第二百四十三話~中国からの撤収~
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第二百四十三話~中国からの撤収~
備後国の湊で同行者となっていた島津家久と別れた義頼であったが、彼が暇などと言う事はない。 と言うのも、事実上義頼が織田家が獲得した中国地方を纏めて管理していたのだ。 その状態から、新たに赴任する代官や領地持ちとなった織田家臣らに、引き継ぐと言う作業が新たに発生する。 それに関連した書類等など、色々と揃える必要があった。
そんな中、藍母衣衆を務める柳生宗厳を尋ねて来た人物がいる。 それは二人おり、彼らが揃ったのは全くの偶然だった。 一人は、近衛前久の護衛を相良義陽に命じられて共に上京した丸目長恵である。 そしてもう一人は、新陰流四天王として並び称される神後宗治であった。
さて二人が柳生宗厳を尋ねた理由だが、今年の二月に亡くなった彼らの師に当たる上泉信綱を偲んでとなる。 今更の様な気はするが、それも致し方ない。 何せ丸目長恵は相良家に仕えているし、そもそも九州出身の人物であるからそう簡単に再会はできない。 今回は近衛前久の護衛を命じられた事でその数少ない再会の機会を得たのだった。
また神後宗治にしても修行と称して旅の空にあるので、やはり再会は難しい。 そんな彼らに反し、柳生宗厳は義頼に仕えている事もあって足取りが追い易い。 何より、師の最後を看取ったのが他でもない彼である。 そう考えれば、彼らが柳生宗厳を尋ねるのもある意味で必然と言えた。
そんな彼らだが、義頼にも挨拶している。 それは、上泉信綱が亡くなった際、義頼が亡き彼に会いたかったからか金銭的などの支援を柳生宗厳を通して行っていたと言う理由がある。 何せ柳生宗厳は勿論、上泉信綱と交流があった北畠具教らと言った者達が死に目に間に合ったのは、事情を知った義頼が藍母衣衆より一時的とはいえ離脱するのを許したからに他ならなかったのだ。
無論、それだけでもない。 彼らは彼らで、純粋に義頼の武に興味があった。 何せ、個人的にもそして兵を率いて将としても功績を挙げている。 そんな相手と面会できるような機会があるのだから、その機会を逃す理由はなかった。
一方で義頼としても、上泉信綱の門人のうちで新陰流四天王とまで称された二人と会えると言う機会を逃す気もない。 無論、無理矢理に会うなどする気はないが、そうでないならば会っておきたいと言うのが本音であった。 それに丸目長恵は、近衛前久に忠誠を誓ったとされる相良義陽の家臣である。 九州の諸勢力に対する水面下の繋ぎと言う意味でも、会う価値はあった。
そんな政治的な思惑もあるが、やはり最大の理由は、名のある武人である彼らに会いたいという物である。 良くも悪くも義頼は、武人であったのだった。
こうした思惑の一致により、義頼と丸目長恵と神後宗治の会合が実現する。 同席したのは、柳生宗厳は勿論として他にも北畠具教や雲林院松軒らがいる。 それはそれで、何とも豪勢と言える者達であった。
さて義頼と面会した丸目長恵と神後宗治だが、表面的には冷静である様に見える。 しかし内心では、多少だが驚いていたり、小さく笑みを浮かべる様にしている。 それは、義頼の持つ様々な戦績が誇張されたものではないと分かったからだ。 義頼と言えば先ず弓の腕があげられるが、こうして間近に相対してみると分かる。 決して弓だけの人物ではない、近接した戦いでも相応以上に腕を持っている事が想定できたのだ。
そうなると彼らの中に、実際に刃を交えてみたいと言う欲求が鎌首を持ち上げてくる。 とは言え、相手は日の本最大勢力を持つ大名家、織田家の重臣である義頼に対して、そう気軽に対戦を申し出る訳には行かない。 ある種のもどかしさを感じ始めていたが、その思いは唐突に失う事となる。 それは、義頼の口から出た言葉によってであった。
「こうして会い見えたのも何かの縁、某に一手ご教授願えないか?」
