第二百四十七話~高城攻防戦~
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第二百四十七話~高城攻防戦~
石ノ城の攻防が終わりを迎えてから間もなく、大友家の軍勢が高城近辺に到着した。
流石に、大友宗麟や息子の大友義統はさらにその後方にいるが、大友家の大半の将兵は既にこの地へ入っていた田原親賢の軍勢と合流を果たしていた。
これにより一気に兵が増えた大友勢は、高城への攻勢をより強めることとなる。すると高城城主の山田有信と援軍として同城に入っていた島津家久は、必死に防衛を行っていた。
もっとも島津家久の命で近隣より救援が多少なりとも駆けつけており、高城に籠る将兵は三千を超えている。だが、攻め寄せている大友勢は兵数の桁がさらに一つ上であった。
元々、総数で四万を擁する軍勢であるが、占領した土持氏の領地の治安維持もあり全軍が高城攻めに集結している訳ではない。それでもおよそ三万を超える将兵が高城を包囲殲滅するべく刃をしごいていた。
しかし相手は、島津の軍勢である。しかも城に籠る将兵は、島津家久によって率いられていた。本来ならば、城主の山田有信が迎撃の大将となる。だが、島津一族の者がいるということで、籠城の指揮権は山田有信から島津家久に移譲されていたのだ。
一方で城に籠る島津勢より十倍近くはいるであろう大友勢だが、その全てを城攻めに振り分ける訳ではなかった。まず大友宗麟や大友義統の護衛としておよそ五千が割かれているし、そして石ノ城に入っている島津勢の牽制としてやはり五千が差し向けられている。つまり、計一万の兵は高城攻めに加わることはできていなかったのだ。
それでも二万を超える兵が、力押しで高城へ攻め掛かったのである。まさに「大軍に策なし」を地でいくような攻めであったが、高城に籠る島津勢は勇猛であり、一部には数の差など全く頓着せずに打って出るような将すらいたのだ。とはいえ、流石にその将は討たれてしまっていたが。
そんな島津勢が、祖父とはいえ「軍法戦術に妙を得たり」とまで評された島津家久に率いられている。その手強さは相当なものであり、本丸下まで攻め寄せた大友の者たちも、そして大手門にまで攻め寄せた者たちも体よくあしらわれてしまい損耗度を上げてしまう。そこで大友勢は、ちょうど昼頃だったこともあったので一旦軍を退いて態勢を立て直しに入った。
そんな敵の様子に、島津家久も味方に休息を与えている。その傍らで彼は、油断なく警戒を続行しつつも城内の損失に対して補給をあてがっていた。
「流石は中書(島津家久)殿。見事な采配にございます」
「何の。出雲守(鎌田政近)殿を含め、皆の踏ん張りによるものだ」
「ご謙遜を」
高城には鎌田政近の他にも、吉利忠澄や比志島国貞などといった者たちが入っており、彼らは若いが前述したように中々剛の者である。そんな彼らが、島津家久指揮の元で個々が十全に力を発揮しており、驚くことに大友勢を弾き返していた。
「それよりも、気は抜かぬよう。大友は、またくるぞ」
「ほう? そうですか。となると、手柄はたて放題ですな」
八倍近い兵から攻められているというのに、鎌田政近は不敵に笑みを浮かべていた。
これは、自身の言葉通りの気持ちを抱いているに相違ない。ある意味で戦闘狂といえるのかもしれないが、防衛戦を指揮する島津家久からすれば、味方が油断なく動いてくれることの方が大事である。寧ろこの劣勢下においては、頼もしいとも感じられるものであった。
やがて昼下がりとなると、島津家久がいった通り大友勢が再び攻め寄せてくる。今度は火縄銃を揃えており、大友勢は数に任せて本丸下から上に向かい銃撃を浴びせ掛けてきた。しかし下から上に向かって撃つ場合、敵に命中させるのはとても難しくなる。ましてや高城は、三方が崖となっている高台の上にあるので、高台の上で伏せられては兵に当たることはまずない。その利点を有効に使い、島津家久率いる高城に籠る兵は大友勢を引き寄せてから火縄銃で反撃していた。
その為、大友勢の損害ばかりが上がっていくこととなる。これではたまらないと、またしても大友勢は兵を退きあげていた。しかし兵の数が多い大友勢は、夕方になると都合三度目の戦闘を仕掛けたのであった。
だが二回に渡る戦闘で、大した損害を出すこともなく凌いで見せた島津家久の采配がまたも冴えわたる。彼は有効に山田有信たちを上手に配置して、同日三度目の迎撃を行わせていた。
