第二百五十三話~筑前・筑後国の鎮定~
お待たせしました。
書店アプリ『まいどく』において、配信もされております。
第二百五十三話~筑前・筑後国の鎮定~
羽柴秀吉率いる織田家の軍勢と、その織田家の軍勢の元に参集した九州の国人らによる軍勢が高良大社に集った頃、隣国の筑前国ではいよいよ雌雄が決しようとしていた。
とはいえ、その趨勢は明らかである。秋月種実と共に宗像氏貞を攻めていた筑紫広門は、形勢の不利から既に血路を開き居城へ向けて撤退しているのだ。
さらにいうと、秋月家側についていた筑前国の国人らも情勢を鑑みて次々と離反しており、彼らは織田家先遣隊へ靡いている。そればかりか、秋月家にそもそも仕えていた家臣からも離脱者が幾人も出ていたのである。【高城の戦い】で負けを期した大友家より離反し、一時は筑前国内で最大勢力にまで伸張した秋月家であったが、この流れを止める術はどこにも残っていなかった。
「もはやこれまで、ということだな」
「無念にございます、殿」
秋月種実がふと漏らした言葉に答えたのは、重臣の内田実久である。彼と秋月種実の縁は、意外と深い。嘗て秋月家は、先代となる秋月文種が曲がりなりにも当時従属していた大友家より離反したことがある。秋月家が離反し反旗を翻した理由は、当時の当主であった先代に当たる秋月文種が、九州にまで勢力範囲を伸ばしてきた毛利元就からの勧誘にのった結果であった。
勿論、この秋月家の動きに対して大友家は黙っていない。その頃はまだ剃髪をしておらず、大友義鎮を名乗っていた大友宗麟は、戸次道雪と臼杵鑑速を派遣してこれを速やかに鎮圧させた。
その際、秋月文種と秋月家嫡子であった秋月晴種は最後の最後まで抵抗したのちに自害している。しかし両名による命を懸けた時間稼ぎのお陰で、嫡子以外で残った四名の子供は城より逃れ毛利家に匿われたのだった。
この時、秋月文種の子供らと共に毛利家に同行した家臣の一人が、この内田実久である。幼少期を毛利家の領地で共に過ごしていた秋月種実にとり、彼は気が置けない家臣として重用していた。その期待に内田実久も応え、陰日向にと秋月種実を支えていたのである。それゆえ、ここまで劣勢に追い込まれながらも彼は秋月家より離反せずにこうして仕え続けているのだ。
「……無念か」
「はっ。ですが、最後くらいは華々しく散りましょう。ご先代様のように」
「父上のようにか……わしは悪い主だな、家臣の希望を叶えてやれぬとは」
「殿。それは、どのような意味なのでしょうか」
「うむ! 内田実久! そなたに、命を与える!!」
「は、ははっ」
急に、秋月種実の口調が変わる。語勢もあり、内田実久は思わず居住まいを正していた。
「そなたはこれらの書状を持って、古処山城より落ちよ!」
「と、殿!」
「また、我が子らも預ける! 」
「!!」
今度こそ絶句した内田実久の前に、書状を三通渡す。書状の宛名はそれぞれ毛利輝元、長宗我部元親、宗像氏貞となっていた。これだけの言葉と書状を見せられれば、それらがどのような意味を持つのか流石に察してしまう。つまり秋月種実は、特に信用できる家臣となる内田実久に実子を預けることで家の存続を図ると同時に、自身は武家の意地を通して死ぬつもりであったのだ。
無論、落ち延びさせる家臣は内田実久だけではない。いかに彼が優秀であろうとも、これからのことを考えれば内田実久だけでは手に余ることは明白だからである。それでも彼へ最初に打ち明けたのは、秋月種実がどれだけ内田実久を信じているのかを表しているといって良かった。
「殿……殿自身が降伏することは、まかりなりませぬか」
「実久。わしだけで、大友家と干戈を交えること三回だ。父の時も併せれば、仏の顔も三度を既に越えている」