「……それは本気で言っておりますか?」
「無論ですぞ、伊豆守(神後宗治)殿。 某も、武は嗜みます故」
前述した通り二人が思った様に、義頼もまた同じ思いを抱いていたのだ。
こうした思いの一致により、義頼と彼らの手合わせが実現する。 しかし流石に、抜身でという訳には行かなかった。 しかも丸目長恵に関して言えば、他家に仕える者である。 彼と対戦し、優劣をつける訳にもいかなかった。
従って、修練用の武器を用いての対峙となる。 しかも相手は、神後宗治ただ一人とだ。 二人は相対すると、静かに礼をする。 そこから、それぞれ手にした得物を構える。 神後宗治は亡き師が考案した袋竹刀を、義頼は得物の代わりに棒を手にしていた。
こうして相対した二人だったが、全く動こうとしない。 だがその様に静かであるにも拘らず、場の雰囲気は恐ろしいまでに研ぎ澄まされていた。 この場には先に述べた三人の他に、藍母衣衆に所属する者達もいる。 藍母衣衆筆頭であり、六角家の兵法指南役である北畠具教の息子である北畠具房や可児吉長と言った者達もおり、実に錚々たる面子であった。
そんな彼らが、動きのあまりない両名の対峙をじっと見続けている。 派手な動きはないが、要所要所で牽制と取れる動きを両者は行っている。 つまるところこの対峙は、玄人受けする戦いであったのだ。
そんな雰囲気の中で対峙していた両名であったが、やがて神後宗治が構えを解く。 すると間もなく、義頼も構えを解いていた。 次の瞬間、この場に張り詰めていた緊張感が一気に解ける。 そして場の雰囲気は、穏やかな物へと変わっていた。
「伊豆守殿、ありがとうございました」
「左衛門督(六角義頼)様、此方こそにございます。 それにしても、良き相手に恵まれたのですな。 三十路に満たないその若さでそこまでの腕とは、驚きました」
ただの一合も交えていないが、そこは新陰流四天王とまで称された神後宗治である。 対峙すれば、ある程度は相手の実力という物が図れるのだ。 しかしそんな彼と言えど、全部把握できた訳ではない。 あくまで一端を理解しただけであり、やはり全てを把握するには刃を交える必要があった。
だが、下手にそんな事をすればそれは試合ではなく死合となりかねない……いや、ほぼ間違いなく死合へと発展する。 だからこそ神後宗治は、己から得物を引いたのである。 そして義頼もその点は理解していたからこそ、応じたのだ。 何より義頼が、彼の腕を惜しいと感じている。 できうるものなら、藍母衣衆の一員にと思えてしまう。 故に義頼は、彼を勧誘する事にした。
「ところで、伊豆守殿。 もしよろしければですが、我が家に仕えてはみませぬか?」
「それはつまり、左衛門督殿を主としていただくと言う事ですかな?」
「よろしければ、ですが」
そう言ってきた義頼の目を、神後宗治はじっと見つめる。 そして義頼もまた、その視線を真っ向から受け止めていた。 神後宗治は義頼の真意をその目から読み解こうとし、そして義頼はただただ真っ直ぐに見返す事で己を表そうとする。 その間、奇妙な静けさがその場に広がる。 つい先ほどまでの殺伐とした空気と違い、何とも言い表しずらい空気が静かに横たわっていたのである。
長かったのか、それとも短かったのか。 やがて判別できない何かが漂っていた空気を、神後宗治が打ち破る。 彼は手にしていた袋竹刀を地面に置くと、片膝をつき頭を垂れた。
「この神後伊豆守宗治、六角左衛門督義頼様を主と仰ぎお仕え致します」
「おおっ! 真にございますか」
「はっ」
「これは、千軍を味方に付けたかの如くの頼もしさよ。 これよりよろしく頼むぞ、伊豆守殿」
「御意」
その後、新たに家臣となった神後宗治の祝いも兼ねた宴会となる。 ところでなんで兼ね合いとなったのかと言うと、丸目長恵に対する惜別の宴でもあったからだ。
