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第二百四十一話~尼子家再興と上杉の降伏~

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第二百四十一話~尼子家再興と上杉の降伏~



 足利義昭あしかがよしあきらと共に大寧寺を出た織田信忠おだのぶただが軍勢を率いて向かったのは、意外だが吉田郡山城となる。 言うまでもなくこの城は、毛利家の居城である。 何ゆえに吉田郡山城へ向かったのか言えば、一つは毛利家が織田家に降った事を広く分からせる為である。 そしてもう一つは、一応義頼の与力扱いである尼子衆への沙汰を行う為であった。

 西国に関しては息子に任せていたが、今回の事はいささか想定外だった面もある。 そこで織田信長おだのぶながは、いかなる事態に対応する為と言う意味合いも含めて、堀秀政ほりひでまさを同行させたと言うのが本音な部分であったのだ。

 すると毛利家降伏の打診があったりと、やはり予定外の事も起きている。 その件への対応や、毛利家との戦が終わった後の懸案けんあんだった尼子衆への対応。 更には明智光秀あけちみつひでが率いている四国勢との兼ね合いもあって、織田信忠は吉田郡山城へ向かったのだ。

 やがて到着した同城で、彼は毛利輝元もうりてるもとから、改めて降伏の口上を聞く。 その口上を聞いた織田信忠は、正式に毛利家に対する沙汰を与えた。

 それにより、吉川元春きっかわもとはるが当主を務める吉川家と小早川隆景が当主を務める小早川家は毛利家から離れ織田家に直接仕える事となる。 次に長門国を残して他の国は召し上げられたが、今回の騒動に全面的に協力した褒美として、周防国が与えられた。 流石に、毛利家の本貫地とも言える安芸国は、与えられなかったのである。 そして石見銀山だが、この鉱山の扱いは今まで毛利家が担っていた立場をそのまま織田家が受け継ぐと言う形となった。

 確かに、国力は格段に落ちている。 それでも与えられた両国を合わせれば、石高で三十万弱となる。 数年に渡り織田家に抵抗した家に対する沙汰としては、決して悪いとは言えなかった。

 因みに織田家直臣となった吉川元春の吉川家と小早川隆景の小早川家の領地だが、吉川家には山陰ではなく山陽の備前国内に小早川家には山陰の伯耆国へそれぞれ与えられている。 しかも、彼らが国主にはなっていなかった。 幾ら毛利両川として名を馳せた彼らとは言え、やはり降将である。 そこまでの優遇措置が、取られる事はなかった。

 こうして毛利家に対する沙汰を終えると、次は尼子衆の扱いとなる。 それならば山陰にいた時に行っておけばいいのにと思われるが、その前に一つ片づけておかねばならない事がある。 それは、尼子宗家の問題だった。

 確かに尼子衆は、元尼子家臣の者達が尼子勝久あまごかつひさの元に集まり尼子家再興を目指していた集団である。 しかしこの尼子勝久の一族だが、実は尼子家の中で言うと分家筋に当たる。 そして尼子家の現当主だが、実は毛利家によって事実上の監禁扱いであった。

 何ゆえに殺さなかったのかは定かではないが、もしかすると尼子家の復興を匂わす事で今は亡き毛利元就もうりもとなりが毛利家臣となった旧尼子家臣の反旗を押さえようとしたのかも知れない。 しかし毛利元就は既に亡く、彼も生前に理由は語らなかったのでその真相は闇の中であった。

 それは兎も角、今は尼子衆の問題である。 尼子勝久が復活する新たな尼子家の当主となる為に手っ取り早いのが、尼子家現当主の尼子義久あまごよしひさの養子となってしまうのが一番分かり易い。 それに、尼子義久には子供がいない。 尼子家存続の為にも、養子縁組は有効な手ではあるのだ。

 その尼子義久だが、彼は監禁されてる円明寺より毛利家より派遣された者達と共に吉田郡山城へと赴いている。 彼に同行したのは、同じく監禁されている尼子義久の弟となる尼子倫久あまごともひさ尼子秀久あまごひでひさ。 そして、大西高由だいさいたかよしなど毛利家に降伏した尼子義久とその弟らに付き従った家臣などであった。

 吉田郡山城へ到着した尼子義久の一行は、先ず部屋へと通される。 だが、尼子義久ら兄弟はそこから更に別の部屋へと通されている。 その部屋で静かに待っていると、やがて部屋に幾人もが入ってきた。

