第二百四十八話~決着、そして~
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第二百四十八話~決着、そして~
高城を落とすどころか味方の陣を落とされ、さらに本陣など複数ある味方の陣へ攻勢を掛けられてしまった田原親賢は、態勢を立て直す為の時間稼ぎを目的として和議を結ぶことを決断した。しかもより現実味を持たせる為に、自らが軍使として高城へ赴こうと考えたのである。すると臼杵統景や彼の叔父に当たる臼杵鑑続、他にも宗天や彼の弟となる佐伯新介らが賛同した。
名を挙げた者たちは、いずれも大友家の重臣である。そんな彼らの賛同が得られたのだから問題はないとして田原親賢は、彼らとの連名で大友宗麟へ書状を送り打診を行う。前線を任せている田原親賢からの書状を読んだ大友宗麟は、ここ最近の勝敗が不利であることも鑑みて時間稼ぎならばと了承した。返書を受け取った彼は、臼杵統景と佐伯新介と共に高城を訪れて面会した島津家久と島津義弘へ和議を提案したのである。しかし流石に二人では判断できかねるとして、二人は根白坂にいる兄へ連絡した。
大友家より提案されたいきなりの和議に島津義久は眉を顰めると、島津歳久を呼び出して相談する。話を聞いた彼も、首を傾げていた。それは、彼が手の者を派遣して探りを入れた大友勢の様子に原因があった。
確かに和平を推進する意見が強くなっているが、あくまで相対的にでしかない。とても大友家の中で、意見の統一が図られているとは思えないからであった。
「兄上。それは本当に和議なのですか?」
「歳久、それはどういう意味だ」
「拙者の調べた感じでは、そこまで大友家中が統一しているとは思えません」
「それはつまり、策ということか」
「考慮に入れてよろしいかと」
「なるほど……ここはあえて受けてみることで揺さぶるか。若し意思の統一が成されていないのであれば、暴走する者が出るであろう」
「そうですな。仕掛けてみましょう」
その後、島津義久は、田原親賢らを招き根白坂にて面会している。その席で改めて提案された和議を、暫く考えたふりをしたあとに了承した。存外上手くいったとして、機嫌よく田原親賢らは自陣へと戻っている。そんな彼らを切原川沿いまで送らせると、島津義久は夜になってから敵が攻めてくる前提で密かに陣立てをし直していた。
一方で田原親賢らが戻った大友家の陣では、島津歳久が予想した通りに問題が発生していた。大友勢の中で主戦派を取り纏めているといっていい田北鎮周が、和議など聞いていないとして強硬に反対したのである。確かに田原親賢は、彼ら主戦派に話を通していない。反対されるのが分かっていたからだが、それがここにきて足を引っ張ったのだ。
しかしこの和議は、前述した通り大友宗麟の許可を得ている話である。ゆえに、その点を前面に押し出せば主戦派も黙らせられるとある意味で楽観視していたのだ。しかし彼らは大友宗麟の名を持ち出しても、従うことを是としなかったのである。そればかりか、田原親賢や宗天を臆病者呼ばわりしたのだ。
田原親賢は前線を任せられている大将ということもあり気持ちを押さえたが、宗天は別である。彼はその言葉を捨て置けぬと激昂し、田北鎮周に証明して見せると息まいた。すると、角隈石宗が取り成すように口を挟む。彼は、宗天を宥めるように声を掛ける。そして同時に、血気に逸っているとして田北鎮周を窘めたのである。だが彼は納得せず、不機嫌そうに席を立つとその場から退出した。
こうなると収まりがつかないのは、宗天である。彼はこの場を退出してしまったが為に田北鎮周へぶつけられない憤りを、角隈石宗へぶつけたのだ。角隈石宗からすれば理不尽でしかないが、それで宗天の気が休まるならば安い物だとしてただ黙って聞く。やがて頃合いを見計らって落ち着くようにと再度説得を試みたが、それは無駄であった。
