第二百二十九話~九州への繋ぎ~
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第二百二十九話~九州への繋ぎ~
織田信忠と松姫の華燭の典の最終盤となるお披露目の宴も終わると、義頼は同行していた者達と共に屋敷へと戻っていた。 するとそのまま、着替えて眠りについている。 その翌日、義頼は気分よく目を覚ましていた。
元々からして、酒が強い義頼である。 しかも昨日は、羽目を外す程は飲んでいない。 その状況では、義頼ほどの酒豪が二日酔いになる筈もなかったのだ。
問題なく目を覚ますと、彼は何時もの朝と変わらず鍛錬を行う。 やがて鍛錬を終えた義頼は、水で冷やした手拭いで体を拭っていた。 冬の朝でありかなり冷たくなってはいたが、鍛錬を終えたばかりの者としてはむしろ気持ちがいいぐらいである。 その後、朝餉を食した義頼は、正室であるお犬の方と嫡子である鶴松丸、それから馬淵建綱と揃って呼び出していた。
その理由は言うまでもなく、鶴松丸の傳役を馬淵建綱とした事を告げる為である。 その事を夫より聞かされたお犬の方だが、彼女に否はなかった。 何せ馬淵建綱は、義頼率いる六角家一の重臣である。 そして彼が、義頼が元服してもない頃より支えていた事も聞き及んでいる。 そんな男が息子の傅役に就任するのだから、不満などある筈がなかった。
「お犬、良いな」
「兵部少輔(馬淵建綱)殿ならば、不満などありません。 息子の事、頼みますよ」
「はっ。 奥方様。 この馬淵兵部少輔建綱、身命を賭して若様を守りお育て致します」
また義頼は、本多正信の息子となる千穂を近侍としている。 年齢も五歳ぐらいしか離れていない事もあり、丁度いいと考えたからだ。 そして命じられた本多正信はと言えば、一も二もなく賛同している。 何せ、次期六角家当主の最初の家臣が自分の嫡子なのである。 これだけの好条件を袖にする理由など、彼にある訳がなかったからだ。
その他にも義頼は、山陰へと派遣した別動隊を率いる京極高吉らと会っている。 と言うのも、彼らもまたこの安土城へと集っていたからである。 間もなく面会した義頼は、京極高吉らから山陰での様子について直に尋ねている。 その彼らからの話は義頼へ忍びから上がってきている話と比べて、あからさまに違っていると言った事はない。 若干盛られている様な感じがしないでもないが、それとて許容範囲と言っていい差でしかなかった。
その様な思いを抱きつつ黙って最後まで聞いた義頼は、敢えてその事を指摘しない。 代わりに、既に通達がされている治安や慰撫についてしっかり行う様にと釘を刺していた。
この様な案件をこなしつつ義頼は、中国地方へ戻る為に出立の準備も行っていた。 そのうちに準備が整うと、義頼は出立前に織田信長と織田信忠に面会をする。 それは勿論、中国地方に戻る前の挨拶であった。
通り一遍の挨拶を行い出立する予定であったのだが、挨拶が終わると織田信忠より話し掛けられる。 何であろうと訝しげな表情を浮かべつつ話を聞いたのだが、その内容は少々意外であった。 織田信忠が義頼へと話したのは、何と九州での事に関してである。 それと言うのも九州では大友家と竜造寺家、それから島津家の三家が中心となり三国志さながらの戦を繰り返している。 その戦に伊東家や相良家なども絡んでおり、九州は大分混沌とした状況にあった。
その様な情勢の九州にあって中心となっている三家の中でいささか劣勢となりかけている大友家が、嘗てより織田家に接触していた伝手を使い年始の挨拶と言った体を装いつつ仲介の労を頼んできたのである。 織田家として初めは無視しようとも考えたのだが、途中で思い直し織田家の出すある条件を受け入れるのならば仲介をするとしたのだ。
そしてその条件だが、奴隷貿易を取り締まる事である。 前述した通り九州においては、奴隷貿易が半ば公然に行われていた。 勿論、全ての家が行っている訳ではない。 しかしながら大友家は、奴隷貿易を行っていた。 例え主家となる大友家が行っていないとしても、家臣が行っていれば同じ事である。 そこで、奴隷貿易を家臣を含めて行わないと言う誓詞を取り交わす事を仲介の条件としたのだ。
