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第二百四十二話~島津家久の動向~

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第二百四十二話~島津家久の動向~



 織田信忠おだのぶただの軍勢が、将軍を解任された足利義昭あしかがよしあきを伴い吉田郡山城から現在城の建築中である杉原保の周辺へ到着した。

 彼はそこで軍勢を駐屯させると、勅使の六角承禎ろっかくしょうていや足利義昭は勅使の宿泊所として提供された常興寺へと移動する。 既に将軍から解任されている足利義昭に関してはそこまで気を使う必要もないかもしれないが、それでも一応は将軍職にあった者である。 ましてや、彼が将軍に就任する際に後ろ盾となった織田家によってである。 色々と手を煩わさせられたのは事実だが、それなりに便宜べんぎは図ろうとした結果であった。

 そこで二日ほど宿泊した後、備後国へ残る事になる義頼らの見送りを受けて織田信忠と旗下の軍勢は京を目指して出発した。

 さて義頼が何ゆえに備後国へ残ったのか、それは前述した通り織田家の軍門に降して間もない中国地方の治安維持や織田家の治世を知らしめる為であった。 何より、毛利家との戦で織田家の版図に入れた領地を押さえているのは、義頼と彼の旗下にある軍勢である。 その状況で、義頼と彼が率いる軍勢をすぐに中国地方より引き剥がす訳には行かない。 ある程度の期間、留めておく必要があった。

 そんな理由から、義頼と彼の軍勢が中国地方より引き上げるのはもう少し先になったのである。 いずれ決まる事になる領地などを任せられる者がいれば、その限りではない。 だが、それは論功行賞が必要だった。

 だがそれよりも先に、足利義昭や彼の後継となる足利義昭の嫡子の件も片づける必要がある。 それが済んでから、漸く論功行賞が始まる事となる。 それを考えれば、なお更に義頼の軍勢を中国地方に張り付けておく必要があった。

 そのような事から備後国に残った義頼らに見送られた織田信忠は、山陽道を使い京へと向かう。 だが途中で、何か問題など起きるなどと言った事もない。 織田信忠の軍勢と、そして勅使の六角承禎は無事に京へと到着していた。

 京の郊外へ軍勢を駐屯させた織田信忠は、父親の京での屋敷となる二条御新造へ一旦向かう。 そして、六角承禎は足利義昭らと共に六角屋敷へと向かった。 彼らはそこで、旅塵りょじんを落とす事となった。

 なにせこれから、御所へと向かう。 その為、埃塗れという訳には行かないのだ。 そこで彼らは身嗜みを整える為、それぞれの屋敷へ一旦向かっっている。 そこで身を奇麗にしてから御所近くで彼らは合流すると、揃って御所へと入った。

 但し、足利義昭らは六角屋敷に留められている。 朝廷の沙汰が出るまでは、彼らは京の六角屋敷にて事実上監禁されたのだ。 唯一の例外は、結果として副使の暗殺未遂を行った大舘晴忠おおだちはるただである。 彼だけは、投獄されていた。

 話を戻して御所へと入った織田信忠と六角承禎は、役目を無事終えた旨を報告する。 その上で、彼らを交えて足利義昭や幕臣の処遇について話し合う事となった。

 当初、足利義昭らの身柄に関しては織田家が受け持つ事で進んでいた話である。 だが此度こたびの暗殺未遂によって事が大きくなった為、そのままという訳には行かなくなったのだ。 例えそれが、会議後に取り扱いでの変更がなかったとしても、だ。

 そこで足利義昭の責任問題だが、彼自身が唯一残った官位である右馬頭も辞職し、更には己の身を含めて全て朝廷に委ねると言う殊勝とも取れなくもない態度を示している。 そして、何と近衛前久このえさきひさから助命だけでもと望まれていた。

 足利義昭とは【永禄の変】に端を発する不和もあった近衛前久だが、そもそも彼は足利義昭といとこ同士の関係にある。 更に言えば足利義昭の兄に当たる足利義輝あしかがよしてるの正室は近衛前久の妹であり、義理の兄弟でもあるのだ。 流石にかばいだてまでは無理だが、せめて命だけでもとの思いから助命を願い出たのであった。

 太閤であり、五摂家筆頭を務める近衛家の当主でもあった近衛前久からの願いゆえ、その点は考慮され命だけは助ける事で纏まった。 だが、あくまで命を取らないだけである。 その沙汰のあと、足利義昭は元将軍の位にあった者が住むとは思えない小さな寺へ隠居と言う名の監禁がされる事となる。 せめてもの救いは、その寺が一応は新築だと言うぐらいであった。