既に宗天は、もう心に決めてしまっていたのである。戦を仕掛けて、自身が臆病者ではないと証明することをだ。
ならばせめて味方で足並みを揃えるべきだとも伝えたが、宗天は田北鎮周のような戦に狂った男と話す余地などないとして彼もまた弟の佐伯新介と共に席を立ってしまったのだ。当事者の二人が消えたことで、角隈石宗は大きく息を吐き出す。それから彼も立ち上がると、黙ってこの場から離れる。結局残ったのは、田原親賢と臼杵鑑続の二人で……いやもう一人、じっと身を潜めて様子を探っていた島津家の酒瀬川武安だけであった。
彼は、島津家の将としての立場もあるが本質的には忍びである。しかもかなりの練達者であり、その腕を買われ、島津義久の命で和議の会談後に派遣されていたのだ。
宗天らがいなくなるとこの場にもう用がないとして、彼は移動する。次に酒瀬川武安が向かったのは、田北鎮周の陣であった。彼はそっと陣へ忍び込むと、様子を探る。すると田北一族や他の主戦派と思わしき者たちが集まっており、出陣前の景気づけの為か酒宴を開いていた。
また酒は兵たちにも出されており、彼らも明日は決戦になるなどと漏らしていたのである。次に向かったのは、宗天の陣であった。忍んでみるとこちらも田北鎮周の陣と同様に酒宴を開いたので、出陣は間違いないように思えた。
だが、両陣営だけでは万が一を考えた大友勢の策かも知れない。そこで酒瀬川武安は角隈石宗など他の陣を見て回ったが、先に忍んだ二つの陣と違い他の陣は静かなものである。これならば策ではないだろうとして、酒瀬川武安は大友の陣を抜け出すと、根白坂の島津義久の元へと戻り報告したのであった。
「どうやら、当たったようだ」
「はい、兄上。あとは、大友が先に手を出せば問題ありません。さすれば、島津がそしりを受けることはないでしょう」
「うむ。では、明日に備えて本陣を根白坂の上に移すぞ」
「はっ」
こうして本陣を根白坂の下から根白坂の上に本陣を移してから、島津義久は眠りについた。
明けて翌日、払暁と共に大友勢が自陣より打って出る。宗天と田北鎮周を先陣とした軍勢は、遮二無二突き進んでいく。後続のことなど全く考慮せず、彼らは勢いのままに攻め込んでいた。
その突進力は相当な物であり、彼らと相対していた島津勢が突き破られてしまったのである。そればかりかその先に布陣していた北郷時久や北郷相久、北郷忠虎親子の軍勢すらも打ち破り、根白坂の上に陣取っている島津義久目掛けて突き進んでいった。
しかし、陣変えの結果、根白坂と高城川との間に陣を敷いていた新納忠堯が辛うじて大友勢を押し留めたことで、急遽援軍として派遣された島津義弘と伊集院忠棟の軍勢が間に合ったのである。彼らは協力し、宗天と田北鎮周の軍勢を釘付けにした。
するとその時、伏兵となっていた島津征久や島津忠長、他にも上井覚兼らの軍勢が姿を現し大友勢へと襲い掛かった。これは完全な奇襲であり、しかも前のめりとなっていた大友勢には対応しきれない。島津勢に横腹を食い破られてしまい、大友勢の突進力は低下した。
当然ながら、士気も急速に低下してしまい大友勢は浮足立ってくる。そこに、情勢を読んだ島津家久率いる高城勢が側面からさらなる襲撃を敢行する。兵は必ずしも多くなかったが、それでも奇襲であり、やはり大友勢には対応はできなかった。
これにより、前面と両側面から囲まれた大友勢は一気に瓦解してしまう。後方にいる者たちから、尻に帆を掛けたかのように逃げに入っていった。
彼らは大まかにいって二手に分かれると必死に高城川を渡り、対岸へ逃げ込もうとする。しかし川原の陣から近い場所に竹鳩ヶ淵という名の深い淵があり、敵から逃げるあまり混乱した大友勢の一部がこの淵に逃げ込んでしまう。その為、彼らはほとんどが溺死するか辛うじて岸に戻っても追撃してきた島津勢に討ち取られるなどしてほぼ全滅してしまったのだ。
