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第二百三十四話~九州下向~

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第二百三十四話~九州下向~



 京より六角承禎ろっかくしょうていを正使とする勅使一行が中国地方へ向けて出立した頃とほぼ時を同じくして、やはり京より出立を果たした一行がいる。 それは、織田家よりの要請を受けて京から九州へと向かう、近衛前久このえさきひさの一行であった。

 彼らは陸路を進む六角承禎の一行とは違い、船で九州へ向かう事になる。 堺で船に乗り込むと、四国の太平洋側を回り豊後国に辿り着く手筈であった。 豊後国近辺は大友氏旗下の水軍が縄張りとしている為、問題はない。 また四国も、長宗我部氏旗下の土佐水軍の縄張りであり、此方こちらも問題はなかった。

 そして紀伊水道に関してだが、やはり問題とはならない。 この辺りは熊野水軍が闊歩する海域ではあるが、実は熊野水軍も織田家旗下となっているからであった。

 紀州南部に勢力を張り、しかも熊野水軍を率いている堀内氏善ほりうちうじよしは、紀伊国を羽柴家が領有するに当たって当然の様に対立している。 しかし現在は、織田家旗下の水軍となっていた。

 だが何ゆえに、その様な事になったのか。 それは、まだ病気療養に入っていなかった竹中重治たけなかしげはる玄宥げんゆうから、羽柴秀吉はしばひでよしへ進言があった事に起因していた。

 両者の進言とは、堀内氏善へ熊野社領として知行を与えるという物である。 彼は熊野水軍を率いたが、その他にも熊野別当として立場もあった。 熊野別当は、熊野新宮や熊野詣に関する宗教的な権威を持っている。 その点を突いて、堀内氏善を織田家に取り込んでしまおうと二人は考えたのだ。

 己の知恵袋から進言を受けた羽柴秀吉はしばらく悩んだが、最後には受け入れている。 何せ紀州南部は山がちの地域であり、決して豊かとは言えない。 また林業などは可能であるが、是が非でもと言うほどの魅力を左程感じないのも確かであった。 しかも紀伊国中部に勢力を張る湯川家が頑強に抵抗していた事もあったので、湯川家の領地を南北から挟み込めると考えた羽柴秀吉は進言を採用したのである。 その後、彼は織田信長おだのぶながへ進言して許可を得る。 同時に堀内氏善を、織田家に属した後は自身の与力とする様にと進言も行っていた。

 それは折しも、三鬼城へ堀内氏善が兵を進めてから数か月後の事でもある。 羽柴秀吉が敢えてその時期を狙ったとも考えられなくもなかったが、紀伊国での問題が早急に解決できると判断した織田信長によって許可が下りたのだ。

 こうして始まった羽柴家と堀内家の交渉は、真言宗根来寺の僧でもある玄宥と堀内家の家臣となる大谷志摩守の間で行われている。 その席で提示された条件は、堀内家としても悪くはない物であった。

 しかし受け入れてしまうと、九鬼嘉隆くきよしたかの娘と婚儀を挙げて援軍を出させない様にしてまで策を巡らせ攻め落とした三鬼城を諦める事となる。 かと言ってこのまま侵攻を続けると、織田家との本格的な争いとなりかねない。 羽柴家や志摩国の九鬼家だけならばまだ何とかなるかもしれないが、もし織田本家にまで出張られてしまうと、二進にっち三進さっちもいかなくなってしまう。 そう判断した堀内家側の決断により、それほど時間を掛ける事もなく堀内氏善の織田家臣従が決まったのだった。

 こうして織田家と言う巨大な後ろ盾を得た堀内氏善は、臣従時の約束通り羽柴家の与力となる。 そして羽柴家による湯川家との戦に協力する傍らで、紀伊国南部勢力の統一に邁進した。 と言うのも紀伊国南部には、堀内家の他にも有力な家は幾つかあったからだ。