すると大友家もこれに答えた事で、仲介の使者を派遣する事にしたのである。
「それは……方針の転換ですか」
「そう言う訳でもないが、丁度いいから釘を刺しておこうと父上と話し合ったのだ」
「なるほど」
「して義頼、そなた繋ぎとなる人物に心当たりはないか? 織田家としては、使者として太閤殿を抜擢するつもりだ。 故にその名だけでも十分であろうが、伝手はあるに越したことはないのでな」
織田信忠よりそう問われた義頼は、暫く考える。 やがて思いつくと、家を上げ連ねた。 仲介を言い出している大友家は除外するとして、先ず竜造寺家だがこの家には佐々木の流れをくむ家がある。 それは、竜造寺家の重臣である鍋島家であった。
その鍋島家の祖だが、鍋島経秀とされている。 彼は近江源氏の分流にあたり、出雲源氏の祖となる佐々木義清の流れを汲む人物であった。
その佐々木義清の子孫に佐々木清定と言う者がいるのだが、京の長岡に在していた事から姓を長岡と改めている。 その彼の四代後にいた人物が、鍋島経秀なのである。 彼は、息子と共に肥後国佐賀郡の鍋島に下向したのだが、その時に姓を長岡より鍋島に改めている。 以降、子孫は鍋島氏を名乗っていたのだ。
次に島津家だが、彼の家中には佐々木氏の流れを汲む者に心当たりはない。 しかし義頼の家臣に、島津家の流れを汲む者がいる。 彼は播磨島津家とも言われる家の当主であり、名を島津忠之と言った。
この播磨島津家だが、島津家初代となる島津忠久の次男、島津忠綱の長子にあたる島津忠行を祖としている。 彼より数えて一六代目当主となっているのが、島津忠之であった。
「彼らであれば繋ぎをつける事は可能ですが、宜しいですか殿(織田信忠)」
「あ、ああ。 しかし本当に、伝手があるとは……」
いみじくも織田信忠が述べた様に、義頼へ伝手の有無を尋ねたのは念の為と言うか希望的観測の意味合いの方が大きい。 先にも述べた様に、織田家としては太閤こと元関白の近衛前久を使者にするつもりである。 その一助ぐらいに考えていたが、いざ尋ねてみれば、方や竜造寺家の重臣に、そして島津家においては宗家の分家筋と言う伝手がある。 島津家が同族ではなかったが、それであったとしても両家に繋ぎをつける事が可能と言う事象には驚きを隠せなかったのだ。
「まぁ、良いわ。 それで義頼、繋ぎの為の書状だが」
「出立前には、お渡しします。 ですが島津家は、遅れてしまいますぞ」
その理由は単純であり、島津忠之が同行していないからである。 まさか急に島津家との繋ぎをつける羽目になるとは思いもよらかったのだから、仕方がない事ではあった。
その事を義頼より聞いた織田信忠は、少し考える仕草をする。 それから彼は、思いついた事を告げた。 織田信忠が思いついた事だが、それは島津忠之の同行である。 書状であっても繋ぎは取れるが、それよりも実際に人が行く方がよいだろうと思い描いたのだ。
そう提案された義頼は、暫く考えた後で了承する。 そこでいつ頃使者一行が九州へ出立するのかを尋ねると、翌月頭を予定していると織田信忠より告げられる。 ならばそれに合わせて京の六角承禎の屋敷へ派遣する旨を告げると、了解を得られたのだった。
こうして面会自体は恙なくと言えるかどうかは兎も角にして終わりを見せたが、予定外の仕事を請け負ってしまったとも言える事態でもある。 だが義頼自身、一刻も早く西国へ戻らなくてはならないと言う訳でもない。 無論のんびりととはいかないのだが、それでも書状を認めるぐらいは問題とならなかった。
義頼は鍋島家の現当主にあたる鍋島直茂宛の書状を書き上げると、持参して書状を手渡す。 その内容についても、特に問われる事もなかった。 時間的には中途半端となってしまったが、それでも予定は出来るだけ狂わせたくはなかったので義頼は予定通り安土を出立する。 やがて山科に差し掛かると、義頼は少数の供回りと共に京へと向かう。 他の者達は、そのまま淀城へと向かわせた。
さて義頼が何ゆえに京へと向かったのかと言うと、理由は二つあり一つは兄である六角承禎に会う為である。 だが安土へ戻る際に一旦顔を合わせているにも拘らず何ゆえにまた会うのかと言うと、それは六角承禎より知らされた事の詳細について聞く為であった。
