速やかに九州を島津の名のもとに統一させることと考えていた。

 だがその思惑も、戸次道雪べっきどうせつの来訪という想定外の行動により出鼻を挫かれてしまっている。しかも大友宗麟は、緊急時ということもあって彼の行動を一切に不問としたばかりか迎撃の大将に抜擢したのである。この辺りの決断は、一時九州最大の大名にまで大友家をのし上げた男の手腕ともいうべきものであった。

 その戸次道雪も、雷神とも鬼とも称された男である。彼は島津家相手に一歩も引くことなく、的確に迎撃して侵攻を押し留めていた。そんな中、大友家の要請を受けて織田家が九州まで出張ってきたのである。中国の毛利家と四国の長宗我部家を中心とした軍勢を先遣隊として上陸させたばかりか、短期間のうちに筑前国の秋月家や彼の家に賛同した筑紫家を蹴散らしてしまったのだ。

 そこにきて、さらに織田家の軍勢が上陸すると筑前国西部で押さえつけられていた高橋鎮種を救うと間髪入れずに筑後国へ侵攻している。すると長い時を掛けずに筑後国を押さえつけ、さらには肥前国東部に勢力を張っていた筑紫家すらも素早く膝下に組み敷いたのだ。

 しかもその間に竜造寺家をも従属させたと聞いた時は、何の冗談かと島津義久は思ったぐらいである。彼が思わず再度確認したのも、分からなくはなかった。だが、その結果得られたのは間違いがないという事実だけである。このことも、島津家の思惑を外させた事態であった。


「幾ら軍勢が多いとはいえ、これは想定していなかったどころの話ではないぞ」

「はい。それゆえに、一戦をしない訳にはいかなくなりました」


 相手の軍勢が多いから、戦功が凄いからとそんな理由で兵を引いたなどと思われてしまえば島津家は立ち行かなくなる。従えた国人もさることだが、従来からいる家臣からも侮られてしまうだろう。それでなくても島津家は、内訌に明け暮れたといっていい家であったのだ。

 鎌倉の御世の頃、島津家は薩摩国と大隅国と日向国の他に伊賀国や近江国など多数の地頭職にあり筆頭御家人とまで呼ばれる程の力を持った家であった。しかし鎌倉幕府も討幕されやがて迎えた室町中期以降になると、内訌を抑える為にと宗家を二つに分かれさせていた島津家同士の争いが皮肉にも起き始める。その戦に島津庶家や配下国人らの思惑も加わり、九州南部は混沌とした様相を見せ始めたのである。やがて本貫地といえる薩摩国を統一したのは、現当主となる島津義久しまずよしひさの先代に当たる父親の島津貴久しまずたかひさの時代であった。

 こうして薩摩国を押えると、島津家は鎌倉の頃に地頭職を務めていた大隅国と日向国の併合を目的とするようになる。やがて大隅国をも抑えた島津義久が、日向国の伊東家を滅ぼして悲願といえる三国の統一を達成したのは先年の話であった。

 何はともあれ、この様な経緯を持つのが島津家である。まだ戦端を開いていないというならば、まだいい。しかし一旦でも戦端を開いてしまえば、一戦も交えずに撤退するなどできる筈がなかったのだ。


「だが、考えようによっては、これは好機かも知れぬ。ここで大友や竜造寺ともども相手に勝ちを収めることができれば、我が島津による日の本統一も夢ではない!!」

「……それは……そうかも知れませんが」

「そう、上手くいきましょうか」

「歳久! 家久! 何を弱気な!!」


 島津義久の言葉に否定とまではいわないが、島津歳久と島津家久は憂慮の言葉を紡ぐ。するとその言葉に反応したのが、島津義弘しまずよしひろであった。島津家の四兄弟の中でおそらくもっとも武断派といえるのが彼である。実際、祖父より「雄武英略をもって他に傑出する」と評されたとの逸話を持つぐらいであるから相当な猛将であったのは間違いない。その彼からしてみれば、大軍を擁する織田家の軍勢はまさに敵に相応しいといえる相手であったのだ。