一方で大友勢の本陣などへと逃げだした者たちは、渡河に成功する。しかし、島津勢による追撃があることに変わりはない。事実上彼らが引き連れてきたといっていい島津勢の追撃から逃れる為、高城攻めに当たって構築した陣に残っていた者たちも撤退に入っていた。
因みに宗天は、息子の佐伯惟真と佐伯鎮忠と共に戦死してしまう。そして田北鎮周もまた、多くの田北一族と共に戦場の露と消えていた。
さて撤退に入った大友勢だが、ただひたすらに混乱をきたしており、とても組織立っているとはいいがたい。彼らは取るものも取り敢えず、真直ぐ北へ北へと向かって逃げていたのだ。しかしこのままでは何れ追いつかれると三納城より撤退して大友勢と合流していた長倉祐政は、足を止めて撤退を中止する。そして彼は、踵を返すと寡兵でありながらも果敢へ島津勢に向かっていった。
彼の死すらも受け入れた働きにより、島津勢は足止めを余儀なくされてしまう。そればかりか島津家の将二人と同数以上の兵を失うことで、漸く打ち破ったのだ。そして長倉祐政はというと、最後の最後まで刃を振るい続け、やがて味方がいなくなると傲然と島津勢を睨みつけながら首を掻き切って果てたのであった。
こうした味方の敗走は、遥か後方にいた大友宗麟と大友義統の耳にも入る。これは不味いと判断した大友親子は、すぐさま陣を捨てて豊後国へ撤退する。先に逃げたことで大友親子は無事に丹生島城まで辿り着けたが、敗走中の大友勢全てがそのような幸運にはありつけなかった。
彼らは耳川にて島津勢に追いつかれると、かなりの将兵がその地で討たれてしまったのである。何とか島津勢の刃を逃れた者もいたが、鎧などを脱がずに川へ逃げた為に、多数の者が溺死してしまった。この様子に島津義久はここが押し時として、耳川を越えてさらなる追撃を行う。この勢いならば丹生島城も落とせるのではと感じていたが、そこに大友家最後にして最大の壁が立ちはだかったのであった。
それは、雷神や鬼などとあだ名される戸次道雪である。彼は大友宗麟の不興を買い、竜造寺への対応の為として北九州へ戻されていたのだが、大友家の敗北を知るや否や電光石火の動きを見せた。戸次道雪は高橋鎮種に北九州の抑えを任せると、兵を率いて出陣し、援軍としてこの地に現れたのである。彼は丹生島城の近隣に建つ水ヶ城に入ると、主君の元を尋ねた。
大敗を喫し、豊後国内まで島津勢に侵攻された大友宗麟にとって、彼が現れたことは天からの慈雨に等しい。日向国出陣前の対応などまるで忘れたかのように、大友宗麟は手放しで喜んでいた。これには島津勢も、進撃を取り止めるしかない。彼らは宗天らが死亡し混乱している佐伯氏の居城である栂牟礼城を落とし、一族を捕らえるなり討つなりしたのちに入城したところで進軍を停止したのであった。
なおこの戦で失った大友家の力は、家を傾けるに値する損害である。援軍として駆け付けた戸次道雪のお陰で一気に攻め滅ぼされるという事態は回避できたが、このままではいつまで島津家の攻勢を受け止められるか分からないのもまた事実である。しかも厄介なことに、戦で敗れたことを知った筑前国や筑後国などの国人たちが蠢動し、全てではないが大友家へ反旗を翻していた。島津家の軍勢がすぐそばまで進撃している今の状況下で、彼らを抑える為の兵を派遣できる余裕はない。そこで大友宗麟は、苦渋の決断として織田家に救援を求めることにしたのだ。
今までの経緯から推察するに、織田家は従属さえすれば一国か二国は安堵されると踏んだのである。それに何より、織田家は既に日の本の半分以上を領地としている。東の雄の一家ともいえる越後上杉家を降し、関東に覇を唱えんとしていた北條家すら組下に敷いたのだ。