そしてもう一つはと言うと、近衛前久へ島津忠之と言う同行者を派遣する事となった件について知らせる為である。 何であれ京にある六角承禎の屋敷へと到着した義頼が先ず兄へ尋ねたのは、報告を受けた件について事の次第についてだった。
「さて。 何故に兄上が、源氏長者になると言う事態となったのです?」
それは、義頼が安土を出たその日の夜の事であった。
彼と彼の一行は、事前に決めていた宿舎にかなり遅れたが、それでも何とか到着している。 しかしてそこに、何と六角承禎の使いとして山中長俊がいたのだ。 年齢こそ義頼とそう変わらないが、六角承禎の許にて彼に付けられた忍び衆を取り纏めている。 その山中長俊が知らせを持ってきたと聞いた義頼は、もしかしたら何か京で問題が起きたのかと訝しんだ。
しかし彼が語ったのは、六角承禎の源氏長者就任と言う話である。 その話を聞き、義頼は驚きを表した。 それと言うのも源氏長者は、代々村上源氏嫡流の久我家が就任しているからである。 とは言っても、当初は嵯峨源氏より出されていたのだが、後の世になると宇多源家や醍醐源氏など他の源氏からも出る様になっていった。
やがて村上源氏より源氏長者が出ると、村上源氏より輩出される様になる。 理由は不明だが、以降はそれが通例となったのだった。 しかし時代が下ると、該当者がいないなどの理由から六条家や畠山家と言った別の村上源氏の家より就任する者が出たのである。 この事に危機感を抱いたのか当時の久我家当主が、村上源氏嫡流の久我家が代々源氏長者を輩出するべきであると言った趣旨のいわゆる政治工作を行ったのだ。
当初は必ずしも上手く行った訳ではなかったが、たまさか時代の流れが久我家に味方する。 折しも南北朝の頃であり、紆余曲折の末に他の家の衰退も相まって久我家からの輩出が半ば通例として確立したのだ。
しかしながら室町幕府が安定期を迎えると、その通例が壊される。 事実、室町歴代将軍の中で五人程が源氏長者への就任を果たしている。 最も、【応仁の乱】勃発以降は、室町将軍による就任はなく時の久我家当主が源氏長者であった。
さて今の源氏長者だが、実は該当者がいない。 それと言うのも、それまで源氏長者であった久我通堅が亡くなっていたからだ。 そうなると、次の久我家当主である久我敦通が就任する運びとなる。 しかし彼はまだ数えで十三才であり、流石に氏長者とするには心許なかった。
幾ら元服しているとは言え、とてもではないが十三才の子供に任じるなどできた物ではない。 そこで白羽の矢が立ったのが、六角承禎という訳であった。
因みに庭田家は六角承禎と同じく宇多源氏だが、血筋的に言うと繋がっていない。 現庭田家当主から数えて三代前にあたる当時の庭田家当主が子のないまま急逝してしまい、急遽同じ羽林家の中山家より養子縁組して庭田家を存続させたと言う経緯があった。
それに何より、村上源氏嫡流より源氏長者を出すと言う通例に庭田家は抵触してしまうので指名できない。 その様な理由もあいまって、庭田家へ源氏長者の打診はされていなかったのだ。
「……という訳だ。 有り体に言ってしまえば、繋ぎだな」
「それに宇多源氏に連なる六角家ならば、前例もあるから二の足を踏まないと」
「まぁ、そういう事だ義頼。 それに高家六角家は、創設されたばかり。 通例を破るには当たらないと、言う事もできる。 屁理屈だがな」
そう言うと六角承禎は、小さく苦笑を浮かべていた。
前例のない事に対し躊躇いを見せるが、逆に言うと前例があればあまり躊躇わないと言う事である。 そして宇多源氏は、前述した様に過去に源氏長者となっている。 その事が朝廷が六角承禎に対し、源氏長者就任の要請に躊躇いを見せない理由となっていた。
また、他にも隠れた理由がある。 実は先代となる源氏長者の久我通堅だが、彼は勅勘を賜り更に解官までされている。 遅ればせながら、この一件に対する罰と言った側面も見え隠れしていたのだ。
