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第二百二十二話~備後国進攻と因幡国鎮定~

お待たせしました。


第二百二十二話~備後国進攻と因幡国鎮定~



 さて、話は山陰にて因幡国への侵攻が始まった頃までさかのぼる。

 義頼は山陽にて戦力の回復につとめつつ、備中国の慰撫いぶに力を尽くしている。 その際に矢面に押し出したのが、三村元親みむらもとちかであった。 そもそも三村家は、備中国の国人である。 しかも三村元親の父親に当たる三村家親みむらいえちかの手腕によって、備中国統一寸前まで持って行って見せたのだ。

 その三村家を前面に押し出すに当たり、先ず義頼が行ったのが三村家の再興である。 義頼は織田信長おだのぶなが並びに織田信忠おだのぶただに対して書状を送り、三村家復興の承認を求めていた。

 義頼からの書状を受けた織田信長は、三村家の再興を許可する。 織田信忠にしても経緯は既に聞いているし、何より父親が許している事もあって此方こちらも異論無き事を記した書面を返信している。 これにより三村家の再興は承認され、晴れて三村家は大名家として返り咲いたのであった。 

 しかしながら、今はまだ戦時下である。 名目上は織田家の従属大名となっているが、実質の力はほぼないに等しい。 名実ともに大名家となるには、毛利家を滅ぼすなり降すなりしてからの事であった。 とは言え、三村家が備中国国人を代表する家である事には変わりがない。 そこで義頼が後ろ盾となり、備中国国人で構成された備中衆と言える軍勢を組織させているのであった。

 その様に備中国の織田家取り込みを進める中、急使が義頼の元をおとずれる。 差出人は本多正信ほんだまさのぶであった事から、何か良からぬ事でもと考え急ぎ使者がたずさえていた書状を読みだす。 しかしながらその予想は、いい意味で裏切られる事となった。 何とその書状に記されていたのは、懐妊していた三人の妻の出産が無事に済んだ事に関してしてだったからである。 

 

「殿。 お子様たちの誕生、真に祝着至極に存じます」

『おめでとうございます』

「うむ」


 六角家家臣を代表する形で、馬淵建綱まぶちたてつなが祝いの言葉を投げかける。 その言葉に続き、沼田祐光ぬまたすけみつなどの六角家家臣が祝いの言葉を伝える。 すると義頼は、鷹揚に頷きながら短く言葉を返していた。


「ところで殿。 お子様達のお名前ですが」

「うむ。犬が生んだ娘はかがみ、圓の生んだ娘がりん、そして月が生んだおのこが金剛丸と名付けた」


 鏡は古来より神聖なものとされている。 また鏡は、かがみかがみにも通じる言葉でもあり、人の手本となる様にとの願いも込められていたのだ。

 次に琳と言う字には、美しき玉と言う意味がある。 他にも、玉と玉が触れ合った際に出る澄んだ音を表すともされる。 その様な思いが込められての命名であった。

 そして最後の金剛丸だが、金剛は金剛力士こんごうりきし若しくは執金剛神しゅこんごうしんにも通じ、共に仏法を守る一柱であり武神でもある。 つまり我が子に男として強く育って欲しいと言う思いと、神仏の名にあやかる事で加護が得られるようにとの願いがそこには籠っていたのだった。


「鏡様に琳様、そして金剛丸様にございますか……良き名だと思います」

「建綱にそう言ってもらえるならば、自信が持てると言う物よ」

「もったいなき言葉にございます」


 その後、長岡藤孝ながおかふじたかなどと言った山陰へと向かわなかった与力衆から祝いの言葉が掛けられる。 そんな彼らに対して義頼は、落ち着きながらも短く丁寧にお礼の言葉を返していたのだった。


 こうして義頼が我が子に名を付け、書状にて妻達にその由来を知らせてから程なくした頃になると、備中国の平定もほぼ終わりを見せていた。 

 また、丁度その時期にあわせたかの様に三雲賢持みくもかたもちからも襲撃により被害を受けた大砲と別動隊に持たせた新式の大砲の代わりとなる補充の大砲群が、続々と届いてきたのである。 やはり物が物だけに一気に揃うという事はなかったが、それでも次々と送り込まれてきていた。

