第二百四十九話~九州討伐開始~
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第二百四十九話~九州討伐開始~
筑前国に上陸した織田家先遣隊は、二日ほど山鹿城に滞在して疲れを癒した。その後、山鹿城を出陣するとやはり麻生家の城となる岡城に入っていた。明けて翌日、岡城を出陣した軍勢が向かったのは、蔦ヶ嶽城である。この城は岳山城とも称される山城であり、山の尾根を掘削し多数の曲輪を配した屈指の堅城である。この蔦ヶ嶽城を居城とした一族がおり、その一族とは宗像氏であった。
彼の一族は古く、その名は古事記にも出てくるぐらいである。このように古代より続く宗像氏だが、実は義頼とも縁があった。とはいえ、義頼と宗像家現当主となる宗像氏貞に親交があったなどという話ではない。ならばどこに縁が存在するのかというと、遥か遠い先祖に接点があるのだ。
古代より続く宗像氏だが、実は宇多天皇の御世に彼の一族は難波の姓を賜り宗像の地より離れている。すると、その代わりに宗像の姓を授けられこの地に赴任してきた者がいる。その者は光遠親王とも清氏親王とも呼ばれ、宇多天皇の皇子ともいわれる人物であった。
彼は、初め源清広の猶子となる。源姓を得たことで臣籍降下をしたのだが、前述の通り古代宗像氏が宗像の地より移動すると代わり宗像の姓を賜っていた。しかるのちに彼は、宗像大社の宮司として派遣される。その後は、宗像清氏と名乗り、その後、二十年程宗像大社の宮司を務めたとされている。以降、彼の子孫が代々宗像氏当主と宗像大社の宮司を世襲してきたのだった。
宇多源氏の流れを汲む近江源氏の当代となる義頼と宗像氏貞は、同じ宇多天皇の皇子から分かれた親戚筋となる。それゆえに宗像氏貞は秋月家と原田家からの勧誘をはねのけたばかりか、大友家から離反せずに属していた。つまり厳密にいうと宗像氏貞は、大友家に義理立てしたのではなく義頼に対して義理立てし、結果的に大友家に属し続けているのだ。
だが大友家に反旗を翻した秋月家と原田家、そして筑紫家からすれば宗像家を放っておくことはできない。前述した通り、宗像家は筑前国きっての名家である。しかも宗像大社の宮司を代々務めていることから、影響力は筑前国だけに留まらない。ゆえに彼らは、脅しの意味も込めて、軍勢で取り囲んだという訳であった。
因みに秋月家と筑紫家に同調して兵を挙げた原田家だが、蔦ヶ嶽城攻めに兵を送り出してはいない。彼の家は、岩屋城へ兵を送り高橋鎮種を牽制しているからだ。しかし、戸次道雪と並び大友家屈指の将である彼を牽制するのが手一杯であり、とてもではないが兵を送る余裕などなかったのである。何はともあれ、先遣隊とはいえ織田家の軍勢と九州の軍勢の会合がいよいよ迫ったのであった。
蔦ヶ嶽城を取り囲んでいた秋月種実と筑紫広門の両家を主力とした軍勢は、織田家先遣隊が迫っているという知らせに城の攻囲を一旦諦めている。代わりに敵となる軍勢を迎撃するべく、彼らは近くを流れる釣川に陣を敷いていた。
そんな彼らのところへ、いよいよ織田家の先遣隊が迫りくる。彼の軍勢の先鋒を務めているのは、麻生隆実であった。釣川近くに到着すると、まず麻生家の将兵が陣を敷く。続いて織田家先遣隊のうちで中国勢を率いる毛利輝元を大将とする軍勢と、長宗我部元親率いる四国勢が相次いで陣を敷いていく。彼らは川を挟んで布陣したこともあって、その日は両軍勢がぶつかることなく暮れていた。
明けて翌日、両軍勢は改めて陣を調え対峙する。およそ一刻ほど睨み合っていたが、やがてどちらからともなく動くと、そのまま両軍勢は激突した。
なお、両軍勢とも無理に統一はしていない。これはたまたまなのだが、両軍勢ともに大きく二つに分かれることができた為であった。この地に到着するまで先鋒を務めていた麻生勢は、過去の経緯から毛利家が事実上率いている中国勢の先鋒となっている。では長宗我部家が事実上率いている四国勢の先鋒はというと、河野通直や西園寺公広や金子元宅らといった伊予国人たちが務めていたのだ。