すると城内に配置された各将たちもこれに応え、自身の力量を十二分に発揮させて大友勢を撃退して見せたのであった。
この三度目の襲撃が最後となり、その日はそのまま終わりを迎えている。すると大友・島津の両軍勢とも夜襲を警戒したのであろう、彼らはしっかりと巡回をしていた。しかし、島津勢に夜襲を仕掛けるような余裕はない。そして大友勢は、夜襲を仕掛ける程追い込まれていた訳でもない。それゆえに、夜襲などはどちらの軍勢からも起きなかった。
この大友勢による一大攻勢が不発に終わると、暫くは高城の攻防は小康状態を見せることなる。両軍の間では小競り合いぐらいしか起きなくなるのだが、これに業を煮やしたのが大友宗麟であった。いっこうに戦功が上がらないどころか、届く知らせは不甲斐ないものばかりでしかない。このことに苛立ちを覚えた彼は、状況の打破を目指して仏狼機砲を投入したのだった。
大友宗麟の命により、数門の仏狼機砲が高城の北東に構築されていた味方の陣に運び込まれることとなる。そして翌日の昼過ぎになると、大友勢は仏狼機砲を順繰りに放っていった。こうして放たれた砲弾全てが、高城に損傷を与えた訳ではない。それでも幾つかの砲弾は届き、本丸にある櫓近くの堀や蔵などに命中して破壊を齎していた。
この砲撃だが、当然だが轟音を伴っている。馬などが耳にすれば怯えて混乱をきたすような轟音であったのだが、島津勢は多少の狼狽はあったにせよ、混乱するまでには至っていなかった。その為、それぞれの仏狼機砲から数発ぐらい砲撃を行った訳だが、島津勢に対しては思ったほどの効果が上がらなかった。
しかもそれだけでなく、折角投入した虎の子といえる仏狼機砲自体も故障してしまう。大友宗麟からしてみれば、残念以外の何ものでもなかった。
因みにこの高城攻めで仏狼機砲が投入されたのは、これが最初で最後となる。故障が直らなかったのか、それとも別の要素があったのかは判明していないが、しかしてこれが最後であったのは間違いなかった。
さて、話を少し戻す。
頃合いとしては、石ノ城の攻略戦が終盤を迎えた辺りのことである。薩摩国にある島津家の居城となる内城から、島津義久が軍勢を率いて出陣した。彼はそのまま日向国へと入り、日向国南部地域に圧力をかけていく。これにより、あわよくば大友家に付き勝ち馬に乗ろうと考えていた日向国人らが鎮定されていった。
こうして後方を安定させた島津義久は、大友家との雌雄を決すべく軍勢と共に北上する。やがてその軍勢が佐土原城へと到着したその時、思いも掛けない事態が起こってしまう。その事態とは、行方をくらませていた長倉祐政の蜂起であった。
彼は石ノ城を明け渡すと、大友勢に合流せず三納と呼ばれる地域に潜伏していたのである。そこで、同地にいた旧伊東家臣を取り込むと島津方の地頭を殺害し三納城を占拠した。こうして足場を得ると、長倉祐政は占領した三納城に幾許かの守備兵を残した上で、都於郡城を奪還する為に出陣した。
都於郡城は嘗て伊東家の居城にもなったことがある山城で、それだけに守りも堅い城である。長倉祐政はあわよくばこの堅城を手に入れ、佐土原城に入っている島津義久を牽制する腹積もりであった。
しかし、島津義久も無能ではない。彼は長倉祐政の意図に気付くと、動きを阻止するべく兵を繰り出した。島津義久は、家臣の北郷時久に兵を付け、都於郡城へ援軍として派遣したのである。命を受けた北郷時久は、息子の北郷相久と北郷忠虎を引き連れて都於郡城へと向かったのであった。
さて、長倉祐政が襲撃した都於郡城だが、実は現在城主が不在である。その理由は、都於郡城の城主が鎌田政近だからであった。彼は前述した通り援軍として高城に入っており、城に残るのは留守居の者たちでしかなかったのだ。
そんな都於郡城へ、千を少し超えるぐらいの兵数で長倉祐政は攻め寄せたのである。しかし城に籠る将兵はよく戦い、そう簡単には攻め込ませない。大手門こそ打ち破られていたが、それでも都於郡城に籠る将兵は救援を信じて必死に守り続けていた。
そこにあらわれたのが、島津義久からの命を受けて援軍として現れた北郷勢である。軍勢を率いる北郷時久は、その状況を認めるとすぐさま兵を繰り出していた。これによりすんでのところで落城を免れた都於郡城の城兵は、一様に安堵する。逆に好機を逃した長倉祐政は、一旦、三納城まで退却するしかなかった。
その日は、都於郡城にて一夜を明かした北郷時久らは、翌日になると三納城に向けて進軍する。やがて到着すると、すかさず城を包囲して長倉祐政らを威圧した。
