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第二百三十五話~暗殺未遂事件~

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第二百三十五話~暗殺未遂事件~



 大場山城の近くにて追撃してきた毛利勢を押し留めた義頼であったが、取り敢えずはそこまでである。 此処ここから逆侵攻などできる筈もないし、何より態勢の立て直しを図らねばならない。 幸いにして、毛利勢が是が非でも攻め掛かるなどと言う判断をしなかった事もあって、大場山城を最前線とする事に成功していた。

 毛利勢が強行にまで攻めなかった理由だが、言うまでもなく四国勢にある。 当初の予定では、義頼の軍勢に大きな一撃を与えて動きを鈍らせる。 その隙に明智光秀あけちみつひで羽柴秀吉はしばひでよしが率いている四国勢が安芸国へ伸ばしている手を断ち切るという物であった。

 この考えによった場合、四国攻めの兵力も考慮しなければならない。 そうなると、味方に下手な損傷を負わせるわけにはいかないのである。 兵が傷つけば、その分だけ兵力を減らさなくてはならなくなる。 そうなればなるほど、毛利勢の負担は大きくなるのだ。

 その様な事を少しでも避ける為にも、深追いはできない。 それなりの損傷を与えていた事もあって、これで良しとせざるを得なかったと言う事実も少なからず存在している。 ゆえに義頼も、毛利勢の迎撃と言うか押し留めに成功していたのであった。

 そして実はもう一つ、隠れた理由が存在している。 その隠れた理由は、義頼が撤退宣言を出した頃合いにあった。 これは毛利勢のと言うか小早川隆景こばやかわたかかげが当初想定したよりも、義頼が撤退を判断したのが遥かに早かったのである。 その結果、義頼自身が敵陣深くにまで入るに至った事もなく、そして織田勢が逃走に移る時期も早まってしまっていたのだ。

 確かにそれ相応な被害を織田勢に与えてはいるのだが、逆に言うとそれ相応でしかない。 小早川隆景が当初想定した以上の被害をもたらした訳ではないので、やはり追撃は難しいと言う事態が発生していたのだった。


「……もう少しであったのに、残念だ」

「真に」

「だが、これで暫くは時が稼げる。 そうだな」

「はい。 この隙に、四国勢を黙らせましょう」

「うむ」


 小早川隆景にそう答えた毛利輝元もうりてるもとは、備前国の戦線を引き続き敷名元範しきなもとのりに任せ、安芸国へ取って返したのである。 そしてその敷名元範は、千光寺山城から出ると新たな前線の城となった兵庫城へと移動したのだった。

 そして前線を下げて大場山城近辺で再構築した義頼はと言うと、彼自身は的場山城まで退いている。 しかし軍勢を再編成すると、直ぐに本陣を移している。 新たに本陣としたのは、神村城であった。

 この城は、野気沼氏が築いたとされる城である。 野気沼氏はこの地で三代に渡り治めていたが、やがて大内氏の家臣となると周防国へ移動している。 その後、神村城主を任されていたのが、古志家家臣の石井清信いしいきよのぶであった。 彼は元々、足利義昭あしかがよしあきの臣であったのだが、彼が鞆に腰を据えると毛利家との連絡役としてなのかそれとも経済的な理由なのかは定かではないが古志家の家臣として預けられている。 その際に足利義昭に対する配慮から、任されたのが神村城であった。

 なお他にも柳沢元政やなぎさわもとまさ一色昭孝いっしきあきたかなどと言った足利義昭に従ってきた者達にも同様の措置が取られており、必ずしもこの事が特例という訳ではなかった。

 因みに石井清信だが、彼は足利義昭が大寧寺へ移動した際に付いて行く事はしていない。 と言うのも、彼に対して全く声が掛からなかったからだ。 早々に足利義昭が長門国の大寧寺へと移動してしまったので、取り残されてしまっている。 そこで石井清信は、弟と共に古志家へ改めて士官した。

 当時の古志家の当主であった父親の古志重信こししげのぶも、そして現古志氏当主である古志豊長こしとよながも義頼へ降伏すると言う判断をまだしていなかった事もあり、足利義昭に対する配慮もあって彼の家臣入りを認めている。 だが、それが仇と言う形になった訳であった。

