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第二百四十五話~新たなる武器~

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第二百四十五話~新たなる武器~



 何とも慌ただしく兄の六角承禎ろっかくしょうていが、安土にある義頼の屋敷から出立していった。

 内容が内容だけに致し方ないが、義頼には関与のしようがない話である。 彼の立場からすれば、六角承禎の一行を黙って送り出すより他なかった。

 ひとまず兄を見送ると義頼は、己の仕事へと戻る。 取り敢えずは甲賀郡と伊賀国へ向かい、現地の視察を行っておく。 特に伊賀国は鉄砲を筆頭とする火器全般の開発と生産を担っていることもあるので、重要度は高かったのだ。

 最初に立ち寄った甲賀郡では、三雲成持みくもしげもち共に視察などを行い、取り敢えず領内に問題らしい問題は起きていないことに安心する。 すると義頼は、引き続いて三雲成持へ甲賀郡を任せると伊賀国へと向かった。

 次に向かった伊賀国に到着後の対応だが、そこは甲賀郡と同様となる。 仁木義視にっきよしみと共に巡視などを行い、その後はやはり任せている。 そして義頼自身は、それから三雲賢持みくもかたもちと鉄砲鍛冶頭領となる大窪善兵衛(大久保善兵衛)を尋ねた。


「殿。 お元気そうで何よりです」

「賢持も善兵衛も元気そうで何よりだ。 ところで、前に命じた例の物だができたか」

「はい。 問題なく」

「では見せてくれ」

『はっ』


 そういうと彼らは移動し、銃などを試射するときに使用する場所へと向かう。 間もなく到着すると、三雲賢持と大窪善兵衛らは、命じて持参した物を地面に据えさている。 それは、長さが三尺程の筒であり、地面に接する部分には方形の板が取り付けられていた。

 すると、その筒に砲弾が入れられる。 しかしながら、その大きさは小さかった。 そして間もなく、その筒から砲弾が発射され、およそ七町から八町程飛翔すると、地面に着弾したのであった。

 これは嘗て大砲の小型版とも言える新型の構想を三雲賢持が披露した際(第百八十二話参照)に義頼が別の案として言い渡した「射程が短く威力も下がってもいいが、代わりに取り扱いや持ち運びが簡便となる新たな砲」の答えであった。

 形としては、砲と言うよりも大鉄砲の改造版とも言えるような武器である。 そしてその考えの根拠は、実は焙烙玉にあった。 村上水軍でも使われているこの焙烙玉を、より遠くへ飛ばせたらと言う考えのもとから義頼がまだ大砲が影も形もなかったころに言い渡した経緯があり、その言葉を実現させるべく試行錯誤の末に生まれたものであった。

 そもそも、義頼が火縄銃以外で興味を示した最初の火器は焙烙玉である。 しかし当時は硝石の入手方法などは商人を介するぐらいしかなかったので、必然的に高額となってしまう。 その為、焙烙玉の運用については議論の遡上そじょうには上がっても、ついぞ実現などしなかったのだ。

 だが、今は硝石の安定供給も確立している。 そこで原点回帰ではないが、義頼の考えの中で再度焙烙玉が注目を浴びたのだ。 但し、陶器などで作られている焙烙玉ではいささか耐久度に乏しい為、金属製の砲弾へと変更がなされている。 また、取り回しなどを考えてからかとても単純な構造となっている為、かなり重量も軽くなっていた。 何せ、大体だが三貫強ぐらいしか重量がないのである。 単純に砲身だけならば、一人でも持ち運びができる代物であった。

 その代わりに、先程の試射でも見せた様に射程がかなり犠牲となっている。 あれは討ち損じなどではなく、先程ぐらいしか弾は届かないのである。 それでも仏狼機砲より、優位と思わせるぐらいの射程は持ち合わせていた。


「うむ。 簡易版としては、十分だな」

「はい。 出来るだけ簡素・簡略化しました。 それと構造が単純なので、増産も比較的簡単です」

「そうか。 では、大急ぎでさらに増産しろ」

『御意』


 因みに、この武器の名称だが、元は焙烙玉を遠くへ飛ばす、即ち投擲とうてきを元としてきたことからか擲筒と名付けられていた。

 こうして伊賀国での用も終わった義頼は、隣国と言うこともあり大和国へと向かう。 そこで筒井城に立ち寄り、筒井順慶つついじゅんけいらの様子を確認する。 だが、まだ時間は掛かりそうではある。 そこで義頼は、慌てるなとだけ言い伝えてから大和国を出立すると、そのまま丹波国へ向かった。