 だが、堀内家が得た織田家と言う後ろ盾はあまりにも大きい。 下手に堀内氏善と対立して織田家と言う虎の尾を踏むよりは、例え陪臣と言う形であっても織田家の旗下に入った方がましだと彼らは考えたのである。 そんな打算もあって他の有力家は、頑強な抵抗と言う様な姿勢は見せず多少の戦を行いつつ最終的には堀内家へと臣従したのであった。

 こうなると、残された湯川家はたまらない。 頼りとなる石山本願寺からも援軍は期待できない中、幾つかの城を落とされてしまう。 そうなると裏切るものも出てきたが、それでも湯川家は勢力を縮小し半減させながらも頑強に抵抗を続けていた。 だが、ついには石山本願寺も織田家に降伏する。 しかも降伏の際に起きた戦の話を聞き及ぶと、抵抗を続けていた湯川家内に不安が生じていた。 

 それは、もし石山本願寺に降り掛かった攻撃が自身達に向けられても抵抗が可能かと言う点である。 何せあの広大な石山本願寺が、文字通り更地に変えられたと言うのだ。 噂が混じっているので、針小棒大しんしょうぼうだいの可能性がないとは言わない。 だがそれでも、その様な話が生まれる苛烈な攻めがされたと言う事でもあるのだ。

 そこまで考えた時、当主の湯川直春ゆかわなおはるの脳裏によぎったのは家が残せるかどうかである。 万が一にも、羽柴家の後ろに山のごとく存在する織田家から文字通りの殲滅戦など喰らおうものなら湯川家などそれこそ鎧袖一触がいしゅういっしょくとなるのは必至である。 それではご先祖に顔向けできない、その考えに至った湯川直春は苦渋の決断で降伏する事にした。

 こうして湯川家が降伏した事で、紀伊国の統一が成ったのである。 そして湯川家は、湯川衆として羽柴家に組み込まれたのであった。

 因みに堀内氏善と義頼だが、あまり仲は良くない。 正確には、堀内氏善が義頼にあまりいい感情を持っていないのである。 だがその理由は、元をただせば堀内氏善にある。 彼が義頼をあまりよく思わない理由は、三鬼城攻めにあったからだ。

 それは、まだ堀内氏善が独立した勢力だった頃、彼は勢力拡大を狙って前述の通り三鬼城へ攻め寄せている。 初めは落とせずに、一度撤退している。 そこで堀内氏善は、先に述べた通り九鬼嘉隆の娘を妻に迎えた。 こうする事で、九鬼氏が三鬼氏へ援軍を出せない様にしたのだ。

 流石に三鬼氏単独では、堀内氏善の攻めを凌げない。 三鬼氏当主の三鬼新八郎みきしんぱちろうは、息子の三鬼甚六みきじんろくと共に大和国へ逃げおおせていた。 こうして三鬼城を奪取した堀内氏善だったが、彼は三鬼家領地の組み込みを盤石にするべく逃亡した三鬼親子の身柄確保に奔走する。 やがて三鬼新八郎と三鬼甚六の親子が、大和国へ逃亡していた事を掴んだのだった。

 だが同時に、三鬼親子が義頼によって匿われている事も知ったのである。 すると堀内氏善は、身柄を引き渡す様にと交渉を行う。 だが義頼は、頑として断り首を縦に振らなかった。 彼からしてみれば堀内氏善との交渉を受け入れる意味はないし、何より領内へと逃げ込んできた者である。 織田信長や織田信忠おだのぶただから命じられれば別だが、それ以外で彼らを堀内氏善へ渡す気などなかった。

 それに何より三鬼氏は、織田家に殆ど臣従していたのである。 形だけは同盟関係としていたが、実質は織田家傘下と言っていい。 つまり義頼にしてみれば、当時は敵対していた堀内氏善の要望など聞くに値しなかったのだ。