「しかし、それならばお子も危ういのではありませぬか?」
「だからこそ、わしの命だ。首があれば、大友としても面目は立つであろう。そうなれば、娘は無論だが元服すら迎えていない息子も命ぐらいなら問題なかろう」
秋月種実は、自身の首をいわば免罪符として使用するつもりなのである。だが、降伏して首を討たれてしまえば武士の面目が立たない。自身は勿論だが、秋月家の面目も立たなくなってしまう。それでは折角、息子や娘をたとえ生き延びさせてもただそれだけとなってしまうのだ。
確かに家を存続させることは大事だが、同時にできることなら秋月の名も残したい。ひいてはそれが、子供の為にもなる。もはや死の覚悟を決めている秋月種実にとって、息子や娘に残せるものは信の置ける家臣を除けばそれぐらいであった。
「……分かりました。お子らのことは、お任せください。必ずや、立派に成人させて御覧に入れまする」
「うむ。これで、安心して逝けるというものだ」
そういった秋月種実の顔は、透明といってもいいぐらいの笑みを浮かべていた。
その日の夕刻、内田実久は主君の妻子や自身の息子、他に秋月種実がこれはと思った一握りの家臣にその妻子らと共に古処山城より密かに落ちる。そのまま彼らは、敵である軍勢の先鋒を任されている宗像氏貞の陣へ向かうと、内田実久は連枝である内田実清を派遣した。その連絡により、彼らの動きを知った宗像氏貞は、一門衆となる宗像民部に出迎えをさせる。こうして彼らは、宗像家の庇護下に入ったのであった。
その後、内田実久は庇護してくれたことに礼を述べたあとで秋月種実より託された書状を渡す。その書状を一読したあと、一行の身柄を重臣の占部貞保に預けると、その上で宗像氏貞は、内田実久と秋月種実の嫡子と正室を伴って毛利輝元と長宗我部元親の元へと赴くのであった。
秋月種実からの書状を渡された二人は、揃って目を通す。その内容は、大きな意味では内容は変わっていない。そこに記されていた文言は、妻子たちの助命嘆願であり、さらには最後に数度出陣をとの願いが記されていた。
内容的にいえば、毛利輝元と長宗我部元親の両名へ損を与えるようなものではない。その意味では、せめて叶えてやりたいとも思える内容といえた。しかし秋月家の処遇にしても、そして子供らにしても保証をするというのは難しい。毛利にしても長宗我部にしても、織田家に臣従した家であることに違いはないからだ。
彼らがたとえ助けてもいいかと思っても、最終的には主家となる織田家の意向次第となる。つまり、織田家がどう判断するのかを確認しないうちに、確証を与えることはできなかったのだ。ゆえに彼らは連名で、こたびの九州への派兵で大将となる羽柴秀吉へ伺いを立てることにする。するとその返答は、彼らからすれば少し意外であり、何と助けても構わないというものであった。
織田家側の思惑は分からないが、それでも羽柴秀吉からの許可を得たという事実は大きい。すると両名は、すぐに連名で返答を認めた。そこには申し出の受理と、履行の為には秋月種実の首が必須であると記されている。その返答に秋月種実は、二つ返事で了承した。
そもそもからして、死を覚悟していたことである。彼は再度返書認めると、そこには羽柴秀吉も含めた礼が記されていた。
明けて翌日、書状にあったように秋月種実は、都合三回ほど古処山城より打って出ている。その出陣が終わると、彼は自らが認めた書状を持たせた軍使を派遣した。その書状に記されていたのは、最後の我がままを聞いてもらったことへの礼と武士としての気はもはや晴れたとの言葉である。その文言から、秋月種実は自害する気であることを察した。