現在、九州の大名の中で織田家から一番近しいと思われているのは、意外な事に相良家となる。 仲立ちを頼んだ大友家でもなく、繋ぎを求めて一門を派遣した島津家でもなく相良家がその立場にあると感じられている理由は、やはり近衛前久に対して臣下の礼をもって持て成したと言うのが大きい。 相良義陽はその様な事を狙って行った訳ではないのだが、結果としてそうなったと言ってよかった。
この辺りも、九州に対する繋ぎの候補と義頼が考えた経緯に影響を与えている。 全く持って、何が影響するかなど分からない事この上ないと言えた。
因みに宴を兼ね合いとした理由の一つに、あくまでついでと言う形に収めたかったという物も存在している。 下手に繋ぎを表すより、織田家の方針からも隠しておく方が都合がいいからだ。
何であれ相良家との事より、上泉信綱の弟子の集まりと言う色を前面に表す事で諸々な物を隠した宴も終えてから数日、丸目長恵も九州へ向けて出立する。 彼は島津家久程には警戒されていない事もあり、予定通り陸路で進む事は了承される。 義頼の名で出された許可であり、少なくとも九州へ渡るまでは彼の身柄は安泰であると言ってよかった。
何であれ万全に体調を整えて出立した丸目長恵は、山陽道を進む傍ら気になった個所にはわざわざ訪問するなどしている。 その動きは、物見遊山と言っていい旅であった。 普通であれば煙たがられる様な動きだが、内心は兎も角として表面的にはそうはならない。 と言うのも、事前に述べた様に丸目長恵に対して義頼が彼の身柄を保証していたからだった。
現在の中国地方は、今更言うまでもなく織田家の領地かその影響下にある。 その織田家の重臣となる義頼が保証している以上、文句など言える訳がない。 故に丸目長恵は、立ち寄った城などや山陽道沿いに点在する各地の名物や名勝などと言った物を旅日記と言う形で残していた。
なお、義頼の保証だが、実は九州においてもそれなりに有効であった。 何せ織田家の意向を受けた近衛前久の仲介により、短い期間であっても大友家と竜造寺家、そして島津家と言う特に力のある三家で休戦協定が結ばれている。 その事もあって、織田家の重臣が保証した丸目長恵に手を出そうと言う家など皆無であったのだ。
最も、軍勢でも送らない限り、丸目長恵の一行に手を出しても大抵は返り討ちとなるだろう。 少数の一行を討ち取るのに、軍勢を出すなどと言った非効率的な事をわざわざ行う家もないので、保証があろうがなかろうがあまり変わらなかったとは思われていた。
何はともあれ無事に人吉城に戻った丸目長恵は、首尾を報告する。 その際に相良義陽は、織田家重臣である義頼とも多少なりとも縁ができたと聞き、喜びを表していた。 例え重臣を介してとは言え織田家と縁ができた事を喜んだのであるが、実は喜んだ理由が他にもある。 それは義頼と相良家にも、縁があるからだった。
と言っても、別に相良家が近江源氏の流れなどと言う事はない。 相良氏は藤原氏の流れを汲む家なので、近江源氏である義頼とはそもそもからして流れが違う。 では、何故に縁があるのかと言うと、相良氏は井伊氏と関係があるのだ。
実は相良氏が、藤原氏の流れであるのは事前に述べた。 その藤原氏より別れた流れに、工藤氏がある。 その工藤氏の者の中に工藤維兼と言う人物がおり、その孫に当たる人物が遠江国相良荘に移り住み相良を称した事が始まりとされていた。
つまり元々は遠江国国人であり、しかも井伊家とは同じ藤原氏の流れを汲んでいる。 また一説には、相良氏と井伊氏は同じ工藤氏の流れであるとも言われている。 更に付け加えれば、南北朝の時代には同じ南朝方であった。
九州の相良家はいわゆる本家ではなく分家の流れであるし、先祖は兎も角、南北朝の頃に直接井伊家と関わりがあったという訳でもない。 しかし縁は縁であり、薄かろうが濃かろうが利用できるのならば利用するに越した事はないのだ。
