第二百四十六話~大友家日向侵攻~
お待たせしました。
第二百四十六話~大友家日向侵攻~
嘗ては石山本願寺のあった場所、そこに兵が揃っていた。 彼らは出陣を前にして、揃えられた者たちである。 そしてこの軍勢が向かう先は、九州となる。 当然ながらそこには、 軍勢を率いる将として義頼や羽柴秀吉、それと明智光秀らが雁首を並べていた。
ところで、彼らを将とした織田家の兵が何ゆえに九州へと出陣するのか。 その理由は、大友家にある。 島津家との戦に敗れ豊後国に押し込まれた大友家より、援軍要請が入ったからであった
さて、期間限定とはいえ不戦の約定を交わしていた両家が干戈を交える事態となったのか。 それを語るには、時間を今年の二月下旬頃まで遡らなければならない。 昨年、島津家との戦に敗れた伊東義祐を事実上の筆頭とする伊東家残党を大友家が受け入れたのは先述の通りである。 その大友家が、いよいよ伊東家の再興を大義名分として軍を起こしたのだ。
これには伊東義祐の要請と、さらには元伊東家家臣で島津家に降伏した家の幾つかが大友家の調略に応じて内通したことがある。 だがそれ以上に、大友宗麟の野望というか理想がそこにはあった。
「いよいよだ。 いよいよ、キリシタンの国をこの日の本に作ることができる」
そう。
キリシタンである彼は、この日向国侵攻において占領した地にてキリシタンの王国を創るつもりでいたのだ。 本来日向国を領地としていた伊東家や日向国の国人からすればいい面の皮だが、独りよがりともいえる理想に燃えていた彼には関係がない。 つまるところ伊東家の庇護も、最終的にはこの理想を実現する為の方便でしかなかった。
そんな大友宗麟の想いだが、家臣の反発は当然だが存在する。 それでなくても、織田家の意向を受けた大友宗麟から奴隷貿易を控えるようにとの通達もある。 但し、通達だけだが。
その上、キリシタン王国の建国などキリシタンへ帰依した家臣ならばまだしもキリシタンではないそれ以外の家臣からの反発が出ない筈がなかった。
特に大友家重臣中の重臣であった戸次道雪からは、日向国への侵攻など論外であるとして強硬な反対が出ている。 その諫言を疎ましく思ったであろうか大友宗麟は、彼を日向国侵攻の戦から外している。 武略に長け、過去の経緯から「斬雷の闘将」などというあだ名を持っていたこの男が参戦しなかった事態は、のちのちに影響を与えることとなった。
それは兎も角として、大友宗麟は日向国への侵攻に際して数万とされる軍勢を動かしている。 彼は重臣の田原親賢を総指揮官に任じると、日向国へと進撃させた。 その直後、この侵攻に呼応して、内通を約束していた元伊東家家臣が相次いで蜂起する。 彼らは、島津家に与した元伊東家家臣を説得すると同時に、未だ島津家に与している日向国人の城などを攻め始める。 その一部は、大胆にも島津家の勢力圏にまで入り込み、暴れたりしていた。
そのように混迷した日向国の国境から大友勢は侵攻を行うと、蜂起した元伊東家家臣を中心とした日向国人らと合流する。 これにより軍勢を膨らませた日向国侵攻軍は、土持親成の松尾城を攻め立てた。
土持氏は日向国の北部に勢力を持っていた国人であり、そして伊東家とは不倶戴天の敵同士でもある。 嘗ては大友家にも臣従したこともある土持氏だが、現在は日向国が島津家の領地となったことに加えて先代当主の大友宗麟や現当主の大友義統がキリシタンであるなどといった理由もあって袂を分かっていたのである。 何せ土持氏は宇佐八幡宮の神官を出自とする家であり、そもそも当主と前当主がキリシタンへ帰依した大友家と轡を並べるなどあり得なかったのだ。
ゆえに土持親成は大友家と対立した訳だが、兵数の差は覆しようがない。 彼は土持氏累代当主の中でも知勇兼備とまでいわれた男であったが、そんな土持親成であっても大友家による日向侵攻軍の前には敗れ去るしかなかった。
彼は捕縛されて後方へと送られたが、その途中で切腹を強制されている。 しかしながら彼も土持家の現当主であり、ただでという訳にもいかなかった。