 やがて必要数が揃うと義頼は、新たに組織させていた備中衆を先鋒にした進軍の開始を決める。 しかして三日後に出陣となったその日、ある者達が義頼の元に訪問してくる。 だがそれは、予想より少し早い到着であった。


「殿。 山県昌景やまがたまさかげ殿と、武藤昌幸むとうまさゆき殿。 それから、小山田昌成おやまだまさゆき殿が到着致しました」

「ふむ。 予定より少し早い到着だが、まぁいい。 直ぐに会うから、通せ!」

「御意」


 義頼は、山県昌景と武藤昌幸と小山田昌成の来訪を告げた小姓の岸成勝きししげかつに彼らを通す様にと命じた。

 さて、何ゆえに武田家臣の彼らが備中国にまで来ているのか。 その理由は、甲斐武田家の降伏に求める事ができた。 と言うのも、甲斐武田家が織田家に降伏した後に義頼は幾人かの武田家家臣に勧誘を仕掛けていたからである。 これは武田家が降伏したからと言うのもあったが、他の理由もある。 と言うか、そちらの方が理由としては大きかった。

 それと言うのも、義頼が実際に織田家に降伏した際に家臣の処遇で頭を悩ませた事がある。 何せ領地は織田信長によって負けた家の宿命とは言え殆ど没収されてしまったので、抱えていた家臣を養って行く事が出来なくなってしまっていたのである。 そこで義頼は、殆どの身銭を放出して彼らに渡し、更に感状を出す事で何とか分相応な数にまで家臣を減らしたのだ。

 幸いにも織田信長と浅井長政あざいながまさの両者が、六角家家臣であった近江衆の殆どを直臣としたので牢人となる近江国人は極一部に留まる事となった。

 それでも、何名かは牢人とならざるを得なかったのだが。

 何であれその様な事を経験していたからこそ、義頼は武田家臣に勧誘を掛けたのである。 それでなくても、甲斐武田家には優秀な者が多い。 そんな彼らを家臣に加えたいと言うのは、義頼でなくても考える事でもあった。

 ともあれ勧誘を掛けた訳だが、その結果はあまり宜しいとは言えなかった。 因みにこれは義頼だけの話ではない、他の織田家家臣や近隣の大名家も勧誘を仕掛けている。 だが、結果は似たり寄ったりだったのだ。


「それにしても……久しいと言う程でもないのかな三郎兵衛尉(山県昌景)殿」

「そうですな左衛門督(六角義頼ろっかくよしより)殿」

「して、歓迎は致しますが、一応聞いておきたい。 勧誘に応じた理由ですが、武田家で何かありましたか?」

「それについては、拙者からお話いたします」


 そう言って語り出したのは、山県昌景ではなく武藤昌幸であった。



 さて、武藤昌幸が語った理由とは以下の通りである。

 そもそもの切っ掛けだが、それは甲斐武田家の降伏である。 甲斐府中を巡る戦で、どちらかと言えば武田信勝たけだのぶかつに良い感情を持たない家臣を上手く粛清して数を減らした武田家臣だったが、それでも残された領地で家臣全てを養う事は土台無理な話であった。

 そこで武田信勝は、叔父で後見人の逍遙軒しょうようけんと相談したのである。 そして二人は、苦渋の決断ながらも家臣を放逐する事にしたのだ。 そして彼らが最初にやり玉に挙げたのが、山県昌景である。 彼は事実上、甲斐武田家筆頭家臣である。 その様な地位にある山県昌景すらも放逐する事で、他の家臣に対して致し方ない仕儀であると捉えさせ様としたのだ。 

