第二百二十四話~攻防戦開戦~
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第二百二十四話~備後国攻防戦開戦~
山内隆通が義頼と通じた事により、備後国の守りに対して風穴を開ける一応の目途は立ったと言えるだろう。 しかしながら、それだけではいささか心許ない。 そこで、周辺の城を攻略する事で、じりじりと圧迫を掛けて行く事にした。 先ず標的としたのは、芦田川沿いに建つ神島城と佐波城。 そして、中山城の三城であった。
今まで戦力を整える為に拠点としていた城を出陣して街道を進んだ義頼だったが、芦田川の手前に存在する杉原保と言う地に差し掛かるとそこで軍勢を止める。 それから、程近くにある丘陵を選んでそこに陣を構えた。 その丘陵は常興寺山と言い、常興寺と言う名の寺もある。 つまり義頼は、その寺を一先ず本陣としたのだった。
その傍らで、軍勢自体は芦田川まで進軍させている。 やがて川へと到着すると、大砲を並べて毛利勢を威嚇した。 芦田川も小さい川ではないが、義頼が擁する大砲の弾が対岸まで届かないという訳ではない。 充分有効射程内であり、何時でも狙えると言う示威行動であったのだ。
だが残念な事に、それぞれの城に籠る毛利勢は義頼が擁する大砲に晒された事がない。 つまるところ、脅しにしか見えなかったのだ。 しかし、それも仕方がないと言える。 毛利家もいわゆる仏狼機砲を持っているが、その射程は義頼が持つ大砲とは比べ物にならないくらいに短い。 なまじ仏狼機砲などの性能を情報として知っていただけに、その感覚で考えてしまったのだ。
それでも一応は義頼の持つ大砲の情報も入っていたのだが、その話は到底信じられるものではない。 所詮は噂に過ぎないとして、大して気にも止めなかった。 その結果は、言うまでもない。 彼らは、自身の命で対価を払う事となったのだ。
彼ら備後国国人を主力とする神島城と佐波城と中山城の城兵達は、敵の大砲が対岸に並ぶのを見逃したばかりか碌に手出しすらもせずにいたのである。 その様子は、完全に義頼と言う敵を侮っていると言えるだろう。 そんな敵の籠る三城へ、義頼は一斉に大砲の弾を叩き込んだ。
その様子を馬鹿にしたかの様な表情で見ていた彼らだったが、次の瞬間には度肝を抜かれる事となった。 届く筈がないと高を括っていた大砲の砲弾が、着弾したのだから致し方がないと言える。 しかも一発や二発などではなく、次々と叩き込まれてくる。 城のあちこちで破壊が巻き起こされており、阿鼻叫喚の様相を呈し始めている。 そこにきて漸く理解が追い付いた備後国国人達が見せるその狼狽えぶりは、いっそ滑稽であると言えた。
その様にして生まれた敵の隙を、義頼が見逃す筈もない。 彼の号令に従い川岸に展開していた旗下の軍勢は、それこそ一斉に渡河を開始した。 普通ならば防ぐ為の行動を起こすのであろうが、今は大砲の弾に晒されており己の身を守るのが精一杯である。 とてもではないが、彼らに迎撃など出来る訳がなかった。
それ故に義頼の軍勢は、殆ど損傷らしい損傷を被る事もなく次々と対岸へと辿り着く。 しかしてその頃には大砲による砲撃は止んでおり、何の憂いもなく城へと攻め込んで行った。
そこまでくれば流石にそれぞれの城に籠る城兵も反撃へと転じるのだが、それでは如何にも遅すぎる。 そもそもからして、彼我との間で兵数に乖離がある。 元来、それぞれの城に籠り時間を稼ぐ。 その上で、後方の的場山城に居る福原貞俊からの援軍を得て反撃に移ると言うのが当初予定されていた策なのだ。
しかしながら、援軍を求めるなどと言う暇すら与えられずに攻め込まれてしまっている。 しかも大砲による砲撃によって、三つの城はもはや防御施設としての意味はなしていない。 あちこちで城壁が崩されているばかりか、城壁すら飛び越えて曲輪に直接損傷が出ている状態なのだ。
当然ながら、城に籠る将兵にも損害は出ている。 そこにきて、数の利を生かした軍勢に容赦なく攻め込まれている。 これでもし敵を撃退できるのならば、攻めてきた軍勢がよほど愚かなのか若しくは守る側に神のごとき者が居るのだと思われた。