一方で秋月種実は毛利輝元率いる軍勢と、そして筑紫広門は長宗我部元親率いる四国勢と相対する。兵数において少ないことは十分に理解していたが、彼らも戦乱に次ぐ戦乱に明け暮れた九州において強かに生き残ってきた者たちである。上方の兵など、なにするものぞとばかりに意気込んでいた。
その意気込みゆえか、初めのうちは兵数が少ない筈の九州勢が押していたぐらいである。しかし中国勢に小早川隆景がいるように、四国勢にも滝本寺非有がいた。彼は長宗我部家の家臣であり、真言宗の僧でもある。そして、長宗我部家の重臣となる谷忠澄の弟でもあった。
そんな滝本寺非有だが、敵から押されている現状に臨み長宗我部元親に対して防戦を進言する。彼曰く、先ずは守りを固めることが肝要だと諭したのだ。
「凌ぐ……か」
「はい。ひとまずは、敵の攻勢を凌ぎきります。しかるのちに反撃を行うべきかと」
「よかろう」
進言を受けた長宗我部元親も、相対する筑紫勢の攻勢に多少なりとも面食らったところがある。そんな相手にまともに付き合えば、味方の損害も増えかねない。ならば、滝本寺非有の言う通りに動いてみるのもまた一興かと判断したのだ。
「だが、非有。毛利、いや中国勢はどうする」
「恐らくは問題ないでしょう。あちらには左衛門佐(小早川隆景)殿がおられます」
その時、毛利勢にも動きがあった。
幾ら同じ戦場とはいっても、多少は距離がある。しかし、お互いが全く判断できない程離れている訳でもないので凡その動きぐらいは分かる。するとどうやら、中国勢も同様の進言を受けたらしい。見て取れる兵の動きが、積極的に攻めるというよりは守りを主体としたと判断できるような動きへと変化したのだ。
「なるほど。流石は小早川隆景、といったところであるな」
「御意」
こうして中国勢も四国勢も、防衛を主とする動きへと変わっていった。
そのような敵の判断など露知らず、秋月勢と筑紫勢は変わらずに攻勢を掛け続ける。はた目には押しているので、調子に乗ったともいえるだろう。しかし生き物である以上、いつかは疲労する。ましてや軍全体が勢に乗っているとはいえ、その勢いがいつまでも続く筈もない。時間がたてばたつほどに疲労が蓄積していき、どうしても動きが鈍くなってしまうからだ。
やがて九州勢の疲労が頂点に達したかと思えた正にその時、小早川隆景と滝本寺非有が異口同音に反撃の進言をする。その言葉を待っていた毛利輝元と長宗我部元親は、ほぼ同時に配を返した。
「うむ」
「相分かった」
『突撃ー!!』
その直後、反撃の掛け声と共に我慢に我慢を重ねていた中国勢と四国勢は反撃に転じた。
さんざん攻められ続けた欝憤を晴らすかのような反撃であり、疲労が溜まっていた秋月勢と筑紫勢を中心とする九州勢ではその反撃を抑えきれなかった。幾ら気力が満ちていようとも、それだけで体を動かせる訳ではない。そもそもからして、兵数で負けているのだからそれはなおさらであった。
そして一旦押されてしまえば、兵数の少なさが如実に現れてしまう。今まで押していたのがまるで嘘であったかのように、戦場のあちらこちらで九州勢は食い破られ始めてしまった。
しかしてその流れは、ひたひたと秋月種実と筑紫広門に近づいていく。それでも両名は何とか立て直そうと躍起になるが、その努力をあざ笑うかのように味方の被害が大きくなる。するとその戦場に止めを刺す二つの集団が現れたのであった。
一つ目の集団は、蔦ヶ嶽城に籠っていた宗像家の兵である。織田家から派遣された軍勢が優勢だと戦場の推移から判断した宗像氏貞は、今こそが好機として城から打って出ると一気に山を下り、その勢いのままに手近な敵勢に突撃したのである。宗像家当主自らが兵を率いての突撃であり、それだけに勢いは相当である。宗像家の兵は敵勢を横から崩す勢いで、敵勢を突き抜けたのであった。
そしてもう一つの集団、それは小倉城主となる高橋鑑種率いる兵となる。彼は織田家の先遣隊が関門海峡を抜けたことを知ると、即座に軍勢を動かしたのである。それは勿論、彼ら織田家の先遣隊に合流する為であった。
ところでこの高橋鑑種であるが、彼もなかなかの経緯を持つ人物である。何せ彼は、主家である大友家に対して反旗を翻したこともあるのだ。