 しかし二人の身柄については、古志豊長が石井兄弟を伴った上で事情を聴いた結果、問題ないと義頼が判断したので問題はないとされている。 そもそも織田家にも元幕臣など居るのであるし、その者達に対していちいち目くじらなど立てる事などない。 しかし、知恵袋の一人である沼田祐光からすれば無視はできない。 何せ事は、主の命に係わるかもしれないからだ。

 とは言う物の、身の安全の為だと言って古志重信や古志豊長、それから石井兄弟の命でも奪おうものなら、義頼から不興を買いかねない。 であるならば、深く釘を刺しておくしかない。 そう考えた沼田祐光は、大場山城へと戻ろうとしていた古志豊長と石井兄弟を密かに呼び出していた。


「そなたらは、嘗ては公方(足利義昭)様の臣であったそうだが、思うところはないのか?」

「上野之助(沼田祐光)様、全くないと言えばそれは嘘になりましょう。 しかし、拙者の今の主は清左衛門(古志豊長)様にございます」

「然り」


 淡々と答える石井兄弟を、沼田祐光はじっと見つめ続ける。 その視線を受け止めつつ、二人はまっすぐに返していた。 その傍らにたたずむ古志豊長も、じっと行く末を見守っている。 彼らのいる部屋の空気は非常に重たい物であり、それを証明するかの様に沈黙が流れている。 だが、やがて小さく首を振った後で沼田祐光は口を開いた。


「……いいだろう。 そなたらのげん、信じるとしよう。 だが、心しておけ。 万が一にも下野守(細川通薫ほそかわみちただ)の様な振る舞いをすれば、ただでは済まさぬぞ」

『肝に命じまして』

「清左衛門(古志豊長)殿も宜しいな」

「はっ」


 その後、彼らは沼田祐光の前から辞した。

 無論、沼田祐光とてその言葉を頭から信じた訳ではない。 事実、彼らに対して監視の網を掛けている。 それは厳重な物ではなかったが、それでも警戒だけは怠らなかったのだ。

 すると、それが功を奏する形となる。 義頼が神村城へ移動すると、石井清信へ書状が届いたのだ。 差出人は、足利義昭の近臣となる大館晴忠おおだちはるただである。 その内容とは、義頼や長岡藤孝ながおかふじたかなど、先の書状に断りの手紙を出した者達のうちで山陽にいる者達に対する暗殺である。 彼は石井兄弟を古志家家臣としたことを覚えていたので、彼らを刺客にしようと考え使者を派遣したのだ。

 しかし、白羽の矢を立てられた石井兄弟からすれば今更である。 大寧寺に移動する際にただの一言もなかった事すらも忘れ、急にまるで今でも足利家家臣であるかの様に指示してくる大館晴忠に寧ろ腹立たちすら覚えていたのである。 ましてや、この内容からすれば石井兄弟が捨て駒である事は間違いなかった。

 それでなくても石井兄弟は、沼田祐光より釘を刺されて間もないのである。 この状況下でしかも捨て駒にされると分かった状態で、指示に従う気など毛頭なかった。 そこで彼ら兄弟は、使者となった者を迎えると見せかけて捕らえてしまう。 その後、石井兄弟は、その日のうちに書状と共に古志豊長の元を訪れると書状と使者を引き渡してしまう。 これには古志豊長も驚き、すぐさま義頼の元へ自ら捕らえた使者や書状、さらには石井兄弟も連れて向かったのであった。

 一方で沼田祐光も、足利義昭からの使者について報告を受ける事となる。 先にも述べた監視の網に、大館晴忠の派遣した使者が掛かったからである。 監視をしていた忍びは、石井兄弟の対応までを見届けると、引き続いての監視を残して報告に神村城まで取って返したのである。 忍びから報告を受けた沼田祐光は、即座に義頼へと報告する事にした。

 その頃、義頼は織田信長と織田信忠宛に書状を認めていた。 その内容は、此度の戦の結果と詫びである。 どの道、軍監よって報告はされるのだ。 その前に、義頼直筆による報告を行おうと考えたのだ。


「丁度良かった。 そなたに聞きたいことがあってな」

「それは、後で聞くと致します。 それよりも殿、いささか問題が起きました」


 そう前置きしてから、沼田祐光は此度の件ついて報告をする。 幸いと言っていいかは分からないが、その報告には石井兄弟が使者を捕らえたところまで記されている。 ゆえに、石井兄弟が返り忠を行っているのではとまでは言われなかった。