しかして義頼率いる軍勢は愚かでもないし、城を守る毛利方に神のごとき者もいない。 詰まるところ、その様な奇跡など起きる筈もなかった。
程度の差こそあれ神島城と佐波城と中山城は、碌な反撃もできないまま相次いで落とされてしまう。 その結果、的場山城に居る福原貞俊へそれぞれの城から届いた報と言うのが、皮肉にも落城を報せる物であった。
救援に向かうまでは持ち堪えられるだろうと考えていただけに、福原貞俊を筆頭とする的場山城にる将達は驚きを持ってその報告と向き合う事となる。 その中にあって山内隆通を筆頭とする山内家の者達は、驚きの中に安堵の気持ちを持って報告を聞いていた。
彼らは前述した様に、毛利家より離れ義頼の味方になる事を決めている。 まだ的場山城へと義頼の軍勢が攻め寄せていないので、離反していないだけでしかない。 そんな彼らに取り義頼の軍勢が一方的とも言える勝利を、しかも短時間で収めているのだからそれも当然だと言えた。
だからと言って喜びを表すなど言語道断であり、そんな事をすればあっと言う間に族滅されかねない。 山内家の面々は内心の喜びを噛み殺しながら、何とか驚きの表情を浮かべていた。 しかし武士は役者ではないので、通常であれば間違いなく違和感を感じられてしまっただろう。 だが、神島城と佐波城と中山城が短時間に落とされたと言う事実が与えた衝撃は、非常に大きい。 それが幸いして、彼ら山内家の者達からの違和感が気取られる事はなかったのであった。
さてこの様に短時間で落とされてしまった神島城と佐波城と中山城だが、これらの城は備中国方面から見れば的場山城を守るか様に配置されていた城である。 逆に言えば、福原貞俊が入っている的場山城を守る城はもうないとも言えるのだ。 さりとて備後国の守りが丸裸にされたのかと言えば、その様な事はない。 あくまで備中国側の守りがなくなっただけであり、後方には幾らでも下がれるのだ。
当初の予定を頓挫されてしまった福原貞俊であったが、特に追い詰められた訳ではない。 とは言え、義頼の擁する大砲は厄介である。 あれを何とかしなくては、城に籠る意味がない。 籠城が籠城にならず、ただ纏めて敵が味方を薙ぎ払う為の手助けをしている様な物だ。 しかしながら、その手立てがない。 何せ小早川隆景も排除しようとして、結局のところ失敗している。 いや、一応は損害を与えているので失敗とは言えないのかもしれない。 しかし、詰まるところ時間稼ぎしかできなかったのが現実である。 そして現在対峙している福原貞俊も十分名将と言えだけの能力を有するが、その彼をしても有効な手立ては思いつかなかった。
「城に籠っても有効な手とはならない。 ならば、打って出るしかないか……右衛門大夫殿 」
「応っ!」
「そなたに軍勢を任せたい。 宜しいか?」
「お任せあれ」
福原貞俊の命を受けた武将は上原元将と言い、元は備後国国人である。 しかし毛利家による備後国進攻の際、彼の父親である上原豊将が積極的に協力して功を上げた事で上原元将は毛利元就の娘を娶る事となる。 以降上原家は、備後国国衆と言うより毛利家一門衆として事実上毛利家の家臣入りを果たしている。 その様な経緯から、此度の防衛戦にも参加したのであった。
それ故、福原貞俊が兵を任せる判断をしたのも別段不思議でもない。 備後国に地の利があり、毛利一門衆の一人であるからだ。 そして命じられた上原元将としても、当然だと言う思いがある。 何より元備後国国人衆であり、彼にならば旗下に入る備後国国人も気兼ねする必要がなかった。
こうして上原元将を大将とする軍勢が動き始めたのだが、彼らの動きは山内隆通によって義頼へ報告される事となった。 彼は出陣の為に軍勢を整える喧噪に紛れさせ、密使を義頼の元へと派遣する。 その密使によって、福原貞俊側の動きは正確に伝えられる事となった。
密使から書状を受け取った義頼は、その者を即座に返している。 万が一にも毛利家の者に見つかれば、厄介な事となるからである。 その後、密使を早々に返した義頼によって沼田祐光と武藤昌幸、そして馬淵建綱と言った者達が集められた。