嘗て毛利家が九州へ侵攻した際、その前準備として九州の国人などに調略を仕掛けている。その調略に乗った高橋鑑種は、毛利家が侵攻してくるのと同時に大友家に対して刃を向けたのだ。当初、大友宗麟は高橋鑑種が反旗を翻したなど信じなかったのだが、続報を受けて信じざるを得なくなってしまう。彼はその事実を前にし、今までさんざん目を掛けたのにと嘆き悲しんだという。
しかし、いつまでも嘆き悲しんではいられない。大友宗麟は、戸次道雪を大将とした軍を派遣して鎮圧を目指した。すると高橋鑑種は自身だけでなく、肥前国の竜造寺隆信や先に挙げた三家(秋月、原田、筑紫)に宗像家も加えた四家をも誘ったのである。するとこれらの家も同調し、揃って大友家へ反旗を翻したのだ。
幾ら戸次道雪といえども、これではそう易々と鎮定とならない。しかも毛利家の軍勢までいるのだから、その難易度は推して知るべしであった。最終的には大友家対毛利家という構図となった戦は、大きく長引くこととなる。しかし、そこで転機が訪れた。
何と肝心要の毛利勢が、九州より撤退してしまったのである。時としては、ちょうど一回目の尼子家再興を掛けた戦の頃合いとなる。中々に尼子再興軍を鎮圧できないことに業を煮やした毛利元就が、九州から手を引いたのだ。
これにより、高橋鑑種ら大友家に反旗を翻した者たちは後ろ盾を失ってしまう。毛利家という大きな存在があるからこそ、戸次道雪も大胆な手には出ることができなかったのだが、毛利家が手を引いたのであればもう遠慮などする必要はない。大友家の軍勢による大攻勢を受けてついに進退窮まった彼らは、揃って大友家に降伏したのであった。
このような経緯を持つ高橋鑑種だが、実は【高城の戦い】に敗れた大友家より離反するつもりであった。実際に秋月家へ接触を果たしていたぐらいであることから、その本気度が伺える。しかし、大友宗麟が織田家に救援を要請し、それに織田家が応えてまず先遣隊を送ったことで高橋鑑種は考えを変えていた。
まだ大友家より離反していなかった関係から織田家の軍勢が援軍として九州に現れることを知ると、彼は前言を翻してあっさり秋月家との交渉を打ち切ったのである。いや、打ち切るどころか白紙へ戻していた。 このあまりの変節には、秋月種実の方が狼狽えたぐらいである。そこに怒りを覚えないでもなかったが、高橋鑑種は外れとはいえ豊前国に拠点を持つ相手であり今は筑前国内の宗像家の対応の方が問題である。つまるところ優先順位の問題もあって、秋月種実は高橋鑑種に関しては縁がなかったと考え強引に割り切ることとしていたのだ。
その高橋鑑種が戦場に現れた訳だが、彼はざっと戦場を見渡したかと思うとすぐ手にしていた軍配を返す。直後、彼が率いてきた軍勢は敵軍へ突貫した。この宗像氏貞と高橋鑑種の一撃により、秋月勢と筑紫勢は瓦解する。彼らは最寄りの秋月家の城を目指して、ほうほうの体で撤退へと入ったのであった。
大勝といっていい勝利を得た織田家の先遣隊は、高橋鑑種と合流した上で麻生勢と共に追撃をさせた。そして自身たちは、蔦ヶ嶽城に入っている。追撃を麻生勢や高橋勢に任せた理由は、やはり地の利があまりないことが上げられた。長宗我部元親の四国勢は勿論だが、毛利輝元の中国勢にしても最後に九州に攻め入った頃より十年近くたっている。ならば、九州の国人である麻生勢や高橋勢に任せた方が安全であったからだ。
なおこの追撃に関してだが、深追いだけは行わないようにと通達されている。麻生隆実も高橋鑑種もその点は熟知しており、ある程度は追撃したがそれ以上は行っていない。だが、代わりに今回の蜂起によって秋月家に味方した国人や、秋月家と筑紫家の侵攻によって奪われてしまった城を奪還していくことに力点を置いている。やがて彼らは嘗て宗像家の城であった許斐山城を奪い返すとそこを拠点として駐屯した。
この知らせを蔦ヶ嶽城で受けた織田家先遣隊は、即座に動き始める。まず長宗我部元親と毛利輝元は、軍勢を二つに分けた。長宗我部元親が率いる四国勢を中心にした軍勢に合流した宗像氏貞と高橋鑑種は、揃って秋月家と筑紫家に相対することとなる。代わりに麻生勢が蔦ヶ嶽城まで戻り、毛利輝元が率いる中国勢と共に岩屋城へ向かうのであった。