 その報告を受けた義頼は、一先ず相談は棚上げして古志家の反応を見る事にする。 しかし、沼田祐光が意見を申し出る。 彼は、もし面会をするならば藍母衣衆が同席の元で行うべきだと言うのだ。 そこまでしなくてもと考えていたのだが、彼の意見は己をおもんばかっての事であるのも理解できる。 結局、義頼が受け入れた事で藍母衣衆による警護の上での面会となったのだった。 

 やがて用意が整うと、古志豊長と石井兄弟が現れる。 彼らからの通り一遍の挨拶が済むと、義頼は口を開いた。


「さて、清左衛門殿。 よくぞ、書状を届けた」

「ははっ」

「それから、そなたらもよく機転を利かせて捕らえた」

『もったいないお言葉にございます』

「そなたらには褒美として、一先ずこれを与える。 それと、分かっているとは思うが他言は無用ぞ」

『御意』


 そこで義頼は、銀を三名に与えた。 生野銀山より算出された物であり、いわゆる丁銀である。 まさか手ずから褒美をもらえるとは思っていなかった三名は、喜色を表すと引っ立ててきた使者と書状を明け渡してから退席した。

 その後、大場山城から駆け付けた三人が消えると義頼は、石井兄弟が捕らえそして神村城へと連行してきた使者の尋問を沼田祐光に任せる。 その指示を受けて彼が立ち上がろうとした時、義頼は沼田祐光を押し留める。 それから先ほどまで認めていた書状をについての相談を行ったのだった。


「先の戦は、国人の暴走に他なりません。 殿がご責任を感じる必要はないかと」

「そう言う訳にもいかぬ。 上様(織田信長おだのぶなが)や殿(織田信忠おだのぶただ)より一任された以上、彼らは家臣や配下と言ってもいい。 その者達のしでかした事であり、その一端は俺にも責任がある。 詫びの一つぐらいは、入れておかねばなるまい」

「……はぁ……分かりました。 して殿は、どの辺りを落としどころになるとお考えか?」

「良くて、家の存続ぐらいだろう。 流石に、そこ以上まではな」


 このままいけば、暴走した国人達は織田家からの叱責どころかお家断絶すらあり得る。 だがそれこそ、義頼の事前の命を無視した結果であった。

 これが命に服していたにも関わらずに負けた結果であるなら、義頼は可能な限りそれこそ助命嘆願などを行う筈である。 しかし此度こたびの戦は事実上の負け戦であり、しかもそれは細川通薫ほそかわみちただに誘導されたとは言え、勝手に出陣した結果によってもたらされたのだ。

 かと言って、責任が己に全くないとする気にも義頼はなれない。 実際に暴走した国人達は兎も角、郷里に残る国人の家族らには何ら責任などないからだ。 そこで義頼は、彼らの家だけでもと考えたのである。

 そしてその見解は、沼田祐光から見るといささか甘い様にも感じる。 しかしてそれが義頼であり、だからこそ仕え甲斐もある。 ゆえに沼田祐光は、その考えに同意した。 彼がその旨を告げると、義頼はそれなら問題ないと彼に下がって良いと命じる。 そしてすぐに文机に向かい書状を認め始めたのを見ると、命じられた通り部屋から辞した。

 その後、沼田祐光は、命じられた通り石井兄弟が捕らえた使者の尋問へと向かっている。 すると捕らえられた使者だが、初めのうちは忠義からか答え様とはしなかった。 そうなれば、当然だが尋問はよりきつくなる。 ついには使者も折れ、自身が派遣された経緯を話していった。

 そんな彼の言によれば、使者を派遣したのは大館晴忠である。 そして足利義昭だが、この一件については全くあずかり知らないと述べている。 つまりこの一件は、あくまで大館晴忠の独断で行った事であるのだ。

 それが分かると、沼田祐光は義頼へ報告をした。


「そうか、大館殿が勝手にした事か」

「はい。 少なくとも使者はそう申しております。 ただ、嘘はないでしょう」

「では、此度の件だが未遂で終わった事でもあるし、そう遠くないうちに朝廷よりの使者が来る。 今は、あまり騒ぎだてしたくはない。 一先ずは、我らの胸の内におさめておくとしよう」