「……話は分かり申した。 こちらからの提案を呑まれるのであるならば、見事腹を切って見せましょう」
「待て、親成殿。 今一度、宗麟様に嘆願を願い出てみる。 決して早まるではない」
「義兄殿。 拙者の助命を嘆願したという話は、聞き及んでおります。 それだけで十分にございます」
「しかしだな」
「もし! もし、もう一度嘆願を願いでるとおっしゃられるのであるならば、我が息子への家督相続をお願いしたい。 それが叶うのでありますならば、これに勝ることはありません」
妹婿である土持親成から出た覚悟を感じさせられる言葉に、佐伯惟教は翻意するのは難しいことを理解した。
因みに彼は家督を譲っており、現在は剃髪して宗天と名乗っていた。
「……相分かった。 必ずや、土持親信へ土持家の家督を継がせそなたの遺志を叶えて見せよう」
「感謝致します」
その後、宗天は急ぎ戻ると大友宗麟へ直談判をしている。 そして大友宗麟も、それくらいならばいいだろうと了承したことで土持家の家督相続は滞りなく進むこととなる。 そのことを宗天より聞き及んだ土持親成は、見事に腹を掻っ捌いたのであった。
これが、同年四月の頭のことである。 この戦を最後に、耳川以北は完全に大友家の勢力下となった。 すると大友宗麟は、領地に組み込んだ地で寺社仏閣を徹底的に破壊するという暴挙に出てしまう。 田原親賢や角隈石宗など、少なくはない大友家の将がその暴挙に難色を示したが、彼はそんな家臣の反応など意に介さずに強行する。 正しく、大友宗麟が夢見ているキリシタン王国に対する発露の表れであった。
一方で侵攻を受けた島津家も黙ってはいない。 同四月末頃に漸く兵を調えた島津義久は、島津庶家で家老を務める島津忠長に七千の兵を付けて派遣する。 彼は京からの帰国後に日向国へ派遣されていた島津家久が城主を務める佐土原城へ立ち寄ったあと、翌日にはそのまま山田有信のいる高城へと向かっている。 やがて到着した高城で数日の休息をとったあと、島津忠長は近隣にある石ノ城を攻めることにした。
なお、この行軍には島津家久も旗下の軍勢と共に同行している。 但し、彼の軍勢は高城に留まり、山田有信の援軍となっていた。
その一方で、島津忠長は当初の予定通りに石ノ城へと向かっていた。
この石ノ城だが、元々は廃城である。 しかし、伊東家旧臣の長倉祐政たちが密かに修築を行い城として復活させていたのだ。 しかもこの城は、高城川(小出川)沿いにある岩山に建っており、なおかつその岩山は周囲が半ば崖のようになっている。 その上、高城川も急流とくれば、そう簡単に攻め込める城ではなかった。
だからといって、放置する訳にも行かない。 元伊東家家臣の蜂起があったとはいえこの辺りはもはや島津領であり、その領内にある城が実は敵に与しているなど看過する訳には行かないからだ。 そこで城の堅固さから不利は承知の上で、島津忠長は自らが連れてきた七千の兵を持って石ノ城へ攻め掛かったという訳である。 しかし石ノ城に籠る長倉祐政指揮の元、旧伊東家家臣は地の利を生かして攻め込ませない。 粘り強く籠城を続け、逆に痛撃を幾度か与える始末である。 この城攻めはおよそ一月に亘ったが、島津勢は五百を越える損害を被ってしまう。
この結果を受け、島津忠長の軍勢と共にしていた伊集院忠棟が今は退くべきだと進言する。 地の利は無論だが、石ノ城に入っているのは旧伊東家家臣の長倉祐政であることは前述した。 そして城に籠る彼らにとりこの戦は、伊東家の再起が掛かっている。 そうである以上並々ならぬ決意であり、背水の陣と言い換えてもいいぐらいなのだ。
そんな必死の覚悟をしている敵兵へ攻め掛かっても、いたずらに損害を被るだけでしかない。 ならば、ここは矛先をずらし謀などを用いてことに当たる方が良いと考えての上であった。
この意見を聞いた島津忠長は、首を左右に振りその意見を却下する。 一月もせめて城一つ落とせないなど、まだ二十代と若い彼の矜持が許せなかったのだ。 その気持ちゆえか島津忠長は、進言した伊集院忠棟に総攻撃をするとまで明言してしまう。 すると伊集院忠棟は必死に説得を試みたが、彼が言い募れば言い募るほどに島津忠長は頑なになる。 終いには激昂し、問答無用で下がらせたのであった。