しかしてその通り、秋月種実は見事割腹して果てたのである。そして最後まで付き従った僅かに残る将兵も、あとを追い自害する。最後に軍使となった秋月家家臣の板波実理も、たっての希望で彼も切腹し、ここに筑前国は鎮定されたのであった。
筑前国の鎮定が漸く終わった頃、筑後国でも最後の動きを見せていた。
高良大社に集った羽柴秀吉が大将として率いる兵と、彼らに付き従った筑後国人はいよいよ出陣する。軍勢が向かった先は、西牟田氏の居城となる西牟田城であった。
この城には、下蒲池氏当主の蒲池鎮漣も入っている。それでも一応、彼らは高橋鎮種を通して降伏する旨を伝えていた。しかし、前述した通り高橋鎮種に甘い対応をする気がない。ゆえに使者は追い返され、蒲池鎮漣もそして西牟田氏を束ねる西牟田鎮豊も覚悟を決めざるを得なかった。
「竜造寺のつても、今となっては無理か」
「で、あろうな民部大輔(蒲池鎮漣)殿。左衛門大夫(有馬晴信)殿を倒したという話はまだ聞き及んでおらんし、何より安房守(竜造寺信周)殿が、織田家が派遣した軍勢に協力しているらしい」
「つまるところ、戦うか逃げるかしかないということになるのか」
高橋鎮種の他に問註所統景ら、筑後国人にも仲介の労を頼む書状は出してはいるが、今まで梨の礫であり当てにはできなかった。かといって、一戦も交えずに逃げ出すのも憚られる。だからこそ二人は、不利など百も承知の上で西牟田城へ集結していたのだ。
しかしながら、敵勢の兵数を目の当たりにすると、折角固めた戦を行うという気持ちが揺らいでいく。彼我の兵数差がありすぎで、乾いた笑いを浮かべるぐらいしかできないからだ。軍勢を率いる蒲池鎮漣と西牟田鎮豊からしてそうなのだから、旗下の兵のなどそれ以上である。士気などは、食い止める余裕すらなくただただ下がっていく。だが有効な手もなく、黙っているしかなかった。
かろうじて軍勢が崩壊していないのは、曲がりなりにも蒲池鎮漣と西牟田鎮豊がいるからである。仮に彼らが逐電でもしようものなら、西牟田城や周辺の城に入っている国人や兵はあっという間に瓦解するのが火を見るより明らかであった。
「何とか時を稼ぎつつも、敵に出血を強いるより他ないであろう」
「相手は遠征軍。厭戦気分を醸し出すよりはない、か」
僅かな望みであるが、それでも彼らにはそれしか手が残されていなかった。
万が一にも敵に厭戦気分が広まれば、今は織田家の軍勢に協力している筑後国人らが離反するかも知れない。また、肥前国の竜造寺家や筑紫家が援軍を出す気になるかも知れないからである。しかし、彼らの思惑は外れることとなった。
有り余るほどの兵数差を利とし、織田家の軍勢を率いる羽柴秀吉は、先に西牟田城周辺の城を悉く落としてしまったのである。しかも肥前国側に面する方面と、下蒲池家の居城となる柳川城側に兵を駐屯させて、そちらから援軍などがこられないようにと配置している。その上で、西牟田城を取り囲んでしまったのだ。
「紀伊守(羽柴秀吉)様。書状を出して、降伏を促させようと思いますが、よろしいですか?」
「うん? 主膳正(高橋鎮種)殿、「彼の者たちは許すまじ!」ではなかったのか? 実際、あの者たちからの書状については、却下したではないか」
「はい。しかしこちらからであれば、話は変わります。それに、受け入れても受け入れなくてもどちらでもかないません。どのみち、大友家に損はありませんし、降伏を促す書状をだせば一応は嘗ての味方であった者たちへの筋を通した形にもできます」
「そうか。ならば、お任せしよう。左衛門督(六角義頼)殿も日向守(明智光秀殿)もよろしいですかな」
「某は、構いません」
「拙者も、右に同じです」