「そうですか……まぁ、殿がそうおっしゃられるのならば」

  

 義頼としても、将軍の解官については早々に終わらせたいのである。 宇喜多直家うきたなおいえの時の様に暗殺が実行されているのならばまだしも、その前に発覚してついえたのだから今は事を荒立てたくはなかったのだ。

 しかし沼田祐光としては、不満がない訳ではない。 何せ主が狙われたのだから、それは当然だと言えた。 だが、この件を公方側が色々と難癖を付けてきた際に切る手立てとできるのではないかと考え付く。 故に沼田祐光は、義頼の考えに賛同した。

 その後、義頼は長岡藤孝を呼び出すと、彼に他言無用と念押しした上で此度の暗殺計画について伝えた。 何せ此度の件では、彼もまた暗殺の対象だったのである。 その話を聞いた長岡藤孝は、驚きの色を見せると同時、どこか納得している彼のような表情をしていたのが印象的であった。

 だがしかし、この一件が予想外の動きの見せる事になるとは、流石に義頼も沼田祐光も、そして長岡藤孝もこの時点では予測できなかったのであった。



 さて敢えて不問とした暗殺未遂騒動から少しした頃、神村城の義頼の下に一つの報告がなされる。 その報告に目を通した義頼は、沼田祐光や永原重虎ながはらしげとらを集めた。

 してその内容だが、京極高吉きょうごくたかよしがつい先頃に決めた尼子衆による西伯、及び雲伯地域への出陣に関してである。 基本的に別動隊の動きに対する裁量は、軍を率いる京極高吉や副将扱いの大原義定おおはらよしさだらに任されていた。 しかし、だからと言って勝手してもいいと言う訳ではない。 所詮、別動隊は別動隊でしかないからだ。

 例えその規模が、別動隊と言う範囲に収まるのかと疑問を呈する程であったとしてもである。 何より京極高吉には、織田家が中国地方へ派遣した軍勢を統括している義頼へ報告する義務があった。


「尼子衆による侵攻ですか。 ところで、公方様へ影響は出ないのですか?」

「重虎。 俺は、出ないとみている」

「その理由をお聞かせ願えますか?」

「視点の違いだ」


 義頼の言葉に、永原重虎はいぶかしげな顔をした。

 さて、義頼の言う視点だが、これは足利義昭と毛利家との事である。 足利義昭が目指しているのは幕府の再考と織田家の討伐、と常々口にしている。 その為の御内書による策なのだが、これが以前の様に京に居て書状を出しているのならばまだしも今の様に京より追放された身分では受け取った側の印象に差が出る。 それは、日の元の中央である京に近ければ近いほど顕著であった。

 もし足利義昭が京に居た頃であれば、畿内と言う立地条件からも権力闘争と他者からは見られる可能性が高い。 しかし京より追放され、しかも今は長門国の大寧寺に居ると言う状況下では、将軍の持つ権威も京に居た頃よりどうしても低下してしまうのだ。

 一方で織田家と毛利家との戦は、織田信長主導による天下統一に従うか、それとも従わないのかと言う様なある意味で条件闘争な側面がある。 そこに、家の存続やら国人らの動向やらと言ったしがらみが絡まり合ってより複雑化していた。

 つまり、足利義昭からすれば究極的な目的は将軍の権威と幕府の復活、そして織田家討伐となる。 ひるがえって毛利家からすれば、家の存続が第一義となる。 それに、元々毛利家には将軍を利用する意思などなかった。 寧ろ、領内に来てほしくはなかったぐらいである。 しかし彼らの思惑に反して、足利義昭一行は毛利家に保護を求めてきてしまっている。 どうせ来てしまうのならばと、小早川隆景が将軍の権威を利用する旨を毛利輝元へ進言した事で受け入れたのである。 しかし結果からすれば、完全に裏目に出たのが誤算であった。


「……ははぁ、なるほど」

「そういう訳で、俺は許可するつもりだ。 それでそなた達、異論はあるか?」

『ございません』


 こうして義頼の承認も得られ、尼子衆による侵攻はいよいよ本格的に動き出したのであった。




 

 その頃、九州では島津家への使者が丹生島城を出立していた。

 使者は当然ながら島津忠之しまづただゆきであり、彼の取った進路は陸路である。 と言うか、他に選択肢がなかったのだ。 日数的な意味で言えば海路を進む方が早い。 しかし海路は、選択肢より外されたのである。 それは、多分に危険があると言う事からであった。