その後、島津忠長は伊集院忠棟を後方にまで下がらせて後詰としている。 それから数日後、彼は伊集院忠棟旗下の兵を除く全軍で総攻撃を命じた。 だが、今まで一月以上も掛けて落とせなかった城が総攻撃を掛けたからといって落とせるならば苦労はない。 石ノ城に籠る長倉祐政らは、首尾よく守りきり総攻撃を頓挫させてしまう。 しかも話は、それだけに留まらなかった。
やがて夜の帳が近づくと島津忠長も仕方なく兵を退いたのだが、それは長倉祐政らにとって、千載一遇の好機となった。 その夜、総攻撃が不発に終わったことで意気消沈している島津勢に対して長倉祐政らは夜襲を仕掛けたのである。 彼らが今まで殆ど打って出るなどしてこなかっただけに、この奇襲は劇的に成功した。 相手が誰なのか判別しないまま、島津勢は混乱してしまう。 兵を纏めるなど想定外であり、島津忠長などは鎧など身に着ける暇なく適当に見つけた馬を駆って逃げ出す始末であった。
「もはや、これまでなのか」
「殿。 諦めるのはまだはようございます」
「そうはいってもだな。 これではもう……」
逃げられぬとの言葉を漏らし掛けたその時、戦場に軍勢が現れる。 しかもその軍勢は、追撃を仕掛けてくる長倉祐政旗下の軍勢に対して攻撃を仕掛けたのだ。 一瞬、何が起きたのか分からなかった島津忠長であったが、掲げる旗印に軍勢が誰の旗下にあるものなのかを理解する。 丸に三十字の旗印、それは伊集院家の旗印であった。
「忠棟め。 余計なことを」
「殿!」
「分かっている。 早急に後退するぞ!」
伊集院忠棟による支援のお陰もあって、九死に一生を島津忠長は得たのであった。 何とか虎口を脱したとは言え、大敗であることに変わりはない。 こうなってはもう撤退するしかなく、島津忠長は佐土原城へ撤退したのだ。
すると逆に勢いづいたのが、大友家に与した旧伊東家臣である。 壱岐加賀守ら旧伊東家家臣は、穂北城とも称される上野城へと攻め掛かっている。 これは島津忠長らが大敗し撤退した直後ということもあって、攻め落とされてしまう。 だが、これ以上は流石に難しくそこより先へ進撃することは叶わなかった。
その頃、高城へ入っていた島津家久の元へ使者が現れている。 その使者の持つ書状は、島津義久からであった。 何ゆえ使者が派遣されたのかというと、以前に島津家久から島津義久へある提案がなされたからである。 その提案とは、高城での籠城であった。
彼曰く、籠城することで大友家及び大友家に与する日向国人の軍勢を吸引し、大友勢に出血を強いている。 その隙に日向国中部から南部に掛けて地盤をより強固に固めて島津家による鎮定を行うというものであった。
つまり島津家久は、先ずは足場固めをするべきであると進言したのだ。 勿論島津家は日向国を手に入れて以来、足元固めは行っている。 だが大友家の離間策もあって、中途半端な状態であったのは否めない。 だからこそ、まずは足元を固めてから北進に移るべきとの策を進言したのだ。
その考えを聞いた島津義久は同調し、自らが軍勢を率いて鎮定に当たる決意をする。 その旨を記した書状を持たせ、島津家久に送り返したのである。 それから彼は、日向国内を鎮定する為の軍勢を調えていくのだった。
そんな島津家の動きに、大友勢も反応する。 大友宗麟の命に従い、田原親賢は耳川を越えて南進すると高城へと迫った。 城の近くまで迫った大友勢は、陣を五つほど構築して高城を取り囲む。 しかしこの高城だが、三方は崖に囲まれており攻めるには難しい。 唯一の攻め口といっていいのは西側だが、こちらにも深く堀が掘られており守りは固い。 形としては、石ノ城攻めと大して変わらない状態である。 違いは、攻め手となるのが大友家であり守り手となるのが島津家であるということぐらいだった。
つまるところ高城も、石ノ城と同じく守り易く攻めるに堅い城なのである。 その様な堅城を、島津家の良将である山田有信が守っている。 幾ら大友勢とはいえ、そう易々と落とせる筈もなかった。 だからといって、この城を無視して他に攻め入るという訳にもいかない。 やはり高城は脅威であり、下手にこの城を放っておくと逆撃されかねなかったからだ。