その意味で、織田家重臣である義頼の義息と言っていい現井伊家当主の井伊頼直と縁があると言うのは、何かと都合がいいのである。 つまり、二重の意味で縁ができた事に相良義陽は喜びを表したのだ。 そんな主の思惑など知る由もない丸目長恵であり、内心で嬉しそうな相良義陽に首を傾げつつも報告を行う。 その際、後に正式な形で報告する旨を伝えたのであった。
その様に丸目長恵が主家に報告をしていた頃、義頼も備後国から撤収に入っていた。 この備後国は織田家直轄ではなく、ある従属大名の新たな領地として与えられている。 その大名が漸く現れたので、義頼もやっと撤収できる運びとなったのだ。
そしてその新たに赴任した大名が誰かと言うと、三好家である。 前述の通り、三好義継に与えられていた河内半国、並びに阿波三好家の領地であった讃岐国と阿波国は召し上げられている。 そして河内半国は織田家の地直轄地となり、阿波国は半国づつ明智光秀と羽柴秀吉に褒美として与えられていた。
そうなれば、当然三好家の領地はない。 そこで与えられたのが、備後国である。 領地としては目減りしているが、つい最近まで阿波三好家が昂然と織田家に反旗を翻していた事を考えればそれも致し方ない処置であった。
「左京大夫(三好義継)殿、お久しぶりですな」
「これは、左衛門督(六角義頼)殿。 壮健そうで何よりです。 それと毛利家との戦での働き、真あっぱれにございますな」
義頼と三好義継は、もともと知り合いである。 三好義継が織田家に降伏する際、まだ隠居する前の佐久間信盛と共に顔を合わせたのが最初であった。 その縁もあったし、何より義頼の家臣に釣竿斎宗渭と三好為三がいる。 その様な事から、何かと彼らは付き合いを続けていたのだった。
「ありがとうございます。 それはそれとして左京大夫殿、後はお願いしますぞ」
「無論、お任せ下され」
こうして後を三好家に任せた義頼は、軍勢を率いて戻る事となった。
因みに三好家の居城だが、現在杉原保に建築中の城が与えられる事になっている。 それに伴い、義頼の手から織田家に渡った建築の主導だが、今度は三好家へ引き継がれる事となっていた。
こうなると、流石に藤堂高虎や井伊頼直に建築を任せるという訳には行かない。 義頼は、縄張り図や進捗状況等を記した書類を全て三好義継へ引き渡している。 城の建築が中途半端になってしまったのは心苦しかったが、これはどうしようもなかった。
それはそれとして備後国を出た義頼は、備中松山城で三村元親ら備中衆と別れる。 彼は約束通り、備中国の国主となっている。 勿論、織田家の従属大名としてであった。 それから備前国で、浦上家当主の浦上秀宗率いる備前衆と別れる。 その後、毛利家より離れ織田家直臣となった吉川元春と彼の嫡子である吉川広元と会っていた。
何ゆえに吉川元春らがいたのかと言うと、毛利家から離れた彼らへ与えられた領地が備前国にあったからである。 因みに吉川元春と同様に織田家直臣となった小早川隆景が当主を務める小早川家は、山陰へ領地を与えられていた。
話を戻して、面会した吉川元春にすれば義頼は長男の仇となり、息子の吉川広元からすれば兄の仇となる。 しかし織田家直臣となった現在、織田家重臣であり次期家臣筆頭とすら見られている義頼へ不遜な態度を見せる訳には行かなかった。 何より、戦は既に終わっている。 吉川家の為にもそして毛利家の為にも、何時までも引き摺ると言う訳にもいかなかったのだ。
故に吉川親子は、対面上は普段通りの行動で出迎えている。 勿論、完全に普段通りという訳ではない。 そこかしこに違和感があったが、敢えてそこには触れず義頼は彼らとの面会を果たしていた。
その後、備前国を出た義頼は播磨国へと到着する。 彼らが入ったのは、嘗て小寺孝隆の居城であった姫路城である。 この城は、播磨国攻めの際に義頼へ拠点として譲られている。 その後、大改修が行われた結果、城の縄張りは大いに拡大されており、それに伴い増築もされていた。