ところで何ゆえに岩屋城なのかというと、先述したように岩屋城には高橋鎮種がいるからであった。その高橋鎮種だが、初めから高橋一族であった訳ではない。元の名は吉弘鎮理といい、大友家の庶流となる吉弘氏の出であった。
しかし当時の高橋家当代であった高橋鑑種は、前述した通り大友家へ反旗を翻したのちに降伏している。すると大友宗麟は、彼から高橋家の家督をはく奪した。ゆえに高橋家は、お家断絶の危機を迎えてしまう。しかし高橋家家臣の嘆願もあり、吉弘鎮理が高橋家の名跡を継いだのである。その際、吉弘鎮理は名を高橋鎮種と改めていた。
こうして高橋家は、家としての命数を繋いだのである。そのような経緯で高橋家を継いだ高橋鎮種は、以降は戸次道雪と共に北九州の采配を任されていた。そしてこのたび、彼は大友宗麟救援の為に出陣した戸次道雪から北九州の采配を任されることになったのである。だからこそ織田家の先遣隊である彼らは、高橋鎮種との連携を深めるつもりであった。
勿論、この鎮定だが筑前国に留まらない。筑後国など周辺の国々にも、おいおい行っていく。もっともその頃には義頼や羽柴秀吉や明智光秀らが到着していると思われるので、彼ら先遣隊の手から離れることとなるのは分かっていた。
それはそれとして、秋月家と筑紫家の連合軍が織田家の先遣隊に敗れた事実は、当然だが九州の情勢に影響を与えることとなる。大友家と直接豊後国南部で相対している島津家は戦場から離れていることもあってまださほどでもないのだが、実際に織田家の先遣隊が存在している筑前国や隣国の筑後国や、筑後国へ兵を出している竜造寺家には、人ごとではなかった。
特に高橋鎮種とまさに干戈を交えている原田隆種からすれば、すぐそこに迫った危機である。それを証明するかのように、秋月家と筑紫家の軍勢が敗れたという報告を受けた彼の顔から血の気が引いていた。
それから程なく、いかにしてこの窮地を乗り越えるべきかを思案していた原田隆種の元に、続報が届けられる。その内容は、宗像氏貞の案内で織田家先遣隊の半数が向かっているというものであった。幾ら軍勢が分かれているとはいえ、その軍勢の兵数は軽く原田家の軍勢を凌駕している。秋月家や筑紫家と連合を組んで相対するならば兎も角、原田家単独でとなると危ういのは間違いなかった。そこで原田隆種は、肥前国より筑後国へ兵を進めていた竜造寺家に救援を求めたのである。
援軍の派遣を願う書状を見た竜造寺隆信は、しばし考えてから了承する決断をする。しかし彼は、筑後国に派遣している弟の竜造寺信周へ指示を出して、彼から返答の密使の忍びを派遣させていた。しかもその際には、書状のような証拠が残る手は打たないようにとも指示している。同時に、弟に対してゆっくりと進軍するようにとの命も出していた。
何ゆえにこのような手の込んだ、そして相反するような命を弟に出したのかというと、有り体にいえば証拠を残さずにしつつ両天秤にかけたからである。もし織田家先遣隊が敗れるようであるならば、原田隆種からの要請通りに協力する。しかし原田勢が敗れるなり劣勢になるようならば、逆に原田家との繋がりを切り、織田家にすり寄るつもりであった。
幸いにして、竜造寺家の重臣家となる鍋島家が織田家重臣の六角家と繋がりがあるのですり寄るのはそう難しくはない。つまり、どちらに転んでも、竜造寺家としては損がないのだ。
一つ問題があるとすれば、竜造寺家が関わったという証拠を握られることである。だからこそ竜造寺隆信は、弟に証拠となるような物が残るやり取りはするなとの命を出していたのだ。
「せいぜい励め隆実。生きるも死ぬも、その方次第よ」
竜造寺隆信は一人、誰にいうでもなく呟いていた。
そんな思惑など露知らず、竜造寺信周から派遣された忍びからの返答を受けた原田隆種は高橋鎮種との決戦に臨む決断をする。しかし貝のように岩屋城に籠られては、手の打ちようがなかった。
そこで原田隆種は手を変え品を変えて挑発するが、完全になしの礫である。だが、それもその筈である。岩屋城に籠る高橋鎮種の元には毛利家の忍びである世鬼政定が既に入っており、救援に対する詳細が知らされていたのだ。