それから二日間、圧力を掛けた北郷時久は、使者をたて開城と降伏を迫る。しかし長倉祐政は勿論、三納城に籠る八代祐興や湯地定時や佐土原摂津守などは一笑に付して追い返す。すると北郷時久は、止むなしとして城攻めを開始した。
しかして三納城だが、この城は三納川沿いの丘陵に建てられており、しかも丘陵の両側は崖となっている。それゆえに、兵数の多さを生かした戦闘ができない。その為、早急に戦の結果が出ることはなかった。このままでは長期戦となりかねないことを危惧した北郷時久は、一計を案じる。彼は敢えて軍勢を退いて見せることで、城に籠る敵兵を釣り出そうとしたのだ。同時に北郷時久は、退く味方とは別の部隊を作り彼らは潜ませている。つまり、城に籠る敵を誘い出し、しかる後に伏兵に急襲させることで一気の決着を画策したのだ。
果たしてその企みは図に当たり、長倉祐政たちは北郷時久の狙い通り城から打って出て追撃を開始してしまう。しかし追撃の兵が北郷勢に追いつく前に、伏兵からの強襲を受けた長倉勢は四分五裂してしまい各個撃破されてしまった。
この敗戦によって、八代祐興は討ち死にしている。そして湯地定時は、島津家に捕らえられてしまう。残りの長倉祐政と佐土原摂津守は、辛うじて逃げ遂せていた。すると二人は、そのまま北を目指している。やがて両名は、高城攻めを行っている大友勢に合流を果たしたのであった。
何であれ長倉祐政の蜂起を退けた島津義久は、三納城に幾許かの兵を回すと北郷時久らに戻ってくるようにと命を出す。この命を受けて北郷勢は、代わりの者が到着次第三納城を出立すると佐土原城へと戻っていった。
やがて佐土原城にて合流を果たすと、島津義久はついに佐土原城を出陣したのである。 なお、この間に高城は危機に陥っていたが、同時にある種の奇跡を体験していた。
まず城を襲った危機だが、それは大友勢に包囲されたことで、水の補給がままならなくなってしまったことである。高城は近くを流れる川から水を得ていたのだが、大友勢の重囲により水を手に入れる術がほぼ皆無となってしまったのだ。
このままでは、石ノ城のように降伏するかそれとも水に飢えるかしかなくなってしまう。島津家久はそのことを憂慮したが、こればかりはどうしようもない。決死隊を組織して水汲みに向かわせても、無駄死にする未来しか見えてこないからだ。
それでも彼は何とかならないかと頭を捻っていたが、どうやっても妙案など浮かばない。だがその時、思いもよらないことが起きる。何と、城内で水が湧いたのだ。高城内にある古い塀のすぐ近くの土が、湿っていたのである。よく見ると、僅かだが水が染み出していた。
その現象を認めた兵はすぐに報告をし、その報告は一気に島津家久の元にまで届いた。報告を受けた彼は、すぐにその近辺を掘ると数日後には水が湧いてきたのである。これにより高城は、水の飢えから解き放たれたのであった。
閑話休題
北郷時久らと合流を果たした島津義久は、大友家と雌雄を決すべく佐土原城を出陣した。すると呼応するかのように、大友勢も動きを見せる。高城を取り囲むように配置していた軍を編成し直し、高城川の支流となる切原川沿いに布陣したのである。これにより高城の攻囲は崩れ、漸く島津家久らは落城の危機より脱したのであった。
一方で佐土原城を出た島津勢だが、彼らは財部城に入るとさっそく軍議を開いている。その席で、島津義久の弟に当たる島津歳久が高城の情報を伝えた。
「兄上。高城も窮地を脱しはしましたが、武器弾薬に兵糧と全く足りておりません。一刻も早く、物資を運び込まなければなりますまい」
「そのようなことは承知している。その為にも、大友を蹴散らさなければなるまい」
「はい。そこで、このように布陣をしてみてはいかがでしょう」
そういうと、島津歳久は辺り一帯の地図を広げる。その地図を扇子で指し示しながら、説明を始めた。
彼曰く、この財部城を後陣とし、島津義久の本隊は財部の渡し近辺に陣を敷く。さらに、別動隊を二つほど組織するとしていた。
まず一方の別動隊だが、弟の島津義弘を大将としている。他には、重臣の上井覚兼や伊集院忠棟らで構成されており、彼らは根白坂に配置する。そしてもう一方の別動隊は、密かに川を越えて大友家の陣の一つである松原近くに潜ませるというものであった。
「ふむ……してこの松原近くに潜ませる別動隊だが、誰に率いらせるのだ?」