久我家としてはいささか業腹なのだが、現久我家当主が源氏長者を就任するには若すぎるという現実を変える事はできないし久我通堅が勅勘を賜った上に解官している事態も変わらない。 何より六角承禎が言った通り、過去の通例に高家六角家の存在がないと言う事実もある。 久我家としては、此処は堪えてえ、六角承禎の源氏長者就任を黙認せざるを得なかったのだ。
「なるほど。 これで、理解できました。 何ゆえに兄上が、奨学院別当などと言う名誉職に就いていたのかを」
「そうだ。 この為、という訳だ」
源氏長者になるためには、幾つか条件がある。 一つは源氏の中で、最も高い官位にある事。 その他に、奨学院別当と淳和院別当の職を歴任する事があった。 ただ、必ずしも淳和院別当となる必要はないとされている。 しかし基本的には、両別当職を歴任する事が通例であるとされていた。
この通例を満たす為であろう、六角承禎は奨学院別当を先年より兼任していたのである。 そして年が変わり今年に入ると奨学院別当職を退いた訳だが、直後に淳和院別当職に就任したのだ。 同時に昇進も発表され、六角承禎は従三位となっている。 その上、事実上形骸化していた検非違使別当へも就任していた。
更に言うと家格も上がる事となり、高家六角家は羽林家から一つ上の大臣家へと昇格したのである。 なお兵部卿であるが、引き続き就任の運びであった。
因みに此度の昇進だが、当初は左近衛大将が補任される事となっていた。 しかし六角承禎が辞退した為、代わりに検非違使別当の就任となったのだ。
さて彼が辞退した理由だが、この人事が下手をすると義頼にまで類が及びかねないからである。 それは織田信長が兼任している官職に、右近衛大将があるからだった。 建前上、右近衛大将も左近衛大将も同格である。 しかしながら、実質では左近衛大将の方が格上とみなされるのだ。
つまり位階は兎も角、役職としては六角承禎の方が織田信長より上と言う事態となってしまう。 これがまだ、完全に公家であればそこまで問題とはならない。 あくまで、朝廷での扱いでしかないからだ。 しかしながら六角承禎が家祖となる高家六角家は、公家ではなく武家となっている。 つまり実力は別にして、部分的にだが家格的に織田家を上回る家となってしまうのだ。
その高家六角家の当主である六角承禎の弟が、義頼である。 兄として、そして六角家宗家の者として、家が危うくなるのは避けるべきである。 そう判断して、辞退したのだった。
「して兄上。 次の源氏長者ですが、何れは以前の様に久我家当主が就任するのでしょうか?」
「恐らくだが、そうなるであろうな。 先ほども言った様に、わしの就任は繋ぎでしかない。 何れ官位を上回らせ、久我家現当主へ引き継がれる事となると考えている。 だが前例ができた為、今後は分からん。 しかし、今日明日にどうにかなると言う事はないだろう」
「それは、以降久我家以外からも源氏長者に就任する者も出るかもしれないという訳ですか……何であれ、詳細は分かりました。 兎にも角にも、此度の源氏長者就任に対する祝いの品ですが、いずれ送ります」
「うむ」
話を終えた義頼は、屋敷より退出した。
するとそのまま、彼は近衛家の屋敷へと向かう。 今日に訪問する事は既に先触れをしているので、そう時間を掛けずに面会する事は出来た。
そもそも、近衛前久と義頼は師弟関係にある。 一時、朝廷を追われた近衛前久であったが、彼が朝廷を追われた原因である足利義昭が追放されると、織田信長に仲介を頼みその後に許されて帰洛している。 その織田信長に仲介を頼んでいた頃、彼は義頼の下にいた事がある。 その際、義頼が青蓮院流を学んでいた近衛前久に書の教えを請うたのだ。
請われた近衛前久も、世話になっている事もあったので了承したのである。 初めは手慰み程度のつもりであったのだが、義頼に思ったより才があったので本格的に教えたのである。 流石に書家として大成する程ではなかったが、以降は師匠と弟子としても交流をしていたのだった。
「ふむ。 そなたの家臣が、同行してくれるのか」
「はい。 無論、兵も出します」
「それは、ありがたいのう。 織田家よりも出るが、六角家よりも出ると言う事だな。 ところで、鍋島への書状だが持参してはおらぬのか」