 しかしその途中で、通り道と言うこともあって京に寄る。 そのまま義頼は、六角承禎の屋敷に到着した。 彼の目的だが、織田信長が兄へ伝えた官職の辞職に対して朝廷が答えを出したのかを確認する為である。 もっとも内心では、そう簡単に答えが出たなどとは思っていない。 恐らくは結論など出ていないだろうとも思っていたが、万が一の場合もあるので立ち寄ったのだ。

 その結果は、推して知るべしである。 織田信長から出されたいきなりの話であっただけに、朝廷も公家も中々に混乱している様子であった。


「ご愁傷さまです、兄上」

「皮肉か、義頼」

「いえ。 本音ですよ」


 織田家の家臣は、義頼も含め織田信長の言動に振り回されることがままある。 ゆえに義頼は、同情しても皮肉は言わない。 ましてや相手は、実の兄なのだ。 機嫌を損なわせるような皮肉など、言う気もない。 弟の視線と雰囲気から、何となくであるが嘘偽りがないことを察した六角承禎は、深くため息を付いていたのであった。

 翌日、京の六角屋敷を出立すると、今度こそ次の目的地である丹波国へと向かう。 そこで、己の代理として任せていた土岐頼次ときよりつぐと共に今までの領地と同じ様に、巡察などを行う。 その事案が済むと義頼は、甲賀郡と伊賀国とは違い一つの人事を行った。

 それは、丹波国における己の代理の変更である。 今まで代官としていた土岐頼次をその職より解任して、代わりに波多野秀治はたのひではるを据えたのだ。 だがこれは別に、土岐頼次が問題や不祥事を起こしたというわけではない。 元より考えていた人事であり、土岐頼次にはそれとなく伝えていたことだった。

 そもそも土岐頼次を丹波国における代官職に任じていたのは、その血筋ゆえである。 丹波国が六角領として安定するまで彼に任せ、その後は波多野秀治にその役目を与えるつもりだった。 折しも中国地方攻めも終わったこともあり、ちょうどいいと実行したのである。 以降、土岐頼次は、六角家重臣の一人として働いていくのであった。

 土岐頼次のことはさておき、義頼から下命を受けた波多野秀治は、始め驚きをあらわにする。 その後、彼は喜びをあらわしながらその命に服した。 そんな波多野秀治の肩に手を掛けながら、義頼は口頭で丹波国を任せる旨を伝える。 それと同時に、彼へ築城を命じた。

 実は丹波国内に義頼は、まだ拠点となる城を作っていなかったのである。 その為、今までは八木城を代わりとしていた。 しかし八木城は山城であり、防御という点では問題ないが利便性には欠けている。 そこで義頼は、既に見つけていた候補地を伝え、その地に建てる城の縄張り完成図面を渡すことにした。

 因みに、今まで築城しなかったのは、戦続きで城を作る余裕がなかった為である。 だが、中国攻めも終わり漸く一息付けたことでいよいよ丹波国でも築城の目途が立つ。 そこで織田信忠へ、改めて築城の許可を願い出て許可を得たというわけであった。

 さらに言うとこの築城に関しての建築資材だが、丹波国内で使用がもう見込まれない城砦などを解体して使用することにしている。 つまり丹波国内に城は一つ増えるが、結果として八木城も含めて幾つかの城が消えるのだ。 これは、城割をしているに等しい。 そのような背景もあって、織田家からの建築の許可がとどこおりなく降りたのだった。

 義頼より図面を受け取った波多野秀治は、丹波国人らと共に城の建築へ着手する。 そんな彼らに後を任せると、義頼はいよいよ播磨国へと向かった。

 その播磨国だが、筒井順慶らも大和国から向かわせる予定となっている。 やがて無事に義頼が姫路城へ到着すると、そこには嘗て播磨国守護職にあった赤松家の現当代である赤松則房あかまつのりふさを筆頭として主だった者が集結していた。 彼らも正式の六角家の家臣となっており、改めて義頼を出迎えた形である。 そして事前に伝えた通り、筒井順慶らも大和国から播磨国へ到着していた。

 こうして元大和衆をも家中に加えた義頼だったが、そんな彼の元に報告がもたらされることとなる。 その報せとは九州の情勢であり、内容は島津家が日向伊東家を降したというものであった。