しかも高城には、島津家久も入っている。 殊さらに、彼の城を放っておく訳には行かなかった。
なお、ここで奇妙な事態が起きている。 それは、高城へと攻め入った大友勢に対してあまり増援がなされていないのである。 その理由はどうもはっきりしないのだが、どうやら大友宗麟は高城の攻略よりも日向国北部における寺社仏閣の破却、即ちキリシタン王国建国の理想を優先させていたことに原因があるらしい。 その為、それでなくてもてこずってしまった高城攻めがより一層困難を極めることとなってしまった。
こうした大友家のちぐはくな動きは、島津家に有利に働く。 大友勢を釘付けにすることでこれ以上の彼の家の南進に対する足止めに成功した島津家は、当主の島津義久自らが兵を率いて日向国へと乱入したのである。 そして日向国中部から南部に掛けて不穏な動きを見せた日向国人へ、それこそ火の出る様な勢いで攻め掛かって行った。
こうなると、個々の日向国人では島津勢への対抗は難しい。 一つまた一つと、大友家に通じたか若しくはそぶりを見せた者たちは島津勢に蹂躙されていった。
そんな中、大友宗麟自身も事態の打開を図ってか日向国内へと進軍を再開する。 彼は宣教師を連れて船で日向国内へ上陸し陣を敷いた。 しかし、相も変わらず寺社仏閣の破却に努めていたのである。 だがその頃には島津家による日向国中部から南部に掛けての鎮定も終わりを迎えており、島津家は上野城へ兵を向けていた。
今の今まで島津家が碌に上野城へ兵を向けていなかったこともあって、上野城に籠る壱岐加賀守らは油断していた。 その隙をついて、島津勢は上野城へ攻め掛かったのである。 島津征久を大将とした上野城攻略部隊は、密かに上野城へ迫ると、いきなり鬨の声を上げる。 だが、完全に油断していた旧伊東家臣らはその声の持つ意味を把握していなかった。
だからといって、攻め手の島津勢が手加減してくれる筈などない。 彼ら勢いのままに、上野城へ攻め掛かったのだ。 その勢いは凄まじいものがあり、危うく落城仕掛けてしまう。 しかし上野城の出城となる隈城にいた味方の救援が間に合い、辛くも落城は免れている。 すると無理攻めはしないとばかりに、島津勢は一旦退却する。 上野城に籠る旧伊東家家臣らも、夜襲を恐れて打って出ることもできずに警戒を密にするのであった。
この戦の結果を鑑みて島津征久は、我攻めではすぐに落ちないだろうと判断する。 そこで時を掛けて攻めつつ、同時に調略を試みることとした。 彼は不定期に上野城を攻めて敵の意識を自身の軍勢に集中させつつも、その裏で密かに内通者を作るべく間者を潜り込ませたのである。 この上野城に籠る元伊東家家臣に対する密かな働き掛け、断続的に続けている。 そしてついに実を結び、三人ほどの内通者を作ることに成功したのである。
いよいよ準備が整ったとして島津征久は、軍勢を動かす。 それまで、全く軍勢を向けることのなかった隈城へ夜陰に乗じて兵の半数を向かわせると、払暁と同時に城へと攻め掛かったのだ。 まさかの朝駆けに、隈城側は反応が遅れてしまう。 お蔭で大手門は抜かれてしまうが、それでも彼らは守り抜くことに尽力する。 同時に上野城へ、援軍要請を行っていた。
その要請に従い、上野城主の壱岐加賀守は援軍を送る決断をする。 しかもその軍勢を率いたのは、何と彼の正室であった。 しかしその途中で、彼女は足を止めてしまう。 その理由は、家臣からの進言によるものであった。
しかしてその進言だが、伏兵を恐れていたことによる。 援軍に向かうに当たり、その途中には伏兵を配するに適した個所が幾つか存在する。 それを恐れての、進言であった。 この言葉は至極もっともなこともあって、彼女も受け入れている。 そこでできるだけ急ぎつつも慎重に進むという、二律背反する動きを強いられてしまったのだ。