「ええ、まぁ。 そもそも、京に寄る理由が当初はなかったのです」
そう言うと苦笑すら浮かべながら、義頼は京へと赴いた理由を告げた。
無論、前述した通り六角承禎の源氏長者就任が切っ掛けの一つである旨を伝えると、近衛前久も納得する。 そもそも同行者云々は、わざわざ義頼が伝える様な事ではない。 使者なり書状なりを出しさえすれば、それで済む話である。 それでも六角承禎の件で京に来る理由が急遽できたので、自らが赴いて近衛前久へ告げ様と考え実行した話なのだ。
そういう事ならばと、近衛前久もそれ以上問う事はしない。 用件は済んだとして退出しようとした義頼だったが、近衛前久から止められる。 直接顔を合わせたのは久方であった事もあり、酒でも酌み交わそうと誘われたのだ。
全く急いでないとは言わないが、一日二日出立が遅れたところで大きな影響が出る訳ではない。 少し考えた後でそう判断した義頼は、了承してその日は近衛邸に宿泊する事となった。
子飼いの忍びの一人、美濃部源吾に近衛邸へ泊る旨の書状を持たせて淀城にいる筈の安土へ同行した将兵へ向かわせる。 そしてその夜は、近衛前久と酒を酌み交わした。 嘗ては義頼の下に庇護されていた近衛前久であり、流石に酒豪の義頼と飲み比べの様な事はしない。 義頼もその辺りは弁えているので、静かに飲みつつ雑談や歌を詠むなどしていた。
明けて翌日、近衛邸を辞した義頼は、川を使い淀城へと向かう。 そこで、城に待機していた同行の者達と合流を果たす。 しかしここで、一部の者達と別れる事になる。 具体的に言うと、北畠具教や柳生宗厳。 更には、雲林院松軒と言った藍母衣衆から数名であった。
彼らが一時的とは言え義頼の元から離れる理由だが、ある人物への見舞である。 実は柳生氏の本貫地である柳生谷に新陰流開祖の上泉信綱が逗留していたのだが、彼が体を壊してしまっていたのである。 しかも、あまり容体は良くなかった。
彼らは義頼に頼み曲直瀬道三の高弟を派遣してもらっているのだが、その彼をしても快癒は難しいと診断している。 そこでせめて弟子や友の彼らが、見舞いに行く様にと義頼が諭したのだ。 本音を言うと義頼も会ってみたいのだが、会った事もなくしかも病に臥せっている人物のところにいきなり行くと言う様な判断はできなかったのである。
なお藍母衣衆としての役目もあり、北畠具教らは初めは遠慮している。 しかし義頼が重ねて諭したが為、彼らも折れ大和国へ向かう事となったのだった。
こうして北畠具教らと別れた後、義頼は徒歩で帰路へ就いた。 と言うのも、安土へ向かう為に使用した船は既に帰しているからである。 当初から義頼は、徒歩で備後国へ向かうつもりであったのだ。
それは備後国へ向かう道すがら、播磨国など織田領へと組み込んだ地域を回り慰撫を自ら行う予定だったからである。 やがて播磨国へと入った義頼は、三木城に宿泊する。 そこで別所家を筆頭に同国東部の国人らと面会し、降伏時における約定の確約を伝達した。
無論、彼らも信じていない訳ではなかったが、小早川隆景の手の者との接触もあり不安に感じていた部分がないではない。 だがこうして義頼自身より、再度の確約が得られた事で安堵していた。
義頼はこの後も街道沿いを進み姫路城へと入ると、残った播磨国西部の国人らとの面会を行う。 そこでも彼は、同じ対応を行っていた。 その後、備前国から備中国、美作国にて義頼は、やはり国人らに会い彼らの慰撫に努めている。 そして備後国へと入ると、義息の井伊頼直や藤堂高虎らが城を築いている杉原保へと到着した。
そこで義頼は、築城現場の視察を行っている。 井伊頼直や藤堂高虎からの説明を聞き、頷きながらも助言は忘れない。 築城の経験では義頼の方が上であるし、何より彼も築城の師とも言える道意こと松永久秀から教えを受けた者である。 いわば兄弟子であり、その意味でも助言はありがたかった。
やがて視察を終えた義頼は、今現在の本陣である的場山城へと入城したのであった。
華燭の典後、安土から備後国へ戻るまでのあれやこれやです。
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