程なくして面子が揃うと、山内隆通より届けられた書状を見せる。 そこには、上原元将の出陣や彼の軍勢に参画する将などと言った情報が記されていた。 これだけの情報があれば、逆に奇襲を仕掛ける事ができる。 そればかりか、更なる策も建てる事が出来ると言う物であった。
この情報を基に義頼と彼の幕僚と言っていい沼田祐光らは、軍勢を率いる上原元将を出来れば捕らえ最悪でも討つ手立てを考えていく。 確かに毛利勢からすれば劣るとは言え、義頼らも周辺の地理は把握している。 故に敵勢が来襲する道筋についても、予測する事は可能だった。
それでなくても派遣する兵数がそれなりである為に、どうしても通れる道筋は限られてしまう。 そこに今は敵として的場山城に居る山内隆通と言う内通者からの情報が加味されているのだから、予測できないと言う事態になる筈もなかった。
とは言え、情報を全て鵜呑みにしてもし逆に策に嵌められでもしたら本末転倒である。 そこで義頼は、齎された情報を基に兵を動かしつつも、更なる情報収集に勤しんでいた。
するとその情報網によって、的場山城の動きが報告される。 その報せにより、山内隆通が齎した情報に齟齬がない事が確認された。 そうと分かれば、慎重になる必要はない。 義頼は策で決めた通り、動き始めたのであった。
的場山城から上原元将率いる軍勢が出陣する直前、その的場山城にある報せが届く。 それは、左程多くはないが兵を率いている敵勢の情報だった。 その動きは此方を警戒しているらしく、的場山城がある方向を頻りに伺っていると言う物であった。
その情報から上原元将は、彼らをいわゆる大物見であると判断する。 そこで行き掛けの駄賃だとばかりに、その兵団を蹴散らす事にしたのだ。 戦の気配を感じ一気に慌ただしくなる味方を率いて、情報を確認する為に止まっていた軍勢の進軍を再開する。 だがその動きは、当然ながら敵となる者達にも感づかれてしまっていた。
的場山城を出た毛利勢の動きを把握した軍勢を率いる男は、一瞬だけ小さく笑みを浮かべる。 敵勢の動きが、完全に想定通りである事に対する物だったからである。 何せ彼の役割は、大物見に見せ掛けた囮に他ならなかったのだ。
直後に思わず浮かべた笑みを抑えた男は、出来るだけ自然である事を装いつつ兵の転進を命じる。 彼らが向かう先は、味方の兵が伏せてある場所に他ならなかった。
「さて、素早くだが悟られず向かうぞ。 逸れるでないぞ」
「分かっております父上」
「うむ」
近くに居た嫡子の返事を聞き、大物見に扮した囮部隊を率いる山県昌景は小さくだが鋭く返事を返していた。
さて、何ゆえに彼らが囮部隊を率いているのか。 実は義頼の命……ではなく志願によるものであった。 そもそもこの囮部隊だが、実は相当の危険を孕んだ部隊である。 敵に追い付かれればすり潰されかねないが、さりとて危険だからと距離を離しすぎる訳にも行かない。 つまり、敵勢を事前に兵を伏せた場所に誘導出来なければならないからだ。
そんな危険を伴うとは言え、この囮部隊は重要な役割でもある。 策の根幹を成すと言っていい存在であり、それを新参者である彼らが行っている。 幾ら志願したからと言って反対が全く出なかったのかと言えばそうではない。 だが反対者の多くは六角家でも新参者であり、古参の将達からは明確な反対は出ていなかった。
その理由は、過去の戦績にある。 義頼率いる六角勢と山県昌景率いる山県勢とは、織田家と武田家が戦になり同じ戦場に居ると、何故か間違いなく干戈を交えていると言う奇妙な縁がある。 要はお互いの実力が骨身に染みている両者であり、その様な経緯からか実力をお互いに全く疑ってないのだ。
だからこそ山県昌景は、織田家に降伏した武田家が抱えたよんどころない事情によって一族を率いて甲斐武田家から離れる事態となった際に、義頼の六角家を次の士官先に選んだのである。 兵の実力を知り、しかも六角家を率いる義頼の人柄などもいわば己自身で刃を交え確認したと言える相手であった。