 先ず入ってきたのは、毛利輝元ら毛利家の面々となる。 彼らは上座ではなく、尼子家の者達と同じ高さの床に列をなして腰を下ろす。 毛利家の居城であるこの城で、その城主が上座に腰を下ろさない事に彼らは眉を寄せる。 しかしその答えは、直ぐに判明する事となった。

 毛利家の面々が腰を下ろして間もなく、続いて部屋に入ってきた者達がいる。 それは言わず者がな、織田家の面々であった。 先ず、織田信忠が上座の中央に腰を下ろす。 続いて、義頼と堀秀政が一段下がったところで、最も織田信忠に近いところに腰を下ろす。 あとは、織田家中における序列に従い順繰りに腰を下ろして行く。 その中には尼子勝久や山中幸盛やまなかゆきもり、そして立原久綱たちはらひさつなと言った尼子衆の面々も含まれていた。

 しかし、尼子義久ら兄弟に尼子勝久の顔は分からない。 何せ尼子勝久は、生まれた翌年には尼子家内で起きた新宮党と言う尼子家中における精鋭部隊に対する粛清事件が原因で尼子家より離れたからである。 彼は以降京にあり、その後に出家していたのだ。

 因みに新宮党に対する粛清事件が起きた理由だが、元を質せば新宮党の方に責任があると言っていいだろう。 彼らが尼子家家中における精鋭部隊であるのは、当時間違いなかった。 だがその事を鼻にかけ、新宮党を率いていた尼子国久あまごくにひさや彼の嫡子となる尼子誠久あまごさねひさとその弟などは、尼子一族と言う事もあり家中における振る舞いが非常によろしくなかった。

 その為、後に粛清を行う事になる当時の尼子家当主であった尼子晴久あまごはるひさや他の尼子家臣との間に、不満と確執が生じている。 その不穏さは相当な物であり、下手をすれば尼子家が二つに分かれるかも知れなかった。

 ゆえに尼子晴久は、粛清するべきかそれとも彼らの行いに目を瞑り新宮党と言う精鋭部隊を使い続けるか大いに悩んでいる。 何せ実際に粛清を行えば、間違いなく尼子家の力がそがれるからである。 その様に尼子晴久が悩み続けていた時、その新宮党より問題が訴えられた。

 その訴えを行ったのは、新宮党を率いている尼子国久の孫に当たる尼子氏久である。 彼が尼子晴久に持ち込んだ問題とは、家督と新宮党の継承に関する物であった。

 何と尼子国久は、家督を嫡子の尼子誠久ではなく三男の尼子敬久あまごたかひさに譲ろうとしたのである。 そうなれば尼子誠久の嫡子となる尼子氏久は、当然だが家督も新宮党も継ぐ事ができなくなる。 そこで彼は、他人事ではないので父親に対して話を持って行ったが、何故なぜか態度が煮え切らない。 これでは当てにならないと考えた尼子氏久は、尼子家当主となる尼子晴久に尼子国久の不当を訴えたのだ。

 尼子家中に対する確執どころか新宮党内でも確執を生む彼らに対し、尼子晴久はこれ以上捨て置く訳にはいかぬと尼子氏久の訴えを大義名分として、粛清を断行する。 これにより新宮党は、壊滅の憂き目となったのであった。

 さてこの新宮党に対する粛清事件と尼子勝久が何処どこで繋がるのかと言うと、尼子勝久はこの粛清事件で討たれた尼子誠久の子供となるからだ。 尼子誠久には六人の男児がいたが、長男となる尼子氏久あまごうじひさと五男になる尼子勝久。 それから末子となる尼子通久あまごみちひさを除き、尼子国久や尼子誠久と共に討たれたのだ。

 なお長男が助かった理由だが、それは彼が前述した様に尼子晴久に新宮党を討つ切っ掛けを与えたからである。 そして尼子勝久と尼子通久が生き残った理由だが、こちらは寸でのところで家臣に助けられた事と何より幼かった為である。 流石に尼子晴久も、数えで二才と一才の子の命までは獲りたくはなかったのだ。 実際、彼は尼子勝久が京に居る事も知っていたし、彼が出家する際に彼が保証人となっていたぐらいであった。