 主君に呼び出され武田家からの放逐を聞かされた山県昌景は、目を白黒とさせる。 しかしその直後、無礼は承知の上で武田信勝ににじり寄っていた。


「これがっ! これが、長年忠節を誓った家臣に対する仕置きですかっ!!」

「……すまぬ昌景。 だが…………だが、これしかないのだ……」


 正に苦渋を体現したかの様な武田信勝の様子に、激高した山県昌景の頭も冷えてくる。 すると冷静にもなり、何か事情があるのではとの思いが脳裏によぎってくる。 山県昌景は居住まいを正すと、静かに説明を求めた。 暫く躊躇ためらった後、武田信勝は苦しい胸の内を明かす。 前述した内容の話を聞いた山県昌景は、それでは致し方ないとの思いが胸に沸き上がっていた。


「そうでしたか……殿も苦渋の決断であったのですな…………分かりました。 この山県三郎兵衛尉昌景、武田家の為に一肌脱ぎましょう」

「真に、あい済まぬ。 長年尽くしてきたそなたにこの仕打ちしかできない儂を恨んでも良い」

「何を言われます。 苦しい胸の内、しかと承りました。 拙者、胸を張って武田家よりおいとま致しましょう」 


 こうして牢人となった訳だが、山県昌景は一族の頭領である。 共に武田家から出る事となる一族の為にも、早々に仕官先を見つける必要があった。 そこで彼は、今まで断りを入れていた義頼からの勧誘に応じる事にしたのである。 そしてこれは、山県昌景と同じ理由で放逐される事になった小山田昌成率いる石田小山田家も同様であった。

 なお武藤昌幸だが、彼は二人とは違い自身から武田信勝に進言している。 はじめ、武田信勝に彼を手放す気はなかった。 だが自身が武田家の為にと進言してきた事と、嘗ては武田信玄たけだしんげんの目とまで言われた男を放逐すれば、山県昌景と並んで説得力が出るとして許したのであった。



 武藤昌幸が語り終えると、納得した様な表情をしつつ口を開いた。


「成るほど。 やはりそうであったか」

「やはりと言われるとは、お気づきでしたか」

「喜兵衛(武藤昌幸)殿、予想はしていた。 だからこそ、某は武田家家臣を勧誘したのだ。 その甲斐もありそなたたちが家臣となってくれるのだから、望外の喜びでしかない。 これから、よろしく頼むぞ」

『御意』


 山県昌景が家臣に加わった事で、義頼は急遽策を追加する。 それは、毛利家臣に居る同族の山県氏に対する調略であった。 安芸山県氏と言われるこの一族は、元々安芸武田氏に仕えていた一族である。 だがその安芸武田氏も毛利家に滅ぼされてしまい、生き残った安芸山県氏は毛利家家臣となっていたのだ。

 彼らは主に毛利水軍の将と吉川家家臣となっている者が多くおり、それゆえに山陽と山陰の両方に揺さぶりを掛けられる。 正に調略対象として、打ってつけであった。


「承知致しました」

「頼むぞ」

「はっ」


 それから数日した後、義頼は予定通り山陽道を西進し始めた。

 先鋒を務める備中衆を率いるのは、当然ながら三村元親である。 彼は意気揚々いきようようと国境を越えて、備後国へと踏み込んだのだった。

 そんな彼らが向かった先には五箇庄と呼ばれる一帯があり、そこには城がいくつか存在している。 何よりその地には湊が存在しており、毛利領内を侵攻するに当たって輜重の輸送などの為にも押さえておきたい場所であった。

 同地にあった城は湊の監視と言った側面が強く、規模としてもそこまで大きい物ではない。 何より、海岸線が入り組んでいる事により攻めにくいと言う事情も相まって左程の兵数は常駐していなかった。 その様な城を、兵の数に物を言わせてほぼ同時に攻め立てたのだ。 

 これにはとてもではないが堪えられる筈もなく、五箇庄の地にあった城はそれほど時を置かずに全て攻め取られてしまう。 的場山城へ入っている福原貞俊ふくばらさだとしは、急いで救援に軍勢を送ろうとしたが街道は長岡藤孝ながおかふじたかを大将とした部隊に封じられていた為に向かう事が叶わなかったのだった。