 海路を取った場合、丹生島城を南下し日向国沖合を経て薩摩国へ入る。 もしくは北上し、博多経由で進む事になる。 しかし現時点で、島津家がどの様な反応をするかが分からない。 もしかしたら、攻勢を掛けてくる可能性すらある。 そうなれば、諸々の問題が発生しかねない。 それを避ける意味でも、現時点における船での南下はあり得なかった。

 かと言って、北上すれば毛利家の水軍とかち合う事になる。 織田家からの依頼を受けて行動している近衛前久このえさきひさ一行なので、今まさに織田家と干戈を交えている毛利家の近くを通るなどあり得なかった。

 こうした消去法により残ったのが陸路、しかも相良氏の領地を抜けるという物である。 相良氏は肥後国南部に勢力を持つ家であり、島津家とも対立している。 ただ現在の島津家は、日向伊東氏との争いに主軸を置いており、相良家と島津家の間で左程の争いは起きていない。 しかし日向伊東氏はかなり島津家に攻め込まれており、此方こちらの戦が終われば島津家の矛先が相良家へ向かうのは間違いなかった。

 そんな事情もあってか、島津忠之は訪問した際に相良家から歓待を受ける事となる。 相良家としても近衛前久が仲立ちを目的として九州へ来ている事は知っていたので、相良家当主の相良義陽さがらよしひとしてはこれを機に島津家からの侵攻を押さえたいとの思いがあったからだ。

 その為、宿敵の島津氏の分家筋に当たる島津忠之が使者となっている一行の歓待を行ったという訳である。 これは島津忠之としても、悪い事ではない。 何せ話は、味方が増えると言う事だからだ。 とは言う物の、何時いつまでも相良家にいるという訳にもいかない。 そもそもの彼の役目は、島津家との繋ぎであるからだ。

 そこで彼は、後から来る近衛前久に丸投げする事にする。 島津忠之は相良義陽に対し近衛前久が後から来る事を告げると、早々に内城へ向けて人吉城を後にした。 そののち、近衛前久が現れると相良義陽は島津忠之に行った歓待以上の歓待で彼を出迎えたのであった。

 太閤でもある近衛前久が相良家を訪れるなど、家始まって以来の慶事けいじと言っていい。 相良義陽は感動に打ち震え、臣下の礼を持って出迎えたのである。 その真摯な態度は、近衛前久も好意を持ったのだった。

 その一方で相良家を後にした島津忠之の一行はと言うと、無事に島津家の居城である内城へ到着する。 先に述べた通り、彼は島津氏の分家筋に当たる。 その家柄ゆえに島津忠之は、当主の島津義久しまづよしひさとの面会を果たせたのである。 その席で、彼は近衛前久の書状を手渡した。


「……分かりました。 太閤(近衛前久)様のご来訪をお待ち致します」

「流石は、宗家の当主様。 早速、連絡を致します」


 書状に目を通した島津義久しまずよしひさから来訪を待つと言う返答を得られた島津忠之は、早速今は相良家にいるであろう近衛前久へ向けて使者を出す。 その夜、彼は当主の島津義久や彼の弟なる島津家久しまずいえひさからの歓待を受けた。

 因みに島津義久には、他にも島津義弘しまずよしひろ島津歳久しまずとしひさと言う兄弟がいる。 しかしその両名とも伊東家と戦におもむいており、内城にはいないので現れる事はなかった。

 話を戻す。

 島津忠之の出した使者が人吉城に到着して数日後、近衛前久の一行が出立する。 彼はそのまま南下し、国境を越えて少しした頃に島津家の出迎えを受ける。 その島津家の者達に守られながら、近衛前久の一行は内城へと到着した。

 明けて翌日、近衛前久は島津義久と島津家久の兄弟と面会する。 その席で、兄弟へ大友家との話し合いに応じる様にと伝える。 島津家当主の島津義久は目を閉じながら黙って聞いていたが、やがてその目を開くと口を開いた。