そのような家に対抗するなど、先の戦における損害もあってもはや無理であり、ならば領地を減らしてでも家が残る術を模索した結果であった。
因みにこれら九州の情勢は、義頼の忍び衆は無論のこと、表向きは島津家に、実質は近江源氏の流れを汲むというその血筋から密かに六角家に付いていた野村文綱をも通していち早く義頼へ伝えられていたのである。それらの情報は織田家へと流されたが、同時に九州攻めを任されることが決まっている義頼、羽柴秀吉、明智光秀の三人で共有もしている。彼らは、何れ命が出るであろう出陣に備えて刃を研ぎ、そして力を蓄えていたのだ。
そしていよいよ、その蓄えた力を発揮する時がきたというわけである。義頼と羽柴秀吉と明智光秀ら織田家の軍勢は、出陣を前にして石山本願寺の跡地に集結する。そこで、西国攻めの総大将である織田信忠へお披露目と相なったのであった。
「よいか! そなたらは大友家からの救援要請に応え出陣する、織田家の精鋭よ。そしてこの戦が、恐らく西における最後の大戦となろう。存分に働き、手柄を立てるがいい!」
『おおー!!』
織田信忠の檄に応え、将兵から鬨の声が上がる。しかもその声は、幾度となく上げられていた。その間、満足そうな表情をしていた織田信忠であったが、やがて大将となる羽柴秀吉へ目配せする。すると羽柴秀吉の馬印、続いて義頼と明智光秀の馬印が上がると、それに伴い喧騒も収まっていった。
「出陣!」
九州攻めの大将となる羽柴秀吉の号令一下、軍勢は西に向けて動き始める。彼らは織田信忠らに見送られつつ、進軍していった。
その一方で、九州には軍勢が続々と集結している。彼らは中国や四国出身の者たちであり、いわば織田家の先遣隊となる者たちであった。中国地方の者たちで構成された軍勢を取り纏めているのは毛利家であり、四国の者たちで構成された軍勢をまとめ上げているのは長宗我部家であった。
彼らは、周防国府たる国衙にて一旦集合を果たすと、筑前国へと向かう。筑前国は大友家の影響下にあるので問題はない筈であったが、事態はそう簡単にはいかなかった。のちに【高城の戦い】と称されるようになる大友家と島津家の戦で大友家が敗れると、前述したように大友家旗下の国人が離反し反旗を翻したのである。なまじ豊後国で大友家と島津家が対峙していることが、さらなる追い打ちとなった。
大友家としては滅ぼされない為に、どうしても島津家との戦に傾注せねばならない。しかも、大友家は【高城の戦い】における撤退戦で多数の将兵を失っており、反旗を翻した国人たちへ碌に鎮圧の軍勢を派遣することができないでいたのだ。
この辺りは、まだ戦国の世である証明だろう。力があれば従うが、力が衰えればその限りではない。まさに大友家家臣や彼の家の旗下の国人たちの離反は、時代の象徴であった。
やや話がそれたので戻す。
何であれ織田家先遣隊ともいえる彼らが向かう筈だった筑前国では、主に二家が中心となって大友家に反旗を翻している。その家とは、秋月家と原田家であった。また、その二家ばかりではない。肥前国東部の外れに居城を持ち、主に筑後国内に領地を持つ有力な筑紫家も加わっていたのだ。
彼らは三家を中心に連合を組み、昂然と大友家から離反したのである。そしてその裏では、竜造寺家も動いていた。当主の竜造寺隆信は三家を中心とした連合が大友家に反旗を翻すと、弟の竜造寺信周に兵を付けて国境を越えさせている。先に述べた三家が兵を挙げたことで混乱している筑前国や筑後国をできるならば占領、若しくは幾許かの土地領有を目指してのことであった。
なお、彼の家が筑前国へ兵を出せた理由はというと、肥前国統一まであと一歩の状態にまで追い込んでいたからである。肥前国統一において最大の障害となっていたのが、大村純忠と有馬晴信の二人であった。