 一方で首尾よく五箇庄の地を抑えた義頼は、同地を塩飽水軍に委ねている。 その理由は、この五箇庄にあった城の一つにある。 その城は矢崎山城と言い、嘗てこの城は塩飽水軍を束ねる宮本氏の分家筋にあたる帯刀氏が城主を務めていた。 その関係から、塩飽水軍に委ねたのである。 どの道、輜重の陸揚げなどに湊を使う事となるので丁度いいという事もあった。

 こうして塩飽水軍の水運と陸路を使った陸運を確保した義頼は、進軍を再開する。 次の相手は、的場山城を本陣として義頼の行く手を遮る福原貞俊であった。

 彼は、的場山城周辺の城に毛利家有力家臣の児玉元村こだまもとむら杉原元盛すぎはらもともり、他にも和智元郷わちもとさとの様な備後国人を入れて警戒を密にしている。 その警戒網は中々に厚く、正面からではそれなりの被害を被りかねない事が予想された。


「となれば策を弄するに限るが、さてどうしたものか」

「調略を仕掛けましょう」  

「祐光。 手ごろな者が居るのか」

「はい。 二家ほどございます。 一つは、佐波城に入っている和智元郷。 彼は、左衛門大夫(波多野秀治はたのひではる)殿の分家筋に当たります。 そして今一つは、我らが五箇庄を攻めている時に福原貞俊が出した援軍を率いていた山内隆通やまのうちたかみちにございます」

「山内? 一豊と似ているが同族か?」

「はっ。 伊右衛門(山内一豊やまうちかずとよ)殿に確認したところ、宗家に当たる様にございます」


 和智氏だが、元は有力な備後国人である。 しかし、毛利隆元もうりたかもとの死に関して疑念を持たれてしまったが為に毛利家より粛清されかかった一族でもある。 だが和智元郷が必死に弁明をした事もあり、族滅は免れた一族であった。

 また山内隆通だが、彼も和智氏と同様に備後国人である。 山内氏は藤原秀郷ふじわらのひでさとの子孫であったが、後に首藤の姓を名乗る様になった。 しかし、相模国鎌倉郡山内に土着したのを切っ掛けに山内の姓を名乗る様になる。 その子孫が地頭職を賜り備後国へ赴任したのが、備後山内氏の始まりとなる。 更にそこから分かれた家が、後に山内一豊の家となったのであった。


「なるほどな。 いいだろう、やって見よ」

「はっ」


 許可が出た事で、安芸山県氏に続いて和智氏と山内氏にも調略の手が伸びる事となる。 その様に裏で策を進行させつつも義頼は、表では出来るだけ被害を及ばない様にと模索しつつ正攻法による攻略を進めるのであった。





 一方で山陰だが、此方も順調に因幡国を攻略していた。

 因幡武田家の若き当主であった武田就信たけだなりのぶも命を落とし、堅城の筈だった鳥取城も既に落城している。 そして急遽因幡武田家の家督を継いだ武田又三郎たけだまたさぶろうは、居城の鵯尾城にて抵抗しているが実際はただそこにいるだけの存在でしかない。 山陰へと派遣された別働隊を率いる京極高吉きょうごくたかよしは、鵯尾城を囲みつつも因幡国内に兵を派遣して瞬く間に掌握していた。

 これにより因幡国内で織田家の影響下にない存在は、もう鵯尾城の周辺ぐらいしかない。 それでも武田又三郎は、広岡国宣ひろおかくにのぶ吉川元春きっかわもとはると共に戻ってくる事を信じて絶望的とも言えるなか抵抗を続けていた。

 その広岡国宣だが、彼は何とか月山富田城へと到着している。 そこで城主の毛利元秋もうりもとあきに挨拶した後は、吉川家の居城となる日野山城へと向かうつもりだったが、外ならぬ毛利元秋に止められた。