 直接的ではないが、この両名にはその様な経緯を持っている。 だが、数えで二才の子供の顔など尼子義久が分かる筈もなかった。 しかし、山中幸盛と立原久綱の顔は見知っている。 その事から尼子義久は、見知った顔ではない人物が尼子勝久ではないかと当たりを付けていた。


「さて、そなたが右衛門督(尼子義久)殿か。 われが、織田信忠だ」

「こ、これは失礼致した。 拙者が尼子家当主、尼子義久と申す。 此方こちらに控えるは、弟の倫久と秀久です」


 慌てて頭を下げてから、尼子義久は自身と二人の弟を紹介する。 本来であれば尼子義久が頭を下げる必要はないかもしれないが、彼は毛利家に事実上監禁されている武将でしかない。 一方で、相手は日の本最大勢力の当主である。 この様な対応となるのも、致し方ないと言えた。

 そして兄から紹介された二人の弟だが、彼らも織田信忠に対して頭を下げている。 此方は兄の対応に、追随ついずいしたからだった。 そんな彼らを見やった後、織田信忠は義頼へ視線を向ける。 その視線に答える様に彼は一つ頷いてから、尼子義久に対して声を掛けていた。


「右衛門督殿。 某は、六角義頼ろっかくよしよりと申す」

「き、貴公が左衛門督(六角義頼)殿か」

「いかにも。 して右衛門督殿、我より願いがある。 貴公と尼子勝久との間で、養子縁組をしてもらえぬか?」


 まさかの申し出に、尼子義久と尼子倫久と尼子秀久の兄弟は驚きを露にした。

 尼子衆が、織田家を後ろ盾として尼子家の再考を目指している事は当然知っている。 そして、彼らが近江源氏の頭領たる六角義頼の下で尼子家再興に向けて活動している事もだ。 幾ら監禁されているとは言え、少なくても情報は入ってくる。 ましてや毛利家中には、少なくはない元尼子家家臣が存在する。 彼らを通しても、情報が幾許いくばくかでも入ってくるからだ。

 その少ない情報でも、毛利家と織田家との戦で毛利家が劣勢だと言う事は把握している。 しかし、とらわれ人である彼らに打てる手などある筈もなかった。 だからと言って、彼らが目や耳を閉じていた訳ではない。 彼らは彼らなりに、様々な状況を想定してどう行動すればいいかを模索していた。

 その中には、今回と同じ様な状況もあったのである。 前述した様に、尼子義久にはまだ実子がいない。 だからこそ、養子縁組と言う事態は想定できたのだ。

 しかし、その想定では養子縁組は強制されると考慮されていたのである。 それは、し養子縁組の話があるとすれば、恐らく毛利家は降伏するか降伏ではなくても相当に追い込まれた状況ぐらいしか考えられなかったからだ。 しかし実際には、願いと言う形である。 これで、困惑こんわくしない訳がなかった。


「……拙者と勝久の養子縁組、ですか?」

「うむ。 どうであろう」

「それは、強制ですか?」

「先も言った通り、願いである。 して右衛門督殿、如何いかがかな?」


 視線を逸らす事もなく、ただじっと目を見て提案をしてくる義頼をやはり尼子義久はじっと見返す。 複数の人がいる部屋としては異様と言っていいぐらいの沈黙が流れた後、尼子義久は息を吐く。 それは、溜息と言ってもよかった。


「……分かりました。 近江源氏の頭領より頼まれては、致し方ありません。 そこの尼子勝久を、我が養子と致しましょう」

「おお! この義頼、貴公の決断に感謝する」


 尼子義久が受け入れたと言うか折れた事で、尼子家の家督に関する問題も解決を見せる。 こうして尼子勝久は尼子義久の養子となり、この後に尼子家の家督を譲られ、正式に尼子家当主となる事が決まる。 同時に、領地もかねてから約束通り出雲国が与えられる事となった。

 此処ここに毛利家と尼子家に対する処遇を終えた織田信忠だが、実はもう一つ解決しなければならに問題がある。 その問題とは、山陽における事実上最後の戦となった、千光寺山城攻めに関する事案であった。

 実際には、小早川隆景の策に嵌められた暴走した国人達が始めた戦なので、千光寺山城攻めとは言い難いかもしれない。 だが城攻めを義頼の陣営の者が行おうとしたのは事実であるし、兵を動かしたのも義頼側が先であるので間違いだとまでは言えなかった。