「ですが兄上!」

「どちらにせよ、一戦をしない訳にはいかん」

『それは、ごもっともですが……』

「ならば、話は簡単だ。勝ちを手繰り寄せる方法を論ずればいい、違うか?」


 究極的にいえば、島津義弘のいう通りである。勝つにしても負けるにしても、ここで一戦をしないという判断はできないのは前述した通りなのだ。確かに劣勢なのは否めないが、勝ち負けは時の運である。ならば自分たちにできることをしていけばいいという島津義弘の言葉は、間違いではなかった。

 腹が決まれば、あとはある意味で簡単な話である。味方が、勝てるようにと動くだけであった。それと、万が一負けた場合についても想定しておけば、総崩れを防げる。こうして島津兄弟は、動きを始めたのであった。

 その彼らが先ず手を打ったのは、相手の内情である。大友家であれば、ある程度は予測がつく。竜造寺家も、同じ九州の住人ゆえ難しいという程でもない。但しそれは相手も同じであるが、それを今さら論じても仕方がなかった。

 翻って織田家の軍勢は、そうとはならない。毛利家にしても、長宗我部家にしても島津家は干戈を交えたことがない。ましてや織田家の軍勢など、それ以前の問題であった。そこで島津家としては、赤塚真賢あかつかまさかたに敵中の探索を命じている。彼は酒瀬川武安さかせがわたけやすと並び、島津家の誇る忍びでもある。その赤塚真賢だが、山くぐりとも称される島津家の忍び衆と共に織田の陣営へと忍んだのであった。

 首尾よく敵陣へ入り込むことに成功すると、彼らは幾つかに分かれて行動する。調べる対象となる人物が三人いるので、効率を考えてのことであった。明智光秀や羽柴秀吉について調べた者たちは、かなり危うい感じではあったがそれでも幾許かの情報を得ている。しかし六角家の陣に潜入を試みた者たちは、誰一人として成功しなかった。

 この辺りは、事実上織田家の情報網を握っているといっても過言ではない六角家の忍び衆の面目躍如めんもくやくじょであろう。彼らは敵への潜入もさることながら、防諜にも力を入れていたからだ。

 まさか全く情報が入らないなど、流石の赤塚真賢も想定していなかった。明智光秀や羽柴秀吉の情報は紛いなりにも入ったことを考慮すれば異常とすらいえる事態といえるのだが、これは仕方がない側面もあった。

 義頼の抱える忍び衆が、防諜にも力を入れていることは先に述べた通りである。しかも情報を重要視する義頼の思惑もあって、かなりの体制を敷いているのだ。ゆえに敵勢力の忍び衆に対する備えは、日の本国内でも有数といって差し支えはない。だが、そんなことなど流石に赤塚真賢も山くぐり衆も知らないことである。だからこそ、このままという訳にはいかなかった。

 そこで赤塚真賢は、自ら調べることにする。防諜体制がどのくらい凄まじいものなのか、実体験で確かめる必要があると感じたからであった。だが先に潜入を試み自ら体験した者たちからすれば、危険極まりないといっていい。何とか翻意させようとしたが、赤塚真賢の意思が変わることはなく、押し留めようと試みた者たちもあきらめざるを得なかった。


「……承知しました。ですが、決して無理はなされないただきたく存じます」

「それぐらいは心得ている。安心せい」


 そう言葉を返した赤塚真賢は、手練れの者たちと共に動き始めた。

 しかし、この動きは敵である義頼側に勘づかれてしまっていたのである。とはいうものの、別に裏切り者がいたとかではない。配下の忍び衆より報告を受けた義頼が、沼田祐光ぬまたすけみつ小寺孝隆こでらよしたから幕僚と話し合った末に導き出した答えであった。

 因みに本多正信ほんだまさのぶだが、彼は九州に同行していない。安土城内にある六角屋敷にて、膨大ともいえる日の本各地域より入ってくる情報の精査などを行っているからだった。