「間もなく、兄上が到着されるので待つ方が良い」

「真にござますかっ!」

「うむ」


 それから数日、毛利元秋の言った通りに軍勢を率いた吉川元春が月山富田城へと到着した。 

 広岡国宣が急いで面会を求めると、彼は直ぐに応じている。 目通りが叶った広岡国宣は、書状を差し出しつつ救援の口上を述べた。 吉川元春としても、初めからその気なので否などない。 即座に応じると、一日だけ休みを挟んでから進軍を再開した。 

 国境を越えて軍勢が向かったのは、当初の予定通り八橋城である。 しかし国境を越えた辺りで、驚きの報せが飛び込んでくる。 その内容はと言うと、南条元続なんじょうもとつぐ山田重直やまだしげなおの居城である堤城を攻めたと言う物であった。

 山田重直は今でこそ南条家家臣となっているがその前は毛利家臣であり、今も山田家の忠誠は毛利家に向いている。 だからこそ南条元続の父親である今は亡き南条宗勝なんじょうそうしょうは、生前に息子へ忠告していたのである。

 毛利家から離れるならば、山田重直を粛清をしろと。

 つまり此度こたびの堤城攻めは、南条宗勝の言に従った南条元続による山田重直の粛清である。 同時に、南条家が毛利家との関係を断ち切ったと言う証明替わりであったのだ。

 なお山田重直であるが、彼はこの戦で命を落としてしまう。 しかし、嫡子の山田信直やまだのぶなおと弟の山田盛直やまだもりなおは何とか逃げ延びている。 山野に隠れながら兄弟は八橋城を目指し、命からがらだが逃げ延びていた。 その八橋城へ程なくして到着したのが、吉川元春の軍勢である。 八橋城で山田兄弟に面会した吉川元春は、兄弟を大義名分として羽衣石城攻略に乗り出す。 どの道、彼の城があっては因幡国へと向かうのは難しい。 故にこの城攻めは、必然であった。

 いよいよ八橋城を出陣し先ずは堤城を落とし、その後に南条元続の叔父に当たる南条信正なんじょうのぶまさが入る打吹城を攻略。 しかる後に羽衣石城の攻略に乗り出すつもりの吉川元春であったが、その彼の元に急報が飛び込んでくる。 その報せとは、何と尼子勝久あまごかつひさ率いる尼子衆が、秘かに国境を越えて進軍していると言う物であったのだ。 

 

「……そういう事か。 この尼子衆の進軍があったからこそ、南条元続が兵を挙げたのか」

「どうやら、以前より約定があったようですな」

「岳父(熊谷信直くまがいのぶなお)殿もそう思うか」

「はっ。 南条家は、あの六角義頼が総領を務める近江源氏の流れを汲んでいる。 両者に何らかの約定があったとしても、別段不思議ではありますまい」


 まさしく、熊谷信直の言った通りであった。

 義頼の派遣した山陰への別動隊が因幡国を攻め、ほば手中の珠とした事で嘗ての約定通りに兵を挙げたのである。 その挙兵に際して秘かに連絡を取り合い、地の利の有る尼子衆の派遣も要請しているぐらい念の入れ様であった。

 また南条家に続き、他の伯耆国人も全てではないが毛利家に反旗を翻している。 その意味からも、伯耆国内で反毛利の旗頭となっている南条家の討伐は早急に行わなければならない事案となっていたのだ。

 だが言うは易し、行うは難しである。 堤城はまだしも打吹城は堅城であり、その先に攻略する羽衣石城は羽衣石山全体に多数の曲輪を配した山城である。 その意味では義頼が安土城の詰めの城としてほぼ全てを改修した観音寺城に通じる構造となっており、かなり堅固な城であった。

 如何いかに大軍を擁する吉川勢とは言え、そう簡単に落とせる城ではない。 しかも反毛利の動きを見せる伯耆国人の存在もあり、更には尼子衆の派遣もあってより落城させるのが難しくなっていた。