 こうして足利義昭の処遇が決まると、次は彼に仕えていた幕臣達の処遇となる。 とは言う物の、彼らは暗殺未遂事件には全く関わっていない。 その上、足利義昭の助命も決まっている。 そこで彼らには、選択が与えられた。

 一つは、寺に押し込まれる足利義昭に付き従うという判断である。 彼とは違い押し込まれる訳ではないので、出入りは許される。 だが、以降は出世も仕官もほぼなくなる道であった。

 次に、織田家へ仕官すると言う判断である。 此方こちらは、元幕臣の面々もいるので比較的緩い道である。 手柄を立てれば、これからの立身出世もありえるのだ。

 何であれ彼らがどちらの道を選ぼうと、事実上の無罪放免であった。

 だが、例外もある。 それは結果として勅使の副使暗殺に手を染めた大舘晴忠である。 彼に関しては、他の元幕臣と同様にと言う訳にはいかない。 大館晴忠の意図がどうであったにせよ、勅使の副使へ暗殺を仕掛けた事実はなくならないからである。 それゆえに、彼に対しては手加減などなかった。

 先ず彼の家で分家となる大舘家に関しては、断絶となる。 しかも彼には、幼い息子がいた。 だが、偶々だが大舘晴忠の正室の実家に嫡子となるべき男子がいなかった事が幸いする。 幼い彼の息子は、母親の実家に引き取られる事でかろうじて難を逃れていた。

 しかし、幸運だったのはその息子ぐらいである。 彼を除く大舘一族についは、連座して罪を問われる事となった。

 とは言っても、大舘氏自体が既に没落している。 大館氏の嫡流は大舘輝光おおだててるみつだが、彼が足利義栄あしかがよしひでに仕えていたからか、足利義昭によって殆どの大舘一族が追放の憂き目にあっている。 その後は、戦国の波間に没落してしまい、一族の者の行方は杳として知れなかった。

 嫡流すらこの有様であり、大舘家の一族だと判明出来た者はそう多くはなかった。 しかし、判明出来る限りの一族で成人している男は全員が四条河原にて処刑されている。 そして女性と成人していない男子は、剃髪した上で寺へと送り込まれていた。 

 この決定を持って、大館晴忠による義頼暗殺未遂事件は解決を迎えたのであった。





 こうして一つの問題が京にて解決の日の目を見た頃、織田家とのえにしを求めて近衛前久に同道していた島津家久しまづいえひさは、瀬戸内を西に向け進んでいた。 それも、義頼の同行者としてである。 何ゆえにその様な事態になったのかと言うと、話はいささか遡る事となる。

 堺へ上陸したのちに近衛前久と別れた島津家久は、堺の代官である松井友閑まついゆうかんへ仲介の労を頼んでいた。 しかしながら、話はそう上手くはいかなかったのである。 それと言うのも、織田家では北條家との折衝が大詰めを迎えていたからだ。

 確かに、はるばる九州より上京してきた島津家久ではあるが、今まで殆ど繋がりがなかった島津家である。 織田家としては、そんな殆ど接触のなかった島津家より関東の雄である北條家との折衝の方が重要度が高かったのだ。

 何より北條家は、密かに北條氏政ほうじょううじまさが安土へ赴いている。 彼は家督を嫡氏の北條氏直ほうじょううじなおに譲った上で安土へと来訪したのだ。 しかも同行者として、弟の藤田氏邦ふじたうじくにを連れてきている。 因みに彼は僧体であり、藤田氏邦も家督も嫡子の東国丸へ譲った上である。 ただ彼の隠居と剃髪には、北條氏政から強制させられた物であった。 

 そこまでして藤田氏邦を連れてきたのは、織田家と北條家の関係が拗れてしまった責任を取らせる為である。 つまり北條氏政は、実の弟をある意味で生贄いけにえとする事で北條家の存続を図ろうとしたのだ。

 その上で北條氏政は、藤田氏邦の身柄を織田家へ預けたばかりか、北條家の存続が叶うならば北條家全ての土地を織田家へ譲り渡すとまでの条件をだしているくらいである。 関東に覇を唱え、関東の雄とも言える北條家の申し出である。 とてもではないが、急に現れた島津家などにかかずらわっている暇などはなかったのだ。

 ゆえに島津家久への対応は後回しにされ、彼は無為むいに安土で過ごす事になる。 しかも何時いつになれば面会が叶うか分からないので、此処ここは待つしかなかった。

 そんな中、今度は越後上杉家も降伏してしまう。 軍神とまで謡われた上杉謙信うえすぎけんしん率いる家の降伏であり、下手な対応はできない。 こう言った立て続けに起きた事象もあって、島津家久による織田信長への面会は遅れに遅れてしまったのだ。