 一方で堀内氏善としても、強気には出られない。 相手は、強大な織田家の重臣である。 しかも義頼は、織田家家臣として最も勢力を持っているのだ。 その相手に居丈高に出るなど、幾ら戦国の世とは言え無謀以外何物でもない。 彼としてもこれ以上は事を荒立てられず、三鬼親子の身柄は諦めざるを得なかった。

 その後の三鬼親子であるが、義頼の行動に恩義を感じて六角家の家臣となっている。 この三鬼親子の行動と、その親子を匿った義頼を堀内氏善は不満に思ったと言うのが彼が義頼をよく思わない理由であった。 なお、義頼は全く気にしていない。 それもまた、彼がよく思わない理由でもあった。 



 閑話休題



 兎にも角にも、この四国の太平洋側を回る航路ならば全て織田家家臣、若しくは傘下の家が縄張りとしている。 つまり、堺より船出した近衛前久の一行の妨げになる存在はいないのだ。 寧ろ守られる側であり、大した問題とはならない。 だが、そんな彼らであってもどうにもならない事はある。 それは、天候であった。

 こればかりは、本当に何ともならない。 どんなに水軍衆の腕が良くても、天候だけは操れないのだ。 ゆえに一行は、嵐に遭遇すると長宗我部水軍の拠点に避難する事となる。 当初は補給ぐらいしか考えていなかった寄港予定なのだが、海上が荒れてしまった以上はどうする事も出来ない。 仕方なく、嵐が過ぎ去るのを大人しく待つ事となった。

 その間に近衛前久は、出陣中の長宗我部元親ちょうそがべもとちかの留守を任されている久武親信ひさたけちかのぶの訪問を受けている。 同時に簡素ながらも歓待を受けており、予定外の逗留ながらも機嫌は良かったとされていた。

 その寄港も嵐により予定より長くなったが、数日後には嵐も治まりを見せる。 そして海上は、まるで凪いだかの様に落ち着いていた。 これならば問題ないと長宗我部水軍より太鼓判を押された近衛前久の一行は、翌日には出港する。 その際、念の為にと久武親信に命じられた一部の長宗我部水軍も、護衛として加わる。 こうして護衛を増やした一行はそのまま進み豊後水道に入り、やがて鶴御埼が近づくと視線の先に数隻の船を見掛けた。

 一瞬警戒を露にした一行だったが、やがてその船に大友水軍を率いる若林氏の旗印と大友家の旗印が確認されると一転して安堵の息が漏れる。 それから程なく、近衛前久一行と大友水軍の船が会合を果たす。 その後は、大友水軍を率いる若林鎮興わかばやししげおきの操る船に先導され、一行は丹生島(臼杵)城へと案内された。 

 本来であれば大友氏当主である大友義統おおともよしむねと会うところだが、織田家との関係に積極的なのは、父親で先代の大友宗麟おおともそうりんなのである。 しかも、大友家の実権を握っているのは、隠居したにも拘らず未だに彼である。 その為、一行は大友宗麟の隠居城である丹生島城へと向かったと言う訳であった。

 最も、近衛前久一行が大友宗麟と会った際はその場に大友義統もおり、会見は一回で済んでいる。 その後、一行は盛大に大友家からの歓待を受ける事となった。 その歓待は、一晩では終わらない。 翌日、そして翌々日も行われたのである。 しかも、その二日で終わりそうもない。 それだけ大友宗麟は、織田家と深いよしみを結びたいと考えていたのだ。

 とは言え、連日連夜行われれば流石に飽きが来る。 それでなくても、近衛前久とすれば早々に京へ戻りたいのだ。 実際、此度こたびの九州行きなど、織田家からの要請だから受けたのである。 それでなくては、何が悲しくて九州くんだりまでと言う思いが多分にあった。