 ついに島津家との戦に敗れた伊東家は、現当主である伊東義賢いとうよしかたや彼の祖父で後見人である伊東義祐いとうよしすけこと三位入道などと言った伊東一族。 さらには彼らに付き従った一部の家臣や女子供らと共に、居城を捨てると初めは重臣でありしかも伊東家の庶流となる落合兼朝おちあいかねともを頼ろうとする。 しかし彼は、息子を同僚でやはり自分と同じく伊東義祐の近臣となる伊東祐松いとうすけますこと帰雲斎によって殺された恨みを忘れておらず、一行に帰雲斎がいたこともあって彼らの受け入れを拒否する。 そればかりか軍勢を率いてあらわれ威嚇をし、領内に入ることすら許さなかった。

 嘗ての重臣から突き付けられた対応に慌てた伊東義祐は、家臣と山伏を派遣して説得を試みたが彼の怒りは深い。 東光坊と言う名の山伏を撲殺し、同行していた伊東家家臣には自身の言葉を伊東義祐に伝えることを条件に開放する。 ほうほうの体で戻ってきた家臣に託された伝言は、短いが彼の恨みが深い物であった。 


「帰雲斎の成敗……か」

「は、はい。 その旨が実行されれば、殿も皆様も受け入れるとのことにございました」

「なっ! 言うに事欠き兼朝めが。 三位入道様、あのような奴腹など頼る必よ「黙れ!」う……ははっ」

「いかがなさいますか?」

「すまぬがそなたは今一度だけ兼朝の元へ向かい、今から書く文を渡してくれ」


 命じられた栗木太郎五郎は、一瞬嫌そうな顔をする。 だがそれも、派遣されたことで命の危険を感じたのだから仕方がない。 しかし命とあれば従わないわけにもいかず、不承不承ながらも了承はした。

 さて三位入道の認めた書状だが、内容は落合兼朝の息子となる丹後守を死なせたことなど、帰雲斎を重用し掛けてしまったこと。 並びに、帰雲斎は付き従った者であるゆえ見捨てるのもはばかられ、討つことも叶わない事態に対する詫びであった。 最後に伊東義祐は、せめてもの詫びの証明に腹を切ろうとまでしたが、それは帰雲斎ら伊東家臣たちによって押し留められている。 その後、三位入道は栗木太郎五郎が無事に戻り合流すると落合兼朝の領地を避け、米良山中から高千穂を抜けて大友家の領地である豊後へと抜けたのであった。


 さて義頼が遠い九州のしかも伊東義祐が落ち延びる際の詳細を得た理由だが、実は伊東家内につてが存在していたからだ。 そのつてとは、伊東家家臣の野村文綱のむらふみつなである。 野村氏は伊東氏の家臣ではあるが、同時に伊東氏へ恨みを抱いている家でもあった。

 何ゆえに恨んでいたのかと言うと、それは野村文綱の叔母に当たる人物が原因である。 しかし、別に彼女が何かしたというわけではない。 寧ろ彼女は、被害者といって良かった。 件の彼女の名は福園ふくそのと言い、今は亡き伊東義益いとうよしますの側室である。 伊藤義益は嘗ての伊東家当主であった為、彼は伊東義祐の斡旋で阿喜多おきたという女性を正室として迎えていた。 すると彼女は、実家である野村家に帰されてしまう。 それだけならばまだ良かったのだが、あろうことか阿喜多は彼女を嫉妬し福園を殺害してしまったのだ。

 当時の野村家当主であった野村文綱の父親である野村松綱のむらまつつなは、妹の身に振りかかった理不尽に激怒して伊東家に猛抗議をしたが、結局のところ有耶無耶に処理されてしまっている。 そこには、阿喜多が土佐一条家と大友家の係累けいるいという事情があった。 流石に伊東家も、両家に対して強硬には出られなかったのである。 最終的に野村家が涙を飲んだわけだが、野村家及びその一党には深い恨みを残してしまったのだ。 

 そんな、恨みを抱きつつも家臣や一族のことを考えて伊東家に仕え続けたのであったが、ついに転機が訪れる。 一つ目の転機は、島津家の侵攻であった。 野村家も日向国の国人であり、他家である島津家の一方的な侵攻には抵抗している。 だが内心では、伊東家を襲った災禍に対しどこか冷たい目で見ていたのだ。

 その頃に、もう一つの転機が訪れる。 それが、近衛前久このえさきひさ下向であった。 何せ太閤の下向であり、伊東家もそして家臣もその理由が気に掛かり調べている。 しかし、この下向は知っての通り大友家の要請の結果行われた物であり、伊東家にとっては決して転機となる物ではなかった。

 それゆえに彼らはそこで調査を終えてしまったのだが、野村家だけは別である。 と言うのも、近衛前久の一行に六角家家臣が紛れていた為であった。 実は野村家、近江源氏の庶流となる一族でもある。 佐々木盛綱ささきもりつな曾孫ひまごにあたる人物が伊東家に輿入れし、それが縁となり野村家は伊東家の被官となったのだ。 