 それでも、何とか彼は織田信長との面会へ漕ぎ付ける事には成功する。 漸く叶った面会であったが、しかしその場の空気はあまりいい物ではなかった。 と言うのも、面会が叶い島津家久が待っている部屋へと入ってきた織田信長の雰囲気がおかしいのである。 辛抱強く待ち続けようやっと叶った面会の場で、織田信長のいきなりの状態に島津家久の方がいぶかしげに眉をひそめている。 しかし織田信長は全く頓着せず、そのまま上座へ腰を下ろしていた。


「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。 拙者は、島津家当主島津義久しまずよしひさが弟、島津家久と申します」

「ふん。 島津の者か……我が織田信長よ。 して、用件は何だ」


 つっけんどんと言える織田信長の態度だが、勿論理由はある。 その理由だが、実は大友家と同じであった。

 前述した通り大友家が行っている奴隷貿易だが、島津家もその例に漏れず行っていたのである。 その実情は、大友家より少しはましと思えなくもない。 しかし、織田家を含めた他家から見れば五十歩百歩である。 だからこそ、織田家は九州各地の大名と折衝を殆ど行わなかったのだ。

 戦における乱取りを禁じたのは、他でもない織田信長自身である。 それでもまだ同じ日の本での乱取りであれば、手の打ちようもあった。 しかし国外にまで売られては、流石の織田家でも現状ではどうする事も出来ないのだ。 

 一方で島津家久だが、そんな織田信長の心情など分かる筈もない。 相も変わらずいぶかし気にしつつも、彼は用件を伝える。 とは言っても、今回に関しては顔繋ぎぐらいである。 今まで殆ど交流がなかった事もかんがみ、先ずは環境を整えると言うのが最優先事項であった。

 しかしその考えは、早々に頓挫とは言わないが暗礁に乗り上げる事になる。 その理由もまた、島津家が行っている奴隷貿易であった。


「確かに、そなたの家が味方ならば九州への兵の派遣も楽になろう。 但し、今のままでは話にならぬ」

「な、何ゆえでございますか!」

「我が織田家は、乱取りは禁止している。 その織田家が、貴様の家である島津が行っている奴隷貿易など看過できぬ! もし島津家が本当に織田家との繋ぎを望むなら、先ず日の本の民をつ国へ売るのを止めよ」

「……」

「それと今一つ。 西に関しては、息子に任せている。 今後は、信忠へ繋ぎを取れ。 以上だ」  


 そう言い放つと、有無をも言わさず織田信長は部屋を出て行く。 島津家久は呼び止め様としたが、織田信長から放たれる雰囲気に言葉を飲み込んでしまう。 結局のところ、島津家久は黙って見送るしかなかった。

 こうして不首尾に終わった会合だが、これで諦めた訳ではない。 彼はその後も安土に留まり、幾度か面会を願い出し続けたのであった。



 さて、京での用事、即ち足利義昭あしかがよしあきや幕臣、それから大舘晴忠おおだてはるただら大舘一族の問題に決着をつけた織田信忠だが、彼は安土へと戻ってくる。 そして、父親の織田信長へ結果の報告を行った。

 息子へ下駄を預けた以上、織田信長としては余程の事でもない限り口出しも手出しもする気もない。 そんな織田信忠の対応だが、彼からすればいささか甘いような気もしていた。


「ところで父上。 上杉と北條ですが、如何いかが相成りました?」

「北條だが、けりは付いた。 伊豆と相模は残してやると言う形でな。 上杉は、家督を景勝とやらに譲らせ隠居させる。 その上で上杉には適当な地に領地をあてがうつもりだ」

「なるほど」

「それはそうと、信忠。 論功行賞は行うのか?」

「無論です」


 実際織田信忠は、中国攻めの諸将と四国攻めの諸将を改めて召喚するつもりである。 父親への報告が終われば、早速にでも動くつもりであった。 しかし何ゆえに吉田郡山城で行わなかったのかと言うと、正式な形で論功行賞を行う為である。 元からそのつもりであった為、吉田郡山城にいた時には正式な形での発表を行わなかったのだ。