その為、救援には間に合わず隈城は落城の憂き目を迎える。 すると島津勢は、間髪入れずに隈城から出陣した。 しかも、隈城には旗印などは残しているが代わりに兵を殆どといっていいぐらいに残していない。 ある意味で、背水の陣とも取れる動きであった。
隈城を出た島津勢は上野城へと続く道を進軍し、やがて大手門近くへと差し掛かると命を受けた忍びが城へ近づいて行く。 そこで門越しに応答が幾つかあったあと、大手門はゆっくりと開いて行った。
その瞬間、一斉に島津勢が大手門より雪崩れ込む。 彼らは当たるを幸いとばかりに、次々と上野城の城兵を切り捨てていく。 完全な奇襲であるということと、何より攻め手の島津勢の方が多いことも合わさって上野城は僅かな時間で攻め落とされてしまった。 この様子は、隈城に向かっていた援軍からも見てとれる。 ここに勝敗は決したのだと理解した壱岐加賀守の正室は、自らの刀を胸の前にあてがうとそのまま前のめりに倒れて自刃を果たす。 その最後を見て、援軍の将は近くの寺へ正室を預けると埋葬を願い出ている。 その後、彼らも自刃して果てたのであった。
こうして上野城を攻略した島津征久の軍勢は、そのまま石ノ城へと突き進む。 丁度その頃、大友宗麟が主導して行っていた寺社仏閣の破却がいよいよ終わりを向かえていた。 ここまで時間が掛かったのには、当然だが訳がある。 そもそも当初は、地元の民に破却を命じていたのだが、その進捗は捗々(はかばか)しくなかった。
これは、当たり前である。 キリスト教へ入信している大友宗麟や彼の影響でキリシタンとなった者達ならば兎も角、キリシタンでもない地元の民が寺社仏閣の破却など積極的に協力する筈などないからである。 それどころか神罰や仏罰を恐れており、使えるどころの話ではなかった。
そこで仕方なく兵に行わせた訳だが、幾ら大友家の将兵だからといって全員が全員キリシタンな訳ではない。 中には生粋のキリシタン嫌いもおり、大友宗麟によって大将に任じられた田原親賢などは養子として柳原家より迎えていた義息がキリシタンとなると廃嫡したぐらいである。 彼には息子がいたが亡くなっており、その代わりということで迎えていた義息である。 その彼を廃嫡にするぐらいであるから、キリシタン嫌いは相当なものである。 しかし大友宗麟には忠実であったので、彼は大友家中で栄達したのだった。
話を戻して、兵に行わせた寺社仏閣の破却も最初に命じた民らと同様に進捗は悪い。 完全に止まらなかったのは、彼らが大友家の兵だということともう一つ、将兵にキリシタンが存在したという事実である。 彼らキリシタンからすれば、大友宗麟の夢はおのれらの夢と言い換えてもいい。 むしろ、積極的に行うべきことであった。
それであるがゆえに、寺社仏閣の破却は遅々であっても進捗したのである。 そしていよいよ終わりを迎えたことで、大友宗麟と息子の大友義統は島津攻めに集中できたのであった。
一方で石ノ城へと攻め掛かった島津勢は、火の玉と見紛うばかりの攻めを見せている。 水の手を切った上での果断な攻めであり、これには堅城石ノ城に籠る長倉祐政らでも抗しきれなかった。
そして水もそうだが、そもそも彼の城では兵糧が尽きかけていたのである。 そこで長倉祐政は、島津征久へ講和を持ち掛けると、彼は了承した。 これは思いの外味方の損害が出た為であり、そして寡兵ながらも見事な戦をやってのけた籠城勢を飢えなどで死なせることを惜しんだからである。 島津征久は了承の書状を持たせた使者と共に、城内へ酒や肴などを送り、籠城勢を労っている。 これには長倉祐政も感謝し、使者を自ら迎えると共に一振りの長刀を島津征久へと贈答する。 そしてその夜、石ノ城の籠城勢は城を明け渡し北へと撤退したのであった。
しかし長倉祐政の抵抗は、これで終わりではない。 ある程度北へ向かったかと思うと、急遽転身して石ノ城を大きく迂回する。 そして、そのままいずこかへと消えたのであった。
ついに大友家と島津家が激突しました。
なお、暫く(恐らくは数話)は九州における両家の動きとなり、義頼は殆ど登場しなくなります。
あらかじめごご了承ください。
ご一読いただきありがとうございました。