 そこで近衛前久は、丹生島城に到着してから一週間もした頃から大友家から要請を受けた調停を始めている。 先ずは近い方からと、竜造寺家へ繋ぎを取る。 義頼の認めた書状を持ち、竜造寺家の重臣である鍋島直茂なべしまなおしげの元へ派遣した。

 繋ぎの使者となったのは、義頼の家臣である進藤賢盛しんどうかたもりである。 彼は義頼の命を受け、護衛も兼ねて一向に加わっていたのである。 彼が選ばれたのは、義頼の家臣と言う事もある。 それより何より進藤賢盛は嘗て、室町幕府との外交を担当していたのである。 その経験を買われて、と言った側面もあった。

 主の書状を携えて丹生島城を出た進藤賢盛は、鍋島直茂の元を訪問する。 太閤である近衛前久からの使者であり、かつ近江源氏頭領となる六角義頼ろっかくよしよりの重臣となる人物の来訪である。 佐々木氏の流れを汲む鍋島家の者として、会わない訳にもいかなかった。

 その様な経緯いきさつもあり、進藤賢盛は鍋島直茂との面会が叶う。 その席で彼は、主君たる義頼からの書状と近衛前久からの書状を差し出た。


「……分かりました。 明日にでも登城し、殿へとお話致します」

「宜しくお願い致す」


 暫く考えた後、その様に返答した鍋島直茂に対して進藤賢盛は重ねて述べていた。

 明けて翌日、前日の約束通り鍋島直茂は登城して竜造寺隆信りゅうぞうじたかのぶと面会する。 そこで、近衛前久からの使いとして進藤賢盛が己の屋敷に逗留している事を報告した。

 丹生島城に近衛前久が来ている事は既に把握していたので、その事自体は別段問題とはならない。 ただ、何で自身ではなく家臣の鍋島直茂の元に出向ているのかは気になった。


「それで、何でそなたの元に来たのだ」

「繋ぎと言う意味です。 わが鍋島家は、佐々木氏の流れを汲んでおりますので」

「あん? 佐々木とその進藤……何某なにがしだったか? その者と関わり合いが出てくるのだ?」

「進藤山城守賢盛殿は、佐々木氏の嫡流を受け継ぐ六角左衛門督義頼様の家臣となります」

「あーあー。 織田家重臣の六角、そう言う事か。 それならば納得した。 ところで直茂、こうして会いに来たと言う事は何か考えがあるのだな。 そなたの存念を聞こうか」

「しからば」


 そう前置きしてから、鍋島直茂は竜造寺隆信へ自身の考えを伝えた。

 彼の考えとしては、この申し出を受けるべきとしていた。 その理由は、竜造寺家を取り巻いている環境の為である。 と言うのも竜造寺家は、複数の戦線を抱えていたからだ。 主戦線となっているのは大友家だが、他にも阿蘇家とも戦線を抱えていた。

 これは、阿蘇家が大友家と誼を結んでいるからである。 とは言え、阿蘇家としては別に竜造寺家と干戈を交えたいわけではない。 大友家からの要請があったので、言わば義理で戦線を構築しているのである。 当然ながら、熱心に戦を行っている訳ではない。 正直に言えば、良くて小競り合いが発生しているぐらいであった。

 寧ろこの戦線より、肥前国内における戦線こそが最たる問題となる。 既に肥前国内の大半を手中に収めているが、大村純忠おおむらすみただ有馬鎮純ありましげずみらが当主を務めている有力家も一方で残っている。 これらを倒し肥前国を統一する事が、竜造寺家の第一目標であった。

 この目的を達するに当たり、此度の申し出はとても都合がいい。 何せ竜造寺家による肥前国統一に対して、何かと口や手を出してくる大友家の妨害を押さえる事ができるからだった。