「そうか。 まぁ、西の事はお前に任せたのだ。 好きにするといい……っと、西で思い出した。 島津の者が来ているぞ」

「島津と言いますと、九州の島津ですか?」

「そうだ。 何でも太閤に同行してきたらしい」

「それで、父上が対応を行ったと」

「うむ。 お前もいなかったからな、取り敢えずは会った。 あとは任せる」

「承知しました。 それと一応確認致しますが、他の九州の者と対応は変えませんが宜しいですな」

「当然だ!」


 やや強めの返答に、対応に変わりがない事を認識していた。

 それから数日後、織田信忠は島津家久と面会する。 一度だけ織田信長との面会が果たせた時に、西での対応は織田信忠に任せているとの言葉があった事もあり、それほどに島津家久も驚いてはいない。 寧ろ、比較的早く面会が叶った事には内心で喜んでいたぐらいであった。

 その織田信忠だが、父親が面会した時ほど雰囲気がおかしいと言う事はない。 その事に安心しつつも島津家久は挨拶の後に、織田信長の時よりはいささか突っ込んだ関係を望んでいた。 それは、今回が二度目の面会と言う事が大きい。 前回は顔繋ぎぐらいであったので、もう少し踏み込んでもとの思いもあったのだ。  

 しかし、織田信忠の対応は織田信長と大して変わり映えはしない。 父親程に取り付く島もないと言った雰囲気ではないのだが、申し出が好ましくは思われていないと言うのは分かる。 そしてその理由も、織田信長と同じであると言うのも大凡おおよそながらも想像できた。

 つまるところ、現状ではどうする事も出来ないと言う事である。 例えば島津家の全権大使として安土まで来たと言うならば、それは別である。 しかし今の彼にそこまでの権限はない以上、迂闊うかつな事は言えないのだ。

 とは言え、顔繋ぎと言う意味では成功している。 しかも、織田信長と織田信忠の両名との面会を叶えたのだ。 しかし更にその先へは行けなかったと言う事であり、今のところは引き下がった方が禍根を残すことはないだろう。 そう考えた彼は、一先ず収める事とした。

 こうして織田家との面会も終えた島津家久は、もう一つの目的である伊勢神宮への参拝を行うと伊東家を降す祈願、及び九州の統一祈願を行った。

 因みに島津家と干戈を交えている伊東家だが、追い込まれていた。

 その事を示す様に、当主の伊東義祐いとうよしすけは家督を嫡孫の伊東義賢いとうよしかたへ譲っている。 恐らくは家中の一新を図り、気を変えて事態の打開を模索したと思われる。 とは言え、実権は隠居した筈の伊東義祐が握っているので、望んだほどの効果は生まれなかった。

 そんな伊東家の実情は兎も角、島津家久が出向いた伊勢神宮で戦勝の祈願を行って少しあとの安土には、中国・四国攻めに携わった将らが集まっていた。 それは勿論、織田信忠から召喚されたからであり、論功行賞を行う為である。 召喚した者達が揃うと織田信忠は、直ぐに論功行賞を行った。

 義頼に関しては、織田信忠より内々に伝えられていた事が発表されている。 大和国は召し上げられ、代わりに播磨国国主となる。 更には、実休光忠の刀が与えられた。 何ゆえにこの刀が義頼に与えられたのかと言うと、関わりがあるからだった。

 実はこの刀、実休の名がある通り三好実休みよしじっきゅうが所持していた刀である。 彼は【久米田の戦い】で討ち取られるが、その際に彼の刀は畠山高政はたけやまたかまさが手に入れている。 その後、織田信長が上洛した時に畠山高政はこの刀を献する。 以降は、織田信長所蔵の刀となっていた。

 さて、何処どこに義頼と関わりがあるのかと言う事になるが、それは三好実休が刀を手にする前の事である。 そもそもこの光忠作の刀は、義頼の家臣である三雲定持みくもさだもちが所有していたのだ。 彼より三好実休が入手した事で、持ち主が変わったのである。 つまり三雲定持から三好実休へ、そして畠山高政から織田信長へと渡り、最後に義頼へと渡った事になる。 何とも奇妙な巡り合わせだなと思いつつも、義頼は拝領していた。

 そして当然だが、他の者にも褒美は渡されている。 代表的な例を挙げると明智光秀あけちみつひでには讃岐国と阿波半国、羽柴秀吉には阿波半国と名物白天目茶碗などと言った感じであった。

 そんな論功行賞が行われている頃、伊勢神宮での祈願を終えた島津家久は何処どこにいたのかと言うと、安土にいたのである。 何ゆえに安土へ戻ってきていたのかと言うと、中国・四国攻めに参加していた将が集まるとの話を聞いたからであった。