「刑部大輔殿をと考えております」
「新納忠堯……いいだろう。そなたに任せたぞ」
「はっ」
新納忠堯は、若いながらもなかなかの将である。齢は二十代だが、将来を嘱望された将であった。そんな彼に率いられ、別動隊は先に移動を開始する。生憎と雨が降り出していたのだがいわゆるしとしとと降る雨であり、それほど行軍に支障はきたさなかった。
この雨と夜の闇に紛れて渡河した島津勢の別動隊は、無事に予定の場所へと潜んでいる。 結局、彼らは大友勢に見付かることはなかったのだった。
明けて翌日、財部城を出た島津勢は軍議の通りに布陣する。大将の島津義久は財部の渡しの近くに陣を張り、弟の島津義弘率いる別動隊の一隊は根白坂に陣を敷く。するとその日はそのまま夜を迎えたが、翌日の午前中にいよいよ動きがあった。
松原の陣に対し、島津勢が襲撃を掛けたのである。しかしその兵数は少なく、あっという間に蹴散らされてしまった。すると彼らは、ほうほうの体で逃げ出している。その撤退は無様に見えたようで、大友勢は彼らを即座に追撃している。だがそれこそが、島津の策であった。
つまり、わざと無様に見えるように兵を退いたのである。彼らは囮であり、その役目は大友勢の陣容を乱すことにあったのだ。その策にまんまと乗ってしまい、松原の陣より兵を釣り出された大友勢は、待ち構えていた新納忠堯率いるもう一隊の別動隊によって逆に駆逐されてしまう。首尾よく大友勢を討つとそのまま逆侵攻し、打って出たことで兵数の少なくなっていた松原の陣へ襲い掛かったのだ。
まさかの逆撃に、松原の陣は混乱してしまう。すると、大友勢は慌てて援軍を出そうとし始めた。この様子は、高城にいる島津家久からも見て取れる。しかも彼を含む高城の面々は、前日の夜に密使があらわれ策が伝えられていたのだ。
それゆえに島津歳久の策が始まったことを察知したわけだが、このままでは策が潰されかねないと危惧する。そこで島津家久は、寡兵ながらも高城から打って出たのである。まさかの出撃だったが、大友勢にとっては好機であった。
何せ今まで貝のように城へ閉じこもっていた敵勢が、わざわざ大手門を開けて打って出てきたのだ。これならばたとえ松原の陣を落とされるような事態になったとしても、高城を落とせれば十分に元が取れる。そう判断した田原親賢の命により松原の陣に対する救援は見送られ、代わりに高城攻めが再開された。
しかし島津家久ら城から打って出た兵も、ひるまずに戦闘を続ける。その為、彼らは少なくはない被害を受けてしまったが、それでも高城勢は怯むことはなかったのである。
なお、こうした島津家久の動きにより援軍が送られなかった松原の陣は、新納忠堯らによって占領されてしまっていた。
この知らせ受けて、島津義久は財部の渡しから高城へ向けて川沿いに進軍を開始する。また根白坂に陣を構えていた島津義弘ら別動隊も、同様に高城へ向けて進軍を開始した。
また、首尾よく松原の陣を占領した新納忠堯率いる別動隊も、囮部隊を率いた伊地知重政らを高城へ向けて進軍させている。命を受けた伊地知重政は、同じく囮部隊を率いた酒瀬川武安や富山備中守と共に進軍し、大友勢の陣である川原の陣と田原親賢のいる高城攻めの本陣の間を抜けて高城より打って出ていた兵と合流を果たす。これは正しく、大友勢が虚を突かれた為であった。
この一連の動きに、松原の陣が落ちる前に高城の攻略ができなかったことを察知した田原親賢は、高城を攻めていた部隊を本陣へと引き上げさせている。こうして島津家久ら高城勢は、九死に一生を得たのであった。
するとその日の夕刻には、島津義弘率いる別動隊も高城周辺に現れて布陣する。しかも彼らは勢いに乗り、高城川の支流となる切原川を渡河しただけでなく川原の陣へ攻撃を仕掛けたのである。この攻撃に当然だが大友勢は反撃をしたのだが、しかし襲撃を掛けられた陣から兵が打って出ることはなかった。
何ゆえに援軍を出さなかったのかというと、理由は松原の陣を占領した新納忠堯率いる別動隊の存在に求められる。彼らが川原の陣や大友勢の本陣に対して牽制を行っていたが為に、打って出ることが叶わなかったのだ。
なお島津勢の大将である島津義久だが、彼は高城に向かうと見せかけて、その実は根白坂に布陣し、同地を本陣としていた。
こうして大友家と島津家の戦は、いよいよ最終局面へと向かうのであった。
前話に引き続いて、義頼の出番はありません。
ご一読いただき、ありがとうございました。