 戦が始まった経緯はひとまず置いておくとして、問題はこの国人達の暴走である。 事前に義頼から迂闊うかつに動くなと釘を刺されていたにもかかわらず、迂闊に動き結果としていらぬ損害を被ってしまっている。 これは、間違いなく放置していい問題ではなかった。

 そこで織田信忠は、自身が裁定する事で釘を刺しておこうと考えていたのである。 彼は先の戦で暴走したが生き残っている国人達を、広間に集めた。 織田家当主である織田信忠直々の召し出しであり、当事者の国人らは戦々恐々となっている。 そんな彼らを前にした織田信忠は、暫し睥睨へいげいした後で口を開くのだった。 


「先の戦で、そなたらが起こした事案については聞き及んでいる」


 静かにそして淡々と言葉を紡いだ織田信忠の様子に、呼び出された者達は恐れを抱く。 なまじ感情が込められていない言葉であった事が、彼らに対する脅しの様になってしまっていた。

 但し、織田信忠にその様な気持ちはない。 唯々彼は、事実を述べただけだったからだ。


「そこで、俺の判断を申し渡す。 そなたらの領地は没収、お家断絶!」


 織田信忠の言葉に、絶望感が漂った。

 何せ千光寺山城攻めによる手柄を立てるどころか、その動き自体が敵によって嵌められたのである。 それを思えば、この裁定も予測はできた。 だからこそ、自身は仕方ないとも思える。 しかし、結果として家族も巻き込んでしまった事実を改めて突き付けられた為、彼らは落ち込んでしまったのだった。

 だが、織田信忠の言葉はそれでは終わらなかったのである。 


「しかしながら、義頼からそなた達に寛大な処置をとの嘆願もある。 何より、足利殿の一件でそなた達から挽回の機会も失われた。 そこでその点を考慮し、お家断絶だけは免除する」

『おおっ』

「では、改めて申し渡す。 領地は没収、しかし家名は残す。 それと、そなたらは直ぐに家督を譲り隠居せよ。 但し、後継がいないか若しくは若すぎる場合に限り、後継の目途が立つまでそなたらが当主である事は認める。 以上だ」

『ははっ』

「義頼、そなたは俺と共にこい」


 そう言って織田信忠が立ち上がると、一斉に彼らは平伏する。 そんな中、立ち上がった織田信忠が広間から出て行く。 すると、後を追う様に義頼と堀秀政が出て行く。 そして広間には、領地は失ったが家だけでも残った事実に喜びを噛み締めている国人達が残ったのであった。

 一方で広間を退出した三人は、織田信忠の部屋へと入る。 そこで腰を下ろすと、部屋の主が口を開いた。


「義頼、あれでいいのだな」

「はい。 ありがとうございます、殿」

「そうか。 では、そなたにあの者どもは与えるゆえ、家臣にせよ。 その代わりと言っては何だが、播磨を与える。 播磨の国人も、家臣とせよ。 だが、大和は召し上げる。 それから筒井もそなたに与えるゆえ、連れて行け」

「……はっ」


 これは、褒美と言えば褒美だ。 領地と言う意味で言えば、間違いなく増えたのだから。 義頼は確かに大和国主であるが、領地と言う意味では大和国内に一郡しかない。 しかし播磨国が与えられた上で播磨国人が揃って六角家臣になると言う事は、即ち播磨国そのものが六角家の領地となると言う事だからだ。

 しかし、義頼からすると少し微妙ではある。 確かに領地が増えたが、代わりにある意味で問題を起こした者達を押し付けられた形だからだ。 更に言えば、ついでとばかりに大和国の国人である筒井家と彼の家に与している者らをも義頼に与えている。 これにより、大和国より既存の国人らを体よく追い払ったと言える。 つまり大和国は、名実ともに織田家が自由にできる国となったのであった。 

 此処ここに畿内は、ほぼ織田家の領地となったと言える。 既に三好家と畠山家で半国づつ賜っていた河内国の召し上げは決まっているので、畿内で織田家直轄となっていないのは荒木村重あらきむらしげのいる摂津国だけである。 そして彼を、適当な理由を付けて移動させれば畿内は完全に織田家が掌握する事となるのだ。 


「さて、と。 明日には、四国とその方が山陰へ派遣した別動隊の将が到着する。 あの者らから報告を受ければ、これで俺の役目もほぼ終わる。 後は、義昭らを、京まで連れて行くだけだ」