此処ここは太閤様の顔を立て、話し合いの席には応じましょう」

「おおっ、真であるか。 これで面目も立つ」


 島津義久が応じた事で、大友家との島津家との話し合いの席が持たれる運びとなる。 こうして始まった会談には大友家からは角隈石宗つのくませきそうが、そして島津家からは島津家久しまずいえひさが参加している。 更に竜造寺家からは、鍋島直茂なべしまなおしげが出席している。 そして彼らとは別に、近衛前久もまた出席していた。

 やがて始まったこの会談の流れの口火を切ったのは、鍋島直茂である。 先ず彼が期間限定の和議を結ぶ事を提案した事で、始まったのだ。 この一件については、大友家と竜造寺家との間で手打ちとなっている案件であったので、両家は問題なく承認する。 意外だったのは、島津家も不満気な様子もなく承認した事だった。

 だが、実際のところ意外でもなんでもなかった。 と言うのも島津家からしても、期間限定の和議と言うのは都合がいいのである。 恐らく今年中には伊東家を討てると判断している島津家であり、その間に他勢力からの干渉がないと言うのは実にありがたかったのである。 その後の統治や次の戦の準備も考えると、それはなお更だった。

 此処に、三家の思惑が絡み合った翌年の年末までと言う期間限定の和議が成立する。 これにより大友家は戦力の拡充に入り、竜造寺家は肥前国統一へと邁進を始める。 そして島津家は、伊東家を滅ぼす事に傾注して行くのであった。

 なお、島津家久だがこの会談直後に、近衛前久から呼び出しを受けている。 何であろうと彼が訪問すると、そこで島津家へある提案がなされた。 その提案とは、相良家に対する物である。 先の歓待と臣下の礼に感じ入った近衛前久が、言わば相良家に対する返礼と言う形で島津家と相良家の和議と言う仲介を独自に行ったのだ。

 すると島津家久は、暫く考えた後で了承する。 やはり期間限定ではあったが、その期間は何と先の三家による和議の期間の倍であった。 一見すると、島津家がかなり譲歩している形である。 しかしそこは、島津四兄弟の中で一と称された知恵者である。 彼なりの思惑の上で、近衛前久からの提案を受け入れていたのだ。

 一つは、先の会談に応じたのと同じ近衛前久の顔を立てたのである。 そしてもう一つあり、それは相良家を防波堤とする事にあった。 竜造寺家にしろ、相良家と同じ肥後国国人の阿蘇氏にしろ島津家を攻めようとすれば相良家の領地を抜けなければならない。 しかも阿蘇氏は、相良家や大友家と盟約を結んでいる家であり先ず攻め込む事はなかった。

 故に島津家久は、相良家と盟約を結びその隙に伊東氏を滅ぼし、和議の期間が終われば大友家へ攻め込むと言う考えである。 そこまで勢力が拡大すれば、相良家も島津家との本格的な和議を考える様になる。 上手く行けば、臣従もあり得るのだ。

 更に彼は、此処で近衛前久へある提案を行う。 その提案とは、京に戻る際に同行を許可してもらいたいという物であった。 何ゆえに彼がその様な事を言い出したのか、それは二年ほど前まで話は遡る事となる。

 実はその頃、島津家久は上洛を行うつもりだったのである。 目的は二つあり、一つは島津家の目標であった三州平定の祈願を伊勢神宮を筆頭とした神仏の加護を得る為である。 そしてもう一つは、織田家との繋がりを求めてであった。 しかし彼の計画は、結局実現していない。 それは、安全に上洛する道筋を見いだせなかったからだ。

 計画した頃には既に中国地方で義頼が戦を始めており、そして四国は争乱の最中さなかにあったのである。 しかし今ならば四国は織田家に併呑された関係で、海路でも陸路でも進む事が可能である。 近衛前久が問題なく九州へ来ている事が、その証左なのだ。

 そこで島津家久は、織田家との繋がりや目標の達成が見えた三州平定の先として新たに島津家が画策した九州統一へ神仏の加護を得る事を目的とした新たな上洛を計画したのである。 無論、兄の島津義久から許可を得ている話であった。

 そして提案受けた近衛前久だが、彼に取り分けて否はない。 別に不都合はない話であるし、島津家一門の者が上洛するのも悪くはない事案だからであった。 


「ふむ。 まぁ、いいでしょう」

「感謝致します、太閤様」


 こうして予想外の同行者を加え、近衛前久の一行は京へと戻る事になったのであった。

タイトル通りの事件なのです。

かなり、お粗末なような気もしますが。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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