羽柴秀吉だけでなく、義頼と明智光秀からも了承を得られたことで、蒲池鎮漣と西牟田鎮豊へ降伏を促す書状が届けられた。しかして降伏の条件だが、下蒲池家と西牟田家において一族で成人している者は全て死を賜る。しかし成人していなければ、九州以外の地で僧になることを条件に存命を許すと記されていた。
最後に、物心すらついていないと思われる幼子については、こちらも九州より離れることが条件だが助命するとしていた。
簡単にいえば、お家断絶である。しかし幼子が存命することで、お家再興の芽も残された通達であった。つまり、下蒲池氏と西牟田氏に対して希望を僅かでも残したのである。そうすることで、以降は彼の家に仕えていた者たちを大人しくさせるという趣旨を相手に読ませたのだ。
何せ追放された一族を含めて静かにしていれば、僅かだがそれでもお家再興の芽があるのだ。しかし大人しくしてなければ、その僅かな芽も絶たれてしまう。それを考えれば、残された者は大人しくせざるを得なかった。
「城を枕に討ち死にして、一族郎党を引き換えに死して名を残すか。それとも、僅かでも家の再興を目指すか……流石は高橋鎮種、いやな手を打ってくる」
「とはいうものの、どうする民部大輔殿」
「……拙者は、家を残すことに全力を果たそうと考える。貴公は、どうされる?」
「いうまでもなかろう。わしらの命で家を残せる芽が出るのならば、それだけで十分よ」
「では、きまりだな」
結論を出した蒲池鎮漣と西牟田鎮豊の両名はそれぞれの一族の者の説得に入った。
だからといって、全ての者が受け入れる訳ではない。彼らの反応は、幾つかに分かれた。一つは、当主の考えに殉じるという判断をした者たちである。こちらは老いては子に従うではないが、比較的年嵩の者が多く見受けられた。
次に、妻子を連れて逐電するといった反応をした者たちである。彼らはさらに二つに分かれ、一つは九州より離れそこで再起を図るといった者たちであった。そしてもう一つは、島津を頼るというものである。落ちる先の候補としては竜造寺などがあるのだが、彼の家は織田家の軍勢に協力しているという話も流れてきており、どうにも信用が置けない。そうなると九州で残るのは、島津家か相良家か阿蘇家となる。だが、相良家と阿蘇家はどちらかというと大友家寄りの家であり、ひいては織田家寄りの家ということになる。なれば残るのは、島津家の一択であった。
それにまだ未確認ではあるが、肥後国内は筑前国や筑後国程には乱れていない。その点を考慮しても、やはり相良家や阿蘇家という選択はできないものであった。
最後に、もっとも多くの反応を示したのはこのまま籠城を続けるという者たちである。彼らとしても、この期に及んで勝てると判断している訳ではない。だからこそせめて一矢報いて、九州国人の意地を見せつけるというある意味で滅びの美学を見出している者たちであった。
そんな彼らの気持ちも、分からないではない。重要なのは勝敗の話ではなく、たとえ寡兵であっても敵には昂然と立ち向かったという意地の話なのだ。
「その為には、妻子をも巻き込むと貴殿らはいうのだな」
『致し方なかろう』
一族内でもっとも多くを占めてしまっただけに、覆すのも難しい。正直にいえば、覆すだけの手立てを蒲池鎮漣と西牟田鎮豊の両名は持っていなかったのだ。こうなってしまっては、もう説得どころの話ではない。下蒲地家と西牟田家の当主として、彼らと共に迎え撃つしかなかった。
その一方で、彼らも当主として一族の全滅は何としても避けなければならない。心ならずも織田家の軍勢と一戦交えることとなった両名は、女子供を中心に落ち延びさせる手筈を調える傍らで、少しでも時間稼ぎをおこなおうと奮闘した。
使えるものは何でも使い、時を稼ぐべく奮闘する。しかし、そんな彼らに織田家側が付き合う必要もない。義頼や羽柴秀吉や明智光秀は、最後通告ともいうべき書状を西牟田城へ届けさせていた。