「そして、朝廷の差配……ですか」

「そうなるだろう。 本人が意図した訳ではない様だが、朝廷へ泥を塗った様な物だからな」

「そして内容的にも、織田家へ全て任せるという訳にもいきませんか」

「そうだ。 全く、面倒な事だ。 ただ、幕臣が失態をした事で足利義昭らの扱いも含めて対応が色々と楽になったのが救いと言えるか……言えるのか?」


 確かに、この一件により足利義昭の将軍解任がされても何ら問題とはならないだろう。 朝敵寸前までとなった彼に対し、責任を取らせると言うのは至極当然と言えるからだ。 また、この一件が起因となり毛利家との戦が一気に解決したとも言える。 しかし、そのお蔭で問題がとても大きくなったのも事実であった。


「気持ちは分からなくもありませんが殿、此処ここは言えるとしておいた方が良いと某は思います」

「そうだな。 そうしておくか」


 此処で話も終わりと言うか終わらせた彼らは、暫く雑談する。 その後、部屋を辞した義頼は己にあてがわれた部屋へと向かう。 しかし部屋の前には、幾人かがいた。 そこにいたのは、備後国の国人である。 その彼らが何ゆえ義頼の部屋の前にいたのかと言えば、ただ単純に礼が言いたかったからだ。

  本来ならば全員が礼を言いたいところだが、流石にそれは迷惑となってしまう。 そこで、数人が代表する形で礼を言いに来たという訳であった。


「左衛門督様。 お蔭をもちまして、お家断絶より免れました。 この恩義は、必ずお返し致します」

『致します』

「気にせずともよい。 どの道、そなたらの今後は俺に委ねられた」

『真ですかっ!』

「ああ。 故に次はない、そう思え」

『御意』


 彼らの返事を聞いた義頼の表情は、厳しい物であったと言う。

 何はともあれ、備後国の対応についても結論が出た翌日には、明智光秀あけちみつひで羽柴秀吉はしばひでよし長宗我部元親ちょうそがべもとちか三好義継みよしよしつぐらと言った四国攻めに参加した将や、京極高吉を筆頭とした山陰へ派遣された別動隊を率いた主だった将達が吉田郡山城へと到着した。

 その日は、織田信忠へ到着の挨拶だけとなる。 とは言っても彼らには、義頼や尼子衆の様な特別な事情がある訳ではない。 それゆえ、彼らには極当たり前の対応がなされたのであった。

 なお、義頼が進めていた杉原保での築城だが、此方こちらは引き続き行われる事となる。 但し、六角家が取り扱うのではなく、建築の継続は織田家が命じてと言う形に収まっていた。

 何はともあれ全ての対応を終えると、中国攻めと四国攻めの終了とそして何より織田家の勝利を祝しての宴会が行われる事となる。 嘗ての敵であった毛利家の居城である吉田郡山城にて敢えて行われた事で、毛利家の織田家臣従がより知れ渡ったと言えた。

 この宴を終えると、足利義昭らを事実上連行する形で織田信忠の軍勢が畿内へ戻る事となる。 しかし義頼達は、もう少し残る事となった。 それは、新たに織田家の版図に加えた中国地方の治安維持という理由が一つ。 そしてもう一つ、織田家の彼の地に治世を根付かせる為であった。



 いよいよ、織田信忠が明日には岐阜城へと戻ると言う日の夕方、ある報告が義頼へされる。 その報告を聞いた彼は、その後、自ら織田信忠の元を尋ねた。 堀秀政に繋ぎを取り通し事もあり、それほど待たされる事もなく面会を果たす。 そこで織田信忠へ、義頼は先程受けた報せを告げた。


「ほう。 上杉が降伏したか」

「はっ。 少し前に、報せがありました」

「そうか。 しかし……あの状態でひと月以上も、よく持ったものよ」


 雪解けのあと、西で義頼ら戦が始まった頃とほぼ同じくして、東でも戦は起きていたのである。 相手は、越後上杉家であった。 先ず、最初に動いたのは、丹羽長秀にわながひでであり彼は怪我を負わされた雪辱を胸に、上杉家領内へ侵攻を開始したのだ。