そして六角家古参の将兵からしても、山県家の者と同様に当主の義頼を含め己ら自身で実力は味わっている。 その彼らが志願したのだから、反対する理由がない。 形は新参でも六角家と山県家は、織田家・徳川家の連合本隊と武田家本隊が最初に干戈を交えた【三方ヶ原の戦い】よりも更に前、井伊家救出の為に行われた井伊谷での戦からの付き合いである。 古参の者達からすれば、そこに疑う要素など微塵もない。 それであるが故に例え志願したからとは言え、彼らへ重要でかつ危険な役割が与えられたのであった。
そんな大物見と言う隠れ蓑をまとった山県昌景率いる囮部隊は、絶妙とも言える距離を保ちつつ敵勢を引き付ける。 追い付けそうで中々に追いつけない事に少しの苛立ちを見せつつも諦めなかった上原元将は、漸く敵勢を襲撃できる状態へと持って行く。 だがそれは、彼らが完全に義頼が仕掛けた罠に嵌った証でもあった。
今まさに攻勢を仕掛けようとした上原元将であったが、唐突に山県昌景の取った行動を見て動きが止まってしまう。 その動きとは、いきなり追い掛けていた敵勢が止まりそして踵を返した事であった。
そんな敵の行動に彼の理解が及ぶ暇すらなかったが、同時に本能とも言える部分が警告を発する。 その警告に従い彼が警戒の命を発するのと、伏兵として辺りに控えていた義頼の軍勢が動き出すのはほぼ同時であった。
「掛かれっ!!」
「……ちっ! 散開しろ!」
義頼の代わりに伏兵の指揮をとっている永原重虎の声と、事態を把握した上原元将の声はほぼ同時に発せられた。
しかしながら、六角勢の方が動きは早い。 初めから策に嵌めるつもりであった者達と、特段に警戒していなかった毛利勢とで動きに差が出るのはそれも当然である。 その隙を突かれ、初手は完全に六角勢が取っていた。 しかし、それから間もなく挽回するべく動き始めた毛利勢も流石であろう。 とは言え、初手を取られた影響は大きい。 しかも敵の策に完全に嵌っている状況であり、殊更に影響が表れていたと言えた。
六角勢は更なる打撃を与えるべく、毛利勢へと躍り掛って行く。 この包囲に逃げ道を塞がれたかに思えた毛利勢だったが、今まで進軍してきた方角、即ち後方はまだ囲まれていない。 その事に気付いた上原元将は、転進を命じた。 しかし前述した通り敵勢の包囲の中にあり、易々とは行かない事も分かっている。 それでも転進しなければ逃げ道などなく、損害は覚悟の上での命であった。
兎にも角にも毛利勢は、必死の撤退に入る。 しかしながら、この敵勢の動きは想定の範囲ではある。 だが六角勢は、毛利勢の逃げ道となるであろうこの道筋に兵を配して置かなかった。 その理由は、この撤退こそにある。 彼ら毛利勢がこの状況で逃げ込む先となるのは、最寄りの城となる。 即ち、出陣した的場山城に他ならなかった。
その的場山城も味方が逃げてくれば、受け入れざるを得ない。 たとえその後方に、敵がいるとしてもだ。 つまり六角勢は、どうやっても城門を開けるしかない状況を作り出す事で一気に城を攻略してしまおうと画策したのだ。
だが、必ずしも成功する訳ではない。 それは、毛利勢が逃げてくる味方を見捨てるかもしれないからだ。 しかしそうなったらそうなったで、義頼はその事態を利用するつもりである。 危機に陥った味方を見捨てた事を殊更に強調し、その上で毛利家臣や各国人衆に対して更なる調略を仕掛けるつもりなのだ。
それでなくても毛利家は、義頼の仕掛けた策に乗せられた吉川経言の手によって宇喜多直家と言う懐に受け入れた者を討ってしまっている。 その前例ありきの状況で策を仕掛け、毛利家と言う体制に穴を穿つ蟻の一刺しとするのだ。
つまるところ、義頼にとってどちらの事態に転んでも損はないのである。 ついでに言うと、もし万が一にも今攻めきれなかったとしても、的場山城には山内隆通ら内通した者達が居る。 城門に関しては彼らを介すればどうにかなる話であり、その意味でも的場山城陥落は楽観視していた。