「だがな、直茂。 約定はいいとして、守られるのか?」

「破られたならば、それを大義名分とできます。 何と言っても、太閤(近衛前久)様の仲立ちを切っ掛けに結ばせた約定ですので」

「ふむ……そう言う事か。 して、期間はどうする。 まさか無期限ではなかろう」

「そうですな。 今年中か、遅くとも来年には」

「今年か来年、か。 いいだろう、直茂。 その約定ならば同意すると伝えよ。 その間に我らは、肥前国を統一して大友や島津と真っ向から対抗できる体制を整えるぞ!」

「承知致しました」


 こうして竜造寺隆信の同意を得た鍋島直茂は、そのまま竜造寺家の使者となり近衛前久の元へと向かう事となる。 当然ながら、進藤賢盛も同行している。 やがて彼らの一行は、丹生島城下の外れにある寺へと到着する。 流石に鍋島直茂を連れて丹生島城へ、と言う訳にはいかなかったからだ。

 寺に竜造寺家からの使者を残し、進藤賢盛は丹生島城へと向かう。 そして近衛前久へ事の次第を報告すると、彼と共に寺へと向かう。 まさか太閤の近衛前久が現れるとは思ってもみなかった鍋島直茂であり、思わず狼狽えてしまった。 しかし、そこは竜造寺家を代表する将である。 表面上は直ぐに平静を取り戻すと、竜造寺家の主張を伝えた。

 近衛前久からすれば、大友家より織田家へと依頼した仲立ちを果たせればそれでいいのである。 その内容が期間限定でもそうでなくても、どっちでも問題はない。 ゆえに近衛前久も、その条件ならば問題ないとして了承していた。

 何であれ竜造寺家が片付くと、近衛前久は島津家へと使者を派遣する。 しかし竜造寺は近かったからよかったが、島津家は薩摩に本拠を持つ家である。 当然ながら、使者を向けても帰ってくるのが遅くなる。 そこで近衛前久も、先行させた使者を追う形で九州南部へ向かう事とした。

 その使者だが、島津家の分家となる播磨島津家の現当主である島津忠之しまづただゆきとなる。 彼に己の認めた書状を持たせ、島津家の居城となる内城へ向かわせたのであった。 





 その頃、中国地方にも動きはあった。

 最もそれは、義頼のいる山陽ではなく、京極高吉が率いる別動隊が展開している山陰である。 いよいよ雪もほぼ解け、余程雪深い場所でもなければ軍事行動が可能となったからだ。

 その状況で先ず動いたのは、河口城にいた京極高吉きょうごくたかよしである。 彼は河口城を出ると、海岸沿いを進むと尼子衆の入っていた田尻城へと到着した。 しかしその城に、尼子衆はもういない。 彼らは京極高吉らが到着する前に、近くを流れる天神川を越えた先にある茶臼山城へと移動していたからだ。

 嘗ては伯耆国の国人であった増田玄蕃允や在沢右京亮と言った者達が入っていた城で、彼らは数十年前に南条家によって滅ぼされている。 この地は山陰道(伯耆往来)がすぐ近くを通っている事から、南条家が城跡を利用して街道監視用の施設としていた。

 そこで、その茶臼山城を利用したのである。 これにより田尻城が空き、そこに京極高吉が入ったと言う形であった。 これに伴い、南条家でも軍勢を動かしている。 羽衣石城に籠っていた南条元続であったが、彼は南条家本隊を率いて城を出ると打吹城へと移った。

 この城は、嘗て伯耆国の国主でもあった山名師義やまなもろよしが守護所としていた城である。 今は叔父の南条信正なんじょうのぶまさが城主を務めていた。 彼は南条元続の後見人として家中に睨みを利かせつつ、打吹城と言う重要な城の城主として対毛利家の戦線における中軸を担っていた人物であった。


「しかし、殿がこの城に来られるとは」

「そう言われますがな、叔父上。 中務少輔(京極高吉)殿が田尻城に入られた以上、俺が羽衣石城に籠城という訳にもいかないのだ」


 京極高吉の別動隊は、事実上の山陰侵攻軍である。 しかし同時に、南条家に対する援軍でもあるのだ。 その援軍を受けている南条家の当主が、敵と隣接していないにもかかわらず援軍より後方にいると言うのはいささか体裁が悪いのだ。