「これは……腰を据えて攻めねばなるまいな」

「確かに」


 思いの他、堅い守りを見せる羽衣石城に籠る南条家の陣容に流石の吉家元春も拙速な攻めは避けざるを得なかったのだった。





 こうして吉川勢の進軍もままならず、しかも尼子衆が伯耆国へ援軍として侵攻した頃、鵯尾城には二度目の降伏勧告が届けられていた。

 一回目だが、実は京極高吉が鵯尾城を取り囲んだ直後に出されている。 その時の条件は、因幡武田家の家督を継いで間もない武田又三郎以下、少ないながらも生き残っていた西郷因幡守ら因幡武田家の重臣の命であった。

 彼らの命と引き換えに、城兵や城内に逃げ込んでいる領民の命を保証すると言う物である。 しかし援軍の宛てもある状況でこのような厳しい条件など受け入れる筈もなく、因幡武田家は突っぱねていた。

 そのような時、鵯尾城に急報が舞い込んでくる。 それは、南条家の離反による吉川勢の足止めと尼子衆の伯耆国侵攻である。 これにより、吉川勢の援軍が直ぐに来ると言う望みは絶たれてしまう。 鵯尾城内に暗澹たる空気が立ち込める中、届いたのが二度目の降伏勧告であった。

 その内容は緩和されており、責任を取るのは武田又三郎本人だけでいいとなっている。 だがこれでは、因幡武田家が滅亡してしまう事に変わりはない。 しかし、そこには同時に救済の手が記されていた。 その手とは、若狭武田家からの養子縁組である。 と言うのも、因幡武田家は若狭武田家の分家の出であるのだ。

 つまり、宗家の者を養子縁組すると言う物である。 しかも、人物として当てもあった。 その人物とは、若狭武田家現当主である武田元明(たけだもとあき)の叔父にあたる人物である。 その者は、武田信方たけだのぶかたと言った。

 彼は朝倉義景あさくらよしかげが若狭国を攻めて若狭武田家を従属させた際、朝倉家に協力した人物である。 これは当代の武田元明が朝倉家の本拠地であった一乗谷へ連れていかれた為、致し方ない面があった。 しかしてその若狭国も織田家の領地となると、彼は同国を退去して武田元明の元へと向かっている。 その後、織田家と浅井家によって朝倉家は滅ぼされた訳だが、その際に武田信方は武田元明と共に織田家側に引き渡されていた。

 しかしながら武田元明は若狭国統治の為に必要であったが、武田信方の存在は若狭武田家における内訌の火種となりかねない。 事実、彼は兄の武田義統たけだよしずみに対して謀反を企てた事もある。 そこで武田義統と武田信方の父親である武田信豊たけだのぶとよの正室の家となる六角家、即ち義頼へと預けられたのであった。

 つまり降伏すれば武田信方、若しくは武田信方の息子を養子縁組して家督を継がせようと言うのである。 これならば因幡武田家も残る事となり、しかも養子縁組の相手は宗家の若狭武田家由縁の者となる。 これは戦に敗れもう残すは滅ぼされるぐらいしかない家にとって、残されたたった一筋の光明と言えた。

 因みにこの策だが、これは小寺孝隆こでらよしたか立原久綱たちはらひさつなが、大原義定おおはらよしさだより六角家に若狭武田家所縁の者がいる事を聞きたてた物であった。


「治部少輔(吉川元春)様も足止めを喰らい、近々に援軍が来る可能性は低い。 しかも、尼子勝久が伯耆に侵攻している状況では尚更、か…………いいだろう、御使者殿。 この条件、受け入れましょう」

「それは何より」

「ですが、降伏の条件はお守り下さい」

「必ずや」


 降伏勧告を届けた軍使からの言葉に武田又三郎が頷くと、軍使は返書と共に鵯尾城を退去する。 その後、京極高吉など織田家の将と因幡武田家の家臣が見守る中、武田又三郎は見事切腹して果てる。 それから因幡武田家重臣の西郷因幡守が当主代理と言う形で降伏し、因幡国は完全に織田家の領土となったのであった。

因幡国の戦は終了しました。

そして山陽でも、進軍再開です。

うーむ。 国力差が出始めてるかな。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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