 話を戻して九州の義頼はというと、この頃にある人物と面会していたのである。その人物とは、戸次道雪であった。九州における情報収集の過程で、彼の話は耳に入っていたので義頼が知っているのは不思議ではない。しかし戸次道雪の名前は、情報収集と別に義頼は知っていたのだ。

 さて、どこで義頼が知ったのかというと、情報源は山県昌景やまがたまさかげである。彼曰く、武田信玄たけだしんげんが生前に戸次道雪との対面を、しかも対戦を望んでいたのだ。あの武田信玄がそこまで熱望している相手であり、これは絶対に会って話がしてみたいと考えていたのである。そしていよいよ、その願いが叶い、義頼は戸次道雪との面会を果たしたのだ。

 そもそも相手が年上ということもあり、義頼自身が足を運んでいる。面会を望まれた戸次道雪にしても、否はなかった。何せ面会を望んだのは、大友宗麟の救援要請に応じて現れた織田家の軍勢の将である。しかも軍勢の副将を務めている人物であり、断れる話ではなかった。

 もっとも、戸次道雪自身は、初めから断るつもりはない。というのも、彼も義頼には興味があったからだ。伝え聞く話だけでも、義頼の戦績は異常である。何せ負けらしい負けなど、織田家と六角家が唯一切り結んだといっていい【野洲川の戦い】だけだというのだ。その戦にしても、野戦で四から五倍はいた相手に真っ向勝負をしたというのである。しかも初めのうちは、押し気味であったというのだ。

 その話を聞いた際、当初は盛られた話かと思ったが内容を聞くうちにそうではないと判断する。実際、義頼が織田信長おだのぶなが浅井長政あざいながまさ相手に切り結んだというのだから、少なくとも当初は五分以上であったのは間違いないと思われた。

 その上、その二対一という戦いで互角か下手をすれば押し気味であったというのだから呆れるよりほかはない。もし四分の一時でも猶予があったら、結果はどう転んでいたのか分からなかったのだ。

 さらにいえば、戦を行った相手も異常である。先に上げた二人の他に、武田信玄や上杉謙信や吉川元春きっかわもとはるがいる。そこから追加で調べさせれば、東国でも勇猛で名の知られた武将となる馬場信春ばばのぶはるや山県昌景、道感こと北條綱成ほうじょうつなしげなど話には事欠かなかった。

 しかも義頼は、漸く三十路みそじを越えたぐらいである。その年齢であるにも関わらず、多くの戦に立ち会いそして勝利を収めているのだから興味を引かない筈もなかった。

 齢六十半ばを超える戸次道雪と三十を超えたばかりの義頼であり、二人の対面は親子といっても何ら差し支えがない。しかし二人には戦という共通点があるので、話が滞るということもなかった。また義頼が、戸次道雪を武士の先達として、ある意味で尊敬しているといっていい状況下にあることもいい方に働く。ゆえに彼らの話は、非常に弾んだものとなっていた。

 何せ戸次道雪も、今まで経験した戦で殆ど負けたことがない。彼が負けを経験した戦は、大抵は大将として兵を率いていなかった戦であった。そして義頼にしても、若い頃には幾つか勝ちを収めていない戦もある。だが、それにしても当初負け戦であった物を何とか引き分け程度にまで引き上げた結果であった。

 つまり彼らの将としての有り様は兎も角として、お互いが気に掛かったのだ。すると戸次道雪の心うちで、義頼に対して自身が経験した全てを教えてみたいという気持ちが芽生えてくる。そして義頼にしても、この雷神とも軍神ともそして鬼とも称される戸次道雪から教えを学んでみたいという心持が頭をもたげてきた。

 その為か二人の関係は、いつの間にか戦談義から師と弟子といっても差し支えがないような物へと変わっていくことになる。しかし、それだけが理由ではなかった。義頼は別にして戸次道雪としては、ここで織田家の重臣である義頼の心象をよくすることで大友家、ひいては戸次家や高橋家など大友家臣の安寧を少しでも得ておきたいという切実というか生臭いというかそんな思いもあったのだ。