その書状を受けた二人は、本当にぎりぎりまで足掻き、一人でも多くの者を落ち延びさせ続ける。無論全ての者が成功した訳ではないが、それでも幾許かは成功していた。
その間、義頼たちに逃げる者を取り締まる意外に目立った動きがあった訳ではない。否、はた目から見れば、黙って待っていたという風に見えていた。しかしながら、動きがなかった訳ではない。より厳密にいうと、動きがあったのは筑後国ではなく筑前国であった。
その書状には、筑前国での戦が終わったことが記されている。秋月家の主だった者の首を取ったこと、そして秋月種実の子らの命を助命したことも記されていた。奇しくもそれは、下蒲池氏と西牟田氏へ降伏の条件とした要件に酷似とまではいわなくても似ており、その類似性に義頼と羽柴秀吉と明智光秀、それから高橋鎮種と問註所統景は苦笑を浮かべていた。
「秋月家への対応だが、まぁ良いと思う。どう思われるか日向守殿」
「紀伊守殿、拙者も了と判断します。して、左衛門督殿はいかがかと」
「某も、日向守殿と同じです」
「ふむ……主膳正殿と刑部大輔殿はどうか」
「秋月への対応、異存はありません」
「拙者も同じにございます。秋月種実の首があれば、大友家の面目は立ちますゆえに」
高橋鎮種と問註所統景は、織田家より派遣された軍勢においては大友家、及び筑後国人の代弁者となっている。その両名も了承したのであれば、織田家側としてもこれ以上追及する気はない。ゆえに秋月家に対する沙汰は、それで終わりとなっていた。
「となると、毛利率いる中国勢と長宗我部率いる四国勢の扱いとなる」
「それならば紀伊守殿、彼らには引き続いて筑前国の安定に尽力してもらってはいかがか」
「なるほど。下手に合流を目指すよりは、その方が良いかもしれぬ」
「お待ちあれ。逃げた進士兵衛(筑紫広門)、あれはどうなされまするのか」
「筑紫は、このあとだな。あ奴らも、攻めたのであろう。けじめはつけさせねばならぬ」
「そうですか。なれば、問題ありません。のう、刑部大輔殿」
「しかり」
すると、仰々しく問註所統景が頷く。その仕草に、義頼らは小さく笑みを浮かべていた。
そんなさなか、いよいよ期限最終日が訪れる。完全に日が昇ると、大将を務める羽柴秀吉の号令一下、軍勢が動き出していた。織田家と筑後国人の連合勢は、全ての門へ攻勢を掛ける。正しく力攻めであり、城より落ちた者たちもいることから、西牟田城側は兵もより少なくなっており防ぎきれるものではない。結局、城に残っていた者たちの大半は、鎧袖一触とばかりに蹴散らされ討たれるか捕らえられるかされた。
こうして西牟田城は陥落し、討たれた者の中には蒲池鎮漣と西牟田鎮豊の首もある。彼らの首はそのまま、高橋鎮種や問註所統景へ引き渡されたのであった。
因みに落ちることに成功した者たちだが、実はわざと見逃されている。そのまま消えてもよし、そして島津や竜造寺へ落ちるもよしだからである。彼らの存在が、頼った家を攻める口実にもなり得ると判断されたからであった。
「さて、これであとは西牟田氏の領地と下蒲池の領地を押さえるだけだが……刑部大輔殿ら筑後国人に任せる。だが、一つ忠告する。乱暴狼藉は許さん! よいな」
『……ははっ』
羽柴秀吉からの通達にいささかの不満の色を見せた彼らであったが、それでもその言には従う。織田家という莫大な力を持った者たちからの通達であり、逆らったところで潰されるのが明白だからである。その後、筑後国のことを任せた義頼らは、いよいよ筑紫広門の居城へ向けて進軍を開始したのであった。
筑前・筑後国内の争乱が集結を見ました。
残るは、筑紫の逃げた肥前国となります。
ご一読いただき、ありがとうございました。