待てば勝ちが見えてくる戦に、わざわざ城から打って出る必要はない。救援の軍勢が現れてから出陣すれば、それで済む話なのだ。だから、高橋鎮種は動かない。また家臣にも救援が間もなく現れることは伝えていたので、彼らが挑発に乗り暴走するなどという事態も発生しなかった。
一方で原田隆種も、焦りを覚えていた。
何せ、あえて隙すらも見せて誘いを掛けたにも関わらず、高橋鎮種は城から出てこないのである。そればかりか、彼の家臣すらも動かないこのありさまではどうしようもなかった。また、筑後国内へ軍を押し出している竜造寺家の軍勢も、動きがはっきりしない。間違いなくこちらへ向かってはきているのだが、その速度が微妙なのだ。
「竜造寺家の兵さえ到着すれば、いかようにも動けるというのに。何を考えているのだ」
「と、殿!」
「どうした、そのように慌てて」
「あ、麻生が……毛利が現れました!」
「何だと!!」
竜造寺勢が到着する前に届いたまさかの知らせに、原田隆種も狼狽える。高橋鎮種の籠る岩屋城ですら持て余しているところにきて、ついに麻生隆実と共に織田家の先遣隊の分隊が到着してしまったのだ。分隊といえども、その兵数は万を越えており旗下の軍勢を凌駕している。これでは、どう転んでも勝ちを拾うなどできる筈がない。それどころか、このまま留まれば全滅すら覚悟しなければならなかった。
「殿! いかが致しましょう」
「竜造寺が間に合わぬ以上、やむを得ぬ。高祖城まで退く!」
「御意!!」
こうなってしまえば、城に籠るほかはないと判断した原田隆種は、撤退を命じた。
無論、根拠はある。筑前国の国人である宗像氏貞は別にして、織田家の先遣隊の兵糧などそう長くは持たないと考えたのだ。戦を継続するに当たって、重要なのは兵糧などの輜重となる。本拠地からの距離が遠くなれば遠くなるほど、困難を極めるようになる。ゆえに、戦を長引かせれば勝機は見えてくると判断しての籠城であった。
この考えも、強ち間違ってはいない。通常であれば、原田隆種の考えた通りであっただろう。しかし、先遣隊の後方に控えている織田家の力は膨大である。その上、派遣されてくるのが義頼と明智光秀と羽柴秀吉という三将であった。
彼らは、揃いも揃って輜重を甘く見ていない。その為、彼の考えは今回に限れば的外れであったのだが、三将をよく知らない原田隆種の判断も仕方がなかった。
兎にも角にも撤退を判断した原田隆種は、殿を残して高祖城へ撤退する。しかも殿には、次男の草野鎮永を当てていた。彼は筑後国に勢力を張る筑後草野氏の分家筋となる肥前草野氏の当主であるが、父親が大友家より離反して兵を挙げるに当たり、兵を率いて合流したのだ。
その草野鎮永を前にした高橋鎮種だったが、彼は追撃こそしたが苛烈にまで追い込むことはしていない。おかげで草野鎮永も命を拾い、どうにか高祖城にまで逃げ遂せていた。
だが、これもわざとである。下手に追い込み散り散りに逃げられるよりは、高祖城へ纏めてしまおうと考えての上である。分散させるよりも、一回の戦で終わらせた方が時間も稼げるし兵の損耗も抑えられるとの判断からであった。
やがて高橋鎮種の送り出した追撃の兵が岩屋城へ戻ってきてから間もなく、宗像氏貞に先導された織田家別動隊の分隊が岩屋城へ到着する。しかもその岩屋城には、大鶴宗秋や小田部鎮元らといった筑前国でまだ大友家に属している国人らも集まってきていた。
そんな筑前国の国人らを前にして織田家先遣隊のうちで中国勢を率いる毛利輝元は、織田家に大友家から求められた救援要請に従って自身たちが派遣された旨を改めて説明する。その上で、彼らへ協力するようにと求めた。
しかして当然だが、岩屋城へと集った彼らに異論はない。そもそも大友宗麟からの命で岩屋城に集ったのだから、当然であった。その後、彼らを吸収した織田家の先遣隊の分隊は岩屋城を出陣する。無論、彼らが向かった先は、原田隆種の居城となる高祖城であった。
九州における織田家の戦が、開幕です。
先ずは筑前国となります。
ご一読いただき、ありがとうございました。