そんな姫路城に、当初の面影はない。 拠点として、そして政治的側面も加味されて拡充された城は、質実さの中にも華美さがある存在として生まれ変わっている。 そんな姫路城を、義頼は播磨国における居城としたのだ。
こうしてようやく姫路城へ到着した義頼は、軍勢を解散する。 これにより長岡藤孝や一色義俊らも、領地への帰路に着く事となる。 だがその前に、姫路城で宴が催されていた。
その席で義頼は、協力した織田家従属大名である長岡家や一色家、他にも山名家と言った者達に挨拶を兼ねて酌をして回っている。 最も、これは何時もの事であり、義頼としても当たり前の様に振舞っていた。
やがて宴を終えると、長岡家や山名家と言った従属大名の軍勢は領地へと戻って行く事になる。 但し、各家の当主らは別であり、彼らは義頼と共に京を経由して安土へ向かって行った。
さて、長岡藤孝らがわざわざ安土へ向かう理由だが、それは彼らが備前衆などの様に途中から義頼の軍勢に合流した者達とは違い、織田家より中国地方攻めの命を直接受けた者達だからである。 それであるが故に、織田家に報告する義務という物があるのだ。 しかしながら、実質は義頼が報告する。 言ってしまえば彼らは、儀礼上同行しているに過ぎなかった。
何はともあれ、こうして播磨国で播磨衆と家臣の丹波衆と別れた義頼は、一旦京へと向かう。 やがて到着した京の郊外で軍勢を駐屯させると、馬廻衆や藍母衣衆を護衛として京の町へと入った。 兄の六角承禎の屋敷に入り、その日はそこで宿泊し旅塵を落とす。 そして翌日、兄と共に朝廷へと向かった。
一方的な命であったとは言え、義頼は勅使の副使となっている。 そこで、一応ながらも京へ到着した報告をしておく必要があった。 勅使の経緯等は六角承禎によって報告が成されているので今更ではあるが、此方もまた儀礼上必要な措置であった。
だが、別に帝と面会する必要がある訳ではない。 前述した様に、既に正式な報告などは成されている。 そこで報告は、関白である二条晴良ら摂家の者達が受けていた。
過去に幾度も昇殿している義頼であるから、取り分けて問題が起きる事もない。 滞りなく報告を終えると、彼は静かに辞去した。 その日は前日同様に六角承禎の六角屋敷にて一夜を明かし、翌日には郊外に駐留させた軍勢と合流する。 そこで出立前に、義頼は筒井順慶ら大和衆と別れた。
彼らは大和国へ戻った後、取り敢えず家財道具等を持ち播磨国へ移動する事になる。 これは彼らが完全に六角家家臣となった事と、大和国が織田家直轄領となった為であった。
因みに京から道中には、兄の六角承禎もいる。 これは別に織田家に用がある訳ではなく、義頼の息子に用があるのだ。 それと言うのも、去年生まれた子供と六角承禎は見知っていないと言う事実がある。 養子縁組が決まっている六角金剛丸と六角承禎が、全く会っていなかったのである。 そこで、丁度義頼の中国地方における戦も終わった事もあり、会う事にしたのだ。
その後、義頼達は、大分少なくなった味方の者達と共に京から安土へと出立する。 だが言うまでもなく織田家領内であり、あまり道程の心配をする必要もなかった。
なにより一行は、義頼を始め長岡藤孝や北畠具教や柳生宗厳らなどと言った一騎当千の強者が名を連ねている。 こんな一行をもし襲い亡き者にしようと思うなら、それこそ軍勢でも持って来る必要がある。 そんな割に合わない事を行おうとする馬鹿は、治安の安定もあって皆無であった。
それ故、彼らは問題なく安土へと到着する。 同行した従属大名は、安土城下にあるそれぞれの屋敷へとそのまま向かう。 そして義頼も、兄の六角承禎と共に安土城内にある六角屋敷へと向かう。 やがて屋敷に到着すると、お犬の方を筆頭とする奥方達や鶴松丸ら我が子の出迎えを受ける。 義頼と六角承禎は、嬉しそうな表情を浮かべつつ彼らの出迎えを甘受したのであった。
漸く、義頼も領地へ戻ってきます。
なお文中に、三好家への処遇が出ています。
ご一読いただき、ありがとうございました。