 これから先の事は分からないが、もしかしたら争う相手となるかも知れない。 しかし、そうとはならないかもしれない。 そこで少しでも情報は手に入れておきたいと考えた島津家久は、直ぐに九州へは向かわず安土へ立ち寄ったのだ。

 そこで島津家久は、情報を集める。 最も、織田家に潜入して云々などと言う様な物騒な話ではない。 ただ、普通に集められる情報を集めていただけである。 すると、その過程においてこの安土に島津忠之しまずただゆきがいると言う情報が入る。 そこで島津家久は、九州へ帰る前に分家の当主へ挨拶だけでもしておくかと考え彼と繋ぎを取る。 間もなく了承の返事を受け、彼は指定された場所へと赴く。 そこは、観音寺城を改修する際に移築された観音正寺であった。

 そこで部屋に通されて待つ事暫し、島津忠之が現れると上座に腰を下ろした。


「お久方ぶりですな」

「確かに。 して、今日の用向きは何であろうか」

「いや。 この安土を離れる前に、一言挨拶をと思ったまで」

「そうでしたか」


 その後、当たり障りない話を始める彼らをじっと隠れて見つめる数名がいる。 そのうちの一人は、何と義頼だった。 何ゆえに彼がいるのかと言えば、此方こちらも切っ掛けは島津家久が島津忠之へ出した書状である。 義頼に仕える彼の元へ、織田家にとり仮想敵となる島津宗家からの使者で現島津家当主の弟になる島津家久から書状が来れば、主である義頼に知らせないと言った選択はなかった。

 何せ相手は、織田家でも問題となっている南蛮に対して日の本の民を売りつけているという家の者である。 大友家や島津家など九州の大名が、大なり小なり行っているこの奴隷貿易とも言える行為を織田家へ報告したのは義頼旗下の忍び衆であり、その意味でも、奴隷貿易の規模が大きい大友家と島津家を特に監視するのは当然であった。

 だがそれ以上に、義頼が懸念したのは島津家久が行った情報集めである。 この安土でしかも義頼がいるときに情報収集など行えば、警戒されるのは当然であった。 だが、紛いなりにも相手は島津家現当主の弟であり、半ば正式な島津家からの使者扱いである。 ゆえに、捕まえる様な強硬手段はあまり取りたくなかった。

 そこで暫く泳がせたのだが、どうやら間諜の類ではなく普通に現地に来たから情報を集めたと言った分類に当たる行動の様である事が判明する。 それならばどの大名家でも行っている事であり、目くじらを立てる程でもなかった。 そんな矢先、島津忠之から島津家久が面会を求めたと言う話が舞い込む。 そこで義頼は島津忠之に面会を了承させ、この観音正寺にてつぶさに監視していたのだ。


「……ふーむ。 どうやら、本当に裏はないように思えるな」

「はい。 拙者にもそう見えます」

「ふむ。 祐光もと言うのならば、そこまで問題視する事はないか。 ならば後は、早々に九州へ戻ってもらうとしよう」

「どうなさりますので?」

「どの道、船で一旦備後へ戻る。 彼を同行させ、そのまま九州へ送ってしまえばいい。 無論、俺らは備後で降りるがな」


 島津家久がどの様に帰るのかなど知らないが、監視がてらそのまま九州へ送ってしまおうと言うのだ。

 下手に織田領内をうろうろされるよりは良いだろうとの考えである。 それに奴隷貿易の件で織田家と島津家の繋がりは非常に薄いが、先に予定されている九州平定がある以上は薄くても繋がりがあっても悪い事はない。 その薄い繋がりを保つ為という側面も、この行動に対する意味がない訳ではなかった。


「なれば、その辺りは拙者が行います」

「そうか。 ならば任せる」

「お任せください」


 こうしてこの一件は沼田祐光ぬまたすけみつが預かる事となる。 この会談の後、彼は島津家久と接触し、首尾よく同行に成功させていた。

 なお、この話を島津家久が受け入れた理由は、織田家との会談があまり上手く行っていなかったせいである。 確かに顔繋ぎと言う点では成功したが、逆に言えばそれだけでしかない。 織田家が島津家に対してあまり印象を持っていないことが分かってしまったので、寧ろあまりよくないと言えた。

 そこに、織田家重臣となる義頼の腹心、沼田祐光からの話である。 後々の事を考えると、例え糸は細くても繋げておきたいと言う思いがある。 相手の思惑は読めないが、それでも受けておくことが悪いとは思えない。 こうしたそれぞれの思いもあって、島津家久が備後国へ戻る義頼の一行にいたと言う訳であった。

足利義昭の処分が決定です。

そして島津家久の活動です。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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