 伊東家へ家臣入りしたとは言え、野村家が近江源氏の庶流であることに変わりはない。 そこで野村文綱は、叔父の野村重綱のむらしげつなを密かに派遣して、近衛前久に同行していた義頼の重臣となる進藤賢盛しんどうかたもりへ接触を果たしていた。

 これに驚いたのは、進藤賢盛である。 まさか近江源氏の庶流となる家が、日向国にいたとは知らなかったからだ。 もっともこれは、義頼も把握していなかったので彼が知らなかったとしてもそれは仕方がないであろう。 それはそれとして、野村重綱と接触した進藤賢盛は、己の裁量で野村家を味方に引き入れていた。 幾ら忍びを九州へ派遣しているとは言え、この九州の地は遠い。 なおさら現地に、味方となる者がいた方が良いと判断したのだ。 

 ここに両者の思惑は一致し、野村家は伊東家を見限ると六角家にすり寄ったのである。 すると進藤賢盛は、野村家に獅子身中しししんちゅうの虫となるようにと要請する。 まずはこのまま伊東家家臣として振る舞い、若し伊東家が敗れた場合には島津家でも同様に活動することを求めたのだ。

 それを証明するかの様に伊東家が島津家に敗れる止めとなった後に伊東崩れと呼ばれる様になる連続的に発生した伊東家家臣の離反に際し、望んでいたかのごとくに野村家は島津家へ降伏している。 しかして降伏は認められ、野村文綱とその一党は居城の内山城と領地の安堵を島津家から保証されていた。

 つまり、義頼が予測した伊東家の崩壊時期だが、味方に引き入れていた野村家の事情などもあったのである。 こうして当初は伊東家、引き続いて降伏した島津家に潜り込んだ形の野村家からの情報と、既に現地に派遣されている忍びの情報が、播磨国にいる義頼へ届けられたと言う訳であった。

 この情報を手にした義頼は、即座に書状を認めている。 明けて翌日、先日書き上げた書状と共に織田信忠おだのぶただのいる安土へ移動した。 義頼は到着した六角屋敷にて身嗜みを整えつつ、同時に面会のうかがいをたてている。 急であったこともありすぐにとはいかなかったが、それでも到着した同日には面会を果たしていた。


「なるほど……あとは大友次第と言うわけだな」

「はい。 ですが、今現在でも進軍は問題ないと思えますが、それは避けた方が良いでしょう」

「うむ。 何より、そこまで焦ってはいない。 それに、出来うるなら万全に用意は整えておきたいからな」

「はい」


 四国にしろ中国地方にしろ、戦が終わってからそれほど時間がたっていない。 義頼も明智光秀あけちみつひで羽柴秀吉はしばひでよしも急ぎ準備は整えているからこそ、すぐにでも動けるのである。 しかしながら、それは短期を考えてのことであり、戦が長期化した場合は輜重しちょうなど色々と問題が出かねない。 やはり早くても、来年の春までは準備に集中したほうがよかったのだ。


「やはり、来年の春以降だな」

「それが宜しいでしょう」

「義頼。 その方は、準備を万端にするように心掛けておけ。 無論、秀吉や光秀にも伝えておく。 それから、九州の情報は特に集めよ」

「御意」


 その後、義頼は織田信忠からの命令通り忍び衆を増援した。

 その忍び衆だが、規模が大きくなっている。 それには、理由があった。 以前より仕えていた甲賀衆や伊賀衆は勿論だが、新たに毛利家が織田家へ降伏した関係であぶれた毛利家の忍び衆や、同じ様に家が縮小した為に嘗ての規模を維持できなくなった元風魔衆を雇用していたからだった。

 因みになぜ風魔衆と縁があったのかと言うと、風魔衆の忍びに二曲輪猪助にのくるわいすけと言う忍びがいたからである。 彼は嘗て【川越城の戦い】で活躍した忍びだが、今となっては老齢となっている。 そんな彼だが、実は伊賀衆とも繋がりがあったのだ。

 そこで風魔衆を率いる風魔小太郎ふうまこたろうは、二曲輪猪助を通して放逐せざるを得なくなってしまった風魔衆の斡旋を頼んだのである。 伊賀衆を率いる千賀地則直ちがちのりただはこれに答え、二曲輪猪助自身も含めて六角家に仕官させたのだった。

 お蔭で人員に余裕ができたのかというと、割とそうでもない。 何せ今となっては、ほとんどなし崩しなのだが織田家における情報を統括するかのような立場に義頼は立たされてしまっている。 その為、人員は多いに越したことはないのだ。