そのうち、大村純忠率いる大村家は既に竜造寺の軍門に降っており、残りの有馬晴信も肥後国攻めを任された鍋島直茂によって居城の日野江に追い込まれている。ここまでの状態にまでできたことで余裕が生まれ、今回の派兵が可能となったのだ。
また他にも、島津家からの調略を受けて、大友家より離反した城井家のような家もある。このように引き続いて大友家に与する家や、島津家の旗下となると判断した家や、秋月家と原田家と筑紫家の三家や竜造寺家のように独自の勢力として動き出すなど、大友家領内や影響下にある国では収拾がつかなくなり始めていたのだ。
そんな頃に、大友家からの救援要請を大義名分とした毛利家と長宗我部家を中心とした織田家による実質の九州征伐となる先遣隊が筑前国へ上陸を果たしたのである。彼らが上陸したのは、遠賀川の河口付近であった。
彼の地が選ばれたのは、すぐ近くに山鹿城が存在したからである。この山鹿城だが、筑前国に勢力を張っていた麻生家の居城であった。元々麻生家は、大内家に属していた家である。しかし大内家が、陶晴賢に謀反され家の主導権を握られたのちに毛利元就によって滅ぼされると、麻生家は毛利家に味方するようになった。
しかしあくまで麻生家は九州の国人であったことから、麻生家は分裂して毛利家と大友家の両家に属するようになる。大友家には麻生鎮里が属し、毛利家には麻生隆実が属するようになる。しかし毛利家と大友家が対立するようになると、麻生家は同族でありながら対立した。
最終的には、宗像家を味方に付けた麻生隆実が麻生鎮里を破ったのだが、すると敗北した麻生鎮里は大友家を見限ったのか逐電して島津家を頼ったようである。以降、麻生家は統一され麻生家当主となった麻生隆実は毛利家に属し続けたのだが、毛利家が織田家に降伏すると仕方なく麻生家は大友家に属するようになっていた。
この麻生隆実だが、実は毛利家に属してから毛利家が織田家に降伏するまでの間、ただの一度も鞍替えをしていない。それは麻生家重臣の中から、情勢が劣勢となり離反者が出ても変わらず毛利方としての立場を貫き続けたのだ。
そして毛利家も、律儀といっていい麻生家には援助をし続けている。織田家との戦が手一杯となってからも、僅かではあったが援助だけは続けていたのである。だからこそ麻生隆実も、毛利家が織田家に降伏した最期まで毛利方としての立場を崩さなかったのだ。
「摂津守(麻生隆実)殿。世話になる」
「右馬頭(毛利輝元)様。毛利家からは、苦しい時でも手を差し伸べ続けていただきました。この御恩、この麻生隆実は決して忘れてはおりません」
「まさに、律義者よな」
この場に同席している小早川隆景からも、麻生隆実は称賛された。
なお、今となっては毛利家臣ではない小早川隆景が何ゆえにこの場にいるのかというと、それは織田家からの命を受けているからである。幾ら先遣隊とはいえ、織田家家臣を全く加えないという訳には行かなかった。
そこで軍監も兼ねて、織田家家臣となっている小早川隆景が先遣隊に同行している。他に名を挙げれば、吉川元春もいるので、中国勢の主力はほぼ嘗ての毛利家といってよかった。
因みに、再興された尼子家は同行していない。彼らは義頼への繋がりの方が強いので、後発となる義頼ら本隊の軍勢とともに進軍することとなっていた。
さて九州に上陸した先遣隊へ、麻生隆実は紹介される。毛利は除くとしても、他家の者は麻生家などよく知らないからだ。織田家先遣隊で四国勢を率いている長宗我部元親などへ麻生隆実を紹介する。こうして織田家先遣隊は、麻生家の軍勢をも吸収しさらに増強したのであった。
九州の大友家と島津家の戦は、一応決着しました。
よって、義頼もちょこっと出ますが、本格的にはもう少し後となります。
申し訳ありません。
ご一読いただき、ありがとうございました。