 しかし、上杉謙信うえすぎけんしんが自ら兵を率いて丹羽勢の迎撃に動く。 此処で両者の戦が再燃するかと思われたが、結果から言えばそうはならなかった。 その理由は、他方面からも侵攻を受けたからである。 それは、信濃国からであった。 上杉謙信が出陣してから暫く後、出家し頼山勝らいさんしょうを名乗る武田信勝たけだのぶかつ率いる元甲斐武田家の面々を先鋒とした軍勢が、柴田勝家しばたかついえ指揮の元で侵攻を開始したのである。 彼らは、上杉家の城となっている飯山城を攻めるべく先ず長沼城へと入った。

 柴田勝家はこの城を後陣とすると、飯沼城を目指して千曲川沿いを進軍する。 途中にある上杉方の城砦を時には降伏させ、あるいは攻め滅ぼしつつ飯沼城へと迫った。 嘗ては幾度となく甲斐武田家の越後国侵攻を阻んだ堅城の飯山城であったが、春日山城を目指して進撃してくる柴田勢を受け止めきれず、ついには落城してしまう。 この際、城主の桃井義孝もものいよしたかは、城と運命を共にした。

 この報せを聞いた上杉謙信は、山本寺定長さんぽんじさだなが山本寺景長さんぽんじかげなが親子に丹羽勢を当たらせると、急遽飯山城救援に赴いたのである。 しかし、その救援はままならなかった。

 何と救援に向かう途中で、揚北衆あがきたしゅうが反旗をひるがえしたとの報告を受けたからである。 しかも揚北衆は蘆名家より支援を受けており、容易には鎮圧できそうもない。 その上、織田家の水軍も動いており、彼らは越後沖合に展開していると言う。 これにより上杉勢は、動くに動けなくなってしまったのだ。

 選択肢を絞られた上杉謙信は、春日山城に籠城すると言う選択を行う。 その春日山城だが、難攻不落の城とされた屈指の堅城である。 そう容易に、落ちるとはおもわなかったからである。 とは言う物の、そこまでが越後上杉家の限界であった。

 既に四方は織田方の兵で包囲されており、どこにも逃げ出す事は出来ない。 現状はただ、籠城しているだけである。 そこで現状打破の一縷いちるの思いを掛けて、越後上杉家は北條家へ援軍の要請を行った。

 これは、織田家との争いの最中で命を失った北條家からの養子である上杉景虎うえすぎかげとらの伝手を頼った物である。 命を託された上杉家の忍びである軒猿は織田勢の包囲網を突破し、北條家へ密書を届ける事に成功する。 しかし、北條家からの返答は否であった。

 と言うのも、北條家は北條家で動けない理由があるのだ。 一つは、家臣に対する配慮である。 何せ上杉謙信は、関東管領の名分を振りかざし、幾度か関東に進撃して北條家を攻めたてている。 しかもその際、上杉謙信はその侵攻の度に関東の人間を乱取りして越後国へと連れて行っていた。

 幾ら戦国の習いとは言え、北條家家臣としては面白い筈がない。 ましてや、その越後上杉家が滅亡寸前とあってはいい気味と思う者の方が多かったのであった。

 そしてもう一つの理由だが、それは実質的に動けないという物である。 もし此処ここで大規模な軍事行動を起こして越後へ兵力を進めると、北條家と対立している勢力が間違いなく蠢動しゅんどうする。 安房里見家や常陸佐竹家は無論の事、今川家も動きかねなかった。

 更に言えば、織田家と北條家の休戦が有効であり、織田家の軍勢とはまだ戦えないと言う実質的な問題もある。 それならば何ゆえに今川家が動けるのかと言うと、それは今の今川家が織田家の後ろ盾を得て再興を果たした家であるからと言う理由からである。 少なくとも今川家の扱いは、織田家に従属する大名となる。 それが殆ど織田家の傀儡かいらいであったとしても、対外的には別家なのだ。

 それらの理由から、北條家が上杉家の為に動く事はなかったのである。 こんな孤立無縁と化したこの状況が、織田信忠がまだ近江国にいた頃の越後上杉家の戦況である。 それを考えれば、確かに越後上杉家はよく持たせたと言えた。


「それで、上杉の扱いは決まったのか?」

「いえ。 そこまではまだ」

「そうか。 ならば、戻った頃には決まっているだろう」

「恐らくは」


 義頼の返答に、織田信忠は頷いたのであった。

毛利家尼子家の取り扱いも決まり、中国地方の戦はこれにて終了です。

とは言え、もう少し備後国に滞在しますが。

ついでに、越後上杉家が織田家に降伏しました。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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