 それはそれとして、派遣された忍び衆は九州における情報をより集めていく。 その傍らで義頼は無論のこと、明智光秀あけちみつひで羽柴秀吉はしばひでよし織田信忠おだのぶただの命に従い、九州攻めの準備を粛々と進めていた。

 そのように過ごしながら、やがて年も暮れていく。 明けて正月、安土城本丸御殿に存在する大広間では、多数の人が溢れていた。

 彼らがこの場にいる理由だが、それは織田信長おだのぶながや織田信忠に対する新年の挨拶に他ならない。 しかも今年は珍しく、東でも西でも戦のない新年である。 その為、先年の時よりも人が多くなったのだが、しかしこの大広間は屋敷に入る事を許された全ての者を受け入れていた。

 そんな大広間だが、人数が多いこともあって中々に騒々しい。 しかしその騒々しさも、織田信長と織田信忠親子の来訪が間もなくであると告げられると、静かになっていく。 やがて大広間に静けさが横たわるとほぼ時を同じくして小姓から到着が言い渡された途端、広間内にいる者は一斉に平伏していた。

 そのように大広間にいる全ての者が平伏している中、織田信長と織田信忠が入ってくる。 そして最も上手となる場所には織田信長が腰を下ろし、そこから少し離れた場所に織田信忠が腰を下ろす。 すると二人は、平伏している織田家家臣を眺めるように若しくは睥睨でもするかの様に見下ろしていた。

 それから間もなく、織田信長の口から彼らへ顔を上げるようにとの声が掛かる。 その指示に従い、織田家家臣一同は顔を上げていた。


「新年、明けましておめでとうございます」

『おめでとうございます』


 まず、織田家筆頭家臣の柴田勝家しばたかついえが新年の挨拶を述べる。 その言葉に続いて、次席家臣の丹羽長秀にわながひでたちが挨拶を述べる。 その中には当然、義頼もいる。 彼は織田家家臣の中では第三位と言える立場となっており、丹羽長秀のすぐ近くにて新年の挨拶を述べていた。

 そんな織田家家臣からの挨拶を、織田信長と織田信忠の両名は鷹揚おうように頷き返答としている。 やがて主だった家臣からの挨拶が終わると、一呼吸置いてから織田信長が口を開いた。


「先年、西は中国と四国を。 東は上杉と武田、そして北條を平らげた。 皆の者、ご苦労であった」

『はっ』

「そして貴様ら。 引き続き、今年も頼むぞ」

『御意』

「うむ。 この後は宴の席を用意している。 存分に飲み、そして喰らい英気を養うのだ」

『ははー』


 その後、大広間から一旦人は退出する。 それから間もなく、人が消えた大広間に食事や酒が大量に運び込まれる。 全ての膳が揃うと、大広間に再び家臣達が入ってきた。 席順は事前に決まっており、それに従い彼らは腰を下ろしていく。 なお席順は、織田家における順位がそのまま当て嵌められていたので問題など起きはしなかった。

 義頼などといった織田家家臣が腰を下ろしてから程なく、再度織田信長と織田信忠の親子が入ってくる。 他にも、北畠信意きたばたけのぶおき(元の北畠具豊きたばたけともとよ)や神戸信孝かんべのぶたからと言った他の息子たちも入ってきた。

 なお彼らは織田家連枝衆だが、織田信長や織田信忠と同等の場所には座らない。 織田家家臣より二人に近いが、それでも一段低いところに腰を下ろしていた。

 程なくして全ての者が揃うと、織田信忠が音頭を取り手にした杯を掲げる。 それから杯に注いだ酒を飲み干すと、引き続いて家臣一同も酒を飲み干すと間もなく宴が始まった。 そんな中、相も変わらず義頼は挨拶回りに勤しむ。 織田家中における第三位という、いかに準一門衆扱いであっても彼自身は織田家中では外様であることを考えれば間違いなく出世の筆頭格である。 それでも義頼は、挨拶は欠かさない。 ただ、周りの重臣がほとんど年上であることを考えればそれも仕方がないと言えるのかも知れなかった。

 何であれ挨拶を終えると、義頼は戦場いくさばが西と東で異なってしまったが為に接点が薄くなっている柴田勝家や丹羽長秀などの織田家重臣らと席を共にして交流を深める。 個人的にも義頼の屋敷を訪問するなどと言った約束を交わしつつ、新年の宴席を楽しむのであった。

新武器と共に、九州の実情です。

なお竜造寺家ですが、順調に肥前国統一を勤しんでます。

もしかしたら一番平和なのは、相良家かも知れない。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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