 そこで南条元続は、対毛利のほぼ最前線となるこの打吹城へと移動したのである。 それに此処ここであれば、味方の士気も挙げられる。 何より打吹城は守りも堅く、しかも城郭としても大きい。 規模で言えば、東伯耆屈指の城と言ってよかった。


「まぁ、この打吹城ならばそう易々とは落ちはしない。 しかも、毛利勢と言うか吉川勢は、中務少輔殿が率いる軍勢がある以上はそちらにも振り分けねばならない。 そうなれば、なお更に打吹城へ攻め寄せる敵兵の数は減る」

「そう言う事です、叔父上」 


 南条信正の言葉に、南条元続が同意した。 

 これがもし南条家及びその周辺の国人だけであったら、打吹城へ出張るどころか城を捨てて南条家の居城となる羽衣石城などに兵力を集中させているだろう。 だが京極高吉が率いる軍勢がある以上、兵が分散するのは敵の毛利勢なのだ。 ならばその状況を利用し、伯耆国内における南条家の影響力を高めた方がいい。 結果として、それは中国地方へ侵攻している織田勢の増強にも繋がる。 少なくとも、文句を言われる事はまずないと言えた。


「ふむ。 此処で南条家の勢力を伸ばす、悪くはないですな」

「ええ。 織田家も南条家を利用したのです、我らも織田家を利用するとしましょう。 叔父上」

「御意」


 ことさら鯱張しゃちほこばって答えた南条信正の態度に、南条元続は笑い声をあげたのであった。



 その頃、田尻城では京極高吉に対し、小寺孝隆こでらよしたか立原久綱たちはらひさつなの両名が揃ってある進言をしていた。 その進言とは、尼子衆による西伯地域から雲伯地域への侵攻である。 彼らの思惑としては、水軍衆を用いて毛利勢の戦線を迂回し後方を撹乱するのが狙いであった。

 もし敗れたとしても、水軍衆があれば撤退は可能である。 何せ尼子衆は、嘗て同じ手段を用いて窮地に陥っていた中国地方より撤退した過去を持っているからだ。 しかも、石見国にいる水軍衆は動くに動けない。 そもそもの規模が違い、織田家の水軍の方が多いと言うのもがある。 だがそれより、四国より攻めてきている明智光秀あけちみつひでや羽柴秀吉へ対抗する為に援軍として派遣されていると言う事実があった。

 手持ちの水軍衆では、奈佐日本之佐なさやまとのすけ率いる但馬水軍と尼子衆の調略により毛利家から再度尼子勢へ鞍替えした隠岐清家おききよいえ率いる隠岐水軍には太刀打ちできないのだ。

 因みに隠岐氏は出雲源氏であり、即ち佐々木氏の流れを汲む家である。 その経緯から嘗ての尼子衆による尼子家再興の戦に協力したのだが、その尼子衆が中国地方より一旦撤退した事で毛利家に属したのである。 此度、義頼の書状を携えた尼子衆の説得に応じて毛利家より離反していたのだ。


「なるほど。 後方の撹乱ですか」

「ええ。 しかも前線には織田勢がいるので、有効な数の援軍を送るのも難しい。 さりとて、石見水軍では我らの水軍衆には太刀打ちできない」

「ふむ。 案外、行けるかもしれませんな……いいでしょう、尼子衆による侵攻を許可します」


 此処に、尼子衆と水軍衆の協力による吉川勢に対する後方の遮断を目的とした侵攻が行われる事となったのであった。

今回、義頼は登場しておりません。

近衛前久の話が中心ですので。

ただ、存在はちょろっと匂わせています。


ご一読いただき、ありがとうございました。


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