だが、油断はもう御免被る。 何せつい最近、小早川隆景に手痛いしっぺ返しを喰らっているのだ。 義頼は的場山城攻略は楽観視しつつも、周囲に対する警戒は今まで以上に密として何時でも不測の事態に対応できる態勢でいたのであった。
さてその頃、山陰でも動きを見せていた。
首尾よく因幡国を落として見せた別動隊を率いる京極高吉が、伯耆国へ本格的な兵を向けるべく出陣を急がせていたからである。 何ゆえにその様な事となっているのかと言うと、気候の問題である。 そろそろ山陰に、雪の季節が来襲するからだった。
それでも伯耆国は比較的温暖な地であり、いわゆる豪雪地帯に属するような地域は見受けられない。 しかしながら出雲国へ近づけば近づくほど雪が深くなる傾向があるので、その意味ではどうしても雪の影響を考えざるを得なくなってしまう。 その為、急ぐ必要があったのだ。
因幡国鎮定後、京極高吉は拠点を鳥取城より伯耆国により近い勝山城へと移してしまう。 彼はそこで軍勢を整えていた訳だが、いよいよ因幡国も治まると間髪入れずに勝山城を出陣する。 彼が軍勢と共に伯耆国へと侵攻すると、河口城へと入城した。
彼の城は、伯耆山名一族の分家筋に当たり今は河口氏を名乗っている河口久氏の居城である。 そして嘗て因幡国へ毛利家が兵を進めた際は、因幡国攻略の拠点となった城でもある。 そんな河口城へ、今度は毛利家の軍勢を迎えうつべく義頼が山陰へと派遣した軍勢が入ったと言うのは何とも皮肉な話であった。
因みに先行して伯耆国へと入った尼子衆が何処にいるのかと言うと、彼らは田尻城へと入っている。 この城は南条一族である南条元周の居城であったが、尼子衆が伯耆国へ援軍として入ると拠点として譲られている。 その代わりに南条元周が入ったのは、堤城であった。
彼は田尻城に入っている尼子衆や近隣の伯耆国国人とも連携を取り八橋城と対峙していたのだが、そこに入ったのが吉家元春率いる毛利家の軍勢であった。
八橋城に到着した吉川元春は、一日軍勢を休息させる。 その翌朝には、堤城へと兵を押し出していた。 とは言え様子見ぐらいの気持ちであり、この軍勢だけで堤城を落とせるとは思っていない。 有り体に言えば、大物見ぐらいの気持ちでしかなかった。
そしてこの軍勢は、案の定南条家の軍勢により蹴散らされてしまう。 最も本格的な戦いとなる前に終わっている事を考慮すれば、毛利勢が無理をせず早急に兵を退いたと見た方が間違いなかった。 それを証明するかのように、迎撃に当たった南条元周が手応えのなさに驚いている。 なまじ毛利勢、特に吉川勢の力量を知っているからこその驚きであった。
それであるが故か、南条元周はこの勝利に驕ってはいない。 寧ろより警戒し、いとこであり南条家の当主である南条元続や援軍である尼子勝久率いる尼子衆との連絡を密にしたぐらいであった。
そんな中、河口城へ京極高吉率いる軍勢が到着した訳だが、これにより兵力の上での優位性はどちらの軍勢にもなくなってしまっている。 しかしだからこそ、お互いそう簡単に攻められなくなったとも言えた。
それでなくても雪がそう遠くないうちに降り始めるのは明確であり、睨み合いになってしまった事もあって両軍勢ともこれ以上は積極的に動けなくなってしまった。
「これでは、これ以上の動きは無理か」
「このまま来年を待つべきでしょう」
「そう、だな」
こういった類のやり取りが敵味方問わず行われている辺り、彼らの心情を物語っている。 事実、両軍勢の将兵はそんな腹積もりとなっており、もうあまり動こうと言う気概は感じられない。 例外は父親を殺され山田家の居城を奪われた山田信直と山田盛直の兄弟だが、そんな彼らとて声高にまでは堤城奪還を主張しなかった。
この辺りは、吉川勢の力を借りなければ奪還は無論の事、親の仇すらも討てないと言う悲しいまでの実情が作用している。 何はともあれ山陰の戦乱は、こうして一時の平穏を見せる事となったのであった。
備後国での戦が始まりました。
同時に伯耆国での戦も始まりました……が、山陰は冬間近と言う事もあり膠着しました(笑)。
ご一読いただき、ありがとうございました。