 何ゆえに戸次道雪がそのようなことを考えているのかというと、彼の中で一つ懸念があるからだ。その懸念とは、先年に大友家と島津家と竜造寺家と間で結ばれた不戦の協定にある。この話が織田家の意向を受けた近衛前久このえさきひさの仲介によってなされているのだが、その際に織田家から大友家に要請された奴隷貿易禁止の条項だ。

 織田家からは大友家主導で履行するようにとの話であったが、大友宗麟や大友義統は家臣に禁止の通達こそしたが取り締まりなどは全く行っていなかったのである。この件に関して戸次道雪は、行うようにと何度か諫言していたのだが、大友宗麟はただの一回も取り締まりは行わなかったのだ。

 父親が行わなかったのだから、当然ながら息子も行っていない。彼もまたキリシタンであり、とても行いたいと思っていなかったのだ。結局、大友家中でただの一回も取り締まりなどは行われなかったのである。それどころか、戸次道雪が日向侵攻から外された理由の一つにもなっていたのだ。

 このことが織田家から見た場合、どう捉えているのかが分からない。その為、戸次道雪は義頼と懇意になると選択を行ったともいえるのだ。そのような理由もあるがゆえに、二人の会合は一回で終わることなどない。流石に今が戦時ということもあり、頻繁には会えなかった。しかしそれでも、何回か会合を行っていたのである。そして今日は、その数少ない会合であった。

 その席で義頼は、戸次道雪へ甲賀衆を率いている望月吉棟もちづきよしむねの報告により得た島津家側の動きを何気なく漏らす。その話に、彼はいささかの興味を持ったのだった。


「ほう。島津がのう……どうやら余程、織田が気になると見える」

「今までも、ただの一回しか接点はありませんでしたからな」

「となると酒瀬川か赤塚あたりが出張ってきているな……気を付けられよ左衛門督(六角義頼ろっかくよしより)殿」

「承知致した」


 その後、戸次道雪の元を辞去した義頼は、自陣へと向かう。彼からの忠告に、自らが率いる軍勢の様子が何とはなしに気になったが為であった。その移動の間、義頼は弓を手にしたままである。敵の手の者が、もしかしたらいるかもしれないという懸念から出た警戒心によるものである。そしてその行為は、無駄とはならなかった。

 六角家の軍勢が駐屯している場所に向かっている途中で義頼は、違和感を覚える。それは微かなものであり、普段ならば気付かなかったかもしれない。しかし戸次道雪の忠告もあり、気にしない訳にはいかなかった。

 足を止め、深く周囲を探る。すると、確かに複数の気配を感じる。その瞬間、義頼は自身の勘に従い矢を番えると弓を引き絞る。次の瞬間、その矢を放っていた。


「……しまっ、ぐはっ!」

『源太左衛門尉(赤塚真賢)様!!』


 義頼の矢は、正確に標的となった者の肩口を貫いていた。

 元々義頼の弓は、数人引きの強弓である。そんな弓から放たれた矢の威力は、半端なものではない。そのまま不幸にも狙われてしまった赤塚真賢を後方へ吹き飛ばしただけでなく、その勢いのままに大木へ彼を張り付けにしていた。

 大木へ張り付けにされた赤塚真賢は、不覚にも気絶してしまう。背中だけならばまだしも、迎撃の態勢を整える間もなく後頭部も大木に打ちつけられてしまったからであった。慌てて山くぐり衆が助けようと試みるも、思うよりも深く矢が赤塚真賢を大木に縫い付けている為、中々抜けない。仕方なく矢を折ろうとしたが、その間にも義頼の命を受けた護衛の者たちが迫ってきており、もう彼に関しては諦めるしかなかった。

 何せ山くぐり衆には、島津義久へ織田家の将や軍勢の情報について届けるという役目もある。断腸の思いで、山くぐり衆はこの場から引いていく。こうして意識がないまま残された赤塚真賢は、捕囚の身に甘んじたのであった。


ついに、島津との戦に入ります。

漸くここまで来たなぁ。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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[良い点] ニュータイプに射ぬられたて存命なら十分 道雪の受講か…山本連合艦隊司令長官の部下育成法の元ネタ教わる事出来ますね
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